小宮豊隆「解説『行人』」+[付記]近代文学1.0の特徴について
「行人」
明治四十五年四月二十九日『彼岸過迄』が朝日新聞に揭了になつたあと、引き續いて漱石はその年(大正元年)の十二月六日から、同じ新聞に『行人』を載せ始めた。
是は恐らく漱石がその前年再度の胃潰瘍に倒れ、到頭一囘も小說(もつとも漱石は明治四十四年には、『手紙』と題する短篇小說だの、『思ひ出す事など』の續きだの、その他小品·評論の幾つかを書いてゐる上に、夏には大阪朝日の希望で明石·和歌山·堺·大阪と方方講演をしてあるいてゐる)を書かなかつた爲に、その埋め合せとして、社の方でも同じ年の內にもう一度小說を書く事を要求し、漱石の方でも自分の義務としてそれを引き受ける事にしたものだらうと思ふ。
その『行人』は然し、漱石が三度び潰瘍で倒れた爲に、翌大正二年四月七日をもつて一時中絕するの巳むなきに至り、その後、九月十六日から再び揭載され始め、十一月十五日に至つてやつと完結する運びになつた。かうして『行人』は完結までに、殆んど滿一ヶ年を要した。
漱石は大正二年三月二十七日中島六郞に宛てて、「······音樂學校卒業式の切符御親切に態々御送被下難有存候然るに天氣模樣と氣分のあしきとそれや是やにて遂に出席を不得遺憾此事に存候と書いてゐる。此所に「氣分のあしき」とあるのは、恐らく漱石の、胃の工合の惡い所から來たものに相違ない。ただこの日までのうちに、漱石がまだ寢込んでゐなかつた事だけは、この手紙によつても確實である。
然るに越えて六日の四月二日に漱石は、當時東京朝日の社會部長をしてゐた山本松之助に宛てて、「拜啓まだ原稿を書くと頭がふらふらし。立つと足がふらふらし.胸も時々痛みますが、今日ためしに一回かきました。是があとずつとつゞくとよう御座いますがあとが危險ですからあなたの方の都合の出來るまで少し溜めて置いて出す譯には參りますまいか。まだ流動物で俊寛の如く存在致居候」と書いてゐる。
卽ち漱石は三月二十七日以後、胃痛に惱まされて、到頭寢込んでしまつてゐるのである。然も書きさした小說の事が氣になるので、少し痛みが間遠になつた隙を窺つて、この日まだ「頭がふらふら」するにも拘はらず、無理に原稿を一囘分書いて見てゐるのである。然し事實はこの胃痛は、言はば、次いで來るものの、ほんの前觸に過ぎなかつた。「是があとずつとつゞくとよう御座いますがあとが危險ですから」と言つた漱行石の豫感は實現され、その「あとの危險」がすぐにやつて來た。
後に漱石は森成麟造に宛てて、「見事な血使が出ました丸で履墨の如く鮮なものでした」と報告(大正二年五月三十日)してゐるが、漱石は激烈な胃潰瘍に襲はれ、五月二十八日池邊三山追悼の會に出席する爲に、初めて外出するまで、二タ月近く病床を離れる事が出來なくなるのである。
『歸つてから』を書き上げた上で『行人』を閉ぢる氣でゐたらしい漱石は、その『歸つてから』を書きさしたまま、一時『行人』の事なぞ考へてはゐられない健康狀態に置かれる。健康が囘復し、氣分がそつちへ向くやうになつてから、漱石はその書きさした殘りの部分と、恐らくはまたその後新たに考へ足した部分とを一諸にして、新たな一篇を、書きさされた『歸つてから』のあとに附け加へる。是が『塵勞』五十二囘である事は、言ふまでもない。
『塵勞』が加はつて『行人』は、百六十七囘といふ、漱石にとつて空前の、大小說となつた。漱石が『彼岸過迄』で、それそれ獨立した短篇を幾つか書いて、全體として見ればそれらのものが互に脈絡して一つの纏まつたものになつてゐるといふやうな、新しい形式の長篇小說を書いて見ようとしたといふ事は、既に『彼岸過迄』の解說で說明した通りである。漱石は『行人』に於いても、同じやうな形式を踏襲する。
勿論『彼岸過迄』では、諸短篇相互の關係が少しルーズで、例へば『風呂の後』だの『停留所』だの『報告』だのでは、作者がそれほど重要でもないものに低徊し過ぎて、反つて重要なものへの讀者の注意を兎角散漫にする傾向がないでもなかつた。『行人』では、同じやうな形式が踏襲されてゐるとは言つても、作者は、『彼岸過迄』のやうな意味では、決して低徊してゐない。短篇の數から言つても、此所には、(後に『塵勞』が加はつたが)、『友達』·『兄』·『歸つてから』の三つがあるのみである。然もそのうちの『兄』と『歸つてから』·とでは、その主題とするものの中へ直ちに突き入る努力が試みられる。是は恐らく漱石が、『彼岸過迄』の成績を自分で反省した結果、特に意識してかういふ擧に出たものに違ひない。
もつとも『行人』では、初めの『友達』だけは、短篇として獨立したものを持つてゐるが、『兄』と『歸つてから』とは、それそれ獨立してゐると言はれべく、あまりに密接した相互關係を持つてゐる。『歸つてから』と、後に書かれた『塵勞』との關係といへども、同樣である。從つて『行人』は、初めから『彼岸過迄』の形式を踏襲しようとしたものではないといふ見方が、成り立たなくもないやうである。
殊に漱石は、『行人』に次いで書いた『心』の豫告で、「今度は短篇をいくつか書いて見たいと思ひます、と言つてゐる。旣に「今度は」とある以上は、前の『行人』ではさうでなかつたといふ事が、言外に含められてゐるものと考へられなければならない。
然し『彼岸過迄』の中の『須永の話』と『松本の話』との關係を考へ、且つ『行人』の中の『友達』と外の二つもしくは三つのものとの關係を考へて見るならば、『行人』も亦『彼岸過迄』と同行じやうに、幾つかの短篇を集めた長篇小說として書き出されはしたが、主題の性質上、自然と現人在あるもののやうになつたのだと解釋するのが、一番自然な解釋でありさうに思はれる。初めから「短篇をいくつか書いて見たいと思」はなければ、『友達』のやうな、『行人』の主題とは直接關係のないものを、漱石が書く筈がないのである。
また假令『彼岸過迄』のやうに、初めからそれそれ獨立した短篇の幾つかを繫げる長篇小說を書く氣でゐても、其所に取り扱はれる主題次第では、『須永の話』と『松本の話』とのやうに、相互に密接に關聯したものも書かなければならなくなるのである。漱石が『心』の豫告で「今度は」と言つたのは、寧ろ『行人』の出來上がりを見て言つたもので、是から『行人』を書かうとする時分の意圖を問題にしたのでないと見るのが、正當である。
その上『彼岸過迄』のやうに、短篇を幾つか繫げて行つた上で、それを一人の人間の經驗として纏めるといふ事は、ある人間なりある事件なりを、一つの立場からのみでなく、少くとも二つ以上の立場から眺め得る事の利益を持つてゐる。この事も旣に『彼岸過迄』の解說で述べた所である。
この利益ある方法は、『行人』に於いても利用される。例へば『友達』の中の中心事件である、氣狂のお孃さんの話は、二郞によつては、單にロマンティックな、詩的な事件としてしか受けとられないが、一郞によつては、もつと現實的な、もつと深刻な事件として受けとられる。然もその一郞は、二郞の立場から眺められるのみならず、またHさんの立場からも眺められる。郞の妻君のお直でも同樣である。
お直は、一郞の立場からのみ跳められるのではなく、また二郞の立場からも眺められる。然も『行人』全體を貫いて、觀察者としての位置に立つてゐる二郞は、『行人』の主人公である一郞の、弟だといふ事になつてゐるのである。
