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本を読むということ② ネジが一本抜けている

 たとえばトルストイの『戦争と平和』を読んだという人は日本人でも何十万人かはいるだろう。しかし、どれだけの人がその内容を覚えている事だろう。いや、それでもトルストイなど知らないという人の方が圧倒的に多いだろうから、『戦争と平和』では適当な材料にはならない。このnoteでは高校の教科書に採用されているという芥川龍之介の『羅生門』や夏目漱石の『こころ』ではぬかるみにはまってしまうことを散々検証してきた。『羅生門』や『こころ』は阿呆みたいに多くの教職員によって杜撰に読み誤られていて、その過程において「本を読むということは読み誤ることだ」という屁理屈が固定化されているようでさえある。

 これでどうして国語のテストが可能なのかと不思議に思う。

 それにしても江藤淳の『作家は行動する』を読み返してみれば、江藤淳が「文体」を駆使し、空疎な内容を意味ありげに飾り付ける手際に驚く。こういう角度で切り取れば、ここには意味が生まれるというサンプリングとリミックスの手際において、江藤淳は一流の作法を身に着けていたと言ってよいだろう。その「文体」を応用しさえすれば、それが文学でなくとも、それなりに意味があることのように論じることができるというテンプレートのようなものを作り上げた職人として江藤淳は評価されるべきかもしれない。

 そういう意味において江藤淳にとって夏目漱石作品は交換不可能な特別なものではない。少なくとも私が夏目漱石作品に感じたような特別な出会いは江藤淳と夏目漱石作品の間にはなかったのだ。江藤淳は夏目漱石論を糸口に評論家としての職を得たが、夏目漱石作品の本質的な問題に迫ったとは言えない。その上っ面を掠め、後世に圧倒的な負の遺産を与えただけだ。夏目漱石作品の読解において、江藤淳はむしろ障害であろう。


 例えば「漱石は自己抹殺の願望を持っていた」と江藤淳が書き、柄谷行人が『こころ』の先生の自殺は作品の主題から離れて、漱石自身の願望が現れたものだと書くとき、間違った読心術の伝統が出来上がる。

 漱石自身は人生など自殺するほど値打ちがあるものではないと述べている。

 例えば江藤淳が修善寺の大患にフォーカスし、柄谷行人が『行人』の「塵労」に分裂を見出すとき、作品と作家の私生活を結びつける風習が出来上がる。しかし実際には『行人』は漱石作品の中では珍しく作品の主題と布石の回収が見事に完成した一つ筋の通った話である。分裂を見出すのは、「あらすじ」が見えていない証拠である。

 江藤淳は中上健次との対談の中で、鴎外先生も漱石先生も、明治天皇崩御をシーンと心の底で受け止めて、それぞれ『こころ』を書き、『興津弥五右衛門の遺書』を書くことができた、と述べている。(『追悼対談 文学の現在』江藤淳/河出書房新社/1989年)この「明治天皇崩御をシーンと心の底で受け止めて」とは『こころ』を読んでの感想だろう。漱石は明治天皇重患の号外を手にした二十日、川開きが自粛されたことに文句をつけている。『こころ』ではわざわざ「私」の父親を明治天皇と同じ病気にして何度も浣腸している。江藤淳は漱石が乃木夫妻の殉死について疑義を抱いたことにさえ気が付いていない。八月二日から四日にかけては家族で鎌倉に海水浴に行っていることを知らないのだろうか。確かに新聞の書き抜きのような天皇崩御に関わる詳細な記録があるが、そこから漱石自身の感情は見えない。『初秋の一日』でも丁寧に感情が消されているが、

「十三日に降ったら大変だなあ」とOが独言のように云った。
「天気の時より病人が増えるだろう」と自分も気のなさそうに返事をした。(夏目漱石『初秋の一日』)

 ここからは「やむを得ないが厄介な事」としての御大葬が見えてくる。そして丁寧に感情が消されていることから「あからさまには描けない」という事情も見えてくる。見えてこないとしたら、やはり本を読むということについて真剣に向き合う必要があるだろう。

「十三日は臣民の悲しみで雨が降るだろう」
「雷帝のいかずちに打たれて殉死したいものだ」

 こんなことは書かれていない。本を読むということは読み誤ることではない。

 例えば『行人』の粗筋は、どんなものだろう。

解説を書いている人が駄目です。漱石作品は対になるものを意識しながら書かれていないことを考えながらよまなくてはなりません。塵労は分裂していません。一郎は二郎に兄嫁と一泊させて感想を求め、二郎はその逆をやり対になります。二郎は曖昧に報告し、Hさんは丁寧に報告します。丁寧すぎるくらいです。狂った女と一郎も対になります。絶対とか言い出せば哲学小説になるものでもないでしょう。「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」という一郎の言葉を漱石自身に引き付けるのも間違いです。



 江藤淳は『行人』の主人公を一郎にしてしまい、粗筋が捉えられていない。それでは本を読んだことにはならない。「」に気がついた人も一人もいない。この世界に私以外にはたった一人も。不思議としか言い様がない。大抵の人の『行人』の読みでは、ネジが一本抜けている。このネジは二郎と嫂の関係である。これが解かっている人もこの世界に私以外にはたった一人もいない。現にこうして書いている私の文章も理解できている人はいない。本当に本を読むということはこの世界でたった一人になることなのだ。





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