書かれていないことに意図が見えてくる 谷崎潤一郎の『青い鳥』を読む
これまで見てきたように谷崎作品は三幕芝居でさえ序破急といった解りやすい形式を拒み、起承転結を避け、ある意味ではどこかバランスを欠いたような、だらだらとしたものであることが少なくなかった。あるいは短すぎものたりないものも少なくない。短すぎる、長すぎるという印象は、そのバランスを欠いた形式によるものである。そして何度か作品を見捨てて来た。続きが見当たらず、放り出されたかに見える作品がいくつもある。この『青い鳥』も常識的に見ればそうした「放り出されたかに見える作品」と云ってよいかもしれない。
私はこの作品を三度繰り返し読み、やはり冒頭の設定がどうも落ち着かないことを確認した。
「君此の頃又少し痩せたね、どうかしたのかい? 顔色が惡い、………」
さつき、尾張町の四つ角で出遇つた友人のTにさう云はれてから、彼はゆうべの阿具里とのことを想い出して、一層歩くのに疲労をへた。(谷崎潤一郎『青い鳥』)
これきり友人Tはもう作中には現れない。つまり尾張町の四つ角で一言だけ発して引っ込む。それはそれで構わないだろう。主人公岡田はどうも五月の天気の良い日に銀座通りを歩いている。銀座五、六丁目あたりで友人Tに会い、痩せて顔色が悪いと言われる。なるほど、そこまではわかる。しかし「ゆうべの阿具里とのこと」が何処にも見当たらないのだ。何かヒントがないかと探したが見つからない。さて、それが何なのか、具体的に指摘できる方がいるだろうか?
分かりますよ、という人はちょっと手を挙げて貰っていいですかね?
はい。
いませんね。
いる?
いないよね。
ここ、はっきりさせよう。後で「知ってたよ、解ってたよ」というのはなしにしてもらいたい。
いや、これは本当に大事なことで、これまで気が付かなかったことに気が付く感覚、それを体験するのでなくてはそもそも「読む」ということがなんなのか解らなくなってしまう。これまで私は「読む」という行為を通じて、今までいい加減に読み捨てられていた作品に都度正しい解釈を加えて来た。例えば夏目漱石の『こころ』の話者「私」はKの生まれ変わりのように仄めかされている、といったようなことを今、谷崎作品でもやっている。それは三島由紀夫の『金閣寺』にしろ芥川龍之介の『羅生門』にしろ、皆さん全然読めていないなと感じるからであって、私は明確な読みの差というものを示してきたつもりなのだが、その差すら理解できない人の方が圧倒的に多いなとも感じるからである。
このように教職にありながら間違った解釈を振りまく人が少なくない。
三島由紀夫の『金閣寺』に関しては「屈折したアイドルオタクの日記」として読むというような考え方もあるようだが、それでは三島由紀夫の観念の空中戦に付き合うことはできないだろう。
芥川龍之介の『羅生門』について「小心」とか「必要悪」などと噴飯物の解釈を堂々と書いている本がある。
下人が小心者なのか案外太いのかという点は、この『羅生門』の読みに於いてはかなり重要な点であり、この『着眼と考え方 現代文解釈の基礎』(ちくま学芸文庫)は①書いてあることを読まない②書かれていないことを付け足す、というダメダメ解釈の見本のようなものだ。
そういうものを全部やり直しましょうというのが近代文学2.0なので、兎に角「差」というものを確認してもらいたい。そうでなければ馬の尻でも嘗めていればいい。
さて、岡田はどうも「阿具里」という若い女を連れて歩いているように書かれている。女の年齢は十四五からニ三年の付き合いという設定なので十六から十八くらいと計算したところで、後に「十八の少女」と明記される。この「十八の少女」という表現もどうかと思うが、ここではそこは掘るまい。
岡田は「横濱へ連れて行ってくれる」とあぐりに頼まれ、新橋の方に歩いていく。その途中でどうも「妄想」が挿入される。
「あら、死んぢやつたの? 仕様がないわね。」
とあぐりは足もとに轉がつた屍骸を見てポカンとする。(谷崎潤一郎『青い鳥』)
これは「妄想」のようである。横濱での買い物であぐりを着飾ることを想像するうちに岡田の魂はエクスタシーに引き込まれ、眩暈がして倒れて死ぬんじゃないかと思われる。そして「妄想」が始まる。「妄想」の中であぐりはチヨツと舌打ちし、岡田のポケットから金を取り出し、その金で買った指輪やスカートを幽霊の岡田に見せびらかす。そして脚も。
その「妄想」が終わっても、岡田は手足がだるくて腰が軋む。
ふと、岡田は、歩いてゐるうちにだんだん我慢ができなくなつて、急に氣が違つてだらしなく泣き出すところを想像した。(谷崎潤一郎『青い鳥』)
これは想像である。いや、想像だろうか?