さうしてその二郎は、お直が一郞の所に片づいて來る以前から、少しお直と知り合つてゐたといふ、お直に對する特別な關係を持つてゐる。更に一郞とお直との間には、超える事の出來ない不和の溝が掘られ、世間一般とは違ふ、特殊な夫婦關係が結ばれてゐる。のみならずその二郞は、その一郞夫婦と一諸に、自分の父や母や妹や親類の娘と同じ屋根の下に住んでゐる。最後に一郞は、弟の誠實を信じてゐるにも拘はらず、お直を信じる事が出來ないために、お直が私かに二郞に心を寄せてゐるのではないかと、疑つてゐる。-二郞が『行人』の中の諸人物と、さういふ複雜な關係に立つてゐる以上、二郞が『行人』の中で、『彼岸過迄』の敬太郞のやうな「絕えず受話器を耳にして「世間」を聽く一種の探偵」のやうな役割ではなく、もつと重要な役割を勤めなければならなかつた事は、言ふまでもない。二郞は、兄夫婦の關係に就いて、母親の意見も聞かされれば、お重の意見も聞かされる。お直自身の意見も聞かされれば、兄自身の意見も聞かされる。自分自身の意見を持つてゐれば、Hさんの意行見も聽かうとする。のみならず二郞は、或は兄の嫉妬の的にもなり、或は兄から賴まれて嫂を和歌山まで連れ出しさへもする。
この事は『行人』と讀者との間隔を、『彼岸過迄』の場合よりも、遙に近親なものにする。『行人』といふ人生のドラマを見る爲に、讀者が作者から指定された觀覽席は、二郞である。讀者は絕えず二郞の立場(勿論『塵勞』の大部分は、Hさんの立場から見た一郞の敍述である。然し是もHさんの口から、二郞を相手にして語られるのである)から『行人』の世界を眺める。從つて二郞が『行人』の世界と密接な關係に立ち、二郞が『行人』の世界の渦の中に捲き込まれる事が深くなればなるほど、讀者の『行人』の世界に對する關係は密接となり、『行人』の世界の渦の中に捲き込まれる事が段段深くなつて行くのである。
然し『行人』の中の諸人物と二郞との關係が複雜であるといふ事の利益は、單にさういふ點にあるのみではなかつた。寧ろそれよりももつと大きい利益は、『行人』の世界に出て來る人間が、誰でも二郞に、思ふままの事を言つて、それそれ自分の自然な赤裸裸な姿を、二郞を通して讀者に示すといふ點である。
一郎もお直も、母親もお重も、すべて相手が二郞であるから、言ひたいままの事を言ふ。もしその間に何等かの嘘やお世辭や遠慮や體裁があるとすれば、それはその人の持つて生れた嘘やお世辭や遠慮や體裁であつて、誰が出て來ても到底取り拂ふ事の出來ないものであるのに外ならない。さういふものを勘定に入れないとすれば、『行人』の中の諸人物にとつて、二郞ほど物の言ひ可い人間はなかつたと言つて可いのである。
かういふ「聽役」を設けた漱石が、此所で何を書かうとしたかは、凡そ想像する事が出來るといふ氣がする。
もつとも漱石はこの『行人』を書くのに、初めのうちは、隨分氣乘りがしなかつたやうである。『行人』が新聞に載り始める凡そ一月前、大正元年十一月九日漱石は皆川正禧に宛てて、「大病後どうしてもからだが丈夫にならないやゝともするとやりそこなふ是では長生は無論かうやつて生きてゐてもまも癈人のやうなものである。此夏は信州から野州の方を旅行した歸つてから愚圖々々してゐるうちに又小說を書かなければならない譯になつてもうそろそろ書き出さなければならない。」と書いてゐるが、その月の二十五日になつてもまだ氣が向かなかつたと見えて、沼波武夫に宛てて、「私はもう小說をかゝなくてはならないので辟易して居ります」と書いて居り、十二月一日の中村翁宛の手紙にも、「拜啓每々御手紙ありがたく候實は昨三十日夜漸く一回認め社へむけ發送致置候氣も乘らず自信もなく如何にも書きにくゝ候是が百回以上になるかと思ふと少々恐ろしく候小生の考では創作は天下の根氣仕事の一なるべくと存候/······/返す返す御心配のみかけ御氣の毒に候是と申すも小生の創作に對する興味やら考やら强ひて複雜なものを鮮やかにまとめんとする無駄骨折やさうして最後に來る面倒くさゝやらがかたまつたものと御勘辨願行度候·····/今日もからは休み候樣子もし小生の爲めとならば實以て恐縮大兄に對しても社人に對しても無申譯次第小生は如何なるまづきものをかいて世間の物笑ひとなつても筆を執らねばならぬ義理合と相成候御心安く御擱筆道體御加養是祈候」と書いてゐる。
それのみではない。もう相當(恐らく〇六七の第六か第七かのあたりまで)書き込んで行つてゐた筈の、大正二年一月十日に於いてさへ、漱石は大谷繞石に宛てて、「『行人』御讀被下候由難有存候先がどうなるやら作者にも相分らずたゞ運次第に候御憫笑可被下候」といふやうな、ひどく心細い手紙を書いてゐるのである。
勿論是は、漱石自身言つてゐるやうに、漱石の「創作に對する興味やら考やら强ひて複雜なものを鮮やかにまとめんとする無駄骨折やさうして最後に來る面倒くさゝやらがかたまつたもの」であつたには違ひない。
然しそれとともに漱石の創作に對する興味を湧き立たせなかつたものは、當時絕えず漱石につき纏つて離れなかつた、孤獨感ではなかつたかと思はれる。漱石の孤獨感の一半が、「長生は無論かうやつて生きてゐてもまあ癈人のやうなものである」と感じなければならなかつた、漱石の健康狀態から來てゐるものである事は、言ふまでもない。
然しその一半は、もしくはその大半は、漱石が自分以外の人間との交涉から體驗した、心理的事實に基づいてゐるのである。
大正元年十月十二日、漱石が『行人』を書き出す凡そ二タ月前、漱石は阿部次郞に宛てて、「拜復葉書をありがたう門が出たときから今日迄誰も何もいつて吳れるものは一人もありませんでした。私は近頃孤獨といふ事に慣れて藝術上の同情を受けないでもどうか斯うか暮らして行けるやうになりました。從つて自分の作物に對して賞贊の聲などは全く豫期して居ません。然し『門』の一部分が貴方に讀まれてさうして真方を動かしたといふ事を貴方の口から聞くと嬉しい滿足が湧いて出ます。私は此滿足に對して貴方に感謝しなければ義理が惡いと思ひます。私は私が喜んであなたのアツプリシエーシヨンを受けた事を明言する爲に此手紙を書きます。/「彼岸過迄」はまだ二三部殘つてゐます。もし讀んで下さるなら一部小包で送つて上げます。夫とも忙しくて夫所でなければ差控ます。虛に乘じて君の同情を食ぼるやうな我儘を起して今度の作物の上にも四同樣の鹽賞を强ひる故意とらしき行爲を避けるためわざと伺ふのです。」と書いてゐる。
同じ年の十二月四日、『行人』が新聞に載り出す二日前、漱石は津田靑楓に宛てて、「此間あなたの知らない人が來てあなたと齋藤與里君とを並べてあれで氣が合ふだらうかと聞きましたから私は其人にとても合ふまいと答へました。其終りに藝術家といふものは孤獨なものだと云つて聞かせました。藝術家が孤獨に安んぜられる程の度胸があつたら定めて愉快だらうと思ひますあなたはさう思ひませんか。/私の小說を讀んで下さるのは難有いどうか愛想を盡かさずに讀ん行で下さい。私は孤獨に安んじたい。然し一人でも味方のある方がまだ愉快です。人間がまだ夫程人純乎たる藝術〔家〕氣質になれないからでせう」と言つてゐる。
同じ年の十二月二十六日沼波武夫宛の手紙の中には、「大兄は自己を孤立と仰せられ候が孤立の意味はよく承知致居候小生もあなたに劣らぬ孤立ものに候」とある。大正二年三月二十二日戶川秋骨宛の手紙の中にも、「小說御讀み下さる丈にても難有き仕合せことに今回はことの外の御賞美にあづかり嬉しき限に候近來は自分の書いたものを朝新聞で讀んで自分で滿足か不滿足を感ずる丈にて天下に味方は一人もなき心持に候へどもつゞまり相つかず不得已每朝筆を運び居候次第御ほめにて恐縮致候」とある。
