【問いの庭 解説note #003 】「頭でわかる」と「腑に落ちる」の違い:「わかっているのにできない」と感じる時に意識してみること
【この記事について】
問いの庭(言葉とコトバ)第3回の視点を、文章として深掘りします。
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【「問いの庭」とはどんな番組か】
この番組は答えを渡す番組ではなく、問いをそっと置くような番組にできたらと思っています。
問うことで世界が変わって、身体も心も軽くなるような問い。
世界を新しく見ようと思わせてくれる問い。
そういう問いを、Beautiful Question—美しい問い—と呼んでいます。
ここで出会った問いが、あなたの美しい問いへ繋がっていくことを願って。
【この記事が届くといいなと思っている人へ】
「わかっているのに、できない」という感覚を抱えている人に、届けたいと思って書いています。
正しいことは頭でわかっている。でも行動が変わらない。知識はある。でも何かが変わった気がしない。本を読んで「なるほど」と思う。でも翌日には元に戻っている。
そういう経験を繰り返してきた人。
今日の視点は、「わかる」という言葉の中に隠れていた二つの世界を照らすものになるかもしれません。
【視点:「頭でわかる」と「腑に落ちる」は、どう違うのか】
前回の話から続けます
前回は、言語OSという話をしました。
私たちは言語というOSを通して世界を切り取っている。「木漏れ日」という言葉がある人には見えるものが、ない人には見えにくい。言語が先にあって、世界の形が決まる。
そして最後にこんな問いを置きました。
もし言語OSを書き換えることができるなら、どんな景色が見えてくるでしょうか。
でも、ここで一つ疑問が生まれませんでしたか。
言語OSを書き換えればいいのはわかった。
でも、どうすれば書き換えられるの?
と。
今日は、その問いへの入口として「わかる」という体験を解剖してみます。
「わかる」には二種類ある
日本語には、「わかる」という言葉が一つしかありません。でも実は、「わかる」の体験には、まったく異なる二種類があります。
一つは「頭でわかる」。もう一つは「腑に落ちる」。
「頭でわかる」は、言語的な理解です。
概念として把握できる。説明できる。
人に伝えられる。これは言語の領域にある「わかり方」です。
「腑に落ちる」は、身体的な理解です。
「腑」とは内臓のことです。
「お腹にストンと落ちる」感覚。
説明はうまくできないかもしれないけれど、何かが変わった、という感覚。これは言語よりも深い場所にある「わかり方」です。
たとえば、自転車の乗り方を本で読んで「頭でわかった」としても、実際に乗れるようになるのは身体がわかったときです。泳ぎ方を理論で学んでも、水に浮く感覚は身体が覚えるまで本当にはわからない。
「わかっているのにできない」という状態は、多くの場合「頭ではわかっているが、腑には落ちていない」状態かもしれません。
言語的理解と身体的理解の違い
もう少し丁寧に見てみましょう。
「頭でわかる」は、言語OSの中で処理されます。新しい概念が既存の言語ネットワークの中に位置づけられる。これは速くて効率的ですが、言語OSの枠の外には出られません。
だから「頭でわかる」だけでは、言語OSは変わらないのです。既存のOSの中に新しいファイルが一つ増えるだけで、OSそのものは更新されない。
「腑に落ちる」は、身体的な経験を通じて起きます。直接経験・感情的な揺れ・反復・沈黙の中での熟成。これらが「腑に落ちる」を引き起こします。これは遅くて非効率に見えるけれど、言語OSそのものを書き換える可能性を持っています。
「私は変わらなければならない」と頭でわかっていても変われない人が、ある日ふと「このままでいい」と腑に落ちたとき、何かが本当に変わり始める。そういう経験をしたことがある人もいるのではないでしょうか。
「頭でわかる」ことへの過剰な信頼
現代は「頭でわかる」ことへの過剰な信頼があります。
情報は大量にある。
本を読めばわかる。
動画を見ればわかる。
セミナーに行けばわかる。
でも、そのわかり方のほとんどは「頭でわかる」止まりで、「腑に落ちる」にはなかなか届かない。
「腑に落ちる」には、時間が必要です。
静けさが必要です。
繰り返しが必要です。
そして多くの場合、言語ではなく経験や感覚が必要です。
問いの庭という番組は毎回、問いを置いて終わようにしています。
答えを渡すのではなく、問いを置く。
答えを頭でわかろうとする焦りを横に置いて、問いを持って街を歩いてみる。そのうちに何かが腑に落ちて、ゆっくりと深まっていく自分の感覚。
そんな時間をみなさんと一緒に分かち合ってみたいなと思い、ラジオを作っています。
【今日の持ち歩ける問い】
あなたが長年『頭ではわかっている』と感じていることの中で、まだ腑に落ちていないものは何ですか?
