谷崎潤一郎の『肉塊』を読む さうなつたら己はおしまひだ
あのさ、谷崎君、君は私に喧嘩を売ってるの? いくらなんでもこれは酷くないかい?
凡そ世の中に、藝術家の素質を持ちながら而も藝術の才能のない人ほど、氣の毒な者はあるまい。その人は俗人の中にまじつて彼等と幸福を共にすることも出来ないし、藝術家と同じ高さに立つて、創造の喜びに浸ることもできないのである。その人はたゞ、他人のすぐれた藝術を仰いで、それを恰も我物の如く愛好し、出来るだけそれに親しみ近づくことによつて、纔かに藝術家の持つ喜びの幾分を知る。(谷崎潤一郎『肉塊』)
何度も書いているように、こうしてひたすら「読み」に徹しているのは、近代文学1.0の人たちが言葉の意味も知らず、あらすじにも辿り着いていないのに、「難しそう」な言葉を振り回して、すぐれた作品を涜していることに氣がついたからなんだよ。
あの江藤淳が『こころ』の「私」はなんとなく先生に近づく、なんて書いていて、それが柄谷行人にも遺伝してしまっちゃってるわけだ。
島田雅彦は「Kは幸徳秋水、あるいはキング、天皇だ」なんて訳の分からないことを書くし、高橋源一郎も「工藤一(石川啄木)」にしてしまっていて、Kが苗字ではないということにすら気が付いていないんだよ。
この状態で我関せずと自分の創作にのめり込めますかって話だよ。谷崎君の作品だってそうだよ。三島由紀夫が谷崎作品について、こんな批判をしているらしいね。
三島由紀夫は、野暮なことを嫌った都会人の谷崎は自身の格闘を見せることをせず、「なるたけ負けたような顔をして、そして非常に自己韜晦の成功した人」だと論じている。しかしながら、三島はその谷崎の小説家としての天才を賞揚しつつも、その作品群が激動の時代を生きながらも、あまりに社会批評的なものを一切含まずに無縁であることが逆に谷崎の本然の有り方でないともし、「谷崎氏の文学世界はあまりに時代と歴史の運命から超然としてゐるのが、かへつて不自然」とも述べて、岸田国士が戦時中に自ら戦地に踏み込み、時代を受け止めたのとは対極の意味合いで、「結局別の形で自分の文学を歪められた」作家であると論じている。(ウイキペディア「谷崎潤一郎」より)
三島由紀夫でさえ「億兆の國民」や「足利尊氏」に気が付いていなかったわけだ。気が付いている人がいたら、ウイキも編集されるでしょ。でもされない。ということは、まだ誰も気が付いてすらいないんじゃないの?
そのままでいいのかな、これ。三島由紀夫自身が五十年か百年したら「ああ、分かった」と云ってくれるhappy fewが現れることを期待していたけれど、夏目漱石は没後百余年、谷崎君の作品だって、ぼちぼち発表からは百年になるんだよ。でも誰も「ああ、分かった」と云ってくれない。云えないんだよ、分からないから。
これから三島由紀夫以前の作家の語彙はどんどん消えていくし、風俗なんかすぐに変わってしまうから、ますますいろんなことが解らなくなる。物価とか、都電の路線図とかあれこれ調べても分からないことが既にある。もう谷崎君だって絶滅寸前なんだよ。
確かに『細雪』は残るよ。でも文庫本化されていなくて「青空文庫」に入っていない谷崎作品は、もう消える寸前なんだよ。だからなんとか残そうとしているんじゃないか。それを「他人のすぐれた藝術を仰いで、それを恰も我物の如く愛好し」なんて揶揄うのはちょっと酷いんじゃないかな。しかも、『肉塊』ってさ。
『クラスのまとめ方のクセが強い委員長』 pic.twitter.com/YF2rFedzTl
— 泥水真水 (@doromamizu) May 5, 2022
堅造 かたぞう
堆かつた うずたかかった
捷徑 ちかみち
アマ → 阿媽
あかえ
サテインクレープ
ハイポー hypothesis?
「此のハイポーが抜ける迄だ」
……こんな言葉から丁寧に読むこと。これって案外大事なことなんじゃないかな。まあ解るよ、芸術論としては。小野田吉之助という主人公が、絵も詩も書けないから「藝術寫眞」に走る是非を論じているわけだろう。それを「創作の芸術の真似事」と呼ぶのはどうかな。
たとえばこんなことを書いているじゃないか。
一個の詰まらない家庭の父で甘んじるやうにさせられてしまふ。さうなつたら己はおしまひだと思つた。己はさういふ己自身を考えただけでも腹が立つた。(谷崎潤一郎『肉塊』)
みんな詰まらない家庭の父なんだよ、他人のすぐれた藝術を仰ぐことすらできないんだよ。それを「おしまひ」というなら、もう「おしまひ」なんだよ。女房が義母の看護をしているのを見て「これより立派な音楽もなければ詩もありはしない」と信じ込まなければやっていけないんだよ。平穏に、凡庸に、焦りも我儘もなく暮らしたいんだよ。分相応な地位で落ち着いて、無鉄砲な考えは諦めるんだよ。
でもねえ、小野田吉之助は一旦捨てた活動写真の世界に戻っていくよね。