漱石は當時、自分の健康を初めとして、自分の持つてゐたものは悉く失つてしまひ、「天下に味方は一人もなき」空冷な世界の中に坐つて、その寒さとその寂しさとを乘り越さう乘り越さうと努めながら、どうしてもそれを乘り越す事の出來ない、痛ましい狀態にゐたのである。漱石が昔のやうな心勇みをもつて、創作に從事する事の出來る譯がない。勿論漱石は、自分が自分を卑しくして、媚を他人に呈しさへすれば、忽にして自分の周圍は賑やかになる事を知つてゐた。
然し「虛に乘じて君の同情を貪ぼるやうな我儘を起して今度の作物の上にも同樣の鑒賞を强ひる故意とらしき行爲を避けるため」わざと『彼岸過迄』を送らずに、まづそれを讀むか譲まないかを訊いた上の事にしようとするほど、その方面では神經質に、他人に求める事をしまいとした漱石は、自分の威嚴の爲にも、自分の見識の爲にも、決して自分の身を落す事を肯んじなかつた。
從つて漱石の孤高は、ますます孤高にならざるを得なかつた。然し是は單に漱石の、自分の作物への味方に對する態度のみではなかつたのである。漱石は自分の妻子に對しても、自分の朋友に對しても、亦自分の弟子たちに對しても― ひつくるめて漱石の、自分以外の世界に對する態度が亦、實にさうだつたのである。それだけに漱石の寂しさは、もし自分の矜持が許しさへするならば、叫びをあげたい位な、底ぬけの寂しさであつた。 ― さういふ時期に書かれたものが、卽ちこの『行人』である。
漱石は『彼岸過迄』の中で、「内へとぐろを捲き込む性質」の須永の、千代子に對する不思議な戀愛を描いて、自分の中の厭な「執濃い油繪」のやうな性質の中へ解剖のメスを加へた。『行人』で漱石は、同じやうな性質を持つてゐる一郞の、お直に對する不思議な戀愛を描いて、再び自分の中の厭な「執濃い油繪」のやうな性質の中へ解剖のメスを加へようとする。それとともに漱石は此所で、なんでも言へる二郞の前に、もしくはなんでも言へるHさんの前に一郞を置いて、郞の體驗を通して、自分の孤高の正しさと、並びに自分の孤高の寒さとの、叫び聲を上げるのである。
『彼岸過迄』の問題は『行人』に來て、更に直接な形にひき直され、更に深みへ掘り下げられる。須永は大學を出た計りの靑年である。一郎は大學の教授として、妻子のある、相當の年配の紳士である。さういふ主人公行の外面的な條件だけから言つても、漱石の『行人』の主人公に對する關係は、ほぼ想像し得られる。
然し漱石が此所で自分自身の體驗を、いくら直接に取り扱はうとしたからと言つて、それが漱石自身をそのまま露骨に表現しようとしたものでない事は、言ふまでもない。その上漱石は、いくら自分自身の體驗を一郞の世界の中に盛り込むと言つて、例へばストリンドベリの『父』の場合のやうに、一つの立場だけに立つて自分の言ひたい事を言ひさへすれば、外の人物はどうなつても構はないといふほど、それほど得手勝手な、言はば暴君的な立場に立つ事を潔しとしない、作家であつた。
『行人』に卽して言へば、漱石は無論一郞の立場に立つてゐるには違ひないが、然し一郞の立場だけに立つて、一郎の言つたりしたりする事なら、どんな事でも正しいとするやうな、一郞に身最屓をする、婦女子の態度を決してとらなかつた。漱石は一郞の立場とともに、外の人の立場にも立つて、一郞を外から眺める。同じやうに漱石は一郞の立場に立つてお直を觀察するが、それとともに漱石は、二郞の立場に立つてもお直を觀察する。父や母やお重の立場に立つてもお直を觀察する。
從つて漱石は、主として一郞の立場に立つて『行人』をかいて行つてゐるのではあるが、言はば一郞を衆人環視の中に置いて、さうして一郞の立場に立つて書いてゐるのである。勿論その衆人の中には、いろんな理解の段階が存在する。岡田の段階よりも父母の段階の方が高いのかも知れないし、父母の段階よりもお直の段階の方が高いのかも知れない。またお直の段階よりも二郞の段階の方が高いに違ひないし、二郞の段階よりもHさんの段階の方が更に高いに違ひない。
さういふ理解の段階の多くの層の中を潛つて、『行人』の世界の中で、.孤孤に聳え立つてゐるのがその長所と短所とを持つた、一郞の姿である。一方から言へば漱石は此所で、一郞が周圍の者から體驗させられる所のものと、周圍の者が一郞から體驗させられる所のものとを、一諸に公平に描き出して、どつちにでも同情しろと、人人の前に投げ出してゐるのだと言つても可いかも知れない。
『行人』の第一囘に手を著けた時、漱石は「强ひて複雜なものを鮮やかにまとめんとする無駄骨折」の爲にぐづぐづしてゐるのだと言つてゐたが、然しそれは決して「無駄骨折」ではなかつた。是ほど複雜なものを是ほど複雜なままに鮮やかに纏め得た、漱石の手際は、驚嘆に値ひする。
殊に最後に附け加へられた『塵勞』の如きは、それによつて、『行人』のパースペクティヴがぐいと廣いものになり、一郞のお直に對する疑惑が、ありふれた家庭悲劇の域を脫して、特殊のままで普遍に繫がり、『行人』の問題が一般「人間」の問題にまで高められ、且つ深められ、從つて『行人』は『塵勞』によつて、更に驚くべく見事に、點晴されるのである。
『行人』の一郞は、妻のお直を愛してゐる。然しお直は、一郞が要求してゐるやうには、一郞に愛を返さない。それが一郞を不安にする。―『行人』の主題は此所から發展する。一郞は或人·行時はお直を、技巧の塊りのやうに考へる。また或時は不親切や殘酷心そのものの權化のやうに考へる。また或時はお直は自分を愚弄する爲に、自分の傍についてゐるのではないかと疑ふ。また或時は、是は結局お直が外に愛する男を持つてゐる爲ではないかとさへ邪推する。
然しさう考へもしくはさう感じて見ても、一方ではそれとは丸で反對な、自然な、親切な、忠實な、誠實なお直も亦、卒然として一郎の前にその姿を現はす事がなくもないのである。一郞はお直を、一途に愛する譯にも行かない。また一途にお直を憎む事〓出來ない。二郞はお直を評して、「嫂は何處から何う押しても押し樣のない女であつた。此方が積極的に進むと丸で暖簾の樣に抵抗がなかつた。仕方なしに此方が引き込むと、突然變な所へ强い力を見せた。其力の中には到底も寄り付けさうにない恐ろしいものもあつた。又は是なら相手に出來るから進まうかと思つて、まだ進みかねてゐる中に、弗と消えて仕舞ふのもあつた。自分は彼女と話してゐる間始終彼女から翻弄されつゝある樣な心持がした。
不思議な事に、其翻弄される心持が、自分に取て不愉快であるべき筈だのに、却て愉快でならなかつた。」と言つてゐる。然しそれと同じ事を一郞が感じたとしても、郞は二郞のやうに「始終彼女から翻弄されつゝある樣な心持」を、「愉快でならな」いと感じてゐる事は出來なかつた。さういふ戯れを享樂する爲には、一郞はあまりに眞面目であつた。またあまりに自己の優越を意識してゐた。
最後にあまりに相手の魂を摑んで生きたがつてゐた。從つて二郞にとつて「愉快でならな」い事は、そのままで一郞にとつては、不「愉快でならな」しませんあつた。それは結局相手を捕まへる、コンスタントな把手がないといふ事だからである。一郞は、一郞自身の言葉を借りれば、「現在自分の眼前に居て、最も親しかるべき筈の人、其人の心を研究しなければ、居ても立つても居られないといふやうな必要に迫られて、お直の正體を掴まうとしてゐるのである。
