雁の棹折れてとりかく昼花火 芥川龍之介の俳句をどう読むか130
浅草の雨夜明かりや雁の棹
大正七年八月二十七日、小島政二郎あての書簡に添えられた句である。

これはやや早い秋の句になっている。早かったり遅かったり、芥川の句は忙しい。
雁啼くや廓裏畠栗熟れて
雁の棹傾く空や昼花火
藩札の藍の手ずれや雁の秋
と続けて書かれていて、「皆でたらめですよ」と断られている。この句にもまともな鑑賞は一つも確認できない。なんでかな。
何度も書くけれど羅列することと鑑賞は違うからね。
言葉なんだから意味が解っていないと鑑賞でもなんでもないからね。ラーメンの感想じゃないんだから、まず意味が解らないと。
雁は秋になると渡つて來る。必ず一列の群をなして空を飛ぶ。故に之を雁の棹ともいふのである。
坂本四方太 述早稲田大學出版部


本当にもう私には時間がないので、さっさと片付けるよ。
浅草の雨夜明かりや雁の棹
これは「浅草で雨夜明かりの中雁の棹をおっ立てたよ」という意味で、興奮する様子を詠んでいて、
雁啼くや廓裏畠栗熟れて
これは「浅草の廓の裏の畑で栗が熟れているのでおいらの雁が啼くよ」という意味で、女を買う様子を詠んでいて、
雁の棹傾く空や昼花火
これは「棹が傾いた。昼に揚げる花火のように無駄なことになってしまった」という意味、あるいは「傾いた棹からどんと花火が発射されたよ」という意味で、中折れ、失敗あるいは射精を詠んでいる。
藩札の藍の手ずれや雁の秋
これは「それでもお代はしっかりとるんだなあ、おいらの雁もあきであることよ」という意味で支払い、精算を詠んでいるのだろう。
これで一応起承転結の小話にはなっている。
まあ、でたらめといえばでたらめ、藩札、昼花火、廓裏と古色をつけながら卑近な世俗を実景に見せないところが芥川の洒落か。
C.90 7513 2 4 3 2ル0 6 8 6 8 L 9 20 4 3 2 11 0
テト2E- 35 751.3 0.尾崎洵盛96支那古陶磁の鑑賞東京北原出版株式會社
序孫子に「彼を知り己れを知れば百戰殆ふからず、彼を知らずして己れを知れば一勝一負、彼を知らず己れを知らざれば戰ふ每に必ず敗る」と云ふ金言がある。この金言は人口に噌炙してゐるが實に千古を貫く眞理であつて、古いけれども常に鮮新さを失はない。今や我邦は肇國以來の傳統である八紘一宇の遠大なる理想の上に立ちて、國運を賭して大東亞共榮圈建設の聖業完遂に邁進しつゝあるのだが、此大事業完遂に我と協力しつゝある最大の與國は人口數億を擁する隣邦支那である。而して日支兩國の關係を顧るに、此關係は過去千數百年の久しきに亘つてゐるが、其間必ずしも常に親善とは稱し難い。近くはまた、今囘米英と戰ふに至つたのも、其端は日支事變に之を發したことは吾人の記憶に今尙ほ新たなる處である。其後幸に南京政府の樹立を見るに至つたが、奧地には尙ほ重慶政權なるものがあつて米英と腹を合せて蠢動しつつある。卽ち支那は我味方ではあるが、其一部は敵でもあるのが、今日の實情である。而して今之を前陳孫子の金言に照合すれば、我味方であつても敵であつても支那及支那族と云ふもの序彼
序を能く知つて置かねば假令我邦は米英に對して百戰百勝の好結果を獲ても、支那と相携へて大東亞共榮圈建設の大事業を完遂するの日は遠いと云はねばならぬ。飜つて我國民の實際を觀るに果して我國民は支那及支那民族が如何なる者であるかを知つてゐるであらうか。若し余の見る所にして誤なければ我國民の大多數は全で之を知らないのだと思ふ。碌々支那及其民族を知らないで相共に手を携へ又は之を敵として此決戰場裡に臨み、此大事業に從事することは餘りに無鐵砲と云はざるを得ない。按ずるに日支親善と云ひ、和衷協同と云ひ多年識者によつて絕叫せられ來つた處であつたが、夫れにも拘はらず蔣介石の抗日思想鼓吹と爲り、日支事變の如き事態を釀出するに至つた所以のものは、畢竟日支兩國民が相互に對手方に對する認識不足に胚胎せるものと云はざるを得ない。蓋し彼我の性情、長所短所等を相互に正しく認識理解して其上に建てられた友好關係であればそれは決して動かぬ筈である。今我邦は米英に對して凄烈なる血戰を行ひつゝあり、飛行機、艦船、銃砲、彈藥等軍需資材の增產整備の焦眉の急なる所以が國民の腦裡に深く刻まれてゐるのであるが、之と同時に這囘戰爭の目的たる大東亞共榮圈の建設には隣邦支那及び其民族に對する正しく且周到なる認識を行ふことが最も大切であることを忘れてはならない。此事は前記孫子の言に徵しても多言を要支那と相携へて大しないと思ふ。然し乍ら今日の支那民族は、我邦が島國であつて殆んど他の民族と隔絕しありしと異り、大陸に土着して數千年の歲月を經、其間絕えず異民族と接觸し、幾囘か之を征服し又は之に征服せられ來つたのだから、其性情、風俗、習慣等は複雜多端であつて一朝一夕に之を究むることは難い。廿五史を繙きて其歷史に通じ、諸子百家の書を讀みて其精神文化を究むるのも勿論支那民族を知る一方法ではあるが、此等の書は何分浩瀚であり且難解であつて之を讀破することは一般人士には望まれず、亦た焦眉の急の間に合はぬ。然るに此に一の捷徑便法がある。それは支那古陶磁の〓究であつて、之によつて比較的短時日に支那民族の歴史に通じ、其性情を曉り、併せて其長所と短所とを辯知することを得るのである。支那の陶磁器は古來其品質、產額共に世界に冠絕し、外國へ巨額の數量を輸出し、我邦にも奈良朝以降現代に至るまでの間に少なからざる數量が輸入せられ、現在坊間に於て容易に其幾種を見ることを得るものである。而して支那の窯業は昔から分業が極めて發達しあり、且陶工は殆んど盡く目に一丁字なき輩であるから、歷代の治亂興亡、民族精神の推移、文化の變遷、民族の性情乃至其長所及び短所等凡そ支那民族に關する精神的及び物質的一切の事象は擧げて悉く端的に之に反映露呈してゐる。支那の諺に器に因りて政を知ると云へるは、此間の消息を序三
序四指すものに外ならない。故に、支那民族の何者てあるかを知らんと欲せば、支那古陶磁を見るに如くはない。卽ち支那古陶磁は支那民族に關する最も完全周到なる索引であると稱するも敢て過言ではあるまい。只此索引を解讀するには、多少の眼光と技術とを要することは事實である。然し乍ら之が習得は、其方法さへ宜しきを得れば、決して難からず、之を廿五史を繙き諸子百家の書を讀破するに比すれば、其勞苦は眞に九牛の一毛とも云ふべき微々たるものである。余は我國民が此輕便なる索引を利用することによつて、速に隣邦支那及び其民族の何者であるかを正しく認識理解し、此正しき認識と理解との上に立ちて、彼と相提携して以て大東亞共榮圈建設に邁進せんことを希望して止まない。而して若し幸にして余の此希望が達せらるれば、庶幾くば我邦は百戰不敗の地に立つことを得るであらう。余が淺學菲才をも顧みず敢て本書を草するに至つた理由は一に此に存する。昭和十九年九月一日尾崎洵盛第圖唐藍彩長方枕(ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による)
第二圖汝窯紅斑碗
第三圖宣德窯靑花太極花文等双耳葫蘆扁瓶
製年德宣明大
第四圖康熙窯五彩梅花小禽文盌
第 五圖靑花龍文等扁壺(ユーモルフオプロス翁蒐收) (アシユトン及グレー氏支那美術による) (5)
第七圖靑花牡丹孔雀文壺(ホブソン,ヘザリントン兩氏著支那の窯藝による)第六圖宣德窯靑花萱草文玉壺春瓶(デヴヰツド卿蒐集圖錄による) (7) (0)
第 九圖宋赤繪菊花模樣碗第八圖靑花魚藻文壺(チンメルマン氏著コンスタンチノープル博物館の古陶瓷による) (9) (S)
第十一圖靑花五彩唐子遊圖壺第十圖黃地靑花牽牛花文龍耳瓶(デヴキッド卿蒐集 圖錄に依る) (11) (10)
설第十二圖吳州赤繪玉取獅子鉢(吳須赤繪圖鑑による) (ホブソン氏著近代の支那磁器による)第十三圖色繪牧女三陽開泰圖瓶(1) (12)
第十四圖宣德窯寶石紅·歐魚文把杯(ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による) (ホブソン氏著明代の磁器による)第十五圖 青花釉裏紅漏空花卉文壺(1 (14)
第十七圖景德鎭窯靑白磁瓶(ホブソン氏等著私人蒐集の支那磁器による)第十六圖青磁鳳首牡丹纏枝文等壺(アシユトン及グレー兩氏著支那の美術による) (17) (16)
第十八圖汝窯盌IS.〓Firsterkyou八廿五水)は其の方法は第十七十
Whitschkyto(廿九外)修行动装潢第十二第G (c) (デヴヰツド卿蒐集圖錄による)第二十一圖郊壇窯龍耳八卦文六角香爐
第二十三圖砧手靑磁龍耳香爐(ホブソン及ヘザリントン兩氏著支那の窯藝による)第二十二圖砧手靑磁竹節花瓶(25) 2)
第二十四圖砧手靑磁双魚文皿第二十五圖飛靑磁玉壺春瓶(ホブソン及ヘザリントン兩氏著支那の窯藝による) (24) (25)
第二十六圖青磁龍耳鬼面獸脚等香爐(デヴヰツド卿蒐收圖錄による) CIOシリ光出生成果を以上(中心者)備品目安装十二月
第二十八國油滴天目茶碗第二十九圖河南窯鐵鉢形鉢(ホブソン及ヘザリントン兩氏著支那の窯藝による) (ホブソン氏著支那陶國によび) (20) (28)
第三十圖練上手碗(即山閣版〓器圖ににるる第三十一圖磁州窯搔取手黑花牡丹文瓶(ホブソン及ヘザリントン兩氏著支那の窯藝による) (31) (30)
第三十三圖磁州窯黑花丸紋等梅瓶(ヘザリントン氏著支那古陶磁による)第三十二圖磁州窯黑花牡丹文梅瓶(ホプソン氏著支那の陶磁による) (33) 32)
第三十五圓磁州窯黑線文獸口葫蘆水注(雄山閣版陶器圖錄による)第三十四圖磁州窯黑花花卉折枝文綠釉瓶(ホブソン及ヘザリトン兩氏著支那の窯藝による) (35) (34)
第三十六圖白定窯彫花蓮花文皿(宋登による)第三十七白定窯彫花蓮瓣文葫蘆水注(ホブソン及ヘザリントン兩氏著支那の窯藝による) (36) (37)
第三十八圖紫定窯金花牡丹文碗(小山富士夫氏編宋磁による)第三十九圖德化窯白磁觀音像(39) (38)
第四十圖唐三彩龍耳瓶(雄山閣版陶器圖錄による)第四十一圖唐三彩婦人像(アシユトン及グレー兩氏著支那美術による) (41) (40)
第四十二圖明三彩蓮花八卦龜甲文等香爐(ホブソン氏等著私人蒐集の支那磁器による)第四十三圓明三彩海老水注(ホプソン氏著明代の磁器による) (42) (43)
自五、四、三、ニ、1. 4. 3. 2. 1.一、鑑序鑑目支那古陶磁學の現狀蒐集奇談鑑定の種々相素人の鑑定商人の鑑定學者の鑑定技術家の鑑定現品蒐集及比較〓究の困難定賞次支那古陶磁の鑑賞第四十四圖官女立像俑(正面及側面) (ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による)三七三六三一二六二-八四一四一三
ⅣⅢ1丙乙甲5. 4. 3. 2.日模4. 3. 2. 1.形ハ技法による分類開〓代釉藥の發達歷代形狀の特色有史以後の造形法掛釉法釉の呈色劑型造法形狀の意義及造形法の發達半强火釉仕上げの工程泥坂を以て造る法轆轤による法樣狀片次H I 4. 3 2 1.口、1、口、イ、胎鑑定の方法b.窯址の學術的發堀の行はれざること釉o. a.文獻の稀少及涉獵の困難科學的分析の行はれざること及其信じ難きこと目歷代仿僞の橫溢出土品傳世品軟火釉强火釉釉藥の意義と種類古墳出土品舊都市の廢墟よりの出土品古窯址の出土品藥土次六、5. 4. 3 2口、次三ニ一一〇〇三-一〇七一一一〇七-一二一一三一一〇〇一-〓二二一九九八三七一六八九八四九四七四四四三三九三九三七四四〇五九五九五三六六六一五二
6 5. 4 3. 2. 1. +、4. 3. 2. 1.九、4. 3. 2. 1.八、4. 3. 2. 1.七、V赤3. 2. 1. 2.染〓代の赤繪明代の赤繪染付圖版解說赤繪の技法と宋代の赤繪古染、〓代の染付目銘明代の染付染付の起原繪付年注文者の銘作家の銘款模樣其者の分類祥瑞、款次南京染付、三靑三彩圖版解說赤繪圖版解說法素三彩明〓の三彩古赤繪、德〓窯唐宋元の三彩目餘姚窯靑磁の〓念及初期の靑磁宋代官窯の靑磁柴九巖窯窯磁花彩(舊窯)次色繪祥瑞、南京染付、南京赤繪、吳州染付吳州赤繪二八円二八三二七九二七九二七八二六八二五六三〇二四九·二四八二四五·二四三二三九二二四二一八二一七二〇五二〇三一八九一七七一七三一六八一三五一一五、一四、五一四、一三八一三六一三六一二九
目次7.汝州窯(汝窯) 8.均窯9.景德鎭窯10.南宋の官窯11龍泉窯12.哥窯13德〓後窯(珠光靑磁) 14.石碼窯"(吳州)靑磁圖版解說十一、天目1.建窯2.吉安天目(吉州天目) 3.河南天目天目圖版解說十二、白磁次(汝窯) 7. 8. 9. 10. 11 12. 13 14.二八六二九四二三六六二九.九三〇〇円三〇八=〇八三〇八三一〇三二三三七七三三〇(修內司窯及郊壇窯) (吉州天目)三三二三三四三四〇三重県三四七三四八三角丸Hime 1. 2. 2. 4. 1.景德鎭窯2.定窯2.磁州窯4.德化窯白磁圖版解說十三、鮮紅、郞窯、桃花紅、同上圖版解說十四、磁州窯イ、描繪法口、搔取手ハ、綠宋瓷ニ、練上手磁州窯圖版解說十五、上代より唐迄の窯器同上圖版解說目次桃花紅、綠郞窯、火焰靑三五五三六五三六七三·七三七二W·H三七四三七五三·七九三八八七
目吹十六、朱泥の茶壺十七、鉅鹿陶十八、燒物の取扱方後記附參考書目三六七三九九三六六四〇〇圖版目錄原色版ロ繪唐藍彩長方枕汝窯紅斑碗宣德窯靑花太極花文等双耳胡蘆扁瓶康熈窯五彩梅花小禽文盌ロ繪解說頁二五〇三一〇二七第一圖第二圖第三圖第四圖、四別刷寫眞版(ロ繪)第五圖靑花龍文等扁壺第六圖宣德窯靑花萱草文玉壺春瓶第七圖靑花牡丹孔雀文壺第八圖靑花魚藻文壺圖版目錄解說頁二七一六六一七九九
圖版目錄宋赤繪菊花模樣碗黃地靑花牽牛花文龍耳瓶靑花五彩唐子遊圖壺吳州赤繪玉取獅子鉢色繪牧女三陽開泰圖瓶·宣德窯寶石紅〓魚文把杯靑花釉裏紅漏空花卉文壺靑磁鳳首牡丹纒枝文等壺景德鎮窯靑白磁瓶汝窯益汝窯紅斑花瓶修內司窯琮瓶郊壇窯龍耳八卦文六角香爐砧手靑磁竹節花瓶10第九圖第十圖第十一圖第十二圖第十三圖第十四圖第十五圖第十六圖第十七圖第十八圖第十九圖第二十圖第廿一圖第廿二圖二三〓·二二五·二二五·二二六三六三三六百三一三-三二·三三三ニ三三·三一三二三五第廿三圖第廿四圖第廿五圖第廿六圖第廿七圖第廿八圖第廿九圖第卅圖第卅一圖第卅二圖第卅三圖第卅四圖第卅五圖第卅六圖砧手靑磁龍耳香爐砧手靑磁双魚文皿飛靑磁玉壺春瓶靑磁龍耳鬼面獸脚等香爐曜變天目茶碗油滴天目茶碗河南窯鐵鉢形鉢練上手碗磁州窯搔取手黑花牡丹文瓶磁州窯黑花牡丹文梅瓶磁州窯黑花丸紋等梅瓶磁州窯黑花花卉折枝文綠釉瓶磁州窯黒線文獸口葫蘆水注白定窯彫花蓮花文皿圖版目錄·三一四三一四·三一四·三三四·三三六〓〓〓·三七五·三七五··二七五三角··三七六三六三〇二
圖版目錄白定窯彫花蓮瓣文葫蘆水注紫定窯金花牡丹文碗德化窯白磁觀音像唐三彩龍耳瓶唐三彩婦人像明三彩蓮花八卦龜甲文等香爐明三彩海老水注官女立像俑(正面及側面)ニ第卅七圖第卅八圖第卅九圖第四十圖第四十一圖第四十二圖第十三圖〓·三五〇三五〇三五二三五,三三三五三人第四四本文挿入寫眞頁無質良一四五··一九九一四五········一〇一四六········一八〇四六十一〇1靑花唐草及波濤文等龍頭把手酒盃宣德窯靑花唐草文等有脚合子永樂窯及宣德窯蓮子鉢靑花靈芝蘭花小碟底裡銘2 3 4一四七········一八一一四七········一八一一四八········一八一一四八········一八二一四九········一八二一四九······1八三(10°一八三一五〇·一八三一八五······二二六一八五········二二六一八六········二二七公々·······二二七一八七······二二八八七·三5靑花魚藻文等把盃(成化窯)靑花演〓文花瓶(成化窯)弘治窯黃地靑花果花折枝文等皿正德窯黃地靑花果花折枝文等皿染付高砂手花瓶萬曆窯靑花鍾馗追鬼圖皿古染唐子遊び模樣皿康熈窯靑花氷梅文有葢罐宣德窯靑花五彩石榴花纒枝文等盤靑花五彩酒瓶靑花五彩八吉祥纒枝牡丹獅子文等酒壺五彩纒枝牡丹獅子穿蕃蓮花鳳凰文等皿礬紅地金彩八角葫蘆瓶藍地漏空金彩牡丹孔雀文水注圖版目錄6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18······二二八三三
圖版目錄嘉靖窯靑花五彩蓮花魚藻文等壺綠地金彩纒枝牡丹文碗隆慶窯靑花五彩花卉龍文四方瓶萬曆窯靑花五彩外花果折枝內花鳥風景等長方盒萬曆窯靑花五彩花果折枝正面龍文等水注萬曆窯靑花五彩蓮花水禽文等魚缸萬曆窯靑花五彩騎牛人物等碗萬曆窯藍地堆花魚藻文碗吳州赤繪香合、(大小四種)古赤繪唐子遊圖壺吳州赤繪麒麟文大皿天啓窯靑花五彩菊花文等皿古赤繪網手蟹及小魚模樣小皿吳州赤繪玉取獅子鉢の底裏一19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32一八八·······二二九一八八········二二九一八九········二二九一八九(000一九〇·····二三〇一九〇·······二三一一九九·····二三一·····二三一·····二三一一八万半三三一·····二三二一九三········二三二一九三·一九四·一七一九五······二三二·····二三三(三)三1三m2 33 34 35 36 37 38 39 40吳州赤繪牡丹文壺康熈窯五彩梅花小禽等花瓶康熈窯五彩蓮花翡翠文皿雍正窯粉彩牡丹胡蝶文皿雍正窯粉彩花鳥文瓶·雍正窯粉彩貴婦人逍遙圖皿雍正窯粉彩玲瓏磁燈籠乾隆窯梅花文茶壺乾隆窯夾彩瓢文葫蘆瓶乾隆窯花鳥詩句等八角筆筒康熈窯彫花靑花釉裏紅靑磁釉等花卉文尊式花瓶宣德窯孔雀綠地皿底裏銘第九圖宋赤繪碗底裏明〓代年款銘圖版目錄一九五········二三三一九六········二三四一一六六········二三四一九七·言一九七·2三三一九八·二三五一九八·····2三三一九九········二三六一九九········二三六000二六000ここ〓·二〇一·21ct OO. 12tc 2012三三2三三41 42 43 44 45 46三
圖版目錄明綠地三彩牡丹孔雀文壺明藍地三彩三屋圍碁圖等壺康熈黑地素三彩四季花文等方瓶綠地素三彩渦狀波濤海馬梅花等皿康熈素三彩松下圍碁風景文半月形軸臺康熈素三彩刀馬人硯屏唐綠釉葵花形瓶唐黃釉馬俑越州窯龍波濤文金釦碗越州窯鳳凰文等碗汝窯紅斑水丞第十八圖汝窯碗の底裏均窯菖蒲盆汝窯紅斑皿一+ 47 48 49 50二三九一五二··二三九········二五三·二四〇··二五三·二四〇····二五三一五二·二五三···二五三51 52 53 54 55 56 57 58 59 60一二三、二三四····二五四二五、二四二二番二五五··二四二···二五六·······三一五·二五六········三一五·二五七·······三三六二五七·····三三六·二五八·····三一六·二五八······三七七·····三一五61 62 63 64 65 66宋均窯碗同上底裏·砧手靑磁纏枝牡丹文葫蘆瓶天龍寺手靑磁浮牡丹香爐北方靑磁菊花唐草文碗北方靑磁纏枝牡丹文合子砧手靑磁蓮瓣文碗同上底裏砧手靑磁鳳耳花瓶七官靑磁皿底裏天龍寺手靑磁浮牡丹文瓶北方靑磁蓮花文皿影靑筍形水注影靑花卉唐草唐子模樣瓶圖版目錄··二五九········三一七二五九········三一七·二六〇·······三一八··二六〇········三一八··二六一········三一八·二六一········三一九67 68 69 70 71 72 73 74·二六二········三一九·二六二········三一九·二六三····三一九·二六三········三一九·二六四········三一九二六四〓00·二六五·········二二〇·二六五·······〓000七
