とん、とん、とん
「何人家族ですか」
簡単なアンケート。
何も考えずに「4人」に〇をつけそうになって、手が止まる。
違う。
今は夫と息子との3人暮らしだ。
4人だったのは、もうずっと前。父と母と妹と、わたし。実家にいた頃。
その夜も、わたしはGoogleマップを開いた。
実家の住所を入力してストリートビュー。
うん、赤い屋根、白いフェンス、にせものの煙突。シルバニアファミリーの家みたい。ちゃんとある。
わたしが植えたレモンの木は抜かれてしまったけど。見慣れないサンルームがついているけれど。玄関には見慣れない子どものキックボードがあるけれど。
ここはもう、わたしの実家じゃないけれど。
誰かの実家だけれど。
無意味。検索して写真を見ても無意味。わかってる。
それでも、指は勝手に住所を打ち込んでいる。
夢に、出てくる。実家は手触りをもって出てくる。
玄関を入ったときのうちの匂い。
口の中に印鑑が入るワニの置物。
ピカピカに磨かれた廊下。
リビングのドアは締めてもいつの間にかすーっと音もなく開いてくる。
ばかみたいに日当たりがいいリビングにはドイツ製のソファとテーブルのセット。
何かの生き物みたいな抽象画。
目をつぶっていても上り下りできる階段。
とん、とん、とん、ととん、っと13段。
わたしの部屋には女の人の顔に見える柄の入ったカーテン。
山が近くてゴキブリやらムカデやら、毎日のように虫が出る家だった。庭に植えたいちごはいつも、食べごろになる前に虫に食べられていた。
でも、実家はいつも驚くほど綺麗だった。
友達の家に行くと散らかっていると思っていたが、今思えば違う。
うちが特別だった。
母はいつも台所にいた。
西向きに窓がついた台所は、朝は暗く夕方はまぶしい。
学校から帰ってくると、カステラやシフォンケーキを焼いて待っていた。
オーブンの匂い。甘い匂い。
母は、料理が好きだったわけではないと思う。
父が出張の日はレトルトパスタが夕飯だった。
それでも、母は台所にいた。
わたしが部活で4時起きでも、受験勉強で5時起きでも、母は、必ず私より早く起きていて、台所にいた。
目を覚ますとまずは耳を澄ます。
とんとんとん。ことことこと。
母の音がする。
幼少期のわたしはよく熱を出した。喘息もあった。
ひゅーひゅーぜーぜー。
2階の部屋のわたしのベッドからは、空と屋根のふちが見えた。
青空にスズメが行ったり来たりちゅんちゅんちゅん。
病気の日はいつも晴れていた気がする。
母がしょっちゅう様子を見に来た。
氷枕と冷えピタシートのにおい。
たまに、寝たふりをした。
母はわたしのおでこに手を当てて、髪をなでて、また台所へ戻っていった。
毎日、熱が出ればいいのに。
わたしは学校から帰ると台所にいる母にまとわりつき、その日にあったことを母に全部話した。
小中高。ずっと。
母は、わたしの話をよく覚えていた。わたし以上に。
父はいつもスケルトンのマッキントッシュのパソコンの前に座っていた。
何をしていたのかは分からない。
父の部屋は、パソコンとプリンターの匂いがした。
仕事から帰ってきた父を、わたしと妹が玄関まで出迎えると、とてもうれしそうに笑った。
父は、家族の誕生日には必ず花束を買ってきた。
わたしの誕生日はだいたいピンク色のスイートピーだった。
わたしが大学生の頃、実家を売ってもいいかと聞かれた。
「別にいいんじゃない」と答えた。「パパとママで決めて」と。
わたしは若かった。あこがれ叶った東京の大学。
遊びにバイトに恋愛に忙しかった。
引っ越しの手伝いにも、行かなかった。
今、わたしが住んでいるのはマンション。やっと購入したマンションだ。リノベ済み3LDK。実家と違って虫も出ない。結露で窓がびしょびしょになることもなければ、冬も床が氷のように冷たくなることもない。
でも、ここがわたしの家かと言われると、正直、よくわからない。
夢に出てきたことは、一度もない。
真っ暗で静かなマンションの部屋。
わたしが、電気をつけ、台所で包丁をにぎる。
朝食を、弁当を、夕食を、おやつを、作る。
息子を見送ったあと、家はとても静かだ。
誰の声もしないし、気配もしない。
エアコンの音と、車がはしる音。
耳の奥できーんと聞こえる、静かな部屋。
実家にはいつも母の音があった。
とんとんとん。
ことことこと。
かちゃかちゃかちゃ。
電子レンジが、ぴー、と鳴る。
わたしはずっと、実家を探していた。
Googleマップを開くたびに、そこに何かが残っている気がしていた。
でも。本当に探していたのは、家ではなかった。
あの台所の音。
とんとんとん、と包丁を鳴らしながら、
わたしの帰りを待っていた母だ。
母は病気になった。
今も料理はする。でも、お菓子を焼くことはなくなった。新しいレシピを試すこともなくなった。いつのまにか、母の場所は、台所ではなくリビングのソファになっていた。
もう、とんとんとんという音は聞こえない。
もしわたしが大学進学で地元を離れなかったら。もしあのとき、実家を売らなかったら。母は違う人生を歩いていたのだろうか。
あのころは想像できなかった。
あの家が、両親の人生そのものだったということを。
Googleマップを閉じる。
朝が来る。
息子はまだ眠っている。
わたしは台所に立つ。
包丁を持つ。
とん、とん、とん。