然もそのお直が、お直の中に、コンスタントな把手を持つてゐなかつたとすれば、一郞はその正體を摑まうにも摑みやうはなく、結局一郎の頭は、空廻りをする蒸汽機關のやうに、仕舞ひには自ら火を發して、自分で自分を破壞するより仕方がないに違ひない。
然し自分の妻君にコンスタントな把手がないといふ事、もしくは自分の妻君には、未成年者のやうに「性格」がないといふ事を認め、もしくは斷定するといふ事は、妻君を愛する、もしくは妻君を通して교관を愛する一郞にとつて、到底堪へ得られる事でなかつた。
一郞にとつて、謂はれなく相手を輕蔑するといふ事は、やがて謂はれなく自分自身を輕蔑するといふ事である。一郞は、誠實に相手を尊敬し、相手を自分と同じレベルに立つものとして、誠質に相手の言動から、その言動の奥に一貫してゐるものを捕捉しようとする。相手の言動に一貫するものがなければないほど、一郞はなほその奥に潛り入つて、其所にその一貫しないものを一貫させてゐる、何物かを突き留めようとする。
然しいくら奥の方に潛り入つても、其所にはなんにもなかつた。是行と言つて捕まへられる、しかとしたものが一つもなかつた。一郞は失望する。同時に一郞は憤怒人する。さうして一郞は、「向ふでわざと考へさせるやうに仕向けて來るんだ。已の考へ慣れた頭を逆に利用して。何うしても馬鹿にさせて呉れないんだ」と、吐き出すやうに言ふ。さうして竟に「おれが靈も魂も所謂スビリツトも攫まない女と結婚してゐる事丈は慥だ」といふやうな、悲しい認識に到達せざるを得なくなる。
然も一郞はお直を、「靈も魂も所謂スビリツトも」何も持つてない、ただ肉體だけを持つてゐる女であるといふ風に、マテリアリスティックに見縫つてしまふ事には、到底堪へる事が出來ないのである。
二郞は嫂の事を、「自分の見た彼女は決して溫かい女ではなかつた。けれども相手から熱を與へると、溫め得る女であつた。持つて生れた天然の愛嬌のない代りには、此方の手加減で隨分愛嬌を搾り出す事の出來る女であつた。自分は腹の立つ程の冷淡さを嫁入後の彼女に見出した事が時々あつた。けれども矯め難い不親切や殘酷心はまさかにあるまいと信じてゐた。」と評した。
一郞もお直に就いて、同じやうな事を感じてゐたのかも知れない。然し第一に一郞には、相手を「溫め得る」爲に、自分の方から「熱を與べる」事の出來ない天性があつた。その爲には一郞は、あまりに自分自身に熱をほしがりすぎた。その上一郞は、相手から「愛嬌を搾り出す」爲に、自分で、「手加減」をする事の出來ない人間であつた。「己は自分の子供を絞成(あや)す事が出來ないばかりぢやない。自分の父や母でさへ綾成す技巧を持つてゐない。それ所か肝心のわが妻さへ何うしたら綾成せるか未だに分別が付かないんだ。此年になる迄學問をした御蔭で、そんな技巧は覺える餘暇がなかつた。「二郞、ある技巧は、人生を幸福にする爲に、何うしても必要と見えるね」と、一郞は言つてゐる。
「手加減」をするとは、もしくは「綾成す」とは、自分が相手と同じレベルの上に立つといふ事である。高い所に立つてゐる人から言へば、自分を低い所へ下ろすといふ事である。自分の調子を下ろすといふ事である。一郎はそれほど相手を輕蔑する事を欲しないとともに、自分を低くする事を欲しなかつた。もし相手が自分よりも低い所に立つてゐるものならば、相手こそ自分の方へ近づいて來べきで、自分が相手の方へ近づくべきではないと考へてゐるのが、一郞である。
Hさんの手紙の中には、「兄さんは銳敏な人です。美的にも倫理的にも、智的にも銳敏過ぎて、つまり自分を苦しめに生れて來たやうな結果に陷つてゐます。兄さんには甲でも乙でも構はないといふ鈍な所がありません。必ず甲か乙かの何方かでなくては承知出來ないのです。しかし其甲なら甲の形なり程度なり色合なりが、ぴたりと兄さんの思ふ坪に嵌らなければ肯がはないのです。兄さんは自分が銳敏な丈に、自分の斯うと思つた針金の樣に際どい線の上を渡つて生活の步を進めて行きます。其代り相手も同じ際どい針金の上を、踏み外さずに進んで來て吳れなければ我慢しないのです。然し是が兄さんの我儘から來ると思ふと間違ひです。兄さんの豫期行通りに兄さんに向つて働き懸ける世の中を想像して見ると、それは今の世の中より遙に進んだものでなければなりません。從つて兄さんは美的にも智的にも乃至倫理的にも自分程進んでゐない世の中を忌むのです。」と書いである。さうしてHさんは、「天賦の能力と教養の工夫とで漸く銳くなつた」一郞の眼を、「たゞ落付を與へる目的のために、再び昧(くら)くしなければならないといふ事」に、果してどれだけの意義があるか、よし意義があるとしても、それが人間として出來る事であるかどうかと、疑つてゐる。
まして當の一郞は無論、自分は自分のあるがままの立場に立つてゐて、お直の方から自分の方へ近づいて來るこそ、當然であると思つてゐるのである。お直が自分の妻である以上、假令お直が現在は低い所にゐるとしても、渾身の勇を奮つて、自分の高みへ近づかうとするこそ、妻たるべき道であると思つてゐるのである。然しお直にとつて、一郞のこの世界とこの要求とは、到底理解出來ない種類のものであつた。お直はいつまでも、自分が持つて生れたままの考へ方と感じ方とをもつて、一郞に對してゐる。一郞の世界と一郞の要求とが理解出來ないお直には、從つて、自分の何所が何う氣に入らない爲に、いつも所天(※仰ぎ慕う人、ここでは一郎)が自分に對してあんな不機嫌でゐるのか、到底了解する事が出來ない。お直は恐らく、一郞の機嫌の惡いのは、普通の意味で、自分が所天の氣に入らない―例へば相性が惡くて所天の氣に入らないのだとしか、考へてゐないに違ひないのである。
お直は恐らく、自ら省みて疚しい所は、一つも持つてゐない。だから二郞から「兄さんに丈はもう少し氣を付けて親切にして上げて下さい」と言はれても、お直は、或は「妾そんなに兄さんに不親切に見えて。是でも出來る丈の事は兄さんに爲て上てる積よ。······」と言つたり、或は「······妾馬鹿で氣が付かないから、みんなから冷淡と思はれてゐるかも知れないけれど、是で全く出來る丈の事を兄さんに對してしてゐる氣なんですもの。― 妾や本當に腑拔なのよ。ことに近頃は魂の拔殼になつちまつたんだから」と言つたり、或は「妾のやうな魂の拔殼はさぞ兄さんにはお氣に入らないでせう。然し私は是で滿足です。是で澤山です。兄さんについて今迄何の不足を誰にも云つた事はない積です。其位の事は二郞さんも大抵見てゐて解りさうなもんだのに······」と言つたりするやうな、普通の氣むづかしい所天を持つた、普通の妻君のやうな返事しかしないのである。
同じやうにお直は、所天の氣むづかしさが愈昂じて、一郞の味方である筈の母親やお重までが、どうもこのごろは少し變だと言ふやうになつた時でも、二郞に向つて、「男は厭になりさへすれば二郞さん見たいに何處へでも飛んで行けるけれども、女は左右は行きませんから。妾なんか丁度親の手で植付けられた鉢植のやうなもので一遍植られたが最後、誰か來て動かして吳れない以上、とても動けやしません。凝としてゐる丈です。立枯になる迄凝としてゐるより仕方がないんですもの」といふより外、言ひやうがないのである。
