友達が、社会的には能動的にこの世を去った夏から
あの人は今、幸せに暮らしているだろうか。
40年前の話なんて、若い人から見れば昔話以外の何物でもないだろう。けれど私は、あの夏の記憶に瞬時にアクセスできる。たった一本の電話で、私にとっての世界がその色が変えた瞬間に。
大学に入学して、たまたま新入生歓迎会でジャズのビッグバンドの演奏を聴いたとき、私は一曲目が終わる前に入部を決めていた。楽器の演奏経験なんてほとんどないのに、それは私に突然差し出された決定事項だった。いうなれば運命だったのだと今でも思う。
そして大学三年の夏。私は、間近に迫ったコンテストに向けた合宿に来ていた。楽器や機材、そして多量の酒を積んだマイクロバスで数時間の移動。メンバー全員が揃わないと曲は完成しないのだから、合宿に参加しないという選択肢は存在しなかった。私は胸に微かな引っかかりを抱えていたのだけれど。
その三週間ほど前、私の誕生日に小学校時代からの友達である小宮さんが、ケーキを持って会いに来てくれた。私たちはいつの頃からか、お互いを身内と認識していたし、私には、自分たちがおばさんになって、国鉄のナイスミディーパス、すなわち三十代以上の二、三人での旅行用の割引チケットで温泉に行く未来までくっきり見えていた。その日、小宮さんはうちに泊まっていくことになった。並んで寝るなんて小学校の校外活動の夜以来。あのときは子どもだからと一組の布団に二人で寝かされ、朝になってから私たちは、二人とも一睡もできないまま朝まで寝たふりをしていたことを知ったものだ。あの誕生日の夜も私はなかなか寝付けず、寝返りを打っているうちに、うっかり近くに立て掛けてあったコロコロ、あの粘着テープの付いた掃除用の棒を倒してしまった。ばたん、と大きな音がした。咄嗟に私は小宮さんの方を見た。彼女は目を開けていた。でもそれは、物音で目が覚めたのではなくて、ずっと前から醒めた目を見開いていたのが分かった。けれど、私は何も声をかけられなかった。
しかし当時は今と違って気楽に連絡など取れない。さらに、いったん合宿に来てしまえば、外部との連絡手段は、宿の事務所前のカウンターにあった公衆電話一台だけだった。そして、誰もその電話を使わなかった。みんな家に電話なんかしないし、わざわざ子どもの合宿先まで電話をかけてくる親もいなかった。私も電話を使わなかった。
そういえば合宿最後の夜か、あるいはその前の夜、私は流れ星を見た。合宿は文字通り朝から晩まで演奏三昧だったけれど、ときどきみんなで酔っ払ったまま夜の散歩に行くのだ。いつもは流れ星を見るとテンションがあがり、とても嬉しくなる。けれど、あのとき、すうっと星が流れたのを見て、なぜか私は胸を突かれた気がした。
夏合宿の最終日は午前中だけ練習をして、昼食を食べてからマイクロバスに楽器を積み込んで大学に戻ることになっていた。全体練習が始まる少し前だったと思う。アルトサックスを首に下げて基礎練習をしていた私のすぐ横に、宿の清算をしていたサッちゃんが来て言った。
「環ちゃん、電話だよ」
「ありがとう」
そう答えて、サックスを置く。一応、宿の電話番号は家族に知らせてきたが、余程の用事でなければ電話などしてこないはずだ。練習場所だったプレハブの小さな体育館を出て、事務所に向かいながら何故か、嫌だ、電話に出たくない、と思った。しかし私は結局、ピンク色の公衆電話の受話器に耳を当てた。
「もしもし?」
私の声に反応したのは、同じアルトサックスの後輩だった。彼女は短大生で、その日は就職活動のために朝食後すぐに宿を発ったのだ。
「傘、忘れちゃったんです」
後輩が低い声で言ったが、私は思い切り拍子抜けしていた。
「部室に置いておけばいい?」
「はい。すいません、お願いします」
傘はみんな玄関にあるから、あとでピックアップしてマイクロバスに積めばいい。