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圖版目錄搔取手唐草文綠黃彩瓶磁州窯搔取手牡丹文瓶磁州窯墨流文梅瓶磁州窯黑花熊繪陶枕アンフオラ型菱形土器〓形土器漢御龍磚長方形瓦器井桁陶製家屋模型唐男女俑白磁水注(鉅鹿)龍泉窯靑磁袴腰香爐OI 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114·三六八········三七七·三六八·······三七八·三六九········三七八·三六九········三七八·三七九········三八九·三七九········三八九·三八〇·········三八九·三八〇···三九〇·三八一········三九〇三八一········三九〇三八二········三五四三八二········三二二支那古陶磁の鑑賞尾崎洵盛
一鑑賞路傍に咲ける名もなき一輪の野花にも可憐の情を覺ゆるのは人間が他の動物に比して特に惠まれてゐる重大なる事項の一である。美に對する人間の此感受性の作用が趣味であるが、若し人間に趣味が無かつたら此世の中は如何計りか殺風景であらう。又如何に智能に於て勝れた人でも趣味の無い人は畢竟人生に於てそれだけ樂しみの少い人であるから實に氣の毒の至りである。趣味には自然の美に對する趣味と人工の美に對する趣味とある。而して人工の美に對する趣味は卽ち藝術の愛好であり鑑賞であるが、藝術というても仲々其範圍は廣い。歌舞音曲繪畫彫塑から日常生活必需の衣食住の調度に至るまで凡そ人間の作爲するものにして多少とも藝術味の無いものは寧ろ無いと云うても不可ないであらう。陶磁器もまた人間の造つた實用品が其大多數であるが之に含まれてゐる藝術を吾人が愛好鑑賞する譯である。そこで先づ鑑賞とは何ぞやといふ事を一應說明して置き度いと思ふ。鑑賞とは對象の藝術的價値を鑑識認定して之を賞美愛翫することである。明治時代に於ける美術の先覺者故岡倉覺三氏は其名著茶の本の中に特に藝術鑑賞なる一章を設けて伯牙彈琴の故事によつて巧みに此現象を說明してゐる。其大意は昔龍門の峽谷に幾千年の霜雪を凌いだ森の王者とも云ふべき桐の老木があつた。ある妖術三一、鑑賞
鑑賞Izst者が此古桐を以て一の琴を作つたが其頑固な精を和らげるには非凡の名手にあらざれば不可能であつた。然るに伯牙と云ふ名手が出でて之を彈ずるに及びて初めて妙音を出した。巍峨たる高山、潺湲たる〓流、花鳥風月の興趣、切々たる戀慕の情、凄慘なる劍戟の聲、琴は彼の歌ふところに應じて出さゞる妙音とては無かつた。此に於て伯牙や琴、琴や伯牙、渾然として一體と爲り分離すべくもなかつた。名作に盛られたる高き藝術は伯牙であり、吾人は龍門の古桐もて作られたる琴である。伯牙の名手によりて彈奏せられたる名曲によりて吾人の胸奥に潜在する琴線は忽然として之に應じて振動し、其結果吾人は無上の感激を覺ゆる。此に於て吾人の心は作家の心と契合し、語らざるを聽き、見えざるを睇視する。名手は吾人の知らざる調べを喚起し、長く忘られたる記憶は悉く新しき意義を以て復活し來る。恐怖の爲に抑壓せられたる希望、狐疑逡巡した愛慕が揚々として現はれて來る。吾人の心は畫布であり、其繪具は吾人の感情であり、其濃淡法は吾人の歡喜の光であり又は悲哀の願である。名作を離れて我なく、我を離れて名作なく、我と名作とは渾然たる一體を爲す。此世に藝術に於て類似の精神が融合するほど神聖なる者はない。其相會するや藝術愛好者は直ちに自己を超越する。彼は存在すると同時に存在しない。彼は一瞬永遠を瞥見するも其歡喜を表現すべき言葉を知らない。彼の精神は物質の覊束を脫して物體の律動に應じて動く、斯くして藝術は宗〓に近似のものとなり、人類をして其氣品を高からしむるものである。名作をして神聖ならしむるものは實にこれである云々。右岡倉氏の述ぶるところは鑑賞と云ふことを巧みに說明せるものであるが、之を要するに鑑賞とは之を客觀之を要するに鑑賞とは之を客觀的に云へば藝術によつて吾人の精神內に伏在する美的觀念を喚起發動せしむることであり、之を主觀的に云へば斯くして喚起發動せしめられた美的觀念の作用によつて對象であるところの藝術に耽溺して恍惚として陶醉することである而して其藝術にして若し非常の名作であつて且吾人に之を鑑賞するに足るだけの高き藝術的感受性があるならば岡倉氏の云ふが如く無上の歡喜に浸り、我や藝術、藝術や我と云ふ無我の法悅境に遊ぶことが出來る譯である。而して此場合には類似の精神が融合して渾然たる一體を爲し藝術は正に宗〓に近似するものと云へるものである。斯くの如く鑑賞には物云はざる藝術と之に對する吾人の鑑賞力卽ち感受性の兩者が同時に存在對立することが必要であつて、此兩者何れか其一を缺けば鑑賞と云ふ現象は起らない。例へば今此處に支那古窯の花瓶があるとする。此花瓶の藝術的價値に對する吾人の感受性が全然欠缺してゐたならば其花瓶が如何に名品であつても所謂猫に小判、馬の耳に念佛であつて何の感興も起らないであらう。之と反對に如何に吾人の感受性が高くとも其花瓶が藝術的價値なきものであつたならば等しく何等感興が起り得ない。そこで鑑賞には對象の藝術的價値如何と、之に對する吾人の感受性如何と云ふことが必然的に間題となる譯だ。此兩者は共に高低深淺種類樣々であつて細かく論ずれば對象の異るに從つて異り又相似た人でも人々によつて少しづつ異ること猶ほ各人の面が異るが如くである。岡倉氏の同著書には利休に關する小堀遠州の逸話を述べてあるが、此點につきて甚だ興味深き示唆を與ふるものであるから左に引用する。あるとき遠州に對して門人が追從の積りで曰ふのに、先生の選擇せらるゝ器物は誰が見ても皆成るほどと思一、鑑賞
鑑賞ふ名品計りであるが利休の選擇せられた物は千人に一人しか分らない。これを以て先生が利休に勝る趣味を有つてゐられることが分りますと述べたところ遠州はこれ卽ち自分が凡俗である證據であつて、利休は自己の興趣を引く物のみを愛好する勇氣があつたのは流石に偉い。然るに自分は知らず識らず大衆の趣味に媚びてゐたのだと嗟嘆した此話に於て注目すべきは利休の鑑賞眼は一般人とは餘ほど異つた高いものであつたことである。云はゞ龍門の古桐もて作つた琴の如きものであつたから一般人の愛好する樣な低劣な藝術を以てしては共鳴しなかつたのである。要之藝術的價値も感受性も多種多樣であることは事實である。從つて此兩者が種類を異にし又は著しき高低ある場合には鑑賞の現象は起らない。然し乍ら、藝術的價値は人間の作出せるものであつて、感受性もまた人間に具はるものであるから、此兩者が相互に一致契合するのは寧ろ當然であつて何等不思議ではない。只それは大局から見た結果であつて、個々の場合に於ては作家の性情が多種多樣なるが如く鑑賞家の性情もまた多種多樣であるから、甲の作つたものは必ずしも乙の感受性に適合するとは限らない。又感受性には人によつて銳敏と遲鈍との相違があるが、銳敏と云うても其人の感受性の存する種類の範圍內に限られて普遍的に銳敏と云ふ譯にはゆかない。卽ち人の感受性には自から範圍があつて其銳鈍は其範圍內に限られてゐる。感受性の作用によつて好惡の念が起る、之を趣味と呼んでゐる。趣味には色々の種類があり又高尙な趣味と卑俗な趣味とがある。而して何が高尙であるか、何が卑俗であるかの問題は今詳論する遑が無いが、要するに人類が數萬年の昔野蠻の狀態から今日の高き文化の狀態に進んできた。これは單に物力のみの結果にあらず、又精神力のみの結果でもない。此兩方の力が結合して此に至つたものである。然るに物は元と自然に天地の間に存するものであつて、人間の精神力が之を開發利用することによつて此文化を作り上げたものである。それ故に此文化を維持して更に高く之を推進せんが爲には廣義の學問卽ち〓養が最も大切である。而して〓養が高度に進めば進むほど趣味は洗練せられて高まつてくる。其何故に高まつてくるかは本稿の範圍外であるから說かないが、此事實は古今東西に亙つて變らざるところである。そこで大體趣味の高低は其社會の文化と其個人の〓養との程度に相應するものと云へよう。感受性の種類と趣味の種類とが一致することは勿論であるが、感受性の銳鈍と趣味の高卑とは必ずしも一致しない。卽ち感受性は如何に銳敏であつても其種類が卑俗なる場合には其趣味は高尙であり得ない。又感受性は鈍くとも其趣味は高尙な場合もある。感受性が銳いと云ふことゝ高いと云ふことゝは動もすれば混同誤解され易いが、右云ふが如く銳いと云ふのは其作用が銳敏であることを意味し必ずしも其對象である藝術的價値が高尙であることではない。高いといふのは其對象である價値が高尙である場合に於て感受することであつて感受の銳鈍とは別問題である。藝術的感受性は人によりて種類と銳鈍とを異にし、其高低相等しからざるは右述ぶるが如くであるが、一定の時代に於けるある民族に共通なる〓括的感受性と云ふものがあつて、民族が異れば此〓括的感受性も異るものである。例へば東洋と西洋と異り、西洋でも英、獨、佛等夫々相違がある。英人が染付を喜び、佛人が三彩を好むが如き其例である。又東洋でも日本と支那とは必ずしも等しくない。鑑賞七七
鑑賞八藝術的感受性は天性によつて其種類、銳鈍及び高低を異にするが、また〓養、環境等によつて發達變化するものである。卽ち生來感受性の甚だ高い人もある。又反對に低い人もある。種類と銳鈍とにつきても同じことが云へる。然し〓養と環境によつて是等は或る程度左右し得られるものであることは否定し難い。卽ち感受性は心掛けありて之を琢磨すれば廣く銳く高くすることが出來る。然し若し心掛を怠れば狭く鈍く低くなるものである。只御釋迦樣でも上根ど下根とは移らないと云はれたとのことであるが、右の如く向上又は退下するのは中根の者に限る譯で、上下根の者は此限りにあらざる次第だが、幸にして衆生の大部分は中根の者だから吾人は只管感受性の向上卽ち之を廣く高く銳くすることに力めなければ不可である。然らば如何にして此目的を達し得るかと云ふに、單に燒物ばかりに跼蹐してゐては不可であつて、廣く諸子百家の書を讀み就中支那の文化、藝術に關する〓鑽を怠らず、又殊に日頃詩賦の類を愛讀して詩的情〓の涵養に力めることが必要である。かくの如くにして吾人の鑑賞眼が段々發達向上して來ると、會心の古美術品に會ふと譬へば酒客が美酒に醉うて陶然たる心地となるが如く藝術の魅力に打たれて我を忘れてよい氣持になる。某鑑刀家が死の病床に於て日頃祕藏する大兼光の名刀を日每に眺めては病苦を忘れて莞爾たりしが如き、又支那古陶磁を専業とせる某骨董商が死ぬる前病床に於て祕藏の砧靑磁の花瓶を眺めては病苦を忘れたるが如き、此種の例は尙ほ他に幾多もあると思ふが皆鑑賞の極致であつて、藝術の力がよく人間をして無我の境地に遊ばしむる好例である。誰であつたか聖人は常に湯上りの樣な氣持でゐる者だと云うたが、藝術の魅力に打たれて陶然として無我の境地に遊ぶとき、我等凡夫もまた稍や聖なる氣持に近づくものではなからうか。かく考ふると藝術の力もまた大なりと云ふべきであつて、のであらう。此に一言附記すべきは美學と鑑賞との關係である。美學は美とは何ぞやといふ哲學的の問題から美の現象に關する諸般の問題及び規則を〓究解釋せんとするものであるから、鑑賞もまた當然美學の原則に從つて行はるべきものなることは論を俟たない。只如何せん仿僞といふものがあつて、餘ほど拙劣に非る限り只美學の規則を適應するだけでは之を觀破することが出來ない。美學に關して如何に深遠な〓究を行つたとて僞物觀破の力は得られない。從つて如何な美學の先生でも僞物を大に鑑賞する危險が存在する譯だ。又世の中には實用派と稱すべき一派があつて燒物は實用して見ねば徹底的に鑑賞出來ないと說く。これは茶人に多い說であるが成るほど樂燒の茶碗の樣な、之で茶でも飮むより外に、他に何の取柄もない物は其說の通りであらうが世の中は廣大であつて僅かに四疊半の中で使用する物以外に許多の燒物があることを知らねばならぬ。是等許多の燒物を實用せねば鑑賞に徹底せぬなど論ずるの不可なるは議論の餘地が無いと思ふ。其最も手近の證據は愛刀家である。愛刀家が若し其刀を實用せねば鑑賞に徹底せぬと云うて、時々辻斬に出ると云ふことになると誠に物騷千萬なことになる。或は豚や犬を切ればよいと云ふかも知れないが、名刀と云ふ者は豚犬など切るべきものでは無い。又正宗、宗近の名刀を以て猥りに人を斬るべきものでもない。名刀の鑑賞價値は遙かに實用を超越せる處にある。此事は恐らく愛刀家誰一人として異論はあるまい。燒物と雖も同じ理である。初は實用の爲に生れたものであることは刀劍と同じであるが、今は旣に遠く實用を超越せる處に其鑑賞一、鑑賞故岡倉氏が藝術が宗〓に近似のものとなると云へるは蓋し此間の消息を指したも
一、鑑賞10價値が存在するのである。又此道理は獨り刀劍と燒物とに限るべきではない。一切の古い工藝美術品を通じて其鑑賞價値は既に其實用を超越せる處にあるものである事は多言を要しないと思ふ。二、鑑定鑑賞とは右述ぶるが如く古美術品の藝術的價値に惚れ込んで陶醉することである。而して其品物が眞に藝術的價値あるものならば問題は無いのであるが、世の中には做造僞造の品が橫溢してゐる。殊に名高くして高價のものほど仿僞が多く、千に一つも眞はない。然るに吾人の鑑別力は、人にもよるが神や佛ではないから大體限りのあるものである。而して仿僞の目的は元と人を欺くに在るから、大抵皆相當巧みに眞を模してある。中には咄々眞に迫る者も稀でない。從つて動もすれば仿僞の品に欺かれて恍惚陶醉する危險が少からずある。而して美學の〓養も此危險を防ぐには其功なきことは旣述した。されば眞僞の鑑定と云ふことの重要性は多言を要せずして明白であると思ふ。元來鑑定には二つの場合がある。其一は眞であるか仿僞であるかを鑑別する場合、其二は眞僞は問題にあらずして其時代と產窯とを判定する場合である。繪畫、刀劍等の鑑定の場合には尙ほ作家の誰なるかを鑑定することが重要なる問題であるけれども、支那陶磁器の如く分業が盛んに行はれて一個の器皿を造るに數十の工匠の手を經るものであり、而して工匠の名は宜興窯の外殆ど傳はらざる事情であるから、作家の名を判定せんとするが如き事は不可能でありまた其必要もない。ニ、鑑定二二
ニ、鑑定三支那古陶磁の鑑賞に當りて最も重要なるは第一の場合卽ち眞僞の鑑定であつて、此注意を怠りて碌々鑑定を行はずして直ちに鑑賞を行ふときは、思ひもよらぬ僞物に惚れ込んで陶醉することになる。又愼重に鑑定を行つても之を誤れば同じ結果となるが、然し多くの場合輕卒に只品物を見て直ちに鑑賞に移行して惚れ込んで失敗する場合が多い。而して一旦惚れ込んだが最後、俗に惚れゝばアバタも笑くぼと云ふ通り、其品物の缺點までも美しく見ゆるものであつて容易に覺醒し難い。かくして一旦僞物を眞なりと誤信すると、他の同樣の僞物までも眞也と見え、益々邪道に落ち込むものである。されば鑑賞の前に十分鑑定を行つて後日臍を嚙むが如き悔を遣さぬことが必要であるが、また時々絕えず反省して誤鑑なきかを檢討することが必要である。世の中には自信力の極めて旺盛な人がある。自信力其ものが美德であることには重要なる條件が附隨してゐる。それは其所信が正しいと云ふことである。然るに燒物の眞僞と云ふことは、忠孝とか正義とか云ふ如く決して明々昭々乎として一點の疑なきものではない。如何なる大家老練家と雖も往々欺かれ易き甚だむづかしく誤鑑の危險が多いものであるから、無暗に自信力を振り廻すのは止めなければならぬ。鑑賞と鑑定とは甚だ紛らはしい點がある。先づ鑑賞とは對象である品物の藝術的價値を鑑識認定して之を賞美することである。鑑定とは藝術的價値の有無を鑑識認定すると同時に、眞品に有り得べからざる缺陷の檢討發見に力むることである。然るに仿僞の品は巧みなればなるほど藝術的價値に富んでゐる。若し仿僞なれば藝術的價値なしと云ふは邦人の潔癖であつて、公平に見て決して妥當の說ではない。殊に考へなければならぬことは、支那の古陶磁には人を欺いて不正の利を博せんとする僞物以外に、單に古を慕ひて之に模せるものが夥しく存在せることである。是等を悉く藝術的價値なしとは如何なる論者も斷言し得まい。然しそれは飽まで仿造品としての價値であつて、眞品としての價値ではあり得ない。然るに、若し仿造の價値を誤つて眞品の價値と認定すると直ちに之が鑑賞に移行して、眞品に有り得べからざる缺陷の檢討は兎角怠り勝となる。蓋し藝術的價値の有無を判斷するには、只に理智の作用のみを以てせず、感受性卽ち詩的情〓を働かせて見なければ不可能である。此處に危險が伏在するのである。卽ち一旦情〓を働かせたならば、再び冷靜に理智のメスを揮つて眞品に有り得べからざる缺陷を剔決發見することがむづかしくなる。人間と云ふものは情と理と同時に使ひ分けることは相當の修練を經なければ容易に出來難いものである。されば鑑定を行ふには先づ缺陷の有無から檢討してかゝるのが定石であるが尙ほ且仿僞に欺かれ易いのである。況んや初めから碌々眞僞の檢討を行はずして直ちに鑑賞陶醉に移行するに於てをやである。譬へてみれば、若し此に下關へ行かうと云ふ人があつて、上野から靑森行の列車に乘込んだとしたら飛んでもない目に遇ふであらう。而かも鑑定を十分に行はないで直ちに鑑賞を行ふ人は此旅客の樣なものである。繰返して云ふが、鑑賞は陶醉耽溺であつて、鑑定は之と正反對の缺陷檢討卽ちアラ搜しである。此事を須らく銘記せねばならぬ。右の如く鑑賞の前に十分に鑑定を行ふことが緊喫事であるが、然らば鑑定の方法如何と云ふに、之を述ぶるに先だち色々の鑑定の仕方があるから、之を述べて置く。然らば鑑定の方法如何と云ふに、之を述ぶるニ、鑑定三