勿論お直は、普通在り來りの女であるとしてしまふには、思ひ切つて飛び離れた點も持つてゐるやうである。二郞の言ふ所によれば、「彼女は男子さへ超越する事の出來ないあるものを嫁に來た其日から既に超越してゐた。或は彼女には始めから超越すべき牆も壁もなかつた。始めから因はれない自由な女であつた。
彼女の今迄の行動は何物にも拘泥しない天眞の發現に過ぎなかつた。/或時は又彼女が凡てを胸のうちに疊み込んで、容易に已を露出しない所謂しつかりものゝ如く自分の眼に映じた。さうした意味から見ると、彼女は有り觸れたしつかりものゝ域を遙に通り越してゐた。あの落付、あの品位、あの寡默、誰が評しても彼女はしつかりし過ぎたものに違ひなかつた。驚くべく圖々しいものでもあつた。/或刹那には彼女は忍耐の權化の如く、自分の前に立つた。さうして其忍耐には苦痛の痕迹さへ認められない氣高ざが潜んでゐた。彼女は眉をひそめる代りに徵笑した。泣き伏す代りに端然と坐つた。恰も其坐つてゐる席の下からわが足の腐れ·るのを待つかの如くに。要するに彼女の忍耐は、忍耐といふ意味を通り越して、殆んど彼女の自然に近い或物であつた。」のださうである。-二郞はどつちかと言へば、嫂の味方である。少くとも嫂の同情者である。それだけ二郞の見方は、お直をよりよく、より英雄的に見ようとする傾向もないではないが、然し恐らくお直には、さういふ所があつたのであらう。
『行人』の中に描き出されたお直の言動から見ても、お直はこの二郎の想像に牴觸する何ものをも見せてゐない。然も二郞がさう思ひ、讀者がそれに別に反對しないとすれば、それはまた同時に一郞の見る所ででもあつた筈だから、假令是ほどではないまでも、一郞がお直をかういふ風にも見てゐたに違ひない事は、十分想像され得る所である。然もお直をかういふ風に見る見方が、一郞の頭の中にも存在してゐるといふ事は、やがて一郞にお直を、單なる在り來りの女として見る事を妨げ、寧ろお直を普通以上に、物に動じる事のない、或意味から言へば手のつけやうのない、また或意味から言へば怖るべき存在として、何か長怖に近い念を持つて取り扱ふ事を餘儀なくする、根本の理由となるものに外ならなかつた。
Hさんと一諸に旅に出て、一郞はHさんに、自分がお直に手を當てた時の事を話し、「一度打つても落付いてゐる。二度打つても落付いてゐる。三度目には抵抗するだらうと思つたが、矢つ張り逆らはない。僕が打てば打つほど向はレデーらしくなる。そのために僕は益無賴漢扱ひにされなくては濟まなくなる。僕は自分の人格の墮落を證明するために、怒を小羊の上に洩らすと同じ事だ。夫の怒を利用して、自分の優越に誇らうとする相手は殘酷ぢやないか。君.女は腕力に訴へる男より遙に殘酷なものだよ。僕は何故女が僕に打たれた時、起つて抵抗して呉れなかつたと思ふ。抵抗しないでも好いから、何故一言でも云ひ爭つて呉れなかつたと思ふ。」と、その時自分が經驗した特殊な心持を告白してゐるが、是など最もよく二郞の觀察が一郞によつても繼承されてゐる事を證明するものであると思ふ。一郞はこの場合、自分の力行ではどうする事も出來ないもの、また自分の頭ではどう理解する事も出來ないもの、何か鐵の壁のやうなものに突き當つたやうに感じなければゐられなかつたのである。
一郞は苦しんで苦しんで苦しみ拔いた揚句、どうにもその苦しさの遺り場がなくなつて、お直に手を當てる。手を當てるとともに一郞は、自分で自分の人格の墮落に氣がついて、その爲め更に別の苦苦しい心持を經驗する。その際お直が泰然としてゐればゐるほど、一郞は、自分をして相手に手を當てるの巳むを得ざるに至らしめた者はお直その人であるにも拘はらず、卽ち非はお直にあるのにも拘はらず、反つて非は自分にあると思はなければゐられなくなつてしまふのが、どう考へても堪らないのである。然もそれらのあらゆる苦苦しい經驗をさせるものは、所詮はお直に外ならないのだから、一郞は自然お直を恐るべき且つ憎むべき存在と考へない譯には行かないのである。
その點で『行人』の悲劇は、別世界に屬する、もしくは人種の違ふ二人の人間が、偶然夫婦になつた點にあるといふ事が出來る。普通の男が自分の妻君に手を當てる場合、男は假令手を當てる事その事が自分の人格を堕落せしめる所以であるとまでは感じても、それは相手が惡いのだから已むを得ないと思ひ返すだらう。然し一郞には、どうしてもさうは思ひ返せないのである。のみならず一郞は、相手が「忍耐の權化の如く」「眉をひそめる代りに微笑し」「泣き伏す代りに端然と坐つ」て、自分の腕力の荒れ狂ふのを受けとる場合には、どうしても相手は「レデー」で、自分は「無賴漢」であるとしか思へないのである。
然もお直の方では、所天がどういふ氣持で自分に手を當て、手を當てた上で更にどういふ氣持になつてゐるかなどといふ事は、少しも考へる事がなく、暴君の所天に苛まれる貞女かなぞのやうに、男の狂氣に殉難する氣になつて、寧ろ端然としてその折檻を受けるのである。すると一郞はそれをお直が自分を愚弄する爲に、わざわざ自分を怒らせ、わざわざ自分に暴力を用ひさせたのだと、解釋するのである。然しもし此所で一郞を愚弄するものがあるとすれば、寧ろそれは一郞とお直とを夫婦にした運命であつて、決してお直ではなかつた。よしお直が愚弄したやうな形になつてゐるとしても、それは運命がお直を借りて、一郞を愚弄したのである。お直が自分を愚弄すると考へる所に、一郞の銳さがあつた。然し一郞がさう考へる所に、强ひて言へば、一郞の運命の認識に關する― もしくは人間の認識に關する不足があつた。
Hさんの言ふやうに、一郞は「自分が銳敏な丈に、自分の斯うと思つた針金の樣に際どい線の上を渡つて生活の步を進めて行」く「代り相手も同じ際どい針金の上を、踏み外さずに進んで來て吳れなければ我慢」が出來ない。卽ち一郞は、他人も自分の通りに動かなければ氣が濟まない。
一郞には、かういふ場合自分ならかうするといふ、動き方に對するはつきりした意見があり、また自分なら正にその意見通り實行して見せるといふはつきりした確信があるのである。從つて一郞は、相手がその通りに動かない場合、相手はさうは動けない人種である行といふ事を認める代りに、相手は自分を愚弄すると思つたり、自分を陷奔にかけると思つたりしなければゐられないのである。勿論それはHさんの言ふ通り、一郞の「我儘から來る」ものではなく、また世の中が一郞の豫期通りになるとすれば、その世の中は「今の世の中より遙に進んだものでなければな」らないには違ひなかつた。然し一郞のその要求が、人種の違ふ人間に對する要求としては、あまりに過大大あつた事は爭はれなかつた。
然も一郞は、そのあまりに過大な要求を抱いて、父に對し母に對し、弟に對し妻に對し、世の中に對した結果、「死ぬか、氣が違ふか、夫でなければ宗教に入るか。僕の前途には此三つのものしかない」といふ、ぎりぎりの所まで押し詰められて行くのである。
大正二年七月十八日漱石は中村蓊へ宛てて、「拜復/からについての御手紙拜見致候實は先達より何人にも沒交渉にてしかも小生には大いに必要な事のために頭を使ひ居り夫がため人のためには一切何事をなすの勇氣も餘裕も無之「から」の事も存じながらつい其儘に相成居候。行人の原稿などは人の事にあらず自分の義務としてもまづ第一に何とか片付べきを矢張まだ書き終らざるにてもしか御承知願上度候勿論社會とも家族とも誰とも直接には關係なき事柄故他人から見れば馬鹿もしくは氣狂に候へども小生の生活には是非共必要に候。それに何とか區切をつけぬうちは中中カラ處の騷でなく全く不人情な話ながらカラ抔はどうでもよく(小生には)相成居候。貴兄よりは怪しからぬ次第なれど小生には當然の事と覺召し被下度候」と書いてゐる。當時それほどまでに解決を迫つた問題が、どういふ問題であるか、はつきりした事は分からない。
