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000【問いの庭ー言葉とコトバー】Podcastどんな番組か? 答え探しに疲れたあなたに、問いを届けたい




【この記事について】


私、公孫樹が運営しているPodcast【問いの庭ー言葉とコトバー】を文章にして深掘りしていくシリーズ。今回は記念すべき第0回目の投稿についてお話ししていきます。

<どこで聞けるのか>



エピソードは以下のプラットフォームからお楽しみいただけます。

YouTube Podcast

Spotify Podcast

Apple Podcast

Amazon Music Podcast

Stand.fm

以上、5つのプラットフォームからお楽しみいただけます。
ご自分のよく利用されるプラットフォームをお選び、早速聞いていただけると嬉しいです。

ラジオが先でも、文章が先でも楽しめる内容になっていると思います。

【この記事が届くといいなと思っている人】


頭の中がいつも忙しい人に、届けたいと思って書いています。

  • 考えすぎて夜眠れないことがある人。

  • 仕事や人生の選択肢の前で、「正しい答え」を探し続けている人。

  • 自己啓発の本を何冊も読んで、試して、それでもどこか「これじゃない」と感じている人。

  • 言語や哲学や思想に、理由のはっきりしない引力を感じている人。


この番組は「答え」を渡す番組ではなく、「問い」をそっと置くような番組にできたらと思っています。

ただ、問いを置きます。
問いには、重さがありません。
答えが一つに定まらない問い。
持ち歩くほどに深まる問い。

そんな問いを、Beautiful Question—美しい問い—と呼んでいます。

答えを出すために持つ必要はありません。
解決するために抱える必要もありません。
ただ、ポケットに入れて、今日一日を歩いてみる。
それだけでいいものが、美しい問いです。

もしかしたら、あなたに必要なのは「もっといい答え」ではなく、「もっといい問い」かもしれない。そういう可能性を、一緒に探っていく場所です。


【視点:言葉とコトバのあいだにあるもの】


この番組には、ふたつの名前があります。

「問いの庭」


まず「問いの庭」から。

庭って、子どもの頃を思い出しませんか。家の庭で、咲いている花を触って、雑草を抜いて、やってくる虫を眺めて。誰かに教わったわけじゃないのに、気づいたら「これは何だろう」「なぜこうなるんだろう」という問いが生まれていた。

庭は、最初の問いが育つ場所だったんですよね。

答えが植えてあるわけじゃない。
でも、外の世界と対話するうちに、自然と何かが育っていく。安心できる場所だから、問いが怖くない。失敗しても、また明日も庭に出ればいい。

この番組も、そういう場所にしたいと思っています。
答えを持ってくる場所ではなく、問いが育つ場所として、皆さんと一緒に育てていきたいですね。

「言葉とコトバ」

では「言葉」と「コトバ」の違いは何でしょう。

「言葉」は、意味を運ぶ道具です。
誰かに何かを伝えるための器。

「今日は暑いですね」
「ありがとう」
「会議は3時から」

こういうものが言葉です。


でも「コトバ」は、その手前にあるものです。

たとえば、大切な人が泣いているとき。
言葉が出てくる前に、何かがもう胸に届いていませんか。

美しい夕焼けを見たとき。
「きれいだ」と言葉にする前に、すでに何かが動いている。

こういう感覚です。

鳥の鳴き声、風の音、身体の奥でざわめく感覚。
それらは「言葉」になる前の段階だけど、すでに私たちに届いている。
そういうものをここでは「コトバ」と呼んでいます。

赤ちゃんは「愛されている」という言葉を知らなくても、温かさや安心を感じますよね。それがコトバです。言葉の届き方ではなく、存在そのものの届き方、とでも言えばいいでしょうか。

この番組は、そういうものを一緒に「聴いて」いく場所にしたいと思っています。私の話を「聞く」というよりは、私の話を聞きながら、あなたの内側から湧き上がってくるものを「聴く」時間に。