三、鑑定の種々相一三、鑑定の種々相鑑定には人によつて色々の仕方又は流儀がある。今此に述べんとするのは、筆者が今までに出會つた諸方面の人々につきて其鑑定の仕方を綜合考察して、各其特長と缺點とを擧げて初學者の參考に資せんとするのであるが、筆者の如き生來魯鈍の者が、指導者として仰ぐべき良師を得ず初から無鐵砲に斯界に身を投じた結果、幾度か散々な目に遇つて得た經驗は相當貴重であると信ずるのであつて、以下述ぶるところは後來の各位に再び此轍を履まざる樣との老婆心から開陳すると云ふことを諒とせられたい。1、技術家の鑑定昔から我邦に繪畫の鑑定につきて畫かき鑑定、表具屋鑑定と云ふ諺がある。其意味は畫家も表具屋も鑑定家としては丸で駄目である。彼等の鑑定は三文の値打ちもない。そればかりか彼等の鑑定によつて繪畫を買つたら僞物を摑んだり、眞品を逸したりしてひどい目に遇ふぞと云ふ戒めである。之は所謂鑑定家なる者が放つた惡口の樣にも考へられるが、然し此惡口には少なからぬ眞理が含まれてゐることは事實である。其理由如何と云ふに畫家と云ふ者は特殊の場合を除きて師匠の〓のみを固守してゐるから、成るほど其師の畫法には詳しいかも知れない。又其屬する流派につきては相當の知識があるかも知れないが、他の流派の畫に至つては分らないことは一般の素人と何等選ぶ處がない。加之愁じ師法に詳しい爲めに之に相違せる他派の畫を見て其師法と異る點は皆缺點也と考へ、甚しきに至りては鑑賞價値皆無の樣に惡口する。要するに我流の小天地に立籠つて、畫と云ふものは我流派より外に無いものと云ふ偏見に陷つてゐるから、時代も流派も異る畫の鑑定は出來ない、其言は信用し難いといふのである。又之と反對に畫家によりては自分より腕前の上の僞物は皆眞蹟だと信ずる者もある。例へば崋山や竹田の僞物を見ても自分より上手の者が畫いたのであれば之を眞筆だと云ふ。この線は崋山でなければ描けないとかあの濃淡は流石に竹田だとか賞める。古來此畫かき鑑定の爲に僞物を摑まされた人がどれだけあるか數へ切れない。而かも其畫家は眞實之を眞蹟と確信してゐるのだからたまらない。又表具屋鑑定といふのは、表具屋は表具の切地のみを見る。卽ち此切地は紫印金で之は何である。とても結構な表具であるから中身の畫もさぞ名畫であらうと云ふ考へから、勿論々法で名畫也ときめてしまふので甚危險極まる鑑定である。今日は表具屋に鑑定させて畫を買ふ人もあるまいが昔はあつたものと見える。然し畫家の鑑定によつて畫を買ふ人は今でも相當にあるのではないかと思ふ。又世間では畫家は一般に畫が見えるもの也と、勿論解釋で濟ましてゐる人が多いかと思ふ。これは誠に危險千萬のことであつて、特殊の場合卽ち鑑定と云ふ困難な修業を別に經た畫家に非る限り、彼等の鑑定は譬へば葦の體から天井を覗く樣なものであることを知らねばならぬ。而かも右特殊の場合に於ても、雀百まで躍りを忘れぬ譬の通り、初から鑑定三、鑑定の種々相一
三、鑑定の種々相一六の目的を以て〓究的態度を堅持して古の名畫を學びたるのと事違ひ、初め只うまくなりたい爲に師匠に就いたのであるから、中途にして少しばかり鑑定的〓究に志した位では公平な批判力は容易に體得し難いのが事實である。筆者は嘗て二十餘年前ある懇意な畫家の言に迷はされて二三度名畫を逸した苦い經驗があつたが、當時は未だ此理窟が分らなかつたのだから致し方ないが、今は深く自から戒めてゐる次第である。さて右は繪畫に關することであるが、古陶磁につきても同理がそつくり當て嵌るのであつて、技術家の鑑定は餘ほど注意しないと甚しき誤謬を含むものである。彼等は勿論其小さな經驗の關する範圍內に於て素人よりは一日の長がある。然し其小さな天地の外に於ては我等素人と何等異る處がない。若し支那古陶磁就中其燒成技術に關する〓究が悉く行屆いて隅から隅まで恰も淨玻璃に寫すが如く明々白々であるならば、而して彼等技術家が悉く之に通曉してゐるならば、其言も相當信用するに足るであらう。然し乍ら支那古陶磁の燒成技術の〓究の如きは未だ開拓せられざる分野であつて、二三の窯址の表面採集や、內地に於ける一二の窯で燒いたと云ふ淺薄なる知識位を以て上下四千年、四百餘州に亙りて散在する幾千或は萬以上の窯を類推することは多分に危險性を含んでゐることは多言を要しない。世の中には、技術に明るいからさぞ鑑定も確かであらうと富人自らも又他人も考へてゐる傾がある樣に日頃認められるから、此に苦言を呈する次第である。上來述ぶるが如く畫家は自己の習得せる技法に捕はれて鑑定に當りて適正なる判斷を誤るものであり、窯藝技術家は自己の經驗に捕はれて古窯器の鑑定を誤るものである。卽ち其技術上の知識經驗は我等素人に比して鑑定上有利なる武器であるが如くなるも實は往々にして反つて其の判斷を誤らしむる道具となるものである。勿論技術家の言が悉く誤りであると云ふ譯では無い。卽ち其體驗せる小天地內に於ては眞實である。然し一步其外へ出れば當てにならない。此事を須らく銘記して我々が適正の判斷を下すことが肝要である。例へば宋代の定窯は酸化焰燒成であると技術家は云ふ。之は定窯の器皿を見て彼等が下した判斷であつて大體に於て正しき見解の樣だ。然し酸化熖燒成の窯に於て還元熖燒成が絕對行はれないといふことは誰も保證出來ない。又事實近年定窯々址に於て採取せられた破片中、稀ではあるが還元焰燒成の實物が發見せられた。此に於て定窯は酸化焰燒成であるから還元熖燒成にあらざれば作ること能はざる某器は出來ないといふ如き技術家の理論は忽ち崩壞することゝなる。又ある技術家は均窯釉は還元焰燒成の鐵呈色の靑磁釉に硅素に富む灰、例へば藁灰を意識的に混ずることによつて得られるものであつて、一見酸化焰燒成の酸化銅呈色による靑綠色の如く見え、此く說く者があるがそれは誤であると筆者に語つたが、これは彼が其經驗から得た知識を基として下した判斷であつて適正である。然し同じ技術家が此種均窯釉に往々見る處の裂紋に靑瑪瑙の如き濃きコバルト色の美しき小點を凝出せるを以て染めたものだと云ふが如きは噴飯を禁じ得ない。其他支那では高臺はかういふ削り方はしないが、日本ではかう削る、それだから之を日本製だとか、日本では一度素燒をしてから掛釉するが支那では生まの胎に直ちに掛釉するからこれは支那だとか云ふことは技術家が口ぐせの樣に唱へる處であるが、前記の如く何分多數の窯で調査が行屆いてゐないのだから、多くの例外もあるかも知れないし、技術家の云ふが如く判然と云ひ切れるものではない。技術家の項を終るに臨み沙翁のハムレツトにある左の名科白を引いて置く。三、鑑定の種々相然し一步
三、鑑定の種々相There 250 more things三Horatio, than Bio dreamt六三heaven EL earth, of E' your philosophy. 2、學者の鑑定學者にも色々種類があるから一〓には云へない。學問には勿論專門があるから、支那古陶磁を專門に〓究する學者があれば其言は必ず傾聽すべきものがある筈である。而して今後此種の專門學者が多く出ることゝ期待するが然し從來此種の學者は東西に亙つて指を屈する程しか居なかつた。其內で、數年前死んだ英國の「ホブソン」の如きは、大英博物館其他歐洲の金穴等が金に飽かして蒐集した巨量の支那古陶磁の眞中に坐して〓究上多大の便宜に惠まれ乍ら、其業蹟は殆ど何等擧ぐるに足るものが無い貧弱さである。故に、或る人は彼を評して英國人の魯鈍性の權化なりと酷評を下したが、彼の爲に辯護せんと欲するも其辭無きに苦しむ位である。近年に至り獨の「ライデマイスター」英の「ブランクストン」等新銳の專門家が現はれて來たが、奈何せん今囘の大戰勃發して彼等は燒物の〓究どころではなくなつた。「ホプソン」の先輩「ブツシエル」は十九世紀末頃在北京英國公使館附醫官であつて、本職の傍支那古陶磁の〓究に從事したのであるから專門の學者を以て目し難いが、十九世紀の半頃彼よりも先に旣に佛の「ジユリアン」によつて手を着けられてゐる景德鎭陶錄、浮梁縣志、陶說等の書によつて斯學の文獻上の〓究を略ぼ大成せるに近く、傍ら多年支那在住の好機會を利用して當時尙ほ支那に夥しく存在せる古陶磁の實物に就きて文獻の記述を實證し得た、其功績は沒すべからざるものがある。然し乍ら當時尙ほ唐宋及び其以前の名陶の出土せるもの幾んど之なく、從つて越汝官哥等の諸器につきては暗中摸索の譏を免かれない。此他、獨の「ヒルト」佛の「べリオ」等斯學の進歩に貢獻せる功少くないが、彼等は皆東洋史學及び考古學等の專門家であつて、斯學の專門家にあらず、其業績も限られた範圍を出でず、從つて斯學の權威を以て目することは出來ない。我邦には未だ斯學專門の學者は無い樣である。尤も二三斯學に精進する靑年學徒はあるが、未だ見るべき業績は發表されて居らず、其造詣は一に今後に期待せねばならぬ。從來我邦の學者で支那古陶磁學者と云はれてゐた者は、大抵皆他の學問の專門家であつて、本業の傍ら趣味から片手間に斯學を〓究せるものに過ぎ無い。從つて其云ふ所に甚しき誤謬があつたとて決して怪しむに足りないことである。支那古陶磁學なるものは別記する如く其範圍甚だ廣く、現在未だ其體系も定かならず、尙ほ渾沌たる有樣であるから、僅か許りの資料や限られたる知見を基とし臆測を逞うして斷案を下し未熟の學說を樹つるときは、早晩其說は破綻を來して崩壞の運命を免かれない。又假令其臆說が中つてゐても、それはまぐれ中りの僥倖に過ぎない。又學者には夫れ〓〓専門の領域がある。其專門とする領域に於ては其學者は成るほど勝れた知識を有つてゐるだらうが、一歩其領域の外に出づれば、其人の知識なり手腕なりは權威が有り得ない。例へば眼科の專門醫が盲腸の手術を行つたり、內科の專門醫が痔の手術を行ふ樣なものである。それも同じく醫學の領域內なればまだよい。假令專門家ほどでなくても相當の腕を以て治療出來るかも知れない。然し一元三、鑑定の種々相
三、鑑定の種々相ㅎ全然領域を異にする專門家例へば法律學の大家に手術は出來る譯が無い。斯かる自明のことを何故クド〓〓と說くかと云ふと、世間には只博士とかドクトルとか云ふ肩書きに眩惑して、其何の專門家何のドクトルであるかを調べもしないで直ちに支那古陶磁に關する其說なり鑑定なりを鵜呑にする人が決して少くないからである。假令博士であらうがドクトルであらうが其專門が斯學にあらざる限り、其說や鑑定は我等素人と何等變りが無い。否譯の分らぬ學說や怪しげな鑑定によつて世人を迷はすだけ彼等の方が遙かに罪が深い。今は故人になつたある畑違ひの某博士の如き、本職の傍ら支那古陶磁に關して我物顏に種々の臆說を立てゝ世を迷はしたことがある。均窯の釉を以て酸化銅の呈色による靑綠色と爲せるが如き、越州窯の所在地が浙江餘姚であることは支那人就中其地方の人士には昔から周知のことであるのに、恰かも自己の創見の如く吹聽せる如き其著しきものである。又此種の人に限つて其言說はむづかしいことを並べてあるが、其眼識は幼稚極まるものであつて、嘗て筆者が某大學の〓室に此人を訪ねたとき、其稀有の珍品として誇示する永樂染付の鉢が坊間普通に見る〓代の仿製であるのに驚いたことがある。別項蒐集奇談に記す某氏の如きも、其著書を讀むとどんな目利かと思ふが、其推重する品物を見ると二度喫驚を禁じ得ない。近頃はまた自稱先生がチラホラと市中に見えて來た。是等の先生達は斯道の〓究日尙ほ淺きに拘はらず濫りに自己流の鑑定法を速成して、之によりて一刀兩斷に迷斷を下すのであるから、之によりて迷路に彷徨する人々は誠に氣の毒の至りである。三年や五年の間に忽ち目利きになれるのならば誰も白髪頭になるまで此道に苦勞はしない筈である。3商人の鑑定此に商人と云ふのは骨董商のことである。彼等の言を聞くと、自分達は每日眞劍勝負をしてゐる樣なものである、若し間違つてイカモノを背負込めば明日から忽ち顎が乾上りますと。正に其言の如くである。彼等は旦那衆が道樂に書畫骨董を買ふのとは違つて之で御飯を喰べて一家眷族の口を養つてゐるのだから、買ふも賣るも正に眞劍勝負である。卽ち第一其心掛けから素人とは全然違ふのである。加之每日々々明けても暮れても三百六十五日書畫骨董の中に浸つて暮してゐるのであつて、我々素人が他の職業に忙がしい中で寸暇を竊んで時時書畫骨董をイヂルのとは譯が違ふ。從つて餘ほどの鈍物で無い限り、素人が十年かゝつて漸く納得出來る處を、一二年で忽ち上達してしまふ。況して十四五才から然るべき大店に年期を入れて勉強した者の如きは、若い衆から番頭さんになるに從つて人並以上の大目利になるのは當然である。然し書畫骨董と一口に云うても其範圍は仲々廣い。如何な書畫骨董商でも其全部に亘つて目利になることは到底出來るものではない。卽ち各專門があつて、其專門となる領域内に在つては目利であつても、專門以外に出てては素人と大差が無いのが事實である。又斯うしなければ一流の商人として立つて行けない。書畫でも骨董でも店に並べてゐる樣では所謂萬屋であつてJack (00〓trades, master Of noneである。尤も「はた」師と稱する者もあるが、之は品物の眞僞等は問題にせず大量取引によつて一日に全部の賣買に一割とか二割の利あ二三、鑑定の種々相
三、鑑定の種々相三りとすれば一年に何割の利廻となると云ふ風の商賣の仕方であるから、今此に問題外である。さて此はた師の如きを除いて一般の商人について云へば、先づ書畫屋には骨董は分らず、骨董屋には書畫は分らない。書畫屋の內に新畫專門あり古畫專門がある。更に細分して色々分れてゐる樣だが、それは扨置き、骨董屋の內でも支那の燒物專門の店があり又茶道具專門もある。茶道具專門の商人には古來茶道具として使用し來つた支那陶磁は分るが、其以外の支那陶磁は分らない。それだから、今此に問題として取上るのは支那古陶磁專門の商人であつて、其以外の者は問題外である。苟くも支那古陶磁を專門に取扱つてゐる商人であるなら支那古陶磁につきては非常の目利であるべき筈である。此事は本項の初に述べた處で分ると思ふ。然るに此の目利の商人が事變前支那通ひをして往々僞物を摑み、中には現代日本製の仿僞などを相當の金を出して買つて歸る者があつたと云ふことを聞いたが、これはどうした譯か甚不可解のことであるが、一說にそれは何か買つて歸らねば手ぶらでは日本へ歸れない。勿論往復の旅費から滯在費までかけてゐるのだから、算盤から云うても何一つ目ぼしい品を持たずに歸ることは出來ないのだが、商人はまた其店の格式に應じて仲間に對する面子と云ふものがある。苟くも相當な店を張つてゐる以上、遙々支那まで來て空手で歸つては他の同業者や客の噂も顧念せられる。それも支那へ出かけた他の同業者が皆空手で歸るならばよいが、中には相當の逸品を持つて歸る者があると、此方は愈面子を失ひ信用も如何と云ふ譯で慾得を離れて血眼になつてくる。此樣なときには冷靜に判斷する力を失ひイカサマ物を摑むのださうな。果して然らば商人も仲々樂な身では無いと思ふ。時には商人が仿僞の品を眞と誤信して賣り、客もまた眞なりと誤信して買ふこともある。商人は如何に目利であつても神や佛ではない。而して支那の古陶磁には極めて巧妙な仿造品があるから右の如きことも起り得るのである。又稀には之と反對に眞實古い者を時代の下つた仿造品と誤信して賣買することも事實ある。右の如き間違は善意の間違であるから致方ないが、時には事實仿僞であることを知り乍ら客の目が利かないのに乘じて眞として賣ることがある。これは全く質の惡い商賣であるが事實甚だ有り勝のことである。尤も此種の商賣に二種ある。其一は最も罪の深いやり方で、眞品が時價一萬圓のものの仿僞の品を眞と欺いて一萬圓に賣るのである。其二は時價一萬圓の品の仿僞を三千圓か四千圓位の中途半端の値で賣るのである。此後の方は最も普通に行はれる方法であるが、其譯は時價の二分の一か三分の一の値であるから賣行が早い。慾の深い客など忽ち引かゝるのである。且又時價の半分三分の一で賣つたのであつたら後に萬一其仿僞なることが發覺しても申譯が立つ。眞ならば一萬圓もする物をどうして三千や四千で賣りませうやと云へば客も一言無い譯だ。それだから割安の品は最も警戒を要する。然し乍ら高價だとて決して油斷はならぬ。何となれば鮭は魚ではあるが、總ての魚は鮭でないと云ふロジツクの原則が此場合にもあて嵌るからである。商人は右の如く商賣上惡いことをする者もあるが、然し何と云うても每日眞劍勝負をしてゐるのだから目の利くことも事實である。從つて、相當の目利先生も商人に〓へて貰ふ者があるのは怪しむに足りないことである。中には每日の樣に商人の許へ通ふ人もあつて、二三日其顏を見ないと何か餘ほど物淋しいのであらう、如何に評判が立つても人目を忍ばず足繁く通ふ、其有樣は恰かも色女の許へ通ふ樣だと口さがなき京童の噂し合二三三、鑑定の種々相
三、鑑定の種々相ニへる例もある位だ。商人は目利であるけれども、其缺點は、流行を追ふのに專念して他を顧みないことである。勿論かうしなければ商賣が成立つて行くまいが、之が彼等の弱點である。磁州窯が流行すれば磁州窯のみを追廻して他を顧るに遑が無い。赤繪が流行すれば赤繪のみを追廻して他は打捨て置く。だから少し思慮ある客であつたら、此流行の裏を搔いて、比較的安く流行せざる名品を買收することが出來る譯だ。又二三十年前の商人は同時に師匠でもあつて、客に對して之は良い品だから買つて置きなさいと勸め、客もまた唯々諾々として買ふと云ふ風でお互に頗る暢氣であつたが、段々世の中が忙しくなつてきて色々な先生が出て來て種々樣々の本を書く、或は圖錄を出版する。博物館其他の展觀に昔は仲々見ることも出來なかつた名品が續々と出る。加之古い御客も商人も段々白玉樓中の人となつて客も商人も一新して新進氣銳の人計りとなる。そこで客は商人の言など唯々諾々として聞いてはゐない。商人もまた昔の商人の樣なことを云うては客に馬鹿にされる。だから客も商人も互に負けず劣らず勉强することゝなつた。これは斯學の進歩を促す結果となるから甚だ喜ぶべき傾向である。或人の話に大阪の商人は客と共に儲ける商賣をする。例へば一萬圓の品を賣るのに此品は必ず將來高くなつて儲かりますから御買なさい。若し又お厭やになつたら何時でも引取りますと云うて買はせる。二三年經つと其品が一萬五千にも二萬五千にも値が上る。其時、どうです一萬圓で二三年前お納めしたあの品は今一萬五千か二萬五千なら買手がありますからお賣りになりませんかと云ふ。客も儲かるから手放す。さうすると商人は又一萬なり二萬なりの別の品を勸めて買はせる。客も儲かつて金はあるし.其商人の言は已に信用あることがニ實證されてゐるから喜んで買ふ。若し又二三年經つて厭になるか金が要るかするときは、商人は厭な顏もせずそれだから大阪では商人も客も共に儲かつて其間が至極圓前言の通り元價なり一割引なりで氣持よく引取る。商人は客に品物を賣つたが最後どんなことがあつても引取るなどは以ての外滿である。之に反して東京では、而してその樣な客は鼻のことで、若し强て買戻してくれと賴めば精々三分の一か四分の一以下の値をつける。抓みで店へ來ても甚敷無愛想に取扱ふから、客も懲りて再び其店へ行かなくなると云ふ。按ずるにこれは上方さうすれば獨り其お客では土地が狭いから商人が東京の樣なことを爲したらば其噂が忽ち市内一杯に擴がる。が來なくなるばかりで無く、他のお客も恐ろしがつて其店へは寄り付かなくなる。卽ち其店は商賣が出來なくこれは大體大阪と云ふ所が三百年の昔からなつてしまふから自然商人は信用を重んぜざるを得ざる樣になる。何の商賣によらずさうしなければ商賣をやつて行け商業地であるから自然商業道德と云ふ事が發達してゐて、又一つには此道の商人が怜悧なのと皆相當の資產があつて何も焦る必要が無いからなくなるからでもあるが、東京は何と云うても廣い。人口七百五十萬を擁して紐育に次ぐ世界第二の大都市であるから、でもあると思ふ。一人の客から絞るだけ絞り取つたら門前拂を喰はした處で明日はまた別の客が金を棄てに來るから差支無い。假令前の客が惡口を云つて廻つた所で此廣い東京では新聞か雜誌にでも出されぬ限りそんな噂は二三日中にど卽ち朝には越客を迎へ夕には吳客を送るのだから自然商賣の仕方が輕薄になこかへ消えて無くなつてしまふ。又殊に震災後は一般に他の商人同樣仲々活計を立てるのに苦勞をしたから諒とつて信用を重んぜざるに至る。中に此樣なのがあると云ふに止まる。東すべき事情もあつた。尤も以上は皆斯くの如くだと云ふのでは無い。ニ三、鑑定の種々相