「あぐりちゃん、あぐりちゃん、僕はもう歩けないだよう! おんぶしておくれよう!」と、往来に立ち止まつてだヾを捏ねる。
「何よ! どうしたのよ! お止しなさいよそんな真似をして! みんな見てるぢゃないの」と、あぐりは突ツけんどんに云つて、恐い伯母さんのやうな眼つきで睨める。── 彼女は彼が發狂したとは、ちつとも氣が付かないであらう。(谷崎潤一郎『青い鳥』)
これは「妄想」であろう。「妄想」は黒山の人だかりを作り、巡査を呼ぶ。そんな光景がはっきり映る。そして五つの娘・照子、その母親咲、ニ三年前に亡くなった母の姿が現れる。新橋のステーションの前であぐりに時計を買ってくれと言われ、「上海にはいい時計がある」と云った途端岡田の空想は支那に飛んでいく。それからどうやら山下町に移動して買い物をするようなのだが、もうどこからが事実でどこからが妄想なのかの境界があいまいになってくる。
二人はレデー・メードの婦人服屋に入り、コットン・ボイルの洋服と下着を買う。あぐりが採寸されている時、岡田の「妄想」は頂点に達する。
「此の女はいくらだね、………」
と、番頭がさう云ふのぢやないか、自分は今、奴隷市場に居るのぢゃないか、そしてあぐりを賈り物に出して、値を付けさせて居るのぢゃないか、── 岡田はふいとそんな氣がした。(谷崎潤一郎『青い鳥』)
どこからそんな話になる? と谷崎よりはいくらか常識的な人間である私は虚を突かれ、前後を確認し、読み直すことになる。そして最初からある疑問が明確に湧いていたのに、ずっとその疑問を確実に否定するような記述を探してきたことを徒労だったと確認する。
洋服の直しが終わり、岡田はあぐりの後についてフイツテイング・ルームに入る。
………岡田の頭の中にある「女」の彫像が其處に立つた。彼はチクチクと手に引つかヽる輕い絹を、彼女に手傳つて肌へ貼りつけてやりながら、ボタンを嵌め、ホツクを押し、リボンを結び、彫像の周圍をぐるぐると廻る。あぐりの頬には其の時急に嬉しさうな、生き生きとした笑ひが上る。…………岡田は又グラグラと眩暈を感ずる。……………(谷崎潤一郎『青い鳥』)
その疑問とはこの結びに三度辿り着く前に、こう言っては聊か自慢げに採られるかもしれないが、この『青い鳥』という題名を見た瞬間から、湧いていたものである。
私は「ゆうべの阿具里とのこと」が何処にも見当たらない、と書いた。確かにそれはないのだ。ではないということはどういうことか。書き忘れたのか、あえて書かなかったかどちらかと問われれば、やはり私は後者だと解釈する。
よく読めばこの『青い鳥』という話、照子、咲、三年前に亡くなった母が実在しなくても、幽霊であっても成立する話なのである。なんならあぐりが幽霊であっても成立する話である。あぐりは私にしか言葉を発しない。あぐりがこの世に存在しないものであったとしても、岡田の妄想力によってはこの『青い鳥』は成立してしまうのだ。
いや、それは極端な解釈ではないかなという人は『柳湯の事件』の銭湯で他人のあそこを握りつぶして殺してしまう妄想力を想い出してもらいたい。
ここを推理小説風に落とし込めば「ゆうべの阿具里とのこと」はあたかも殺人でもあるかのように思えてくる。作中で「幽霊さん」と岡田に話しかけるあぐりの台詞がふりとして生きてくる。
そうすると「ゆうべの阿具里とのこと」が書かれていないことに意図が見えてくる、ような気がする。
無論そこまで具体的に解釈しないで、そもそも「阿具里」という存在しない女に憑りつかれた頭の可笑しい男の話として読むことは可能だろうと思う。「あぐり」とは「醜い」という意味ではないかと言い出せば深読みに過ぎるように思う。「あぐりはお家にいました」では惚けすぎだ。
違うよ、という人手を挙げて。
はい、下ろして。
どうですか、一冊?
待って 「魔女の宅急便」の先輩魔女、「あぶない刑事」の木の実ナナさんと同じピアスしてる pic.twitter.com/KJmLBK58M4
— すずきじゅんじ (@fkgwfkgw) April 29, 2022
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