然し『行人』の『歸つてから』までに描き出されてゐる一郞の內面生活の事を考へ、、且つ漱石が大正二年九月一日沼波武夫に宛てて書いた、「啓始めて確信し得た全實在は頂戴した其日に讀みました私は何より先にあなたの意氣とあなたの心持とに感服致しました近頃は小說も評論もいくらでも出ます然しあゝいふ方面の事はだれも考へてゐません、所があゝいふ方面の事は窮所迄行くと是非共必要になつて來ます人の事ではないみんな自分の頭の上の事です私はあゝいふ意味の事で切實Eな必要を感じつゝいまだ未程の地に迷つてゐますどうかしなくてはならないがどうもなりません平生斯うだと思ひ詰めた事もいざとなるとがらりと顕覆します、全く定力が足りないからだと思ひます」といふ手紙の內容に就いて考へ、更に同じ年の十月五日漱石が和辻哲郞に與へた手紙の中の、「私は今道に入らうと心掛けてゐます。たとひ漠然たる言葉にせよ道に入らうと心掛けるものは冷淡ではありません、冷淡で道に入れるものはありません。」といふ言葉を考へ、最後に『塵勞』に於いて一郞が求めてゐるものの方向を考へて見るならば、その「何人にも沒交渉にてしかも小生には大いに必要な事」もしくは「社會とも家族とも誰とも直接には關係なき事柄故他人から見れば馬鹿もしくは氣狂に候へども小生の生活には是非共必要」で「それに何とか區切を行つけぬうちは」何事も手につかないといふ事が、漱石の、心の轉向を意味するものであつたに違ひない事は、誰にでも凡そ想像のつく事ではないかと思ふ。漱石は『彼岸過迄』で、「一つ刺戟を受けると、其刺戟が夫から夫へと廻轉して、段々深く細かく心の奥に喰ひ込んで行く。
さうして何處迄喰ひ込んで行つても際限を知らない同じ作用が連續して、彼を苦しめる。仕舞には何うかして此內面の活動から遁れたいと祈る位に氣を惱ますのだけれども、自分の力では如何ともすべからざる呪ひの如くに引つ張られて行く。さうして何時か此努力の爲に斃れなければならない、たつた一人で斃れなければならないといふ怖れを抱くやうになる。さうして「氣狂の樣に疲れる。」といふ須永を描いたが、『行人』に來て漱石は、それと同じ心の傾向を、もつとぎりぎりの所まで、押し詰める。然もそれをぎりぎりの所まで押し詰めれば押し詰めるほど、漱石は自分でも足掻きがつかなくなり、どうにかするのでなければ、それこそ『塵勞』の一郞のやうに、「死ぬか、氣が違ふか、夫でなければ宗教に入るか。僕の前途には此三つのものしかない」といふ、「窮所」に來たのに違ひないのである。
從つて漱石は「他人から見れば馬鹿もしくは氣狂」に相違ないが、然し自分の生活にとつては「是非共必要」な、「それに何とか區切をつけぬうちは」何事も手につかない狀態に置かれたのに相違ないのである。然も「私は今道に入らうと心掛けてゐます。」といふ言葉は、漱石がその「是非共必要」な「それに何とか區切をつけぬうちは」何事も手につかない狀態から脫却して、もしくはその「窮所」から拔け出す事の出來る希望を、自分自身に持ち得たといふ事を證明するものと見て、差支ないに違ひない。― 然も『塵勞』で一郞が、その境地に這入りたいと切に庶幾してゐる所のものは、「絕對」の境地であつた。Hさんの報告する所によれば、一郞の考へてゐる絕對の境地とは「純粹に心の落ち付きを得た人は、求めないでも自然に此境地に入れるべきだと云ひます。一度此境界に入れば天地も萬有も、凡ての對象といふものが悉くなくなつて、唯自分丈が存在するのだと云ひます。さうして其時の自分は有とも無いとも片の付かないものだと云びます。偉大なやうな又徵細なやうなものだと云ひます。何とも名の付け樣のないものだと云ひます。卽ち絕對だと云ひます。さうして其絕對を經驗してゐる人が、俄然として半鐘の音を聞くとすると、其半鐘の音は卽ち自分だといふのです。言葉を換へて同じ意味を表はすと、絕對卽相對になるのだといふのです、從つて自分以外に物をひ置き他を作つて、苦しむ必要がなくなるし、又苦しめられる掛念も起らないのだ」さうである。
さうして一郞はそれに附け加へて、「根本義は死んでも生きても同じ事にならなければ、何うしても安心は得られない。すべからく現代を超越すべしといつた才人は兎に角、僕は是非共生死を超越しなければ駄目だと思ふ」と、「殆んど齒を喰ひしばる勢で」、言つたのだといふ。
勿論『行人』の一郞はまだこの境地に這入れてゐない。一郞はHさんに向つて「君のやうな重厚な人間から見行たら僕は如何にも輕薄な御喋舌に違ない。然し僕は是でも口で云ふ事を實行したがつてゐるんだ。實行しなければならないと朝晩考へ續けに考へてゐるんだ。實行しなければ生きてゐられないと遠思ひ詰めてゐるんだ」と言つてゐる。然し漱石が是だけの事を書き得る爲には、しかも、漱石が旣に人に向かつて、自分は今「道に入らうと」してゐるのだと明言してゐる以上は、漱石の「道」は、假令漱石が言葉でははつきり表現する事が出來なかつたとしても、少くとも漱石の前に、一郞の場合よりも、もつとはつきりした姿をもつて、現前してゐるものと考へなければならない。
さうして一郞と同じやうに、自分以外に一部といふものを立てる事を欲しなかつた漱石が、這入つて行かうとした「道」は、一口に言へば、禪の悟のやうなものらしく見えるのである。漱石が夙(つと)に禪の世界に關心を持つてゐたといふ事は、旣に『門』の解說で述べた。『門』のみではない。旣に漱石は『猫』の中ででも、諧謔の形に包んではゐるが、その事に繰り返し觸れてもゐる。
例へば漱石が『猫』第九で引用した澤菴禪師の『不動智神妙錄』の一節、「心を何處に置かうぞ。敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるゝなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取らるゝなり。敵を切らんと思ふ所に心を置けば、敵を切らんと思ふ所に心を取らるゝなり。我太刀に心を置けば、我太刀に心を取らるゝなり。われ切られじと思ふ所に心を置けば、切られじと思ふ所に心を取らるゝなり。人の構に心を置けば、人の構に心を取らるゝなり。鬼角心の置所はない」といふやうなのは、最も明白にその事を證明するものである。
然も澤菴禪師は其所で「我が心を兎角餘所へやれば、心の行所に心を取止めて敵に負るほどに、我が心を臍の下に押込めて餘所にやらずして、敵の働により轉化せよ」と言つた或人の說に對して、さういふ事を言ふのは、まだ「修行稽古の時の位」に過ぎない、「臍の下に押込んで餘所へやるまじきとすれば、やるまじと思ふ心に心を取られて先の用かけ、殊の外不自由になる」ものである。それよりも自分は心を何處にも置くなと言ふ。「何處にも置かねば、我身一パイに行きわたりて、全體に延びひろごりて······其の入る所々の用を叶ふるなり」、「萬一もし一所に定めて心を置くならば、一所に取られて用は缺くべきなり。思案すれば思案に取らるゝ程に、思案をも分別をも殘さず、心をば總身に捨て置き、所々止めずして其所々に在て用を外さず叶ふべし」、「總身に渡つてあれば、手の入る時には手にある心を遣ふべし、足の入る時には足にある心を遣ふべし、所所定めて置きたらば、其の置きたる所より引出し遣らんとする程に、其の處に止て用が拔け申し候。心を繫ぎ猫のやうにして餘處にやるまいとて、我が身に引止めて置けば、我が身に心を取らるゝなり。身の內に捨て置けば、餘處へは行かぬものなり。唯だ一所に止めぬ工夫是れ皆修行なり。心をばどつこにも止めぬが、眼なり肝要なり。どつこにも置かねば、どつこにもあるぞ。心を外へやりたる時も、心を一方に置けば、九方は缺くるなり。心を一方に置かざれば十方にあるぞ」行と言つてゐる。