やれやれ、と思いながら体育館に戻り、練習を再開してすぐに、再びサッちゃんが私のすぐ横に来た。
「環ちゃん、また電話」
まったく、なんて日だろう。そう思いながら、今度は気楽に席を立ってピンクの受話器を取った。
電話を掛けてきたのは母だった。母がいつもよりも幾分、いや、かなり優しい声で、何か変わりはないか、みんなと一緒に帰ってくるのかなどを訊ねてくる。そして、言った。
「落ち着いて聞きなさい」
その言葉で、電話の要件が悪い知らせだと分かった。黙っていると、母は言葉を続けた。
「小宮さんが亡くなったの」
その言葉を聞いた途端、左足の地面がぼろっと崩れ落ちたので、私はその場にしゃがみ込まなければならなかった。
「自殺?」
自分がなぜ、咄嗟にそう訊ねたのか分からない。やはりどこかで、予感していたのだ。危ないと分かっていたのだ。
「たぶん。お母さんの口ぶりでは」。
小宮さんのお母さんから電話があったのだろう。それから母は、通夜の場所や、私が降りるべき駅を告げた。電車に乗る前に電話しなさい、駅まで迎えに行くから、と。
受話器を電話機に戻してから、私は無意識に歩いていた。みんなが練習している体育館に戻り、首に掛けていたストラップを外して床に叩きつけ、ボックスティッシュの箱の前に座り込んで何枚かのティッシュを引き出して放置して、体育館を出た。自分の行動の意味は分からない。
それから私は電話の近くに戻り、そこにあった長椅子に座った。元は鮮やかな赤だったはずがすっかり褪色したビニール張り。正面をぼんやり眺めていて、ふと食堂に目が止まって、そのまま目が離せなくなった。こんな不思議なものを見たのは初めてだと感じていた。
食堂ではちゃぶ台が連結されて二列になっていて、その上には、おそらく私たちの人数分の昼食のカレーライスがすでに並べられていたのだ。たしか二、三日前もカレーライスで、妙に家庭的な味だった。あれがカレーライスという名称であることは知っている。けれど、それが食べ物であるとは、どうしても思えなかった。あとから考えれば、現実感をすっかり失った私の前に、何気ない日常の象徴みたいなカレーライスが、なんでもない顔をして現れたので強い違和感を持ったのかもしれない。しばらくのあいだ私は、不思議さに打たれたまま呆然とカレーライスのある食堂を眺め続けていた。
後輩の傘のことは、きれいさっぱり頭から消え失せていて、思い出したのはそれから十年か二十年が経ってからだった。だから彼女の傘がどうなったのか、私は知らない。
小宮さんは落ち着いた感じの子どもだった。声も低かったから、頓馬な教師は「男の子みたい」と、ネガティブな意味で言ったらしいが、実際の彼女は、たとえば自分の眉毛が濃いのを気にしていて、ときどき眉間の毛を抜いていたりした。笑うときはいつも、我慢しているのに思わず笑ってしまったという感じで大声で笑った。「もう、やだぁ、古坂さんったら!」という声を私は今でもかろうじて脳内で再生できる。
小学校五年生のとき、国語の授業でのことだった。教師がクラスで三人だけ選んで、自作の詩を朗読させた。五年生にしては背が高かった小宮さんは、指名されて立ち上がり、低い声で詩を読み始めた。残念ながら私は、その詩の内容をぼんやりとしか憶えていないが、冬の寒さに晒された植物や虫、もしかしたら鳥たち………を巡る描写だった。最後の一節だけが、私の記憶に残っている。それは「冷たい北風が、命の炎を吹き消していく」だった。
小宮さんは手紙などでは自分のことを「ボク」と書いてくることがあった。個人的な見解だけど、自分のことをボクという女の子は、傷つきやすいか、傷ついているか、あるいはその両方なのだと思う。自分の心を守るために「ボク」という一人称に、本来の自分を避難させている印象。(だから私は、テレビで「あのちゃん」を見て、軽く感動したのだ。彼女のことはよく知らないので、ここでは語らないけれど。)