三、鑑定の種々相二六京には勿論大資產を擁する者も少なからずある。是等は何も焦つてまで金儲をする必要が無いから言ふ迄も無く信用を重んずる。又資產が無くとも天性德義を重んずる者は惡いことをしろと云はれても決してしないから安心すべきである。而して日支事變以來支那から、新しく骨董品の入つて來る途が跡絕えたから、二三年來市價暴騰して、十年も前に賣込んで後で舌を出した品でも先値に引取つたとて結構大に儲かるのが近頃の實情だから、十年前に一度絞つた上門前拂を喰はすか鼻を抓んだお客でも、今行けばまた歡迎されるかも知れない。否昔賣込んだ品を取出すのに朝夕苦勞してゐるとも云ふ。4、素人の鑑定「ナポレオン」でも「ヒツトラー」でも我秀吉でも皆生れてからの英雄ではない。初は衆生と同じく赤ん坊であり子供であつたのである。されば鑑定家でも素人でも初は同じ子供であつたのだが、一方はいつの間にか目利となり、他は素人になつたのである。其相違の起つた理由は素質の相違もあるが、大體一方は斯道に精進勉强し、他方は然らざりし爲であつて他に何等理由は無い。從つて目利きだとて驚き恐れる必要も無い、然し又侮るべき理由は無い。だから二十年三十年の經驗と精進とを以て或程度の眼識を得た人があると假定する。若し此人が世の中に絕無稀有の珍品だと云ふ物があらば、それは相當に信用すべき言だと考ふべきである。何故に右の如き事を述べるかと云ふと、世の中には頭の小さな人がゐて葦の髓から天井を覗いて、世の中はこの樣に狹いものと信じ切つてゐる者が少くなくないからである。嘗て筆者が十餘年前陶磁と云ふ雜誌に定窯紅磁と云ふ小論文を投載したことがあつた。定窯紅磁と云ふものは磁學界の疑問であつて、未だ實物も發見されて居らず定說も無い至難の問題であるのだが、右拙稿が陶磁誌上に出てから約半年か一年すると、地方に居る或る靑年が知人の紹介で拙宅に來訪した。其時の用向は、拙稿を讀んで其定窯紅磁を發見したとて筆者に見せに來たのであつた。而して其品物を見ると徑五寸位高二尺厚七八分もある圓筒形の片手で漸く持上げられる位の重い燒物である。成るほど紅い釉が厚くかけてはあるが定窯とは似もつかぬ、今恐らくそこらで造つた燒物であつた。又他の一例は江州の片田舍に住んでゐる老人であつて、筆者の書いたものを雜誌か何かで讀んでは色々燒物の寫眞を送つて來るのであるが、每度飛んでもない事計り云つて來るから小生も多用であり返事もせずに打捨てゝ置いた。すると二三年後遂に實物の燒物を送つて來た。それは高七八寸位の壺で靑綠の釉がかけてあつて達磨の像が浮彫になつて居り、それに朱と黄との釉がかけてある。夜店で精々一圓か一圓五十錢で賣つてゐる品物である。そしてそれに蟲目鏡が一つ添へてあつた。老人の書面によると此燒物には蟹爪紋、椶眼等が現はれてゐる、從つてこれは汝窯であると云ふ次第だ。之には小生も弱つた。すると數日經つと老人の命を受けて其甥の某が訪ねて來た。此人は長年東京で商業を營んでゐて、燒物こそ知らないが話のよく分る人であつたから、小生は先づ譬諭を以て說いた。曰、昔趙高と云ふ者が居て鹿を指して馬だと强辯した。成るほど馬と云ふ者は足が四本、目が二つ耳が二つあつて尻毛があると云ふと忽ち鹿を持つて來て、それなら之は馬であるか三、鑑定の種々相〓〓
三、鑑定の種々相えと云はれれば一言無い。然し鹿と馬とは違ふ所も多々あるからいくら趙高が强辯を弄しても馬と鹿とは同一でないことは明白な事實である。今此燒物に果して老人の云ふ如く櫻眼や蟹爪紋があるか否か分らないが、若し假に有つたとしても之は汝窯ではあり得ない。大體江州の田舎に汝窯などある譯が無い。日本では三都の人、支那なら北京、上海、、南京等大都會の人、歐米各國の首都の人、是等の好事家が金に飽かせて搜してゐる樣な珍稀な而かも支那の古い美術品が、江州の片田舍にあつてたまるものか、馬鹿もよい加減にするがよいと傳へて貰ひたいと云うた。聞けば此老人は數年來中氣で半ば臥床した切りで門外にも出ないと云ふ。せめて三都の博物館美術館でも見學するならばであるが、それも叶はぬとあらば燒物道樂など止めた方がよい。寧ろ四季折折の花卉でも庭に植ゑて樂しむ方が宜しいと傳言した事であつた。田舍の人は誠に氣の毒である。それは良いものを見る機會が無い。又共に切瑳琢磨すべき良友も乏しいから自然時勢に後れ勝である。然しまた其缺點を自覺しないで夜郞自大井蛙の見に陷る弊もある。都會の人はそこへゆくと惠まれてゐるから、右述べた二例の樣な突飛な人は先づ無い樣である。然し三五年も燒物いぢりをすると忽ち大家氣取りでよい氣持になる例は隨所に少くない。此種の人若し囘頭の機緣に惠まるれば則ち救はれん若し然らずして猪突の一生を終るならば遂に開眼の機は來らざるべし。諺に天狗は藝の行止りと云ふことがあるが、別して支那古陶磁の鑑定には此金言を忘れないことが肝要であつて、每日三度位此お題目を唱へるのが可い。欺くに其法を以てせば君子と雖も欺かれる。されば僞物を摑むと云ふことは決して恥づべきことではない。されば僞物を摑むと云ふことは決して恥づべきことではない。元來僞物は摑む樣に造つてあるものだから、之を摑む方が寧ろ當然であつて何等怪しむに足らぬことである。然し摑んだまゝ何時まで經つても其僞物だと云ふことが分らないならば、それは眞に恥づべきことである。故にある品物を求むる前に十分其眞贋を檢討して、確に眞なりと信じて買求むべきは勿論であるが、求めたる後も常に前後左右は勿論上からも下からも縱からも橫からも之が檢討を怠らざることが肝要である。而して若し其品が斯る不斷の檢討に堪へ得るならば、それは先づ眞に良いものであらう。若し之に反して、先に眞なりと信じた品に何か疑問が生じ、遂にそれが贋物なりと決定した曉には、如何な天狗の鼻も忽ち一ペんにへし折れてしまふ。然し決して憂ふること勿れ。それと同時に眼識は必ず數段の飛躍的進歩を遂げるものである。之は我輩の私言に非ず、先輩の一致せる意見である。只反省することを知らざる人は決して眼識は進步しない。されば僞物を摑むことを恐るゝことは決して無い、只反省せざることを恐れねばならぬ。世の中には僞物を摑むことを恐れて一人で買ふことの出來ない人がある。常に先生の鑑定を仰ぐか、お出入の骨董屋の意見によつて買ふのだが、此種の人は決して眼識が進步しないものだ。禪家の諺に門より入るものは家珍にあらずと云ふことがあるが、人から〓へられたことは畢竟附燒刃で眞實の知識で無い。自分で苦勞して悟り得たのが眞智である。鑑定にもまた此原則が其まゝ當嵌るのである。されば先輩や骨董屋の言を聞くのは可いが、それは飽くまで參考とすべきであつて決してそれを鵜呑にすべからず、其言の正否につきても十二分に納得の行くまで檢討を加ふべきである。讀者若し幸に本項に記する處を是なりと考へ此心掛を堅持するに於ては、數年ならずして我等以上の目利となることは請合である。我輩等には誠に此樣の祕訣を〓へてくれる三、鑑定の種々相二九
三、鑑定の種々相三〇先輩が無かつた。故に之だけの基礎的知識を得るのに三十餘年の歲月を要し、七ころび八起の苦を甞めた。これ元より我輩の素質が惡いからでもあるが、良師を得なかつたのも確に不運であつたと思ふ。だが支那古陶磁の學は餘りにも分らないことが多過ぎる。只先輩諸氏のお蔭で、之を東海道に譬ふれば本道だけは今日漸くどうかかうか分つた形であるが、一歩橫へ入れば丸で迷宮の樣だ。之が全部詳になるには如何に努力したとて時代の氣運が來なければ駄目である。我々老人はもう望みが無いが、若い人は氣長に待つべきである。こ四、蒐集奇談鑑賞を行ふ前に十分確かな鑑定を行ふことが最も必要であることは既述した。而して若し鑑定を粗漏にして贋物を眞品と思つて無暗に惚れ込んでしまふと、所謂アバタも笑くぼに見える樣になり、遂には贋物計り摑んで喜ぶと云ふことになることも旣述した。「スベイン」の文豪「セルヴアンテス」の有名な諷刺小說「ドン·キホーテ」の中に主人公が田舍の木賃宿のおさんどんに惚れる場面が面白く可笑しく書いてある。夜前喰べた鰊とニンニクの鼻持ならぬ口臭を蘭麝の美香と思つて心もそゞろに有頂天になるのだが、贋物に迷つて邪道に落ちると丁度此主人公の樣になるのだから恐ろしい、笑つては濟まされない。他人から見れば實に馬鹿らしいのだが、世の中には案外此樣の事例が乏しくない。筆者の狹い見聞を以てしても大小幾多の實例は殆ど數へ切れないほどある。其內で最も極端な實例を二つばかり述べて、他山の石と爲し世の戒とする。十餘年前に歿した或る病院の院長さんがあつた、此先生如何なる動機からであつたか知らないが、無性に支那の古陶磁に凝つて自分の資產を全部之に投じたのだが、其金額は少くも二三十萬に上るであらうと云はれてゐる。然るに先生は職業が多忙であつた爲であらう、誰一人として燒物の友人も無く又相談相手もなく、買求むるにもお出入の或る骨董商只一人のみから購入した。其商人は時々支那へ通つて品物を仕入れて來ては此先生四、蒐集奇談三
四、蒐集奇談〓に賣込むので、それが此商人の專門の商賣であつた。勿論此商人とて初からさうでは無かつたらうが、此先生と取引する樣になつてから後何年間は客一人に商人一人と云ふ骨董商賣には珍らしい商法が續いた。處が此商人が段々吹込んだ薰陶のお蔭であらう、院長先生追々斯道の蘊奥に通ずるに從ひ、かういふ物が欲しい、あゝいふ物は無いかと色々の註文を出す。さうすると其商人は早速支那へ飛んで行つて御註文通りの品を持歸つて納める。それは大抵大觀何年臣蔡京恭造とか、熈寧何年何月臣王安石謹製と云つた樣な銘のある品が多く、品種は花瓶、壷、香爐、皿鉢、盤等々大中小樣々あるが、殆ど皆所謂宋赤繪と云ふものばかりである。凡そ宋赤繪といふ物は皿一枚あつても珍稀だとて人々大騒ぎをするのだが、此先生の處には斯くして蒐集した大小種々の器皿が、而かも右述ぶる如き立派な銘のあるものが何百と羅列してある。筆者の先輩である某大家が一日ある人の勸めに從つて此蒐集を拜見に行かれたことがあるが、大抵の人の蒐集には一點や二點眞品があつて、それを賞めて歸るのであるが、此時ばかりは前後左右見渡す限り滿堂盡く文字通り眞赤な贋物ばかりで、何とも挨拶の仕樣がなく、逃げる樣にして歸つて來たが、アンナ困つたことは無かつたと筆者に述懷された。或る人の話に此商人は院長先生の註文があると直ちに支那へ行つて斯樣かく〓〓の品をと註文して作らせる。それが出來るのを待つて內地へ持歸るだが其間約二三ケ月を要する。東京へ着くと築地邊の某高級旅館へ陣取り、二階の大廣間に緋の毛氈を敷いて金屏風を立て廻し、其前に持歸つた宋赤繪の名品を陳列して、自分は紋付に仙臺平の袴、白足袋と云ふ打扮で例の先生を招待して色々の效能を述べ立てゝ賣込むのださうな。此先生は歿せられるまで其蒐集がひどい贋物ばかりだと云ふことに少しも氣が付かず、自分の死んだ後は此何百點の品は皆何層倍の高價で飛ぶ樣に賣れるから遺族は困るどころか餘程豐かな生活が出來るものと深く信じ込んでゐたらしい。卽ち先生の死は正に極樂往生であつた。若しこれが死の直前に氣が付いたらどうであつたらう。只に興覺める位では濟まされない。其煩悶は如何ばかりか、眞に想像するだに悲慘の極みだと云はねばならぬ。されば死ぬまで氣が付かなかつたのはせめてもの慰めであつた。それにしても只氣の毒なのは此贋物蒐集を背負込んだ遺族である。其後どうなつたかと他人事乍ら案じてゐたが、世の中は不思議なもので誰が心配したのか骨折つたのか知らないが、何百と云ふ贋物が皆相當な値で二つ賣れ三つ賣れて、結局儲けには無論ならなかつたが大した損にもならずに濟んだといふ事を聞いて、先生及び其遺族の爲に私かに祝福したことであつた。それにしても先生は前生に餘ほど善根を積まれたものであらう。他の人には此樣な僥倖は到底望まれないことだ。又彼の商人は實に罪なことをしたものである。右は已に過去の實例であるが、現在に於ても之に類した實例がある。今囘の時局の波に乘つて今盛んに活動してゐる人だが、海外で金儲をした或る成金先生がある。此先生の蒐集した支那古陶磁の名品を數年前某所に陳列して展觀したことがある。其目的は我等如き節穴同樣の眼を持つてゐる低能者に實物〓育を施すに在つたらしい。此陳べた品物を見ると我等如き無學の者が鐵のわらじをはいて捜し廻つても見付からない珍稀な品がザラ〓〓と並べてある。例へば宋代から明代の中期以前へかけての歷とした年款のある染付や赤繪の類がいくらでもあるのだ。之は夢か現か幻かと我乍ら淺ましく覺えて我身を抓つてみたことである。この樣に珍らしい物が斯う澤山あるならば何も我等が白髪頭になるまで苦勞することは無い。此先生は燒物は金と同じ樣に安々四、蒐集奇談壹
四、蒐集奇談番と集まるものだと思つてゐるらしい。金と違つて燒物を集めるには眼が必要なのだ。眼が無かつたらいくら金を出しても贋物ばかり集まる。尤もそれも信用ある商人からでも買へばよいかも知れないが、一朝信用すべからざる者を相手にしたら卽ち此の如き結果となるのだ。人の噂によると此先生は支那の燒物に關する數種の著書を以て一方の目利として知られてゐる某氏の指導によつて此蒐集を行つたのであると云ふことだ。そして其某氏は何でも商人と結託して相當甘い汁を吸つたと云はれてゐるが、全く馬鹿々々しくて話にならない。然し右二例の如き行き方も一種の蒐集法であり、之を鑑賞して滿足してゐればそれも一種の鑑賞の仕方である、と强て云へば云へないことはない。此世は所詮虚生が一炊の夢である。縱ひアバタであらうと笑くぼだと信じて嬉しくてたまらないならばそれもよし、又鰊とニンニクとの口臭であつても、それを蘭麝の美香だと有がたがつて夢現つの陶醉境に耽溺出來るならばそれも可である。而して其まゝ極樂往生すること彼の院長先生の樣な人は寧ろ浦山敷いことである。然し馬車馬式に傍目も振らず、たゞ驀地に一筋道を猪突して死ぬ前に何かの拍子に一朝眞實に目覺めたならば果してどうであらう。それこそ臍を嚙んでも及ばないであらう。又彼の院長先生の如く死後大して損もなく賣れて遺族も迷惑が少くて濟んだと云ふのは眞に千人に一人の僥倖であつて、誰もがこの樣な僥倖は望み得ない。それだから若し初から燒物イヂリを全然しないのならば兎に角、苟くも燒物を鑑賞せんと欲するならば、先づ眼識の修養向上に志すことが肝要である。若し又他人の鑑定を信用するならば誰かゞ云うた樣に先づ以て其人を鑑定することが極めて大切である。さもないと前記の成金先生の樣なことになる。此人は今も尙ほ日々巨萬の富を積みつゝあるのだから少し位贋物を摑んだところで何とも思つてゐまいが、にはなれないから注意が肝要である。誰も此人のやうに大金持孟四、蒐集奇談
五、支那古陶磁學の現狀〓五、支那古陶磁學の現狀支那古陶磁の鑑賞を行ふには、鑑定が先決問題であつて最も肝要であることは、上來縷述したところで明かである。然らば如何にして鑑定を行つたらよいかと云ふと、實地に就て數多く良き品物を見るといふ事は最も大切である。然し博物館や美術館以外に個人の珍藏せる名品を數多く見る機會は、特殊の關係ある人以外には容易に惠まるべくもない。又、商店へ行けば其時々に應じて若干は見られるが、何等の豫備知識無くして時々十や二十の物を見たとて普通の人であつたら容易に見當さへも付かない。若し信用すべき商人がゐたら其商人に〓へて貰ふのもよからう。然し前に述べた樣な例もあるから迂濶に信用は出來ない。最もよき方法は專門の學校でもあつたら入學して三年か五年勉强するのであるが、現在の處支那古陶磁の鑑定を〓へる學校は無いやうだ。然し支那古陶磁學とでも云ふべき學問はある。此學問は支那に於ては乾隆三十九年初めて支那古陶磁に關する專書陶說が出た。其後嘉慶十年景德鎭陶錄と云ふ第二の專書が出たが、其後今日に至るまで支那日本及び歐米の磁學家等によつて熱心に〓究せられ相當の進歩を遂げた。殊に十數年以來、今次歐洲第二大戰の勃發するまでの間に長足の進步を遂げて、其結果之を三十年前の斯學の狀況に比するときは隔世の感がある。然し乍ら之を斯學が將來に於て發達すべき廣さと深さの豫想に比較すると、未だ甚だ幼稚なるを免かれない。支那古陶磁學の確乎たる知識に立脚して行はれざるべからざるものであることは抑も支那古陶磁の鑑定は、多言を要しないと考へるが、奈何せん斯學の現狀は、右述ぶるが如く未だ甚だ幼稚であつて、其十分なる進步かくの如く斯學の現狀が幼稚なのを遂げ鑑定に確乎たる基礎的知識を供するは尙ほ前途遼遠なるを思はしむ。今玆に其一端を略述して斯學の現狀を明かにして置くは畢竟其進步に幾多の困難なる事情あるが爲であるが、何となれば初學或は斯學を修むれば忽ち支那古陶磁の鑑定に流通無碍の神通力をことが必要であると考へる。斯學修得によりて現在體得し得べき鑑定力の範圍と程度とを豫め知らしめて置く得るが如く誤解する虞あり、のが當然だと思ふからである。1、現品蒐集及比較〓究の困難現品には傳世品と出土品とがある。イイ傳世品元來支那の陶磁は古來官民兩窯の別がある。傳世品とは製造以來人間に傳はりて現在に至れるものである。時に民窯をして燒進せしむることもあるが原則として官窯は帝室の供御及高官に賞賜せらるる器皿であつて、之が爲に特別の窯を築造し、監督官を任命して之が燒造を掌らしめたものであつて、勿論其時代に於ける最優〓五、支那古陶磁學の現狀
五、支那古陶磁學の現狀え等品である。其產地は五代に於て越州、柴、宋代に於て北宋に越州、景德鎭、定汝.南宋に於て修內司、郊壇元代以降〓末まで景德鎭の諸窯である。民窯は民間一般の需用品であつて品質は官窯に劣るが、然し其上手のものは官窯と大差なきものもある。それより以下最低級品に至るまで種類が甚だ多い。其數量は勿論官窯の幾百千倍に達したものであらうが、元と民間日用の雜器であるから破損廢棄の運命に遇つて、傳世品は其割合に少い。尤も中には外國に輸出せられて其地に於て珍重愛護せられた爲に傳世して、今日に至つたものも少くない。官民兩窯とも原則として時代の古きほど、又治世の短きものほど傳世品が少く、之に反せる場合は多きことは理の當然である。明代に在りては萬曆、嘉靖兩窯は比較的多く傳世し、正德、弘治等は比較的少く、成化以前の傳世品は甚だ少い。官窯は歷代支那の官吏、權貴富豪等に珍重愛藏せられて比較的よく殘存してゐた。而して從來外國に流出せるものは甚だ少なかつたが、〓朝の末期から漸次外國に流出するに至り、殊に支那革命以來優秀なる官窯の器皿が續々と海外就中歐米諸國へ流出し、之が爲め斯學の進歩に資せしことが少くない。就中從來確實なる標本の缺乏に苦みたる宋代の官窯中貴重なる汝、修內司郊壇、及明代中期以前卽ち成化、宣德等の官窯につきては十年以來確實なる幾多の標本を得た樣である。本邦の好事家は茶器に萬金を抛つのみであつて此種の名器に無頓着であつた故に、其本邦に將來せられたものは甚だ少い。かくの如く宋代以降の貴重なる官窯の器皿の標本を多く入手せる結果今次歐洲大戰直前に於て歐洲の磁學家等は支那歷代の官窯につきて略確實なる基礎的知見を把握するに至つたのであるが、民窯に至りては其產地は支那全土に亙り、其種類は繁多、其產額は巨大なるが故に、其產窯及時代を確知することは甚だ困難である。只歐米各地の美術館及個人の所藏品中比較的少數の傳來確實なる例によりて其製作年代を推定する者があるのみである。而して其產窯に就いては何等確證はないが、支那產輸出陶磁器皿は明代以降大部分(九割に達すと云者がある)景德鎭の產なりと云はるるによりて、其他窯の產と推定し得るもの以外は、漠然之を景德鎭の產なりと擬定するに過ぎない。要するに官窯の器皿は比較的其產地及時代を知り易く、民窯は產地及時代共之を知ることが困難である。尙ほ近年外國へ流出した官窯民窯の器皿は必しも傳世品のみに限らず多くの出土品もある樣だが便宜上此に併せて記述して置く次第だ。ロ、出土品a a古墳出土品近年古陶磁の市價〓騰するに從ひ、支那及朝鮮等の古墳を發掘する者が少くない。其朝鮮の古墳から出土する陶磁器の內には優秀なる支那古陶磁も少くないが、從來朝鮮の燒物のみを〓究せる人達の爲め、朝鮮出土なるの故を以て漫然朝鮮產なるが如く考へられてゐたものも少くない。然し其作行を見、支那古陶磁中同種のも三九五、支那古陶磁學の現狀