一郞がHさんに話した「絕對」の境地は、抽象的でよく分からない。然し澤菴禪師のこの言葉を仲介にすれば、いくらかは具體的に呑み込めて來るやうな氣もする。香嚴の體驗を例に引いて、一郞が「一撃にして所知を亡ふ」歡びを切に體驗したがつたのも、この澤菴禪師の「心をばどつこにも止め」ないでゐられる世界の獲得に、一郞が一途に憧がれてゐる事を、示してゐるのに違ひないのである。
漱石は、明治四十一二年のころ熱心に讀んでゐた『禪門法語集』の中の、鈴木正三の『麓草分』漱石は「一切ヲ放下ストハpreservation of selfナル根本義ヲ滅スルノ謂ナリ。心ハの端に、心ハ不死不生ナリ。故ニ8219 Bon,ニアラズ。故にselfハpreserveスル必要ナシト觀ズルナリ。ハpreserveスルニ及バズト云フナリ。○selfヲpreserveスルニ及バザル故ニ凡メ苦悶ガ消滅スルナリ。selfヲpreserveスルニ及バザル如ク之ヲdestroyスル必要モナキ故緣ニ從ツテ生存スルナリ。七情の去來ハ去來ニ任セテ顧ミザルナリ。心ノ本体ニ關係ナキ故ニ可モ不可モナキナリ。心ノ用ハ現象世界ニヨツテアラハル。其アラハレ方ガ電光モ石火モ及バヌ程に早キナリ。心ノ体ト用トノ移リ際ノ働ヲ機ト云フナリ。「オイ」ト呼バレテ「ハイ」ト返事ヲスル間ニ体ト用。が現前スルナリ。ソレガ不可思議ニ早イナリ。ダカラ考ヘテ居ル樣デハ分ラヌナリ。ソレガ考へズニ相應ズル〓ガ出來レバ以心傳心ニナル譯ナリ。/一タビ心ヲ知レバドウナツテモヨキナリ。此浮世デドウナツテモヨカラヌ善惡邪正數々ヲ守ル裡ニドウナツテモ構ハヌ度胸ガ出來上ルナリ。安樂ニナルナリ。カホドノ事は僧俗ニ限ラズ皆悟ルベキ筈ナリ。タヾ此境界に常住シテ活潑々地ノ活用ヲナスガ困難ナルナリ。此困難ヲ排セン爲メニ坐禪ノ修業ガ必要ナルナルベシ。シカラザレバ何ノ爲メニ打坐シ何ノ爲ニ悶々シ何ノ爲ニ苦慮スルヤヲ解スベカラズ。」と書き込んで(『別册』參照)ゐる。
また漱石は、恐らく大正四年の七月前後、卽ち『道草』執筆中に書かれたらしい『斷片』の中に、「〇心機一轉。外部の刺戟による。又内部の膠着力による。/〇一度絕對の境地に達して、又相對に首を出したものは容易に心機一轉が出來る/○屢絕對の境地に達するものは屢心機一轉する事を得/○自由に絕對の境地に入るものは自由に心機の一轉を得」と書いてゐる。是もどうやら「心をばどつこにも止め」ないでゐられる世界と、深い關係があるやうでああ。然も「心をばどつこにも止め」ないでゐられる世界とは、別な言葉で言へば、恐らくすべての事物に拘泥する事を止めて、何物にも役せられない自由な心を持ち得るといふ事、卽ちゲーテの所謂「人間がなし遂げ得る最高の功績」を意味するものであつたに違ひない。然も是は、言ふまでもなく、後に漱石によつて名づけられた、「則天去私」の世界の、本質を形づくるものである。
勿論漱石は『行人』では、さういふ「則天去私」の世界を說いたのではなかつた。反對に『行行-人』では、「則天去私」の世界の朗らかさは十分想像し得ても、飽まで事物に拘泥し、飽くまで自入分の私に執著しなければゐられない人間の、どうしてもその世界に這入る事の出來ない、痛ましい姿が描き出される。漱石は『禪門法語集』の扉の裏に、「禪家の要ハ大ナル疑ヲ起シテ我ハ是何我ハ是何物ト疑ツテ寢食ヲ廢スル者ハ西洋ニモアルベキ道物と日夕刻々討究スルニアルガ如シ。眞ニ逢着セシト欲スル者ハ皆多少此疑ヲ抱クガ故ニ求眞ノ念切實ナル泰西ノ學者ハ皆コ理ナリ。ヽニ懸命ナル精彩ヲ着スベキ筈ナリ。然ルニ希臘以來未ダ甞テ我ハ悟ツタト吹聽シタル者ヲキカズ。怪シムベシ。/要スルニ非常ニ疑深キ性質ニ生レタル者ニアラネバ悟レヌ者トアキラメルヨリ致方ナシ。從ツテ隻手ノ聲、栢樹子、麻三斤悉ク珍分漢ノ囈語ト見ルヨリ外ニ致シ方ナシ。珍重」と書いてゐるが、漱石の一尺には、積もり積もつて此所に來て、到頭その「窮所」に達したと言つていいのかも知れない。
さうしてその「窮所」を「窮所」として、それが爆發點にまで達する苦しさを、精刻に記錄に止めようとしたものが、この『行人』である。ただ『行人』の一郎は最後に、「嫁に行く前のお貞さんと、嫁に行つたあとのお貞さんとは丸で違づてゐる。今のお貞さんはもう夫の爲にスポイルされて仕舞つてゐる」と言ひ、「何んな人の所へ行かうと、嫁に行けば、女は夫のために邪になるのだ。さういふ僕が既に僕の妻を何の位惡くしたか分らない。自分が惡くした妻から、幸福を求めるのは押が强過ぎるぢやないか。幸福は嫁に行つて天眞を損はれた女からは要求出來るものぢやないよ」と言つてゐる。-是は『虞美人草』の甲野さんの言葉を想起させる。
然も是は、一郞にとつて、悲しい認識であつた。然しこの認識は、悲しいには悲しくても、それによつて一郞が初めて自分の轉向を可能にされる、認識であつた。のみならず、自分を非とするこの認識は、必然に次のことを呼び出す認識ででもあつたのである。(一一·一二·一六)
―『行人』といふ名前の由來と意味とに就いては、不幸にして私は、生前漱石の口から何も聽くを得なかつた。然し『列子』の『天瑞篇』には「晏子曰、善哉古之有死也。仁者息焉。不仁者伏焉。死也者。德之微也。古者謂死人爲歸人。夫言死人爲歸人。則生人爲行人矣。行而不知歸。失家也」とある。『行人』の行人は恐らくこの、歸人に對する行人の意味に違ひないと思ふ。
『行人』の中の一郞の言葉にも、「斯うして髭を生やしたり、洋服を着たり、シガーを衝へたりする所を上部から見ると、如何にも一人前の紳士らしいが、實際僕の心は宿なしの乞食見たやうに朝から晩迄うろうろしてゐる。二六時中不安に追ひ懸けられてゐる。情ない程落付けない。仕舞には世の中で自分程修養の出來てゐない氣の毒な人間はあるまいと思ふ。」と言つてゐる。一郞の最後の、お貞さんに關する言葉は、一郞の世界に新しい道が拓ける事を示唆するものであるには違ひないが、然し『行人』で主として取り扱はれてゐるものは、一郞の「失家」つて「行而不知歸」る「息」ひなき生活であつた。是は言ふまでもない。(一七·八·一三)
【出典】『漱石の芸術』小宮豊隆 著岩波書店 1942年
[付記]近代文学1.0の特徴について
近代文学2.0においては、例えば夏目漱石作品を読むということは、夏目漱石作品を読むということにほかならない。しかし近代文学1.0においてはほかなる。
その具体例をここしばらく眺めてきて、「本当にほかなるなあ」と感心してしまった。あちこちから色んな情報を持ってきて、深読みというより裏読みしようとする。単一モデル論で競い合うとか、実にくだらない。しかし私が否定している近代文学1.0の本質はむしろそういうところではない。どこからどんな情報を持ってきてもいいが、作品そのものを正しく読めているなら文句はない。①書いてあることを読まないで、②書かれていないことを付け足すのが駄目だと言っているのであって、作品の外側から持って来たものが、正しい読みに繋がっていれば文句はない。