小宮さんと過ごした最後の年には、一緒に電車に乗って大きな本屋さんに行ったり、雑貨屋さんでお揃いの石鹸………クレオパトラのイラストが印刷された外国製のもの………を買ったりした。夏が近づくにつれて、小宮さんの様子が変わった気がしする。どんなふうに、とはっきりとは言えないが、私は彼女の異変を肌で感じていた気がする。だから、ジャズバンドのコンテストが終わったら、彼女を旅行に連れ出そうと思っていたのだ。馬鹿みたいに暑い炎天下を歩いて、植物の緑が溶け込んだ風に吹かれれば、きっとまた小宮さんは元気になるだろう、そう思っていたのだ。
大学を卒業した私は、地元の印刷会社に就職して、初めて校正というものを習った。月に百時間以上の残業で体調を崩して二年で退職し、編集プロダクションに転職。しかし、そこも二年で辞めることになってしまった。
真夏の就職活動の合間、平日の昼下がりに私は、友人に会うためにクーラーの効いた空いた電車に一人で乗っていた。そして突然、訳のわからない強烈な不安と緊張に飲み込まれたのだ。動悸がして手が震え、自分の存在が崩れてしまいそうな恐怖で電車を降りた。その日から食欲が落ちて体重が一気に8kgも減った。
フルタイムの仕事は諦めて、三年ほど、眼鏡の輸入代理店でアルバイトしたり、パートで社会保険事務をしながら社内報を作ったりして、やがて体調に自信が付いたので、とりあえず元の職種に近い仕事………取扱説明書の編集………に派遣社員として復帰した。職場環境は、冷房が効き過ぎることを除いて良好だったし、残業だって少なかった。ストレスもなく、労働時間もかつての働いていた会社とは桁違いに楽だった。
それなのにある日、通勤電車の中で人身事故のアナウンスを聞いたとき、急にすごい寒気に襲われて歯の根も合わなくなり、緊張で手が震えて動悸も酷くなり、電車を降りた。この日を境に電車に乗れない日が出てきて、とうとう私は、通勤途中の駅のメンタルクリニックに行き、パニック障害という病名をもらったのだった。
なんて間抜けな病名だろう、と思った。しかし、病名が付くということは、治療法もあるのだろうと思ったが、結局、それから本格的に病は酷くなった。それからの数年、私は在宅で細々と校正の仕事をもらいつつ、一時期は家から一歩も出られなかった。
本筋にはまったく関係ないが、細々とでも仕事があったのは、本当にありがたかった。収入的には大した額にならなかったし、実家で暮らしていたから生活には困っていなかったけれど、少しでも仕事ができたのは、社会に参加している、ちょっとは人の役にたっていると思えて、心の支えになった。
残念ながら私の医師運は驚くほど悪かった。一人での外出は全くできなくなったので、家族に病院に送ってもらっていたのだが、一時期は危うく入院するところまで体重が減った。信頼していた医師が病気で退職した後は、一つ質問しただけでキレる医師、体調を崩すほど多量に薬を出す医師、人の話をほとんど聞かないまま薬を処方し、副作用の問い合わせをしたら途中で電話をブチ切る医師などなど、ポンコツ精神科医を渡り歩いたのだ。
私は病気で退職した医師の勧めてくれていた認知行動療法の本を読み、外出訓練をして、少しずつ外に出られるようになったものの、医師たちに絶望していった。
そして、死にたくなってしまった。
病気と闘うのも疲れたし、そもそも自分は生存に向いていないと思った。過去の辛い出来事ばかりを思い出した。私には生きている資格がない、そんな言葉が頭の中で自動的に繰り返される。存在すること自体が苦痛だった。身近な人が自殺した痛みは分かるつもりだが、もう耐えられない、死んでしまおう、と思った。この頃の私は小宮さんのことを思い出しても、なぜだろう、彼女のことをうまく考えることができなかった。
私が幸運だったのは、意志が弱かったことかもしれない。家族の前でぼろぼろ泣き、死にたいのだと白状した。私は家族によって別の病院に連れていかれ、紆余曲折の末、運良く今の主治医に出会ったのだった。