五、支那古陶磁學の現狀명のと比較して斷じて朝鮮產にあらず支那產なるものと認定すべきものであつて是等の內には宋代の景德鎭窯及定窯の名品がある。就中金花の定碗の如き、從來支那の古文獻に記述せられあるも支那本土よりの發見例甚稀少なる珍らしきものもある。支那本土の古墳出土品と認めらるるものにして海外に輸出せるものは蓋し決して少數では無い。其內の官窯は多く歐米に拉し去られて、本邦に將來せる者は大部分民窯の產である。而して古墳出土品には從來觸目の機會稀であつた太古から秦漢、六朝、唐.宋代より明代初期に至るまでの產と思考せらるるもの多く、斯學の知見に資すること少くない。b古窯址の出土品aと同じ理由によりて、支那人が古窯址を發掘して比較的完好の器皿を得、之を商人に賣却せるものの海外に流出して本邦に將來せられたものも少くない。其最も顯著なる例は龍泉窯であるが、此他均窯、吉州窯及越州窯の窯址も發掘せられたるものの如く、其外江西河南、山西等の諸窯址にして發掘せられたるもの恐らく少なくあるまい。定窯々址は久しく歐米磁學家等が捜索に苦心せる處であつたが、未だ之を突止むるに至らなかつた。然るに一昨々年我小山富士夫氏が周到なる豫備調査の後文字通り彈丸雨飛の危險を冒して其窯址を發見踏査して、表面採集によりて數千の破片及窯道具を將來して斯學に多大の寄與を爲せるは、今尙記憶に新たなる所である。舊都市の廢墟よりの出土品鉅鹿は黄河沿岸地方の一都會であつたが、古窯址にあらず又古墳にもあらず鉅鹿出土品といふものがある。然るに北宋の末期大觀年間に黄河大洪水の爲に河水氾濫して此地を一丈八尺の泥土の下に埋沒してしまつた。(或は建築物の基礎工事だとも云ふ)地下から色々の品物が出て今から三十年許り前に偶然井戶を掘つた爲に來た。其中に宋代の陶磁もあつた。これが磁學家の注目する處となり、好事家が相當の高價で之を買求むるに是等は鉅鹿の器皿と一括して稱より此地方の農民等が銳意發掘に從ひ種々の器皿が續々と出土するに至つた。恐らく此近傍又は多少離鉅鹿は元と都會であつたから此地に窯があつたとは考へられない。せられてゐるが、然し其窯も或は恐らく洪水で埋沒したかれた地方に幾多の窯があつて此地の需用を滿してゐたものであらう。然し中には磁州窯の產も相當あるのかと思ふ。何れにせよ鉅鹿が埋沒したも知れず現在の處全く不明である。從つて之と比較することによつ年代が明白であるから此地から出土する者は皆其埋沒當時の實用品であつて、鉅鹿の發掘は非常に有益なる資料を斯學に提供せるものであて他の品の時代も略ぼ考定出來る譯であるから、る。就中砧手の破片が幾千となく採集せられたこ之と同樣の關係に在るのは我鎌倉海岸に於て近年龍泉窯靑磁、之によりて從來只漠然と宋代の產と推定せられてゐた此種靑磁の產出年代に確證を與へたのは甚興とである。味あることである。又西紀九世紀に廢墟となつた波斯灣「アル、バスラ」港に近きサマラ」王朝の一遺跡か四五、支那古陶磁學の現狀
五、支那古陶磁學の現狀三ら唐三彩磁州窯、及越州窯の器皿と認めらるる破片を採集せる如きも此種窯器の產出年代に證據を提供せるものである。此他「ヱヂプト」の「フオスタツト」に於て唐宋以降近代に至るまでの多數の支那陶磁器の破片が拾はるる如き、近年南海「タイ」安南方面より多數本邦に將來せらるる支那古陶磁器皿中多數の出土品及海中より拾ひ上げられたるものを包含せる如き、又昔「アラビア」及支那の船舶が盛んに海外貿易に從事せる際に寄港せる前記諸地方及以外のマライ、印度、「ペルシア」灣、「アラビア」、「アフリカ」等の諸地方に亙りて支那古陶磁の完器及破片が多數に出土する如き、又近年滿蒙諸地方に於て拾はるる多數の支那古陶磁の破片の如き、是等は多くの場合唐宋以降現代に至るまでの雜多の器皿を包含し、其出土の狀況は詳でないものが多いけれども從來傳世品に見ることを得なかつた多くの新資料を提供して斯學の進步に少なからざる寄與を爲しな之を要するに從來容易に偶目の機會がなかつた傳世及出土の器皿が近年多數世に現はれた爲めに斯學の進步を促したことは少々でないことは事實であるが、奈何せん是等の現品は世界各地の博物館及美術館か、然らざれば多數の好事家商人等の收藏する所と爲つて、之を一堂に集めて比較〓究するが如きことは到底思ひもよらぬことである。或は時に磁學家中比較的多數の器を偶目する機會に惠まれたる者があつても其素質の適否、修養の深淺、記憶の確否等によりて其記述は必しも適正精確でない。而かも斯る好機會に惠まれざる多數の者は其記述を基礎として、又は之を有力なる參考として〓究を行ふといふ實狀であるから、誤りたる判斷を下し又は迷路に彷徨することは決して稀でない。2、2、窯址の學術的發掘の行はれないこと云ふ迄もなく支那は古來陶磁の產出を以て世界に有名である。然るに歴代の窯名を比較的最も多く詳記せる葉麟趾著古今中外陶磁彙編にも唐朝窯器として十四窯、五代窯器として二窯、宋朝窯器として三十窯、元朝窯器として六窯、明朝窯器として二十六窯〓朝窯器として四十窯、民國窯器として三窯、合計百二十一窯を擧ぐるに過ぎない。今本邦の窯名を詳記せる横河民輔翁著日本諸國窯一覧を見ると本邦の窯數は合計一千二百內外に達してゐる。尤も此內には九谷の如く靑九谷、赤繪九谷、赤九谷等の異名の下に別種として數へたものが若干ある。此種のものを控除しても其總數は恐らく一千を下るまい。四千年の歷史を有して本邦に數倍する地域を包括し、而かも古來陶磁器を以て世界的に名聲ある支那の窯數が右の如く僅々百二十一に過ぎないといふが如きことの有り得ない事は論を俟たずして明白である。之を本邦の例によつて推測すると支那の窯數は如何に內輪に見積りても三千以上恐らく五千を下らざるべく、或は萬以上ありたりとて驚くに足らぬ。而して是等巨數の窯は景德鎭及磁州等の如く千數百年の古より今に至るまで燒造を繼續するものあり、又龍泉の諸窯の如く已に廢墟と化したものもある。而して前者は勿論、後者の如き窯址と雖も殆ど一つも未だ學術的發掘〓究を行つた者あることを聞かない。支那古陶磁中官窯は姑らく之を措き、民窯の如く傳來の確實なる傳世品少く、近年出土品によりて稍〓究資四三五、支那古陶磁學の現狀民窯の如く傳來の確實なる傳世品少く、近年出土品によりて稍〓究資四三
吾支那古陶磁學の現狀■料の豐富なることを得たるも其產窯及時代につきては殆ど何等確かなる證據が見當らないものに就きては、窯址の學術的發掘〓究が最も有力にして、且殆ど唯一の〓究方法であるが、其實行は一に今後機運の到來を待たねばならぬ現狀である。前述の如く越州、龍泉兩窯及其他若干の窯址は已に土人の濫掘に遭ひ、出土品の一部分は本邦に於ても偶目する處であるが、元より之に學術的の意義を多く期待することを得ない。3、科學的分析の行はれないこと及び信賴し難きこと支那古陶磁の素地、釉藥、靑料及顏料等の科學的分析を行ひて其異同を辨別し以て其產地及時代を考察することが出來れば、之れまた斯學の進歩に寄與することが大きいであらうとは誰でも考へることである。支那陶磁の分析を行つた最も有名なる例は十九世紀中半頃「エベルマン」、「ブロニヤール」、及「サルベタJ-諸氏竝に十九世紀末「ヴオーグト」氏が行つたものである。以上の諸氏は窯業技術の專門家であつて、各其當時景德鎭に於て用ひてゐた原料若干を得て之が分析を行ひ、其結果を公けにした然し是等諸氏が分析を行つた目的は元と十八世紀以降歐洲各地に於て非常なる勢を以て流行せる支那陶磁器を自國に於て仿造產出せんとした努力の一結果であつて、而かも其分析は古陶磁器について行つたものではなくて當時の原料について行つたものに過ぎない。且其原料は單に景徳鎭に於て用ひてゐたものの內其一部分に過ぎなかつたから、素より之を以て支那陶磁全般の異同を辨別することは出來ない。又數年前英國の「ヘザリントン」氏の支那釉藥に關する小著があるが、單に一般釉藥の呈色の變化を科學的理論的に說明するのが其目的であつて、各窯各時代の異同の如き問題につきては從來の知見以外殆ど何等寄與する所が無い。此他、本邦に於ても技術家が景德鎭に於ける用土を分析報告せるものがある。又陶磁器試驗所報告に支那靑磁釉藥の調製に關する有益なる報告があるが、固より之は調製仿造の報告であつて分析の報〓では無い。右以外に尙ほ此種の調査報〓例があるかも知れないが、固より分析によつて古陶磁の產窯及時代を確實に辨別するには、支那全土に亙る古今數千の窯址につきて洩れなく盡く學術的發掘を行ひ、各窯の破片を多數得て其時代を各斷層によりて考古學的に考定し、〓各窯各時代の破片少くとも數百或は數千につきて一々之を分析して其結果を綜合對比するにあらざれば所期の目的を達し難い。是れ素より巨額の費用、多大の日子、非常の人力を要する殆ど超人的の一大事業であつて、今日のところ痴人夢を說くに類してゐる。加之筆者の考によると、分析による辨別法は本質的に缺陷があつて餘り信賴出來ないと思ふ。其故は、窯器は攝氏千何百度といふ高熱を受けて造られるものであるから、其燒造せられたるものは固より其原料とは物理學的及化學的性質竝に組成分に於て同一ではない。而して其變化は一、窯を構築せる原料、ニ、匣鉢の原料、三、燃料、四、燒造溫度の高低、五、窯火溫度昇降過程の如何、六、窯焚法の巧拙熟否等種々の要因の綜合的結果によりて起るものであるから、複雜徵妙であつて、到底單純なる器皿破片の分析の結果によつて其產地及時代の異同を辨別することは出來ないと思ふ。尙ほ困難である事情は獨り右に止まらない。各窯に於ける古陶磁原料の採掘、運搬、蒐集から其處理、造〓五.支那古陶磁學の現狀里各窯各時各窯に於ける古陶磁原料の採掘、運搬、蒐集から其處理、里造〓
五、支那古陶磁學の現狀四六描繪、掛釉、燒造に至るまでの過程の實際を考へると決して科學者が實驗室內に於て原料を精選して嚴密なる科學的監督の下に操作實驗を行ふが如きものではない。例へば第一磁土の產坑も單一にあらずして時に數坑又は十數坑に亙ることもあらう。而して之を單味にて造〓に使用することもあり、又は種々の割合にて調合するものもある。又同一の產坑にても場所によりて產土の組成分に異同あるべきは當然である。而して之が採掘、運搬から造〓の準備作業に至るまでの過程に於ける取扱の如きも、決して科學的嚴密なる注意監督の下に行はるゝものにあらざるを以て、必ずや種々の夾雜物の附着混入を免かれないであらう。故に例へば一本の錆釘又は一枚の穴明錢が誤つて磁土の內に落ちても忽ち其組成分に著しき影響あるべきは明かである。而してかゝる事情は獨り磁土に關してのみではなく、釉藥、靑料及顏料等他の原料に關しても存在することは疑が無い。支那古陶磁の驚歎すべき窯技の一として有名なる銅呈色による釉裏紅の發明の由來の如きは、恐らく穴明錢の如き最も普遍的に存在する銅製品が偶然釉中に混ぜるが爲に窯變を起したるによるものであらうと斯學に於て推測せられてゐる。而して右の如き免かれ難き夾雜物の附着混入は、分析が嚴密精緻なるほど益々銳敏に檢出せられるであらう。故に分析法の發達は何等分祈による辨別法の此本質的缺陷を補正することは出來ないと斷定せざるを得ない。又獨り化學的定量分析法に止まらず、將來或は發達することあるべき光線、電氣其他如何なる方法を以てする組成分檢出法も此缺陷を奈何ともするに由なきものと考へる。之を要するに分析法による產窯及時代の考察は未だ殆ど行はれたることなく、假令將來此方法を試むるに至つても、支那古窯器の全部について行ふことは殆ど超人的の力を要し、而かも其結果は只〓括的の結論を得るに止まり、或る特定の器皿の產地と製作年代について決して斷定的の確證を與ふるものではあるまい。將來分析法の發達も恐らく此本質的缺陷を補正し難いであらう。而して4、文獻の稀少及渉獵の困難支那古陶磁の〓究に文献の必要なるは勿論である。實に若し此方面の記述が、歷世間然する處なく完璧であつて且完全に保存せられてゐるならば、斯學の進歩は坦々たる大道を行くが如くであらう。然し事實此の如きことは望み難い。支那に於て陶磁に關する專書の著述は〓代乾隆年間に刊行せられた朱琰の陶說を以て嚆矢とし、次で嘉慶年間に藍浦の景德鎭陶錄の刊行を見たることは既述せる如くであるが、此二書は主として當時に於ける製磁の實際に關する簡單なる記述と、古書に散見する諸窯に關する斷片的記事を輯錄せるに止まり、固より上下四千年支那全土の廣汎なる地域に亙る巨數の古窯の說明としては甚だ不完全極まるものである。其後此兩書に洩れたる記事にして古人の隨筆等に發見せられたるものが若干あるけれども、皆斷簡零墨の類にして古窯に關する知見に資することは甚だ少い。西洋磁學家中「サルヴエター」、「ジユリアン」及「プツシエル」等の諸氏は前記兩書の記述を基として之に浮梁縣志の記事を加味して支那古陶磁學の著述を爲したが、元來浮梁縣志の記事は專ら景德鎭窯に關するものであるから、他窯に關する事は依然として舊套を脫することを得ない。其後斯學の進五、支那古陶磁學の現狀巴
五、支那古陶磁學の現狀兇步は主として旣陳傳世品及出土品の支那より海外に流出せるにより從來偶目すること能はざりし多種多樣の實物を得て大に知見の豐富を致せるが爲であつて、文献の新發見による進步は比較的僅少に止まつてゐる。由來支那に於ては經書、史傳及詩文等を尊重するから是等に關する著述は歷世極めて多く眞に汗牛充棟の觀があるけれども、古來工藝を以て賤民の卑職として之を蔑視して來た結果之に關する記述は極めて少く、只僅に隨筆等に斷片的記事の散見するものがあるのみに過ぎない。陶磁もまた其例に洩れず、之に關する古書の記事は眞に寥々として曉星の如くであるが、是等の記事は已に搜羅し盡して今日殆ど洩れなく磁學家に採收せられた有樣である。只古陶磁に關する文献にして今尙ほ殆ど未開拓の處女地と看做すべきものは方志である。方志は支那各地方の地誌であつて其地方の地理、政治、兵事、物產、史傳、風俗、詩文等百般の事項に亙りて記述してあるのが常である。方志の編纂は宋代に始まると謂はれ、爾來元明〓を經て民國の現代に至るまで世々各地に於て隨時版を重ね其數幾何なるを知らない。中國地方志綜錄と云本に編入列擧せられてあるもの實歷に五千八百三十二種、九萬三千二百三十七卷に及んでゐるが、是等は支那、日本及米國等に散在する圖書館及個人藏書家等の收藏に係る既知の現存書目であつて、此外に其已に滅失せるもの及未知のもの果して幾何なるやを詳にしない。而して右現存方志の內大抵明版は已に稀觀に屬し、元版宋版の如きは通計四十種に滿たない。今若し是等の旣知及未知の方志を盡く通讀調査することが出來れば、必ずや支那古窯に關する幾多の新資料を發見することを得べきも、其既に調査を經たるものは僅々指を屈するに過ぎない。他の大部分は未だ全く着手せられてゐない。而して支那.日本及米國等に散在する多數の圖書館及個人藏書家を歷訪して方志を盡く調査するが如きは到底一二篤志家のみの企て得べき所でない。然し乍ら斯學は將來此方面に於て尙ほ多く開拓の餘地あることは事實である。5.歷代仿僞の横溢支那及日本に於ける支那古陶磁の仿造及僞造は、歴代諸窯に於て盛んに行はれ、是等の器皿は其種目總數幾何あるや計り難い。而して中には咄々眞に迫るものがあつて、之が鑑別は實に容易のことではない。支那に於ては明代及〓代を通じて或る特別の例外を除きて官窯の器皿は皆双〓內に其製作の年號を記すのが常である。而して民窯が之に仿ふことは嚴禁してあるから、官窯の眞否は之を鑑別すること民窯よりは比較的容易なる理である。然し明朝の末期及〓朝の末期の如く國家滅亡の直前に在りては政府の威令行はれず、禁斷も弛緩するから此禁を冒す者が少くなかつた樣だ。若し夫れ〓代に至りては明代の官窯を仿僞するが如きことは元より禁ずるところではなかつたから、〓代に於ける明代官窯の仿僞は盛んに行はれたが、就中雍正年間に於ては御器廠に於て盛んに古窯器の仿造を行ひ、民窯も亦滔々として其擊に仿ひたるが故に、此時代に於て造られたる古窯器の仿造は其數蓋し少くなかつた樣だ。而して此時代の古窯器仿造は最も巧妙を極め、能く眞を亂り、爲に鑑定家と雖も瞞着せらるゝこと決して稀でないのが事實である。若し夫れ民窯に至りては素より之が仿造は歷世何等の禁遏なかりしを以て盛んに前代民窯の仿造を行つた。四九五、支那古陶磁學の現狀四九
五、支那古陶磁學の現狀五〇此に一言附記するのを便宜と考ふることは、支那の陶磁器は宜興窯を除くの外は、作者の落欵印章等あるものは極めて稀少であつて殆ど絕無と云うても不可なきことである。之には窯業に多數の分業が行はれてゐること、工匠が大抵目に一丁字なきこと、元來日用の雜器製造を目的とせること等種々の原因があるが、注意すべき一事は、此點に於て書畫と著しき相違があることである。而して仿造の禁遏あるは官窯の年欵のみに止まり、而かも其禁遏は前朝に及ばないから、需用多き形狀、模樣、色澤の器皿は多數の異つた窯に於て歷世仿造に仿造を重ね、其種類の繁多なる、其數量の巨額なる言語に絕するものがある。實に支那產窯器の全體は殆ど悉く前代又は他窯の仿造と稱しても不可なき程度である。斯る實狀に在りては何窯の如何なる器皿が果して原型であるかと云ふが如きことは到底判別し難い。尤も仿造に在りては形狀、模樣等に寫し崩れがあることは書畫を初め凡百の藝術品の通則であつて、且仿造は時代によりて形狀、模樣等に變遷あるべきは勿論であるが、書畫の場合と異り陶磁器の仿造は分業制度の普遍的なる、製產數量の巨額なる、上手下手の相違ある、工匠の天禀熟練に差異ある、數十年又は數百年に亙りて實行せる等の實狀を綜合して考ふるときは、單に寫し崩れの有無多少のみを以て時代の前後を判斷し難きことが少くない。然し乍ら右は大量生產の場合の仿造であつて、特に射利の目的を以て原品を贋造僞造するが如き場合は大に事情を異にするは勿論である。此場合贋造僞造の目的物は大抵數百年を經過せる古窯器であつて、贋僞の數量は多くない。且多數の分業によらずして一二の工房に於て一名又は數名の工匠によりて造らるゝものである。從つて假令其工匠は窯業に經驗ある者であつても、其贋造品につきては熟練の遑なきを以て、寫し崩れもあり又如何に巧みであつても作意の痕歴然たるものがあるから、鑑別に苦しまざる場合が多い。德川時代より明治の中半期頃までの間に於け本邦の陶磁工業は支那に比して其發達著しく後れたるを以て、明治末年以來就中近年に至りて支那古窯の名器を偶目するる支那古窯器の仿僞は比較的鑑別に苦しまざるも、磁土釉藥及靑料等優秀なる原料を比較的容易に入手し得ら機會多きと、陶磁工業が長足の進歩を遂げたると、是等諸般の事情は相俟ちて極めて巧妙なる仿僞の品を製するに至れるものゝ如くるゝと、人智の發達進歩と、である。所謂鑑定家磁學家輩を迷路に彷徨せしめ、往々是等是等支那及日本に於ける仿僞の品が多數世上に存在し、斯學の進運を阻害すること蓋し少々でない。仿僞の品を眞物と誤信して立論するが爲に、往々是等五、支那古陶磁學の現狀