問いには重さがないので、持ち歩きながら、あなたの内側から湧き上がってくるコトバに、耳を澄ませてみてください。

【今日の持ち歩ける問い】


「言葉になる前に、すでに届いていたものが、あなたにも、ありますか。」

答えなくても大丈夫です。
ただ、持ち歩いてご自身のペースで深めてみてくださいね。


▼ もっと深く


ここからは、この問いをさらに掘り下げたい方のために書いています。学術的な背景、問いの連鎖、そして自分で深めるための問いかけを順番に置いていきます。読み飛ばしても、番組は十分に楽しめます。

① 背景——井筒俊彦の「コトバ」論


井筒俊彦という人を、あなたはご存知ですか。

知らなくて当然です。日本の学校では教わらない。書店の哲学コーナーにも、ほとんど並んでいない。でも海外では違います。彼の英語著作はハーバード大学出版局から出版され、イスラム哲学・比較思想の世界では今も権威として参照され続けています。ノーベル賞に最も近づいた日本人哲学者と言う人もいる。

なのになぜ、日本でこんなに知られていないのか。私はそれ自体が、大きな問いだと思っています。「難しそう」「宗教っぽい」「すぐ役に立たない」
そういうフィルターが、私たちの知的好奇心をどこかで静かに狭めていないか。この番組を通じて、そのフィルターを少しずつ外していきたいと思っています。

それほどまでに、井筒俊彦という人は面白い。

井筒俊彦(1914〜1993)は、アラビア語・ペルシア語・サンスクリット語・ロシア語など30以上の言語を読みこなした東洋哲学者です。イスラム哲学・禅・老荘思想・ユダヤ神秘主義を横断しながら、ひとつの大きな問いを生涯追い続けました。「東洋の思想の深層には、共通する何かがあるのではないか」という問いです。

代表作『意識と本質』(1983年)では、こんな問いが立てられています。

「『本質』とは何か。そして人間の意識はどのように世界を切り分けているのか。」

井筒はここで、言語の手前に「コトバ」という層があると言います。

私たちは言葉を使って世界を切り分けています。「これは犬」「あれは猫」「これは悲しい」「あれは嬉しい」。言葉があるから、世界に境界線が生まれる。でも言葉が生まれる前の状態、まだ何も分けられていない、ただ何かが「ある」という状態のときにも、何かがすでに届いている。井筒はその届き方を「コトバ」と呼んだのです。

これはイスラム神秘主義(スーフィズム)の「ワジュド(存在の発見・歓喜)」という概念とも深く繋がっています。神秘家たちは、言語や概念を超えた場所で「存在そのものと出会う」体験を語ります。井筒はそこに、東洋思想に共通する「言語以前の認識」を見出しました。

現代の認知科学で言えば、「身体化認知(embodied cognition)」に近い話でもあります。私たちの認識は頭だけでなく身体全体で行われている。
これは言語化される前に、身体がすでに世界を感じ取っている、という考え方です。「言葉にならないのに、何かがわかる」という感覚には、ちゃんと理論的な裏付けがあるんですね。

一冊だけ挙げるなら、まず『意識と本質』(岩波文庫)を手に取ってみてください。難しいけれど、ページをめくるたびに何かが揺らぐ感覚がある本です。


② 問いの連鎖:この問いはどこへ続くか

「言葉になる前に届いていたもの」という問いは、こんな問いへと続いていきます。

  • 言葉にできないものは、存在しないのでしょうか。

  • 言語が違うと、届くものも変わるのでしょうか。

  • あなたが「説明できない」と感じているものは、本当に説明できないのでしょうか、それとも、まだ言葉が追いついていないだけでしょうか。

この番組では、これらの問いのあいだを少しずつ、一緒に歩いていきます。

③ 自分で深めるための問いかけ


あなたが最後に「言葉にならなかった」体験は、いつですか。

その体験を、誰かに伝えようとしたとき、何が足りませんでしたか。

あなたの中に、まだ言葉になっていない「何か」はありますか。



ノートに書いてみてもいいし、ただ目を閉じて問いとともに座ってみてもいい。答えは出なくても大丈夫です。



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