この先生は最初の診察のとき、私の話をじっと聞いてから言った。
「パニック障害よりもまず、鬱をなんとかしましょう」
まさか自分が鬱病を併発しているとは思わなかったし、パニック障害で私を診察した精神科医たちも、季節の変わり目だとか、私の性格の問題だと言っていたのだ。
薬の処方が見直され(量は増えなかったと記憶している)、最初は毎週、やがて一週間おきに通院した。病的に気持ちが沈む時間が段階的に減り、まさに薄皮が剥がれるように頭がクリアになって、二ヶ月ほど経ったころには、鬱状態をほとんど脱していた。死にたいという気持ちも消え失せていて、なぜ自分があれほど死にたいと思い詰めたのか、さっぱり分からなくなった。
そこまで回復してみて、やっと気がついた。
私は自分の人生の本質的な問題、私という存在の問題で悩んでいると思っていたのだ。いわば哲学的な悩み、みたいな。しかし、医師と話して、摂取する化学物質の種類を少し変えただけで、こんなに気持ちが変わるのだ。飛び降りられそうな高所を物色していた私はあの時、理性が機能していなかった。人の心は常に揺らいでいて、本当の自分などというものは幻想だと思う。けれど、あの時の私は、本来の私ではなかった。
他人はとくに、自殺と聞くと原因はなんだろうかと考える。私だってテレビで誰かの自殺のニュースを聞けば、真っ先に考える。そこには、「もしも何かが違っていたら、助かったのではないか」というニュアンスがあるかもしれない。
小宮さんの火葬を待つあいだ、上座に座っていた僧侶が「現代社会の歪みですな」と言ったのが耳に入ったことを思い出す。その言葉に私は激しい憤りを感じ、泣きながらその場から逃げ出してしまった(なので、私が小宮さんのお骨を拾えなかったのはあの僧侶のせいである)。彼女のことを何も知らないくせに適当なことを言うな。あのときの私は、そう思ったのだ。あの僧侶が小宮さんの死の原因を、社会的な要因のせいだと口にしたのは、いかにも理解が浅すぎし、そもそも迂闊だろう。
もしかしたら、いやたぶん、自殺してしまう人の多くは「そのとき」、理性がダウンしてしまっているのではないだろうか。私は、自殺というものは身体の病気による死とほぼ同じなのではないか、と考えるようになった。その人の性格や特性、孤独や身体の病気、経済的な問題などさまざまな要因で、心が弱り、疲弊していく。そして理性が働かなくなり、衝動的な行動をとってしまう。そういうことで命を失うのは、身体の病によって命を失うことと、実はそんなに違わないのではないだろうか。
そういえば私の友人や知人で、ご家族を失った人たちからは、「なぜ」という言葉は聞いた記憶がない。亡くなったご家族は、それぞれ鬱病や更年期障害、あるいは生理の前の激しい情緒不安定があったと聞いた。まさに病死と隣接していると思う。
小宮さんの死の知らせを受けたあとも、私の中にも「なぜ」という疑問は浮かばなかった。敢えて言えば、子どもの頃から飛び抜けた感性の強さと、見かけによらぬ繊細さを持っていた彼女は、自分の才能のようなものによって、命を削られたのではないか、そんな気がしたものだ。細い平均台の上を、息を詰めて歩く。ずっとずっと、そうやって歩いていて、疲れてしまい、ふっと平均台から落ちてしまう。それは彼女が自ら選んだとは言えないだろう。もちろん、社会の歪みのせいなどではない。
ずっと心に残っている出来事がある。
私が最初に就職した印刷会社でのことだ。営業部に配属された私は、自分で言ってしまうけれど、会社で接点のある人全員から好かれていたと思う。いつも明るくて、でも妙なところがある変人、と思われていただろう。私のことを「変わり者」という人は例外なく楽しそうで、だから訂正もしなかった。