六、鑑定の方法三三六、鑑定の方法以上粗略ながら支那古陶磁學の進步を困難ならしむる諸般の事情を述べ併せて斯學現狀の輪郭を明にした。要するに斯學の供する知識は未だ甚だ幼稚なるを免れないが、之を實物に就きて見るに比較的產窯及製作時代の明かなるものと然らざるものとがある。例へば官窯就中明代嘉靖以後の官窯の如きは比較的其眞僞を辨知し易い。是れ明代の官窯は悉く景德鎭に於て製作せられたると、嘉靖以後の同地の窯事に關する文献が少量ながらも保存せられて〓究の便あると、官窯は原則として必ず年款ありて其實物が比較的多く傳世し、偶目〓究の機會多き等によるものであつて、民窯に至りては官窯の如く明かに其產窯及時代を辨知し難きものが多い。蓋し民窯は原則として年款なく、其產窯は數千、種類は繁多、數量は巨額なるが故である。然し乍ら明〓代支那產窯器は其大部分が景德鎭の產である事實から考へて著しき相違なきものは大抵此地の產と認め、而して製作時代は旣に辨知してある官窯及民窯と比較して之を考定するを常とする。然し明〓代の景德鎭窯以前の器皿につきては、各窯の確實なる標本につきて其特色を篤と辨識し、之を根底として鑑定を行ふのであるが、支那古陶磁器鑑定の要點は1、胎土、2.釉藥、3、模樣、4、形狀、5、款識等であつて、是等の諸點を檢討して其結果を綜合して判斷するのである。蓋し各窯の特色は此等の諸點によく現はれるからである。而して是等の諸點はまた同時に鑑賞の要點でもあるから、此事實をもよく認識して置くのが必要である。I胎土胎土とは器皿の胎を形成する磁土又は陶土であつて又之を素地とも云ふ。而して其素地のまゝ卽ち釉のかけて無い器皿を支那では坏と稱してゐる。胎土は窯の所在地により、又時代によつて著しき特色ある場合が少くない。斯る場合には鑑別上最も重要なる見どころであるから之を忽諸に附することを得ない。近頃驅け出しの鑑定家の內には土など見るのは面倒なりとあつて形、模樣、釉等だけを見て漢だとか宋だとか、何窯だとか斷定する人があるが此態度は甚不可である。昔から燒物を見るには必ず尻を見るのが定石である。これは高臺の作行を見るのも其目的の一ではあるが、亦た高臺其他藥切れのところで土を見ようとするのである。苟くも目利きとか鑑定家とか云ふ者が面倒なりとて土を見ないと云ふのは亂暴極ると思ふ。斯る態度を棄てざる限り其人は到底鑑定家として大成することを得ないであらう。先づ、古いところでは彩色陶であるが、其地色は鈍黃、黃褐、淡灰、黃紅、紅等の諸色から晦灰色等の諸種があるが、表面一帶に著しく紅色であるものは直接火に曝された爲であらうと云はれ、其內部は鈍黄色なるを常とする。然し屢內部が濃淡種々の灰色である場合もあり、又稀には內部まで紅色を呈せるものもある。支那民族固有の灰色陶、黑色陶は其名の示すが如き地色であるが、勿論濃淡は種々の段階がある。而して秦壹六、鑑定の方法
六、鑑定の方法書漢以前の燒物は大體灰色又は黝黑色の瓦器に屬する物が多いのであるが、漢陶の一特色である綠釉をかけたものには煉瓦色卽ち赭色の土が多い。而して他方には綠釉をかけて無い瓦器及灰色陶がある。一說に山西陝西地方の漢陶は煉瓦色の土が多く、四川方面の漢陶は灰色の土のものが多いとも云はれてゐる。唐三彩は細かい白い美しい土が多いのだが、これは河南方面で作られたもので、山西陜西方面のものは前記漢陶の系統を引いて煉瓦色の土であると云はれてゐる。唐三彩は所謂明器であつて實用陶ではないが、唐代の實用陶は如何なる土であつたかと云ふに、今日尙ほ〓究されてゐないが、吾人の見聞する處によると前記の白土及赭土を使用せる器皿もある。而して外には越州窯の如く鈍黃灰色の粘土、浮梁卽ち後の景德鎭窯の如き白色の磁土、其他洪州、德〓等二三の窯址出土品が將來されてゐるが大部分は未詳である。宋代になると餘ほど明かになつてゐる。定窯は純白の細土、天目と稱する建窯は鐵分多き褐黑乃至灰黑色のキ、龍泉窯は外面は褐色乃至緒褐色であるが内部は淡灰色である。汝窯は銅色と云はれ外面は淡褐色、均窯も略同色だが土が粗い。南宋の郊壇窯は鐵の含有量が多くて黑色を呈してゐる。此等は其胎土に著しき特色があつて他窯と容易に鑑別し得られるものであるが、中には胎土に著しき特色が無くて胎土のみを以てしては鑑別に苦しむ場合も少くない。白色又は白色に近き胎土は最も鑑別に困難なるものであつて、其然る所以は白色の胎土を用ゆる窯は景德鎭の外に吳州(所在地未詳)、德化、邵武、祁門、潮州、醴陵等々頗る多く斯學の知見は未だ是等を悉く辨別するに至らざると、等しく景德鎭の產であつても時代によつて胎土の產坑を異にし、且同時代に採掘せるものは必ずしも一二の坑に止まらない、所在に多數の坑より成分を異にする磁土を採取し、而かも單味又は任意に調合して使用せると等の事情あるによるものである。今實物につきて之を見るに、等しく景德鎭の產であつても細膩滑澤なるものあり、細密なるも潤ひなきものあり、堅くして硝子化せるものあり、粗なるものあり、粗なる分子と密なる分子と混ぜるものあり、砂氣がゝりたるものあり、稍收縮せる如く見ゆるものあり。又漿胎と稱し滑石を胎と爲せるものもある。其色の如きも必しも純白に限らず、或は微黃、或は微灰、或は微靑色を帶ぶる者がある。而して是等の異同は啻に組成原料の異同によるのみならず、他の事情卽ち例へば既述分析の項に擧げたるが如き複雜徵妙なる事情によつて生ずることも少くないと認められるから、單に右の如き異同のみによりて時代を辨別するは決して妥當とは考へられない。然し乍ら明代嘉靖及萬曆の初期迄には官窯に専ら麻倉の土を使用せること、次で吳門托の土を用ひたること、萬曆中期以後〓代初期までは高嶺の土を賞用せること、雍正若くは乾隆頃より更に一轉して祁門の土を賞用するに至り其後は高嶺の土は粗器に使用せること、〓代に至りて再び麻倉の土を採りて用ひたることあるべきこと等、略ぼ文献の〓究によりて明白なるを以て此時代の官窯は稍之を辨知し易き筈である。只祁門の土は單味造坏に適せしものゝ如くであるが、麻倉及高嶺の土は釉果を混和せるものなるが故に、之を祁門の土に比すれば辨別し易からざる場合少しとせざる理である。麻倉の土は何時より發見使用するに至りしものか詳かでない。然し近年多く將來する明代初期と思考せら즐六、鑑定の方法然し近年多く將來する明代初期と思考せら즐
六、鑑定の方法笑るゝ民窯の器皿にも之を使用してあると認めらるゝものが少くないから、恐らく明代初期より採掘使用してゐたものであらう。尤も明代初期の器皿中明かに他所の土を用ひあるものもまた少くない。是等は大體砂氣の多きものと稍收縮せる如き感じのあるもの、及高嶺の土に似て硬き感じのあるものとの三種に大別出來る樣だ。されば明代初期の產坑は數ケ所に存在せしものであらう。又嘉靖及萬曆の初期迄に於ても、上手物には麻倉の土を用ひたるも、下手物には恐らく他坑の產を使用せるものと考へられる。之を通觀して大體に於て磁土の採掘より造坏に至るまでの工程は、時代の溯るほど原始的であつて、且良土の產出も潤澤であるべき理だから、古き時代には恐らく其當時產出せる最も精美なる土を掘りて原始的の方法によりて無雜作に之を處理して其まゝ之を造坏に使用したものであらう。從つて古き時代の器皿は時代の溯るほど精美良質の土を使用してあつても、其內に往々粗なる分子の小塊又は黑色の分子(デンドライトと稱する礦物にて鹿角菜狀を爲して景德鎭の土に介在するものである)を發見するが、時代の遞下するに從つて良土の缺乏を訴ふるに至り、磁土の精選法も巧みとなり、右の如き介在物を完全に除去し得るに至つたが、其品質はまた往時の如くならざるに至つた。以上は明〓代の景德鎭の產を通觀して感ずる所であるが、他の諸窯の產に就いても恐らく同樣の經過があつたものであらう。胎土は原則として高臺を見て辨知するのが常であるが、時としては甚だ薄手の場合例へば成化窯、脫胎磁の如きは、胎土の露出する部分極めて細小にして之を見極むるに多大の困難がある。又薄胎でなくとも掛釉又は燒成技法の關係上胎土の露出すること甚だ少きものがある。或は又窯火の爲に屢變色せるものが多い。例へば龍泉窯の如き大抵赤褐色又は紫褐色を呈し、これが此窯の鑑別上重要なる要點であるが、破面を見れば窯火に曝されざる内部は鼠色を呈してゐる。景德鎭產の器皿中、明代中期以前のものの如き、露胎の處が屢淡紅色を呈してゐる。又傳世品に在りては大抵摩れと汚れの爲、胎土の眞の色を辨知することが困難である。胎土が鑑別上重要なる觀點であることは旣に述べたが右述ぶるが如く薄胎其他の關係上胎土を見極め難き場合には不得已姑らく之を疑問として强て胎土に關する斷案を下さず他の諸點によつて鑑別を行ふの外は無い土の味と云ふ事を大に說く人もあるが、支那の陶磁器に在りてはある特殊の場合の外は土の味を賞美するといふことは餘り行はれない。殊に傳世の磁器にして高臺が摩れたり汚れたりしてゐては賞美したくも出來ないことが少くない。但し傳世でも、極めて大切に保存されてゐたもの、又は窯址、古墳等からの出土品にありては數百年を經たものでも、今燒いて窯から出したばかりと思はれるものがあつて、普通傳世では見られない露胎の處の色を見たり味はつたりすることが出來ることもある。又唐物の茶入れは何窯の產であるか未だ明かでないが、其糸底の土は色も感じも鉛の樣な土のものが少くない。此他宜興窯の土は古いのは、極めて細かき粘土用の樣であるが、時代の下るものは稍粗くて粘着力少き感じのするものである。紫口と云ふのは黑き胎土が支那に於て古來土味に關して最もやかましく云ふのは哥窯の紫口鐵足であらう。口邊の釉を通じて褐色(支那では褐色もまた紫の一種だ)に見ゆることであるが、これは釉が窯の中で融けて流れ下り口邊の處は薄くなるから下の素地が透けて見ゆる爲である。鐵足といふのは高臺の釉の掛けてない處が黑色で鐵の樣に見ゆることである。又汝窯は銅胎と云はれてゐるが、これは土の色が赤味がゝつてゐて銅の樣三七六、鑑定の方法
六、鑑定の方法二人だから斯く云ふのである。然し建窯の土は赫黑色、黑色又は赭褐色で恰かも鐵の如くであるが、これは何とも云はない。又龍泉窯の如きも赤褐色なるが常であるが、これも何とも云はない。胎土の色は釉を通じて外へも現はれるから燒物全體の色及感じに少なからぬ影響があることは勿論であるが、土の色が濃ければ濃いほど其然るべきは當然であつて、其最も著しき例は郊壇窯であらう。郊壇窯の釉色と其開片とは非常に見事なるものがあるけれども、其色調が常に暗く陰氣なのは全く其黑色の胎土が釉を通じて外觀に大なる反映を與へてゐるからである。本邦仿製品の胎土を支那產の眞物と辨別せんとする場合には、前陳建窯、龍泉窯等の如く著しき特色あるものは辨別すること必しも困難でない。中には是等諸窯の土色を摸せんが爲に高臺露胎の處へ褐色又は赤褐色の澁藥を塗りたるものがあるが、此種のものは直ちに觀破することが出來る。白色又は之に近き胎土のもの、卽ち明〓代に於ける景德鎭の產を本邦に於て仿僞せるものは、胎土のみによりて鑑別するに苦しむ場合少しとしない。殊に高臺露胎の部分少く細小なるものは最も鑑別し難い。而して嘉靖及萬曆初期迄の此窯にして麻倉の土を使用してあるものは、粗器大器にあらざる限り、眞物は大抵之を肯定し得らるゝものであるが、萬曆の中期以後は用土變遷の事情未だ詳かでないものがあり、且種々の磁土を精選混用せるを以て、胎土のみを以て積極的に其時代と仿僞とを肯定し得ざる場合が少くない。又〓代の產は官窯は比較的容易に其胎土を辨知し得るが、民窯は必しも然らざるを以て、胎土のみによりて其時代と仿僞とを考定し難きこと少しとしない。これは何とも胎土のみによりて比較的容易本邦の仿作は、前陳麻倉の土を使用してあるべき時代の器皿の仿作の如きは、又〓初精美なる高嶺の土を賞用せる官窯の仿作の如きも比較的辨別に苦しまないが、に之を辨知し得られる。胎土のみを以てしては辨別すること必しも萬曆の中期以後明末まで、及び〓代雍正乾隆以後の器皿の仿作は、本邦の然し乍ら支那產の胎土は何れの時代をも通じて〓して敦樸溫雅であるのを原則とするが、容易でない。仿作は其土〓く冷きか、然らざれば汚れたるものが多い。初學者は其內で最も明か右述ぶるが如く、白色又は白色に近き胎土の鑑別は最もむづかしきものであるが、に知られてゐるもの卽ち嘉靖官窯に見る麻倉の土及〓初康熙官窯に見る高嶺の土が如何なるものなるかを實物又之を基礎として其上下に〓究を漸次擴充して行くのが定石であると考へる。に就いて篤と見定め置きて、方本邦に於て比較的容易に入手し得べき九谷、伊萬里、京都、瀨戶等の白色磁土につきて〓究すれば、支那產の白色磁土と是等本邦產の土とを辨知するに役立つこと蓋し少くあるまい。Ⅱ釉藥1、釉藥の意義と種類五九六、鑑定の方法
六鑑定の方法층釉藥は單に釉とも云ひ、釉の字はまた油とも書く。元來油の字であつたのを偏を彩の通字である采に爲くり、又は石に爲くつて眞の油(あぶら)と區別する爲に近代に作つた字である。初め油と云うたのは表面が滑澤で恰かも油の如き感じがあるからである。効の字を書くこともあるが、これは釉と同音の幼に三水をつけた造り字である。支那陶磁器の釉は支那に於て自然に發生した所謂灰釉と、外國から傳來した曹達鉛釉とがある。灰釉といふのは陶磁器の燒造に際して燃料として用ひた草木の灰が自然に器皿の上に落ち、之が胎土を構成する長石分と結合して自然に釉と爲つたのを見て意識的に釉を調製して之を掛けるに至つたものであると云はれてゐる。之は所謂强火釉であつて、酸化熖で燒かれた場合には含有せる鐵其他の成分の多少によつて黄色、黃褐色、褐黑色等の釉と爲り、還元熖で燒かれた場合には鐵の含有量が僅少なれば靑磁と爲るが、若し多ければ還元不十分の爲に黄褐色等の釉と爲る。曹達鉛釉は漢陶以下支那に於て多く見るところの酸化銅呈色の綠色乃至靑綠色の軟火釉又は半强火釉である。其淵源は遠く西紀前五千年「エヂプト」に於て創造せられたる靑綠色の曹達釉であつて、これが小「アジア」、中央「アジア」等を經て支那に傳來したのだと云はれてゐる。而して「エヂプト」に於ては曹達を主成分とせるを以て美しき靑綠色の釉を得てゐるが、其代り此種の釉は剝落し易く堅實でない缺點がある。支那の此種の釉は鉛を主成分とする物が多く、此種の釉は靑色のない綠色を呈するが堅固であると云はれてゐる。尙ほ磁學家の說によると酸化銅は曹達又は加里、若しくは此兩者を主成分とする鹽基性の釉中に於て千三百度に熱すると美くしき靑味の强き靑綠色を呈す。之を翡翠色、トルコ玉の靑、又は孔雀綠等と稱す。而して釉中に在る曹達及加里分と鉛との多少によりて靑色又は綠色の何れかに傾くのであると云ふ。支那陶磁の釉は普通之を强火釉、軟火釉及半强火釉の三種に大別する。西洋磁學家の說によると支那の强火釉は攝氏千三百五十度乃至千四百度の間に於て燒造せるものであると云ふ。尤もこれは〓代景德鎭に於て燒造せる磁器についての考察であると思はれるから、時代と產地が異なれば溫度も多少異ふかも知れない。軟火釉は邦稱錦窯に於て攝氏七百度乃至八百度程度の比較的低溫度に於て燒くものであつて、近代に於ては主として五彩卽ち赤繪の上繪付に用ひられてゐる。半强火釉は、强火釉よりは低いが軟火釉よりは高い溫度で燒くものであつて、主として所謂三彩に使用せられてゐる。イ、强火釉支那の陶磁器は强火釉をかけたものが最も多く其大部分を占めてゐる。而して釉もまた胎土と等しく著しき特色あるものは鑑別し易い。卽ち建窯、龍泉窯、均窯等は此例である。而して最も鑑別に苦しむものは胎土の場合と同じく白色(又は無色、以下同じ)又は之に近き釉である。白色の釉と白色の胎土とは原則として相關的の關係あるものであるから、胎土の項に述べた白色胎土の諸窯はまた白色の釉を掛けたものが多い。建窯の釉は鐵の含有量多き爲め褐色、褐黑色、黑色の基調を呈し、之に兎毫の如き黃褐色の文樣あるもの、銀星の散布せる如き所謂油滴のあるもの、紅紫金銀の美麗なる暈彩のある所謂窯變と稱するもの等があつて、此外にも種類が少くないが、これは釉中に存する成分の異同と、燒成時の複雜微妙なる變化の爲に生ずるもの츠六、鑑定の方法
六、鑑定の方法六一である。龍泉窯の釉もまた鐵分を含むも、其量は比較的僅少であつて、之が還元熖燒成の爲に還元せられて靑綠色を呈するものである。均窯もまた龍泉窯と等しく鐵呈色の靑磁釉であるが、其著しく異るは藁灰を意識的に混入せるが爲に藁の中に含まれたる硅酸質の微分子が不融解のまゝ釉中に混在せるが爲であると云はれてゐる。是等諸窯の釉については更に後述する。此に少しく詳述して置くのは白色の釉についてである。景德鎭に於ける例によれば、此地の釉は長石質を多く含有する釉果と稱する土に植物性の灰と石灰とを混和したるものを用ゆるのであるが、釉果は磁土とは產坑を異にし又時代によつて變遷があつた。從つて其成分も時代によつて變化がある理であるが未だ詳でない。釉果を以て釉の原料を作るには必ず之に和するに植物性の灰と石灰とを混和すること前述の如くであるが、此兩者の混合せるものを煉灰と稱してゐる。〓代景德鎭に於ては鳳尾草といふ羊齒科植物の葉を燒いて其灰を用ひ明代及其以前には木灰を用ひたと云ふことである。釉は之を組成する釉果及煉灰の成分及煉合等によりて異同あるべきは勿論であるが、亦た燒造方法の如何、就中窯火の種類强弱等によりて著しく其結果を異にする。卽ち理想的に還元燒成が行はれたるときは釉は白色又は微靑色を帶び、還元不十分なるときは微黃色を帶びる。これ釉中にある微量の鐵による呈色である。又若し窯火が强くして釉の成分が悉く熔解すれば釉は透明で硝子狀を呈するが、之に反して其成分中熔解せざるものがあるときは釉は半透明又は不透明となる。靑花卽ち染付の發色を鮮明美麗ならしむるには釉が成るべく透明ならんことを欲し、五彩卽ち赤繪の顏料が鮮明美麗に現はるゝには釉が純白にして失透性の高きことを要求する故に、赤繪を描く場合には石灰又は硅酸質の如き不熔解性又は熔解點の高きものを多く混ずるのである。此失透性の高き白色釉は何時から創始せられたるか詳でないが、恐らく宋元時代既に用ひられたものであら5。現存品では嘉靖窯には屢〓用ひられ、更に溯りて宣德官窯の赤繪に用ひてあるのを見たことがある。故に明代初期から〓末まで用ひられたことは確かである。又透明釉の場合に於ても康熙染付の如き特色のある釉には特殊の調合法があつた。明代宣德窯の釉には橋皮紋、雞皮紋、粟紋等が現はれてゐるものがあつて、支那の磁學家は之を以て鑑別及鑑賞の一要點としてゐる。此等の紋は釉の表面が平滑にあらずして小さな凹凸があつて、其狀恰かも右の名稱の如くであるから斯く名づけたものであるが、何故に之を賞美するかといふと、それは支那の國民性が半透明の白玉の如き感じのものを喜ぶのと關係があると考へる。然し是等徴小の凹凸の爲に釉の表面が一帶にマツト狀を呈し一種の美觀を呈するのは事實である。此等の紋樣は後世嘉靖、萬曆等の諸窯にも時に現はれてゐる物があるが、是等は自然に出たと思はるゝもあり又故意に之に仿つたものと考へられるものもある。〓初にも之に仿つたものがあるが多くは拙劣である。明代景德鎭の釉は大〓和かく、厚く、溫き感じのあるのが原則であつて、〓代の釉は〓ね冷たく、硬く、薄いのが常であるが、例外もあり、程度の大小もあるから一〓に斷言は出來ない。筆者が初めて燒物いぢりをした頃ある老人の骨董商に一體どこで古染と新渡とを見分けるのかと質ねたことがある。其時その老人は古染は染付が上藥の下に沈んで見えるが新渡は染付が上藥の表面にあると云うた。この老人は正に其經驗を語つたので六、鑑定の方法查