答えは見つからなくても大丈夫です。
ただ、持ち歩いてみてください。
▼ もっと深く
ここからは、この問いをさらに掘り下げたい方のために書いています。読み飛ばしても十分に楽しめます。
① 背景 命題的知識と手続き的知識、そして身体知
哲学では「知る」ことを大きく二種類に分けることがあります。
一つは「命題的知識(knowing that)」。
「自転車は二輪の乗り物である」というように、言語で表現できる知識。
もう一つは「手続き的知識(knowing how)」。
「自転車の乗り方を知っている」というように、言語で完全には表現できないが身体が知っている知識。
哲学者のマイケル・ポランニーはこれを「暗黙知(tacit knowledge)」と呼びました。「私たちは語れる以上のことを知っている」という言葉は、まさにこの身体的な知の豊かさを指しています。
身体化認知(embodied cognition)の研究は、認知は頭の中だけで起きるのではなく、身体全体で起きるという視点を提供しています。言語的な理解と身体的な理解が統合されたとき、本当の意味での「わかった」が起きる。
語学の文脈でも同じことが言えます。文法を頭でわかっていても、言語は身体に染み込むまで「使える」にはならない。音の感覚、リズム、文の重さ。これらは身体で覚えるものです。
<参考文献>
『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー著(筑摩書房)
「私たちは語れる以上のことを知っている」
この一文が、今回の記事の核心を言い当てています。「腑に落ちる」という身体的な知の存在を哲学的に裏付けてくれる一冊として選びました。
『マイケル・ポランニー「暗黙知」と自由の哲学』佐藤光著(講談社選書メチエ)
ポランニーの思想全体を日本語で初めて体系的に紹介した解説書です。原著が難解だと感じた方の「次の一冊」として最適。科学哲学だけでなく、経済学・哲学にまで広がるポランニーの思想の全貌がわかります。
『身体性認知とは何か: 4E認知の地平』ショーン・ギャラガー
認知は脳だけで起きるのではなく、身体全体で起きるという「身体化認知」の概念を深く掘り下げた一冊です。「頭でわかる」と「腑に落ちる」の違いを科学的に理解したい方へ。
『現象学入門』コイファー&チェメロ著(田中彰吾・染谷昌義訳)
身体性認知の訳者・田中彰吾氏も推薦する一冊。身体性認知科学とのつながりから現象学を歴史的に展望した入門書で、「頭ではなく身体で世界を理解する」という考え方の哲学的な土台を学べます。ギャラガーの本をより深く読むための背景として。
『フロー体験 喜びの現象学』ミハイ・チクセントミハイ著(世界思想社)
「腑に落ちる」に最も近い体験として、完全に没入している「ゾーン」の状態を研究した古典です。頭と身体が統合されたとき、何が起きるのかを体験的に理解するための一冊として選びました。
『フロー体験入門—楽しみと創造の心理学』ミハイ・チクセントミハイ著(世界思想社)
原著『フロー体験 喜びの現象学』はやや学術的ですが、こちらの入門版はより読みやすく、日常生活での「ゾーン」の見つけ方を具体的に解説しています。「腑に落ちる」感覚をどう日常に育てるかを実践的に学びたい方へ。
② 問いの連鎖 この問いはどこへ続くか
「頭でわかる」だけで変わった経験と、「腑に落ちて」変わった経験、あなたにはどちらが多いですか。
「腑に落ちる」瞬間は、どんなときに訪れましたか。何かの共通点はありますか。
あなたが今、「頭ではわかっているのに身体がついてこない」と感じていることは何ですか。
③ 自分で深めるための問いかけ
今日、「なるほど」と頭でわかった瞬間を一つ思い出してください。
それは腑に落ちる感覚がありましたか?
あなたが最後に「腑に落ちた」と感じた瞬間はいつですか?
そのとき、身体の中でどんな感覚が立ち上がっていましたか?
「頭でわかること」をいったん横に置いてみましょう。
今この瞬間、身体はどんな感覚にありますか?
ノートに書いてみてもいいし、ただ目を閉じて問いとともに座ってみてもいい。答えは出なくてもいいのです。
今回も読んでいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに。
公孫樹。