同僚によると、私が一人で歩いているところをたまたま見た上司が、「さみしそうだった」と、不思議がっていたそうだ。それを聞いて私は同僚に、「一人で歩いている時なんて、誰でもそんなものでしょう」と答えた気がする。しかし私は実際に、きっと暗い顔をして歩いていたのだ。通勤途中でも営業車を運転しているときでも、小宮さんのことを考えていた。自分に何ができたか、とか、そんなことを考えていたのではなく、ただ、小宮さんのこと、彼女の死を思っていたのだ。会社では、まるでパンダのような人気者で、そのことを楽しんでもいたけれど、それはどこか自分とは分離された、別の自分のようだった。
社内にコピーライターの鈴村さんという人がいた。
三十代半ばの女性で、ふんわりした自然体の印象。淡々と地元のフィットネスクラブとか英会話教室なんかのパンフレットのコピーを書いていた。私はもともと制作部署の志望で入社し、「まず営業を経験してから移動」という話だったが、入社してみると営業部の先輩たちの多くは同じ条件で営業部にいたから、実際に制作に移動するのは絶望的だった。だから鈴村さんと同じ部署に配属された同期の同僚が羨ましかった。
ある日、その同僚から、鈴村さんの旦那さんが自殺したと聞いた。それで会社を辞めて故郷に帰るらしい、とも。あの、物静かながらも人懐っこい感じの鈴村さんに、そんなことが起こるなんて。ご家族の自殺は想像しても余りある。ただ、そういう事情であれば、みんなに挨拶などしないで静かにいなくなってしまうだろう。部署も違う私は、もう鈴村さんに会う機会もないのだ、そう思っていた。
そして、数日後の午後、外回りから戻った私は駐車場に営業車を停め、事務所のある建物に向かって歩いていた。会社の一階には巨大な輪転機つまり印刷機があったから、事務所は二階だった。外階段からスカート姿の人が降りてきた。鈴村さんだった。
本来ならば、なにかしら挨拶をする場面だっただろう。しかし私は、鈴村さんの目をまっすぐ見つめたまま、一言も言葉が出なかった。頭の中で言葉のインフレーションが起きていたのだ。鈴村さんから目を離すこともせず、ただただ鈴村さんの目を見つめ続けて動けなかった。しばらくして鈴村さんが、
「仕方ないもんね」
そう言って、ひっそりと笑った。私はなおも言葉が出ないまま鈴村さんの顔を見つめていたが、鈴村さんは行ってしまった。私はその小柄な後ろ姿を黙って見送ったのだった。
後から考えた。自分は鈴村さんに何を伝えたかったのだろうかと。気持ちが分かります、というような言葉は一瞬たりとも浮かばなかった。
「私はたぶん、あなたが今いる場所と似た場所にいます」。そう言いたかった気がする。「私はそんな暗闇のような場所で三年が経ち、今でも暗闇で光が見えず、慰めも、出口も見えないんです」。そんなこと、言えるわけがない。
鈴村さんはどう思っただろう? 会社でいちばん能天気な若い社員が、黙ったまま必死で自分の目を見つめ続けていて。
鈴村さんが、そして私がいた場所は、“日常”が断ち切られた場所。家族や近しい友人というものは、強固な日常の一部なのだ。その人が悩んでいる様子だと分かっていても、そして心を砕き、なんとかできないかと思い悩んでいる最中であっても、まさか、日常の一部である親しい人が能動的に世を去ってしまうなんて、そんな非現実的なことが起こるとはどうしても思えないものだと思う。
だから、世間の自殺防止キャンペーン的のようなものを見ると微かな苛立ちを感じる。自殺を食い止める可能性があるとして、それがいちばん難しいのが、ご家族ではないかとも思う。私は親しい友人を止められなかった。では、それほど親しくない友人の心の不調に気づき、自殺を食い止めることなんてできるのだろうか? このことについて私は、かなり真剣に考えたのだけれど、簡単に述べることができない。
鈴村さんが会社からいなくなって、長いコピーライティングが必要な仕事は、外注に出されることが増えた。私の顧客の仕事もコピーを外部に発注するように言われた。そしてまもなく、私は会社を辞めた。