六、鑑定の方法총あつて決して筆者を欺かなかつたのである。然し勿論この點だけで明〓の時代を分けることは不可能である。例へば明初の染付に上藥の表面に出てゐるのが稀でないが、之と反對に雍正の仿造品など此老人の樣な鑑別法のみを用ひてゐたら非道い目に遇ふ。又近年我邦の古染仿僞の如き此特色を巧みに摸してある。然し昔は鑑定法など容易に素人には〓へてくれなかつたのに、此老人は其一端を洩してくれたことは、今でも嬉しいことである。白磁中景德鎭以外のもので特色のあるのは所謂吳州と德化窯とである。吳州の產地は未だ詳でないが、其釉は景德鎭窯の釉に見ざる一種油の如き光澤があつて釉全體が寒天又はゼラチン樣の感じを有する。尤も赤繪のものは失透性の强き白色釉を用ひてあるから此油の如き感じは著しく出てゐない。又吳州の胎土は稍灰色を帶びてゐるから染付物の如く透亮の釉をかけてある場合には胎土の色を反映して釉が稍灰色がゝつてゐる。德化窯は從來本邦にて白高麗と稱し來りたるものであつて、其釉は牛乳狀に、白濁せる白玉の如き感じがある。而して此窯の器皿は、釉と胎土と渾然一體を爲して其差別がつかないのが特徴であつて、之を日光に透せば曇り硝子の樣に指の影が映ずる。此釉には純白、牙色(微黄)、徵紅等の別があるが、黃紅等の色は釉及胎土中に含まれたる微量の鐵分の爲であると云はれてゐる。尙ほ〓代末期のものは釉が微靑色を帶び一體に冷たき感じがあつて、明代及〓代中期以前の如く溫雅な感じが無い。釉は多くの場合之を透して見ゆる胎土の色を反映するから、一見微黃、微灰、微靑等の色を帶ぶるが如きものも實は釉自身の色でなくして胎土の色であることが少くない。微灰、微靑等の色を帶ぶるが如きも本邦の仿製品は一般に明代の釉は摸し難く、〓代の釉は摸し易く眞に迫るものが少くない。殊に近年の仿製は頗る巧になつて、明代の釉の如きも實に巧みに摸してあるから、釉のみで眞僞を辨別すること困難な場合も少くない樣だ。胎土が白色にあらずして灰色又は黄灰色を帶ぶる場合には直ちに之に無色の釉を施せば胎土の色が釉を通して見えるから薄汚なき色を呈する。之を防ぐ爲に胎土に純白色の土を掛けて其上に釉をかける。之を化粧掛けと云うてゐるが、磁州窯の如き其著しき例である。化粧掛けに用ゆる白土はカオリン樣の性質であるから普通の燒成溫度では熔解しない。從つて之に釉を掛けざるときは其表面はカサ〓〓して不快であり且塵埃に汚れ易いが、一旦釉をかけると透明の釉を通して純白の色を上に反映し、釉の表面が光澤あるのと相俟つて極めて美しく光り、且表面が滑澤であるから長く汚れないのである。磁州窯の純白なるものが定窯にも勝ると云はれるのは此爲である。化粧掛けの技法は案外古くから行はれたものであつて、河南、甘肅等から出土する所謂彩色陶にも旣に之を行つてゐる。支那に於ける彩色陶の時代については異說もあるが、「アンダーソン」氏に從へば下限を三千五百年前に、上限を五千四百年前位に考へてゐる樣だ。又彩色陶を作つて之を使用せるは支那人でなく他の民族らしいが、さうだとしても支那人は數千年の昔から此外國民族と接觸してゐたのであるから、化粧掛の技法も從來考へられてゐたよりも遙かに古い時代から支那人によつて用ひられてゐたとしても決して不思議はない。六、鑑定の方法
六、鑑定の方法夫ロ、軟火釉軟火釉は鉛を主成分とするのが多いが、前述の通り曹達を酸化銅呈色の釉に用ゆるときは美しき靑色を呈し、鉛釉を用ゆる場合の綠色を帶ぶるに比して色彩に於て勝るも甚だ剝落し易き缺點がある。古代「エヂプト」に於ては曹達釉を用ひたるもの多きも、「バビロニア」に於ては曹達釉と鉛釉と共に用ひられた。而して支那に於ては曹達釉を用ひたるものは少く、鉛を主成分とせる軟火釉が最も多く、其大部分を占めてゐる。尤も鉛釉といふも鉛を主成分とする意味であつて、曹達を全然含まぬと云ふ譯ではない。軟火釉はこれに種々の顏料を混じて主として五彩卽ち赤繪の上繪付に用ひられるのであるが、時としては三彩の釉に用ひたものがある。卽ち唐三彩の如き其著しき例であるが、最も顯著なるは〓代になつて現はれ相當に流行した所謂素三彩である。これは半强火釉を用ひた明三彩とは稍趣を異にしたものであつて、從來支那及西洋の磁學家等は、大抵皆〓代の產であつて明代には未だ產せざりしものだと說いてゐる。其說によると、元來此種の器皿は粗材であつて高級品でないから年款のある物は極めて稀であつて多くの場合其時代を確認するに由がない。只此種の器皿で最も古い年記のあるものは「ソルチング」氏の蒐集にある磁硯で之に康熙三十一年の年記がある。而して此種の器皿の內に波濤、三山、梅花の模樣を基調として之に海獸、吉祥文、唐草等を畫いたものがあるが、此模樣は明代萬曆窯等の品目に頻出する薑芽、海水、三山、海馬、九獸、梅花等の模樣がこれであらうと云はれてゐる。只現存する萬曆窯の之に該當する器皿は一見素三彩と似てゐるが、實は皆釉上從つて模樣は相似してゐても一見して之を判別することを得着畫であつて、素三彩とは技法を異にしてゐる。上に塗つてある蓋し釉上着畫の場合には地にかけてある白色の强火釉が色釉を通じて上に反映するから、る。素三彩は之と異り素燒をした素地の上に直ちに鉛を主成色釉をして一帶に淡く且著しく明快ならしめてゐる。其色釉の調子は此種の素地が殊に粗材であることも手傳つて其素地の分とする軟火釉を塗つてあるのだから、素三彩は勿論素燒を行ひたるものへ上繪付をして錦窯で不純の色を反映して鈍く且濁つて見えるものである。釉の成分に鉛が頗る多いから之を本燒窯に入れては假令煙突の下へ置いても其溫度に耐へな燒くのであるが、い。「ダントルコル」の云ふ三彩とは全然別物である。此軟彩に對して普通の五彩に用ゆる色釉を硬彩と稱する。等しく色軟火釉の一種に軟彩といふものがある。之が熔解して透明のガラスとなるから釉は透釉であり、同じく軟火釉であるが、硬彩の方は鉛を主成分とし、其成分については軟彩の方は鉛以外に或る成分を加へて釉を不透明ならしむるのであるが、明な亮釉となる。成分の何たるかは姑らく之を措き、硬軟兩彩の外觀上の相西洋磁學家は分析によつて亞砒酸だと云うてゐる。違は硬彩は水繪具の如く透亮であり、軟彩は「ブラン、ダルヂアン」を以て淡くした油繪具の如くである。支其器皿を西洋器皿と云うてゐる。那人は軟彩の技法を以て西洋から傳來せるものだと云うて之を洋彩と稱し、又或は琺瑯と同じものだと云ふ者もある。然又此技法を以て七寶の技法から轉化せるものだと說く人もある。亞砒酸を用ゆる軟彩とは其成分を異にするし現時の琺瑯は多く錫の化合物を以て失透性を得てゐる樣だから、ものであると考へなければならぬ。六七六、鑑定の方法六七
六、鑑定の方法六、支那で軟彩が最も盛に流行したのは雍正時代であつて、又最も藝術的に高き見事な器皿も此時代に出來たのであるが、康熙の末期頃旣に造られてゐたことは定說となつてゐる。而して其濫觴を以て康熙の中期迄溯らしむる說もある。然し何れにせよ康熙は硬彩の時代であり、雍正は軟彩の時代である。而して乾隆以後は硬軟兩彩が他の技法と共に盛に併用せられたと云ふのが事實である。半强火釉半强火釉は所謂明三彩の內で最も重要なる俗に法花と稱する種類に用ひてある釉であつて、其成分は曹達、石灰、鉛及硅石質である。而して硅石質及石灰の分量が多いほど其釉は熔け難いが、曹達の分量を增すも其釉は熔け易くはならないばかりか剝落し易くなる。之に反して鉛の分量を多くすれば、釉は熔け易くなり、且益耐久性を增すと云ふ。明代初期の三彩には多く不透明の濃暗なる紫紺其他の色種を厚く用ひてあつて其釉は硬い鉛曹達釉と稱し、正德頃から多く用ひられ嘉靖、萬曆等明末から〓朝初期に及んでゐる透明がゝつた明快な美しい色調の稍薄い釉を軟かき鉛曹達釉と呼んで、此兩者を區別する磁學家もあるが、硬い方の釉は硅石質と石灰とを多く含み、軟い方は鉛を多く含んでゐるのだと云はれる。半强火釉をかけた所謂明三彩は素胎のまゝ一旦素燒を行つてから之に掛釉して半强火で燒くものであつて、其時には別種の窯を用ひず、强火釉をかけた磁器を燒く普通の窯の中で比較的低溫度の部分に之を置いて燒く管見によれば明三彩の如きものを燒く一種のものだと「バートン」、「ホブソン」等西洋磁學家は說いてゐるが、「ブツシエル」の如きも同窯があつて、陶說等に引いてある陶書の爐〓窯と云ふのがそれであるかと推測する。然し乍ら〓代になると所謂三彩は强樣の見解を抱いてゐる樣であるが詳細は拙著明代の陶磁に書いて置いた。火釉を燒く窯の中で比較的低溫度の部分卽ち煙突の下の如き場所に置いて燒いたことは「ダントルコル」の報告にも記載してあるから、それに相違あるまい。或は明の中期頃から、漸次斯る燒成法に移行したのかも知れない。酸化コバルト等を混じて用ゆることが行はれ磁學家の說によると恐らく明代の初期から釉に酸化マンガン、酸化マンガンを加ふるときは其釉の性質及燒成溫度の如何によつて鮮明なる紫色から紫褐色にたのであるが、又酸化コバルトを加ふるときは淡靑色より濃靑色に至るまでの種々の色調に於至るまでの種々の色調を呈し、然し「コバルト」の場合多くは之に酸化「マンガン」又は酸化鐵が混ずける殆ど純粹なる靑色釉を得られる。るを以て前者にあつては紫色に近き色調に又後者に在つては「インヂゴー」色又は暗靑色に傾くものである。「ソーダ」及石灰を主「エヂプト」に於て最初に創造せられた「トルコ」玉の靑又は孔雀綠と稱する釉は古代其特色である美しい靑味の强い色は高溫度成分とする釉に酸化銅を加ふることによつて得られるのであるが、又酸化「マンガン」を用ひて此「トルコ」玉の靑に比すべき美しく深き紫色を得に於て破壞せられて仕まふ。而して支那明代の三彩にるが、それは唯「アルカリ」性の釉を比較的低溫度に於て燒く場合にのみ限られる。此種の器皿が先づ素燒を行ひたる後掛釉して低溫度にて二度燒を行へる此兩種の色釉が用ひられあることは、六九六鑑定の方法
六、鑑定の方法一〇一確證だと云はれてゐる。黃色の釉は「アンチモニー」を用ゆる場合と單に酸化鐵を用ゆる場合とあるが、の場合に於ては之も亦高溫度に堪へないから二度燒を行はなければならない。明三彩の釉は左の如くであると云ふ。翠色、古銅と稱する酸化銅と硝石とを以て合成する。金黃色、「アンチモニー」と鉛粉とを合せる。金綠色、酸化銅、石英、及鉛粉を合せる。紫色、「コバルト」滿淹礦、石英及鉛粉を合せる。明三彩は是等の釉を用ふるについて時代によつて二つの技法がある。其一は主として明代初期に行はれた方法で、釉が不透明で濃暗色を呈し、大抵線七寶の技法を行へる三彩に用ひられてゐる。磁學家の說によると此釉は恐らく磁土を混和せるものであらうと云はれてゐる。他の一は、主として明代中期以後に行はれた方法で釉が透明輕快鮮明な色調で主として錐花卽ち線彫り模樣を胎に行つた上にかけてあるので、これは鉛の成分が前者に比するとよほど多いのである。尙ほ此事に就いては後段釉の呈色劑の項を參照のこと。明三彩は〓代に入つてからも同じ技法が行はれた。前記、「ダントルコル」の說く所のものは此三彩であつて所謂素三彩ではない。此兩者を混同する人があるが、普通の三彩は刻線、凸線及浮出模樣の輪郭等を境界として異色の釉をかけ其混淆を防ぐのであつて決して筆を以て線を描くことはないのであるが、素三彩にありては輪郭は原則として描線を以てするのである。而して普通の三彩に在りては右の如く掛釉するのであるから特に前者何となれば是等の像に在りては衣服の襞とか羽毛とかゞ自然に釉の境界にな物、鳥獸等を造るに適してゐる。るからである。又事實三彩を以て造つた此種の像が多いのである。云ふ迄も無く釉は半强火釉である。然るに素三彩に在りては既述の通り釉は軟火釉である。但し半强火釉と軟火釉との相違は熔劑として田ひられる鉛の多少によるものであることは既述した。2、〓代釉藥の發達〓代康熈の末期頃から古窯の名器を追慕仿造する氣運が漸く旺んとなつた。これ雍正帝及怡賢親王の如き有力なる燒物愛好者が上に在りて古窯の名器に勝るとも劣らざる仿造品を御器廠に於て燒造することを命じて之唐英の如き卓越せる技倆ある者が監陶官として下に在りて熱心に燒造に從事せるが爲でを奬勵せると年希堯、ある。其結果雍正、乾隆兩朝に亙りて種々の古窯名器を仿造することに成功し、併せて前古未だ嘗て見ざる幾多新機軸の發明に成功した。其事蹟及燒造の品種は事宜紀功碑と云ふ碑を唐英が雍正の末年に建てゝ之を記してゐるが、之を見ると大體其當時造られた品種殊に釉のことが分ると思ふから左に簡單な解說を揭げて置く。做古各効色、合計五十八種あると云ふ。ー、鐵骨大觀釉有粉靑、月白、大綠三種大觀釉の大觀と鐵骨と云ふのは次の銅骨に對して胎土の鐵含有量が多くして黑色を呈してゐることである。セー六、鑑定の方法
六、鑑定の方法三二云ふのは北宋の末期徽宗皇帝の治世である。此頃の官窯は宋代窯藝美術の最高峯であるが、此大觀年代の官窯の釉を仿造したと云ふ意味である。而して此釉に粉靑、月白、大綠の三種があると云ふのであるが、粉靑は均窯の釉の如く粉釉で、靑色、月白は其淡くして淡靑色、大綠は黃綠色である。北宋代の官窯に鐵骨ありとは今日の磁學から見れば說明すること能はず、然し明代以降南宋哥窯又は郊壇窯あたりの鐵胎を賞美して唯鐵骨々々と云へる爲、北宋にも鐵骨官窯ありとの錯覺に陷つたものであらう。ニ.銅骨無紋汝釉有人面洗色澤銅骨と云ふのは高台露胎の處が窯火に曝されて赤黃色を呈せるを形容せる語だ。無紋と云ふは裂文が無いことである。汝効は北宋末期の官窯として有名なる汝窯の釉のことである。人面洗と云ふのは人間の顏の形をした筆洗の意に解せられて居る。其筆洗の色澤を摸したのである。三、鐵骨哥釉有米色粉靑二種鐵骨のことは前述した通り鐵分の多い胎土である。哥釉は宋代哥窯といふのがあつた其釉に仿つたのだが、米色とは淡黃色の意である。四、銅骨魚子紋汝釉魚子紋とは魚卵の如き細小の裂文である。其他は二參照。五白定釉有粉定土定廠止仿具粉定一種定窯は昔我邦で鳥の子手と云うた薄胎の美しき白釉のかけてある燒物で定州で北宋代に燒けたものである。哥釉は宋代哥窯といふのがあつた其釉に仿つたのだが、其他は二參照。其內の上手物である粉定のみを仿造したのである。之に粉定と土定との二種あるが、六、均釉有玫瑰紫海棠紅茄花紫梅子靑隨肝馬肝外新得深紫米色天藍窯變玫瑰と云ふこれに玫瑰紫以下の如き紅色又は紅紫其他の色が出てゐるのである。均釉は均窯の釉であつて、のは紅色寶石の一種、又ハマナス、バラを云ふ、玫瑰紫は我邦の牡丹色だと云ふ。七、宣窯霽紅釉有鮮紅寶石紅二種宣窯は明代宣德の官窯である。霽紅は銅呈色の紅色であつて、鮮紅と寶石紅とは只其色調及濃淡の相違であると解せられてゐる。八、宣窯霽靑有橘皮棕眼橘皮紋のことは旣述した。棕眼は小さな孔である。蓋し釉が煮えてガスが氣泡から逃去つた痕である。九、仿廠官釉有鰭魚黃蛇皮綠黃斑點三種廠官釉と云ふのは明代御器廠で造られた釉で、我邦で俗にソバと云ふものである。我邦では乾隆の靑ソバを貴ぶが支那では必しもさうでない。此種の釉就中黃ソバは、往々宋代の民窯に發見せられる鐵呈色の黑黃色の釉であるが、今此には三種あることを記してある。鱔魚黃とは鰭魚と云ふ一種の鰻に似た黑黃色、蛇斑綠、黃斑點は文字通で別に說明を要しない。+、龍泉釉有淺深二種龍泉靑磁の釉である。仿造には少量のコバルトを入れると云ふ。七三六、鑑定の方法玫瑰と云ふ鮮紅と寶石紅とは只其色調及濃淡の相違であ蓋し釉が煮えてガスが氣泡から逃去つた痕である。七三
六、鑑定の方法出十一、東靑釉有淺深二種鐵呈色の靑磁釉であつて、前者との差異は此の方にはコバルトを加へず、純ばら鐵のみの呈色である。は又冬靑とも書く。豆靑も同じものである。十二、仿米色宋釉係從景德鎭東二十里外地名湘湖有故宋窯址覓得瓦礫因仿其色澤款式注にある如く景德鎭の東二十里湘湖と云ふ地に在る宋代の窯址から得た破片を見て其器形と釉色とを仿造したものである。其色は淡黃色である。十三、粉靑色宋釉其款式色澤同米色宋釉一處覓得十二の米色宋釉の破片と同じく、湘湖で拾つた粉靑色の釉に仿へるものである。」十四、仿油綠釉係內發窯變舊器如碧玉光彩中班駁古雅宮中に在つだ古窯器の窯變で碧玉の如き光彩の中に斑文があつて古雅な品を仿造せしものである。」十五、靑點釉〓內發廣窯蕎器色澤廣東ナマコの一種に靑點あるものに仿つたものである。十六、爐均釉色在廣東窯與宜興掛釉之間而花紋流消變化過之廣東窯とは我邦でナマコと云ふ手である。宜興窯は多くは朱泥で掛釉しないが、中に掛釉せしものがある。」爐均は此兩者の中間に在るが、この釉の如き實物を一見すればすぐ分るが、文字の說明では納得出來難い。十七、歐釉仿舊歐姓〓有紅藍紋二種出純ばら鐵のみの呈色である。東靑歐窯の製は均窯に仿へるもので之を宜均と明代宜興にゐた歐子明なる者の燒いた器皿に仿へるものである。稱した。十八、月白釉色微類大觀釉白泥胎無紋有淺深二種一の大觀釉中月白色のものに類すとある。十九、仿宣窯寶燒有三魚三果三芝五福四種宣窯は明の宣德窯、三魚云々は此等の模樣が釉裡紅で現はれてゐるのである。二十、仿龍泉釉寶燒本朝新製有三魚三果三芝五福四種龍泉靑磁の仿造で、それに釉裡紅で是等の形が現はされてゐるものである。廿一、翡翠釉〓内發素翠靑點金點三種翡翠は屢說する如く曹達又は加里を主成分とする釉中の酸化銅の呈色ある。何等文樣の無いもの。靑點、金點は其點が現はれてゐるものである。廿二、吹紅釉廿三、吹靑釉此二者は共に吹釉法によりて紅又は靑色の釉をかけたものである。廿四、仿永樂窯脫胎素白錐拱等器皿明の永樂窯の仿造である。素白は白色、六、鑑定の方法芝は靈芝、福は蝙蝠である。素翠とは一體に只翡翠色で他に脫胎以下につきては後段の說明參照のこと。三
六、鑑定の方法大廿五、仿萬曆正德窯五彩器皿萬曆及正德は明代の年號である。他は說明を要しない。」廿六、仿成化窯五彩器皿成化もまた明代の年號である。廿七、宣花黄地章器皿本朝新製宣花は宣德窯の模樣、黄地は地が黄色に塗つてあること、章は文采、畫いてあるのであらう。廿八、法靑釉係新試配之釉較霽靑濃紅深翠無橋皮棕眼新しく試配せる釉であるが霽靑濃紅に較ぶれば深翠である。釉の意である。これ卽ち當時の寶石藍である。廿九、仿西洋彫鏤像生器皿伍拱盤碟瓶盒等項畫之渲染亦仿西洋筆意像生は肖像である。西洋の磁器の仿造である。伍拱は佛〓に所謂五種の供養に用ゆる器具の意。まだ洋畫に仿ふ。三十、仿澆黃錐綠花器皿澆はソソグの意、澆黃は一面黄釉がかけてあること、之に錐花があつて、は後述模樣の項に說明する。大他は說明を要しない。」章は文采、色どり等の意があるから恐らく色繪が其他の用語は既に說明したが法靑は琺瑯の靑色畫の渲染も之に錐花があつて、其錐花が綠色になつてゐる。錐花卅一、仿淺黃器皿有素地錐花二種これは說明を要しない。卅二、仿澆紫皿有素地錐花二種澆紫と云ふのは邦名ルリのことである。」卅三、錐花器皿各種釉倶有卅四、堆花器皿各種釉水倶有錐花、堆花の意味は後述模樣の項參照。卅五、抹紅器皿仿舊抹紅は所謂珊瑚釉のことに解せられてゐる。卅六、彩紅器皿仿舊彩紅は紅釉もて彩色せる意に解せられてゐる。卅七、西洋黃色器皿本朝新製此黃色は淡黃色(レモンエロー)で此時初めて支那磁器に用ひられたものである。卅八、西洋紫色器皿本朝新製此の紫は紫褐色の意に解せられてゐる。卅九、抹銀器皿本朝新製六、鑑定の方法七七
