蓮實重彦の『夏目漱石論』を読む⑨ やはり見えていないか
漱石作品には作品ごとに際立った意匠というものがある。そしてそれは案外分かりにくいものである。
例えば『坑夫』のディアゴスティーニ方式の現在に柄谷行人は気がついていなかった。『二百十日』のカメラが時に圭さんの側に寄り添い、時には碌さんの側についていくことにも気がつかない人もいるだろう。『二百十日』の際立った意匠としてはそのほかに豆腐屋の変化という遊びと、
碌さんが最後に降參する所も辯護します。碌さんはあのうちで色々に變化して居る。然し根が呑氣の人間だから深く變化するのぢやない。圭さんは呑氣にして頑固なるもの。碌さんは陽氣にしてどうでも構はないもの。面倒になると降參して仕舞ふので、其降參に愛嬌があるのです。圭さんは應揚でしかも堅くつて自說を變じない所が面白い。餘裕のある逼らない慷慨家です。
あんな人間をかくともつと逼つた窮屈なものが出來る。又碌さんの樣なものをかくともつと輕薄な才子が出來る。所が二百十日のはわざと其弊を脫して、しかも活動する人間の樣に出來てるから愉快なのである。滑稽が多過ぎるとの非難も尤もであるが、あゝしないと二人にあれだけの餘裕が出來ない。出來ないと普通の小說見た樣になる。最後の降參も上等な意味に於ての滑稽である。あの降參が如何にも飄逸にして拘泥しない半分以上トボケて居る所が眼目であります。小生はあれが棹尾だと思つて自負して居ゐのである。あれを不自然と思ふのはあのうちに滑稽の潜んで居る所を認めない普通の小說の樣に正面から見るからである。僕思ふに圭さんは現代に必要な人間である。今の靑年は皆圭さんを見習ふがよろしい。然らずんば碌さん程悟るがよろしい。今の靑年はドツチでもない。カラ駄目だ。生意氣な許りだ。以上。
いや、『二百十日』の話は長くなるからやめよう。
この第一の明るさが画家の絵筆によってカンヴァスに定着され、「光線が顔へあたるぐあいが旨い。陰と日向の段落が確然して――顔だけでも非常に面白い変化がある」といった反応を惹き起こすとき、華麗さは「春を抽んずる紫の濃き一点を、天地の眠れるなかに、鮮やかに滴たらしたるが如き女」藤尾が身にまとう紫色の傲慢と相通じるものを持つことになるだろう。
こう語る蓮實重彦には『三四郎』が徹底して色を隠している作品である事に気がついていないのではなかろうか。
けれども着物の色、帯の色は鮮かに分つた。白い足袋の色も眼についた。鼻緒の色はとにかく草履を穿いてゐる事も分わかつた。
此時三四郎の受けた感じは只奇麗な色彩だと云ふ事であつた。けれども田舎者だから、此色彩がどういふ風に奇麗なのだか、口にも云へず、筆にも書けない。
だから何色なの、と言いたくなるところだ。
蓮實重彦はこの書かれていない色をズバリ紫だと言い当てたつもりでは無かろう。
美禰󠄀子の着物の色が謎であるばかりではない。蝉の羽根のかたちのリボン色も解らない。さらに漱石は読者を揶揄うようにこんな比喩を使ってみる。
寝つけない所に寝た床のあとをながめて、煙草を一本のんだが、ゆうべの事は、すべて夢のようである。椽側へ出て、低い廂の外にある空を仰ぐと、きょうはいい天気だ。世界が今朗らかになったばかりの色をしている。
ブルーとは書かない。空が、ではなく、世界が、なのでそれはブルーでもないのだ。これはまるで「春色の汽車」である。幻惑である。この幻惑に気づくこともなくスルーしては、漱石作品を読んだとは決して言えない。
引用部分からわかるのは、蓮實重彦が『三四郎』という作品の重要な意匠である「色を隠す」という遊び――それは『野分』から引き継いだものである――に気がつかず、自分が書いている景色を視覚化できていないことに気がついていないことである。
それではまるで三四郎である。
ここから先は
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