何年経っても、ときどき鈴村さんのことを考えた。あのとき、私は何一つ伝えられなかった。痛みに寄り添うこともできなかった。そんな思いが残り続けているのかもしれない。あるいは私は、鈴村さんに一方的に親近感を持っていたのかもしれない。
もう十年以上前になるのだろうか。その頃の私は頓服の抗不安薬は手放せなかったものの、かなり遠くまで外出できるようになっていた。そんなわけで友人にライブに誘ってもらった。この友人と出会ったことは、私の人生における最大の幸運だと思っている。
何の予備知識もなかったが、行ってみるとその楽団は、かなり変わった編成だった。ジャズの定番であるピアノ、ベース、ドラムの他にパーカッションとストリングス五人がいるのは、まあ分かる(チャーリー・パーカーの『Charlie Parker With Strings』は1949年の演奏だそうだ)。けれどさらに、バンドネオンとハープ。コンダクターがサックス奏者でボーカル。
演奏を聴きながら、私は文字通り目を見張った。なんという演奏だろう。私の音楽の知識レベルでは全く説明ができないが、複雑なリズムと聞いたことのない旋律、国籍不明の音楽。そこで作り出される世界は、光が降り注ぐけれど天国ではない。熟れすぎた果実のような、大きくて甘い闇を抱えた夜の楽園。
そして思ったのだ、もしも小宮さんがこの音楽を聴いたとしても、彼女にはこの音楽の良さは分からなかっただろうと。私自身だって、もっと若かったらこの音楽をこんなふうに感じることはできなかった。この音楽の美味しさを、こんなふうに感じることはできなかったはずだ。
今まで生き延びてきて良かった、となぜかそう思った。何かが報われたような気がした。
もちろん、このライブ一つで私の全てが癒やされたとか、そんな話ではない。詳しく語るつもりはないが、私の今の感覚を一言でいえば「いろいろな地獄がある」である。
長い時間をかけて私はたぶん、日常というものを再び信じられるようになったのだ。足元の地面が崩れるのではないかと警戒せずに体重をあずけている。とはいえ私は今、小宮さんのほとんど三倍の長さの人生を生きていて、しかし、いつまで経っても二十歳の小宮さんが年下には思えないという奇妙な状況にある。それから、これだけ時間が経つと不思議なことに彼女の死因について、大きな意味を感じなくなった。昔は同級生に、「そういえば小宮さん、今、どうしてるんだろう?」と問われても、何も答えられず黙っていたのに。
以前から薄々思っていたのだが、小宮さんがもしも生きていたら、私は人生でこんなに長い時間、彼女について考えてはいなかっただろう。彼女は死によって、私の時間(≒人生)に大きな位置を占めている。それにも関わらず、私の今までの人生における具体的な選択は、彼女の死の影響を受けていない、と気がついた。私の今までの選択は、自分の価値観や指向、病気、そしてもたらされた幸運によるものだ。
小宮さんの誕生日と命日には、花を持ってお墓に行くのだけれど、そうでなくても、例えばすっかり落ち込んでしまったとか、気持ちが乱れているときとか、そんなときも、私は花を買って小宮さんの墓に行くことがある。そして墓の前に座り込み、話しかける。ねえ、こんなことがあってね………。
生き延びるのは、いいものだと思う。
子ども時代から私は、幸せになることを人生の目標にしてはいけないと思っていたのだ。なぜ、そんなことになったのかは、ここでは語らない。とにかく今、私は思うのだ。幸せになろうと思うこと、そして幸せになるための選択をし、行動をすることは、生きている者の義務なのだと。
それは、大切な人に能動的にこの世を去られ、残された人たちにとっても変わらないと私は信じる。鈴村さんもきっとどこかで、幸せに暮らしているとだろうと思うことにする。
(2026.7.11 一文差し替え)