そういう意味では小宮豊隆の解説は全体としてはかなり酷いが、部分的にはなかなか良い指摘をしている。かなり惜しいところまで伸びている論がある。そして残念な論がある。
残念な論は、繰り返しになるが、江藤淳、柄谷行人に引き継がれることになる「一郎の三択」という見立てである。これは本文を読んで貰えば即座に一択に絞られることになるので、典型的な「何に言っちゃってんの理論」ということになる。
死の数日後、韓氏は“ある行動”に出ていた。米ワシントン・ポストによれば、タッグを組んだ七男にこう伝えたというのだ。
— 週刊文春 (@shukan_bunshun) August 19, 2022
「私が神。唯一神だ――」 https://t.co/U0xhbHlusm
なかなか良い指摘には、「心をどこにもおかないこと」が求められていたという辺りであろうか。これでは無論形式的に「一郎の三択」と矛盾するが、「一郎の三択」自体が無用な議論なので、(気違いになる前に)「心をどこにもおかないこと」が求められていたという指摘はなかなか良い。しかし「どうかして香厳になりたい」と言っているのにわざわざ『猫』から澤菴禪師を持ち出してくるのはどうなのだろうか。Hさんは「どうかして香厳になりたい」≒「いっさいの重荷を卸して楽になりたい」と解釈しているが、漱石は「ヌーボ様式の淀見軒」のような「誤解」を多用するので、ここも実は定義が曖昧なのだ。Hさんが「どうかして香厳になりたい」≒「いっさいの重荷を卸して楽になりたい」と解釈しているのだから、他に解釈の余地はないだろうと立ち止まらないで、ちゃんと考えているのは偉い。
こう云った彼は、それ以後禅のぜの字も考えなくなったのです。善も投げ悪も投げ、父母の生れない先の姿も投げ、いっさいを放下し尽してしまったのです。それからある閑寂な所を選んで小さな庵を建てる気になりました。彼はそこにある草を芟りました。そこにある株を掘り起しました。地ならしをするために、そこにある石を取って除けました。するとその石の一つが竹藪にあたって戞然と鳴りました。彼はこの朗らかな響を聞いて、はっと悟ったそうです。そうして一撃に所知を亡うと云って喜んだといいます。(夏目漱石『行人』)
この「香厳撃竹」の話には二段階がある。一段目、これが「いっさいを放下」つまり「いっさいの重荷を卸して楽になりたい」だとして、二段階目の「一撃に所知を亡う」、これは「わだかりがなくなった」という程度のことでしょう。これを「楽になりたい」に留めてしまうと寧ろ意味が分からなくなるので、沢庵を借りてでも「一撃に所知を亡う」≒「心をどこにもおかないこと」と読むのは好い指摘だ。
全体的にかなり酷いというのは、まず当時漱石が体調不良で、いやいやながら書き、中断して、付け足しに「塵労」を書き、本来書こうとしてたものではなくなり、『心』で改めて仕切り直したという創作の経緯そのものを、作品そのものの絶対的な性格であるかのように物語っている点である。
このストーリーは抜かりなくすべての『行人』論に引き継がれ、なんなら一般の読者までが「塵労」に分裂を見出し、主人公一郎の三択を論じるようになってしまった。
しかしそのストーリーは『心』を書きはじめる当時の漱石が日記に何と書いていて、『明暗』の百八十八章がどう書かれているか確認してみれば、ある意味真っ当ではあるが言いがかりに過ぎないことが明かであろう。確かに『行人』執筆当時の漱石はボロボロであっただろうが、その事実を作品としての『行人』の絶対的な性格と見做すのならば、作品そのものの中から具体的な事実を拾わなくてはならない。
「天眼通ですね」
「天眼通じゃない、天鼻通と云って万事鼻で嗅ぎ分けるんだ」
「まるで犬見たいですね」
階子段の途中で始まったこの会話は、上り口の一番近くにある清子の部屋からもう聴き取れる距離にあった。津田は暗にそれを意識した。
「ついでに僕が関さんの室を嗅ぎ分けてやるから見ていろ」
彼は清子の室の前へ来て、ぱたりとスリッパーの音を止めた。(夏目漱石『明暗』)
これが百八十二章、そして、
「しかしあなたは今朝いつもの時間に起きなかったじゃありませんか」
清子はこの問をかけるや否や顔を上げた。
「あらどうしてそんな事を御承知なの」
「ちゃんと知ってるんです」
清子はちょっと津田を見た眼をすぐ下へ落した。そうして綺麗に剥いた林檎に刃を入れながら答えた。
「なるほどあなたは天眼通でなくって天鼻通ね。実際よく利くのね」
冗談とも諷刺とも真面目とも片のつかないこの一言の前に、津田は退避いだ。
清子はようやく剥き終った林檎を津田の前へ押しやった。
「あなたいかが」(夏目漱石『明暗』)
これが百八十七章である。「天鼻通」の文字は作中この二か所にしか出てこないので、津田の見立て通りに、清子が「天鼻通」という言葉を聞き取っていたという設定を四章跨いでつないだことになる。そして、
「僕が待ち伏せをしていたとでも思ってるんですか、冗談じゃない。いくら僕の鼻が万能だって、あなたの湯泉に入る時間まで分りゃしませんよ」
「なるほど、そりゃそうね」
清子の口にしたなるほどという言葉が、いかにもなるほどと合点したらしい調子を帯びているので、津田は思わず吹き出した。
「いったい何だって、そんな事を疑っていらっしゃるんです」
「そりゃ申し上げないだって、お解りになってるはずですわ」
「解りっこないじゃありませんか」
「じゃ解らないでも構わないわ。説明する必要のない事だから」
津田は仕方なしに側面から向った。
「それでは、僕が何のためにあなたを廊下の隅で待ち伏せていたんです。それを話して下さい」
「そりゃ話せないわ」
「そう遠慮しないでもいいから、是非話して下さい」
「遠慮じゃないのよ、話せないから話せないのよ」(夏目漱石『明暗』)
この百八十六章の津田のいかがわしさを「しかしあなたは今朝いつもの時間に起きなかったじゃありませんか」と語るに落ちる式で露呈させ、それを「天鼻通」で落とすという立体的な会話がぎりぎりまで続いている。これが死の直前の人の筆だろうかと、本当に信じられない。信じられないがこれが漱石作品なのである。
中断前の『行人』にも、次章に向けた物凄い仕掛けがある。
お重も来き、母も来る中に、嫂だけは、ついに一度も自分の室の火鉢に手を翳さなかった。彼女がわざと遠慮して自分を尋ねない主意は、自分にも好く呑み込めていた。自分が番町へ行ったとき、彼女は「二郎さんの下宿は高等下宿なんですってね。お室に立派な床があって、庭に好い梅が植えてあるって云う話じゃありませんか」と聞いた。しかし「今度拝見に行きますよ」とは云わなかった。自分も「見にいらっしゃい」とは云いかねた。もっとも彼女の口に上った梅は、どこかの畠から引っこ抜いて来て、そのままそこへ植えたとしか思われない無意味なものであった。(夏目漱石『行人』)
この仕掛けの物凄さに気が付いてみれば、「塵労」で断裂などとはとても言えないだろう。気が付いている人いるかな?
※「塵労」で嫂が二郎の下宿に来ることを云っているのではないですからね。或る一文字に気が付いているかどうかです。