六六、鑑定の方法一面に銀を塗つたものであらう。四十、彩水墨器皿本朝新製山水人物花卉〓毛仿筆墨濃淡之意これは別に說明を要しないが、墨色釉の原料はマンガン礦であつて恰も水墨畫の如き妙味を磁器の上に現はした。尙ほ彩水墨は洋彩水墨ではないことは釉の呈色劑の項に述べる。四一、仿宣窯塡白器皿有厚薄大小不等塡白は甜白の同音假借で純白の意である。四二、仿嘉窯靑花嘉窯は明代の嘉靖窯、靑花は染付である。四三、仿成化窯淡描靑花これは說明を要しない。四四、米色釉與朱米色釉不同有滲深二種これも說明の要がない。四五、釉裏紅器皿有通用紅釉繪畫者有靑葉紅花者注の意味は模樣全部を釉裏紅で現はしたものと、葉は染付で花を釉裏紅で現はしたものと二種あるる。(第43圖參照)四六、仿紫金釉有紅黃二種葉は染付で花を釉裏紅で現はしたものと二種ある意であ紫金釉のことは明代の釉の處に述べた。此仿造に二種ある。一は紅褐色で一は黄褐色である。四七、澆黃五彩器皿此種係新試所得一面に黄釉をかけて其の上に五彩を畫くのだ。四八、仿澆綠器皿有素地錐花二種素地は模樣の無いものである。四九、洋彩器皿本朝新仿西洋法郷畫法人物山水花卉翎毛無不精細入神洋彩は卽ち軟彩又は粉彩のことである。雍正朝に初めて仿造せる如く右注文に述べてあるが、康熙朝旣に其濫觴を開けることは後述「ダントルコル」の書面で明かである。或は右の注を旣に前朝にも有つたが本朝で新に仿つた云々と讀む手もあるが、それは無理である。五十、拱花器皿各種釉水倶有拱花の解は模樣の項に讓る。五一、西洋紅色器皿本朝新製これ卽ち金呈色の軟彩卽famille roseのことであらう。五二、仿烏金釉黑地白花黑地描金二種烏金釉のこと後文及び釉の呈色劑の項に述べる。五三、西洋綠色器皿本朝新製六鑑定の方法七九此仿造に二種ある。一は紅褐色で一は黄褐色である。のことであらう。七九
六、鑑定の方法合五四、西洋烏金器皿本朝新製右何れも注釋を要しない。五五、抹金器皿仿東洋抹金は金を塗つたもの、東洋は日本のこと、卽ち我邦の伊萬里燒か何かを仿造せるものだ。五六、描金器皿仿東洋五七、描銀器皿仿東洋五八、廠官釉大鋼口面徑三尺四五寸至四尺高一尺七八寸至二尺硝色有鰭魚黃瓜皮綠黃綠點三種綱は缸である。夏庭園に置いて蓮を植ゑたり金魚を飼つたりするに用ゆる。それがソバ釉をかけてあるのである。右の內最後第五八は大鯛の燒造に成功せるは技術上特筆大書すべきことに相違ないが、其釉は旣に第九仿廠官釉に擧げたものであるから、之を除くと合計五十七種となると云ふ人もある。而して此等の内で本朝新製とか新試とか注記せるものは、雍正年間に新しく發明せられたものであるが、景德鎭陶錄に唐英の監陶官たりし時代の新機軸として左の諸釉を擧げてゐるのは大體右と符合する洋紫、法靑、抹銀、彩水墨、洋鳥金、琺瑯畫法、洋彩烏金、黑地白花、黑地描金、天藍、窯變。今此等唐英の新發明と稱する諸釉につきて一應略說して置く。法靑、洋紫、琺瑯畫法は共に軟彩一名粉彩に關するものであり既に屢說せる所である前記廿八、卅八及四合東洋は日本のこと、卽ち我邦の伊萬里燒か何かを仿造せるものだ。黑地描金、天藍、窯變。前記廿八、卅八及四九參照)。抹銀は銀を塗抹したものであるが、金銀は剝落し易いから原姿を留めてゐるものは少い。而して稀にあつても銀は酸化して黑くなり、初の美しき面影は失はれてゐるのが常である。彩水墨は四十參照。筆墨濃淡の意を現はせるところが新發明であらう。洋鳥金と云ふのは綠色の手famille verte)に用ひある黑色釉卽ち黑色地釉の上に綠釉をかけた光澤ある黑色釉にあらずして、初めより黑色地釉に用ゆる原料卽ちコバルト含有のマンガン礦と上藥の綠釉とを混合せるものである。これ雍正乾隆時代の洋烏金であつて唐英の發明として有名であつた。(釉の呈色劑の七のイである)。洋鳥金は右綠色の手の黑釉又は洋烏金を以て周圍の地を塗潰したる空間白地にバラ色の手(+4〓〓〓〓)を以て紅色に彩りたるものだと云はれてゐる。黑地白花、黑地描金は孰れも前記五一一仿烏金釉の注にあるのだが、描金の方は右洋烏金釉の上に金彩のあるもので、白花の方は洋烏金釉の上に模樣が白く塗殘されてゐるものであると解されてゐるが、此に仿造せる鳥金釉と云へるは恐らく釉の呈色劑の項に後述する强火黑色釉の仿造であらう。天藍釉は强火釉で、其色は淡靑色で翠色に近似し乾隆單色釉にまゝ見られるものである。窯變と云ふのは佛人の所謂hamb〓であつて、郞窯の深紅色が窯火の作用によつて變化して靑、灰紅褐.綠等の條文又は斑點となりて現はれてゐるもので、或は之を火焰靑と云ふ人もある。此窯變は乾隆朝に至りて六、鑑定の方法스而して稀にあつて(+4〓〓〓〓)を以て
六、鑑定の方法ハム殆んど自由自在に現はすことを得るに至り、或は他釉をかけた器皿の一部にのみ之を現はせるものもある。(第100圖參照)乾隆朝の一特色は釉の二重掛であつて、之によつて新奇なる效果を奏したが其第二囘の掛釉は或は吹釉法により、或は斑點として之をかけ、或は筆にて描塗する等種々の方法によつて行つた。爐均釉と稱する軟火釉の如きは此種の釉の例である。又茶葉末卽ちソバ釉も亦此種の技法を用ひたるものありと云ふ說がある。之を要するに乾隆朝に至りて窯業技術は其至り得べき極度に達し、凡そ其天然たると人工たるとを問はず有形の物で燒物で形狀色澤其まゝに摸造し能はざるもの無きに至つた。陶說の著者朱琰は之に關して左の如く述べてゐる。(前略)其規範は則ち定汝官哥宣德成化嘉靖佛郞の好樣、一窯に萃まり、其彩色は則ち霽紅、礬紅、霽靑、粉靑、冬靑、紫綠、金銀、漆黑、雜彩、宜に隨て施す。(中略)。其畫染は則ち山水、人物、花鳥、寫意の筆、靑綠渲染の製、四時遠近の景、名家を規撫して各元本あり。是に于て乎、戯金、鏤銀、琢石、髹漆、螺甸、竹木、匏蠡の諸作、陶を以て之を爲くり倣傚して肖ざるものなLo近代一技の工、陸子剛が玉を治し、呂愛山が金を治し、朱碧山が銀を治し、鮑天成が犀を治し、趙良壁が錫を治し、王小溪が瑪瑙を治し、蔣抱雲が銅を治し、漢仲謙が彫竹、姜千里が螺甸、楊塡が倭漆の如き今皆陶の一工に聚まる。之を以て造化の祕を洩らし、之を以て文明の瑞を佐く。陶有りて以來茲に于て盛を極む。此れ他無し、人心優裕、人力寬聞なれば地產物華、運に應じて起ること必ず然る有り矣。ハム或は他釉をかけた器皿の一部にのみ之を現はせるものもある。(第其彩色は則ち霽紅、礬紅、霽靑、3.釉の呈色劑釉の呈色劑については旣に前來斷片的に述べたところもあるが、尙ほ一括して此に述べるのが便利と思ふ。支那陶磁器の釉に用ゆる呈色劑は鐵及銅が其根幹を爲してゐるのであるが、此等比較的容易に得られる普遍的の材料を使用して已に數百年の昔から驚嘆すべき效果を擧げてゐる支那陶匠の大手腕は眞に敬服の外は無いと云はれてゐる。鐵は酸化鐵として黃、褐、黑、紅赭等の諸色に用ひられ、其釉も强火、半强火、軟火諸釉に及んでゐる。又還元鐵、酸化第一鐵等として强火釉に用ひられて美しき靑磁と爲る。銅は酸化銅の形で美しき綠色又は靑綠色として軟火及半强火釉に用ひられてゐるが、其還元銅及酸化第一銅として用ひられるときは目の醒める計り鮮美な所謂郞窯紅と爲るのである。又其窯變に蘋果綠、桃花紅、火焰靑等の艶冶な釉がある。是等は强火、半强火及軟火釉として用ひられ、其燒成には還元及酸化兩熖の驅使が完全に自由自在なることを要するものである。而して之を〓言すれば宋元は强火釉の時代であり、明〓は半强火及軟火釉の時代であるが、强火釉の呈色に關しては今尙ほ明かならざるものが少くない。例へば建窯に於ける油滴及窯變現象の如き、靑磁中砧手の成分及其呈色理論の如き其顯著なるものである半强火及軟火釉の呈色に關しては、之に反して比較的明かであるから主として此等に就いて略述することゝするが、之に前だち一言すべきは三彩と五彩のことである。全六、鑑定の方法
六、鑑定の方法△支那では一旦素燒にした胎の上に色釉を塗り、再度所謂半强火で燒いたものを三彩と云うてゐる。三彩の技法は線七寶、透彫及錐花の三種あるが、右述ぶるところは何れも同じである。而して其色種は必しも三種に限らない、二種でも四種でも皆三彩と呼んでゐる。又素燒の上に軟火釉で着色して錦窯で燒いたものは既述の如く素三彩と呼んでゐて、所謂三彩とは技法を異にせるものである。三彩に對して五彩と云ふのがある。これは我邦で赤繪と稱する器皿卽ち釉上着畫のものを指すのであるが、五彩と云うても中には四種又は三種の色のみを使用せるのもあり、或は又六種七種の色を用ひたのもあるが等しく皆五彩と云うてゐる。これ猶ほ赤繪と云うても赤の外に綠色や黄色を用ひてあるのと同じ事である。三彩でも五彩でも釉に入れる呈色劑の調合や製法は陶業家の祕傳であり、且又古來文献に乏しくて詳細は明かで無いが、唐時代の三彩には綠、黄、褐、藍の四色位が用ひられてあり、宋代の赤繪卽ち俗に加彩と呼ばれるものには綠、黄、赤の三色が使用されてゐる。藍色の上繪は宋代のものは未だ發見されてゐない。而して赤色はベニガラを使用せる美しき鮮紅色の上繪が少くない。これ明〓代に早礬を原料として此美しき赤紅色を得る方法が已に宋代に於て發明せられてゐたことを物語るものである。綠色は酸化銅を呈色劑とし、其靑色の多きものは曹達が釉中に多きことは旣に述べた處である。黄色は酸化鐵を呈色劑に用ひたのであるが。此外アンチモニーを明代既に用ひたと說く者もある。唐宋代の三彩又は五彩の呈色劑は右の如く大抵三種か四種位に止まり比較的簡單であるが、明代から〓代に下るに從ひ漸次色種が多くなる。先づ明代中期頃の色種を擧げると左の如くである。明代から〓代に一、赤色前述の如く俗稱ベニガラを用ゆるのであるが、支那では之を礬紅と稱してゐる。其製法は靑綠色の硫酸第一鐵を燒くと最も純粹に近い酸化鐵が得られる。之が卽ちベニガラである。景德鎭陶錄に礬紅釉の製法を記して靑礬煉紅に鉛粉廣膠を加へて合成するとあるのはこれだ。二、綠色、翡翠色、孔雀綠、トルコ玉の靑色等の異名があるが、是等の名稱はまた其靑色を含む多少にもよる樣だ。之等は皆酸化銅を以て呈色劑とし、之に硝石を加へるとある。三、黃色赭石と稱する天然鐵土を呈色劑と爲し、之に鉛粉を加へて合成するのであるが、之を金黃色と云うてゐる。旣述の如くアンチモニー呈色の黃釉が明代已に存したと云ふ人もある。四、褐色紫金石と稱する原料に確水と煉灰とを加へて合成する。紫金石とは鐵分多き粘土、又確水とは白色の釉の意に解せられてゐる煉灰とは羊齒科植物、又は木の灰と石灰とを以て合成せるものである。此褐色釉は强火釉であつて佛國にてfond laqueと稱する色に該當するものであるが、右の原料の分量を種々に變化することによつて呈色もまた濃淡を變化せしめ得るのである。五、金綠色呈色劑は普通の綠色と同じく酸化銅であるが之に鉛粉と石末とを加へて合成する。金綠色及金黃色の場合の金と云ふのは、後記の金靑色の場合と等しく派手な明快なる色調の意に解せられてゐるが、鉛粉は此明るい調子を得る爲に加へられるものであらう。又石末とは「サルヴエター」氏によると硅酸質の九八、七〇にも及ぶ含有率が非常に高い石の粉末であると云ふが、龍缸を造る時にも官土に石末を和する、これ其質の堅硬なるを利用する爲であると云ふから、右の如く硅酸質含有率の非常に高いことは事實六、鑑定の方法〓之を金黃色と云
六、鑑定の方法全であらう。六、金靑色呈色劑として煉成せる翠と石子靑とを合成すとあるが此場合翠とはコバルトだとの說がある。後世〓代の用語によると此解釋は恐らく正しいであらう。蓋し文字から判斷すれば酸化銅であるが、之と石子靑とを調合して果して明快な靑色が得られるか、疑問である。石子靑は支那產の「コバルト」礦である。七紫色石子靑を呈色劑とし、之に鉛粉と石末とを加へて合成する。八金色金は金粉を用ひて描くのと、金箔を貼付するのと二種ある。明三彩の釉につきては半强火釉の項に述べたが、大體右の諸項の內に含まれてゐる。但し礬紅色は三彩には用ひられて居らぬ。此外豆靑色と云ふのは龍泉靑磁を仿造せる强火釉であり、又純白色の釉があつて、これは旣述釉上着畫を鮮明に引立つる爲に特に地釉の色を純白ならしむるものであるが、これまた强火釉に屬する。以上は明代中期頃に用ひられた色釉として文献に見ゆるものであるが、既述の如く明代初期の三彩釉は磁土を加へたる爲め不透明になり色調が濃暗であるといふ說は前記石末を和することであらう。而して半强火釉として三彩に使用する場合も、軟火釉として五彩に使用する場合も、呈色劑には相違はなかつたが、必要に應じて成分を加減して所要の色調を得たのは勿論である。卽ち明代半强火及軟火釉に用ひられた色種は大體右の如くであるが其色調と濃淡とは種類が少くない。今之を略記すれば綠色には明代に特有なる靑色の强き靑綠色を全但し礬紅色は三彩には初めとして種々の段階の透明なる綠色。黄色には「アンチモニー」呈色の淡黄色から之に酸化鐵を種々の分量にて配合せる濃淡種々の黄色及褐黃色。紫色にはマンガン呈色の透明なる紫色から褐色に至る種々の色調、紅色には礬紅を呈色劑とする橙橘色から珊瑚色を經て濃き煉瓦色に至る種々の色調、黑色にはマンガンを用ひ之に透明なる綠釉をかけたるものを主に線描に用ひたが、これ〓代康熙に至りて貴ばれた黑色の手(famille noir)に用ひられたものと同じである。此他前陳の如く豆靑といふ青磁釉及紫金釉といふ「コーヒー」色から古金色に至る色調の釉は强火釉として用ひられてゐる。又「コバルト」呈色の色釉をかけた單色釉の色調は「コバルト」の種類と分量とによりて種類が少くないが之を單色釉として素胎にかけたものと、一旦普通の釉をかけて燒いた上に之をかけて再び燒いたものとある。而して此後の場合の如く再び燒けるものは明代に於ても必しも「コバルト」釉のみにあらず、黄釉、翠綠釉等其例が少くないが、〓代に下ると更に多くなり、例へば蘋果綠及桃花紅の如きも同じ技法を用ひたのだと云ふ說がある。卽ち蘋果綠は一旦開片の出る釉をかけて燒いた上に酸化銅呈色の釉をかけたものであるが、桃花紅は開片の無い釉をかけて燒いた上に釉裏紅の出る釉をかけたもので、前者は酸化焰で燒き、後者は還元熖で燒いたものであると云ふ次第である。〓代になると色種が多くなる。先づ康熙の末期から現はれて雍正時代最も隆盛を極めたと云はるゝ軟彩一名粉彩と云ふものがある。軟彩に就いては既に述ぶる所があつたが、軟彩の呈色劑は大體硬彩に用ゆるものと同じである。たゞ硬彩と異り此釉は不透明であるから軟かく溫雅の感じを與ふるものであるが、〓朝も康熙の末〓六、鑑定の方法
六、鑑定の方法八年から雍正時代になると〓初以來國家勃興、國力伸展の一路を辿り居たるものが漸く其頂點に近づきたる感あり、社會的に物力充溢し上下擧つて繁榮を樂しむと云ふ天下太平の氣運を馴致し來つた。生活が豐かになれば人心はなごやかになる。人心が和やかになれば、どぎつい物を厭ひて自然溫雅なものを好む樣になる。雍正は斯ういふ時代であり、軟彩は正に此時好に投じたものである。就中金呈色の紅釉は濃淡種々あるが何れも艶冶の極致であつて其後久しきに亙り內外人の嘆賞する所と爲つた。此金呈色の紅釉は發見者「アンドリアス、シアス」の名に因んで「カシアス」の紫と稱せらるゝ金含有物を以て調製せらるゝものであるが、此物質に關する最初の報告書が出版せられたのは西紀一千六百八十四年か翌八十五年のことである。然るに間もなく紅色ガラスの製造に用ひられ、次で「ストラスブルグ及其他の窯器に釉上着畫の顏料として用ひられた。而して歐洲から此色料又は之に關する知識は恐らく「ゼスウヰツト」〓僧侶の手によつて支那に渡り、雍正朝以下紅色軟釉の調合使用を見るに至つたのであると云はれてゐる。洋人は此紅釉を使用せる器皿をfamille roseラ色の手)と稱してゐるが、此紅釉を造るに要する金は微量にて足り、眞紅のルビー色には釉の合成分量の五千分の一、又バラ色の淡紅色には其一萬分の一の金にて足ると云ふ。右金呈色の紅釉以外に如何なる色釉が使用されたかと云ふと、康熙の末期頃の事情は「ダントルコル」の書簡で略ぼ明かである。尤も此僧侶は元來陶業に關する知識に乏しく只信徒の陶工等から傳聞せるところを記述せるに過ぎないのであるから其記述を讀むに當つて愼重に其內容を批判取捨することを要するのは勿論である。例へば彼は軟彩釉に關して仔細に陳述するも、硬彩釉卽ち五彩の色釉に關しては殆ど何等述ぶる所が無いのは何故であるか。案ずるにこれ彼が硬軟兩彩の差別につきて判然たる知識を有せざりしが爲に此兩者を混淆せるものであらう。其證據の一は、彼は第一信に於て色釉の配合劑に關して信者である陶工が只鉛粉のみを擧げて他を〓へてくれぬと不平がましきことを書いてゐるが、硬彩ならば大體呈色劑に鉛粉を加ふればそれで色釉となるのであるから、彼の陶工は別に何も隱してゐた譯ではないのである。然るに「ダントルコル」は之を以て滿足せず何か別に加味するものがあるに違ひないとの疑から、切りと陶工等に問糺した結果陶工等は此僧の執拗なる好奇心を滿足せしむる爲めに軟彩釉の說明となつて現はれたものであらう。そこで彼は鬼の首でも取つた樣な氣持で書いたのが第二信にある軟彩釉の記述である。此に於て硬彩釉のことは影を潜めることになつたのである。要するに彼は硬軟兩種の彩釉があることを知らず、色釉は皆一種と誤解してゐたに違ひない。尤も彼の時代には未だ硬彩とか軟彩とか云ふ名稱は無かつたであらうから、陶業に關して專門の知識に乏しき彼が此兩者を混淆せりとも無理からぬことである。只吾人が今日の進みたる知識を以て彼の報告を讀むには相當愼重なる斟酌を要すると思ふ扨「ダントルコル」は金呈色の紅釉につきては何等記述してゐない。これ彼の時代には未だ此種の紅釉は使用せざりし故である、此事は後述する。之に反して礬紅色は軟彩として使用せるが如く記述してゐる。紅色以外の彩釉では大綠と稱する濃綠色がある。これは白釉を呈色劑である銅華片と調合して作るのであるが、白釉と云ふのは軟彩の原料であつて、其成分は亞砒酸含有礦であらうと西洋磁學家が云うてゐることは旣述した。然し「サルヴエター」式は石英であつて釉として「ダントルコル」の處方の如く調合すれば透明とな六、鑑定の方法八
六、鑑定の方法つて粉彩とはならぬと云うてゐる。蓋し前記の如く「ダントルコル」は粉彩と誤解して硬彩のことを述べてゐるのだ故に後文にある白色釉の語も、硬軟兩彩双方又は何れかの意に斟酌して解せねばならぬ。黃色は白色釉と早礬とを調合して作る。翠色は白色釉とコバルト靑とを調合して作る。此色釉は紫がゝりたる濃靑色である。此に翠色と云ふは明かに染付と同じ靑色の軟火釉である。これ前陳明代の翠も亦コバルトだと云ふ所以である。山綠色は綠色釉に白色釉を加へたもので、淡くして明快なる綠色釉である。枯綠色は濃綠色釉に黃色釉を加へたもので枯れかゝりたる葉の色の如き黃綠色の釉である。黑色はコバルト靑を水にて稍濃く溶き、之に膠を加ふるのであるが、此膠は豫め石灰水に浸して之を煮て魚膠の堅さにして置き、之を加ふるのである。此黑色を以て描き其上に白色釉を被せて燒付くれば白色釉が熔けて黑色を掩ふのである。此白釉も恐らく純ばら鉛を成分とする透明釉であつて所謂粉釉ではあるまい。何となれば粉釉を上へかけては下の黑色は不鮮明となるからである。尙ほ此黑色釉を洋彩黑色と解して事宜紀略の碑にある彩水墨、本朝の新製云々と記してあるのがそれだと云ふ人があるが、之は彩水墨を洋彩水墨と誤り粉釉と誤解せる說であるから特に一言して置く次第である。紫色の原料につきては「ダントルコル」の記述は明確でないが「ヴヰトリオル、ローマン」に甚だ似たること、寶石代用として指輪又は「ヘヤー、ピン」の頂部に之を嵌めること、之を熔解して七寶の如く銀器に嵌入すること等の記述から判斷して「サルヴエター」氏は「コバルト」呈色の靑色ガラスならんと云うてゐる。此原料を碎いて細粉と爲して用ゆるのであるが、る。或は又之に少量の膠を混ずることもある。此外尙ほ黑色釉にou-mien及びou-kingの二種あるが如く說き、「ジユリアン」氏は前者に烏面、後者に烏鏡の字を當てゝゐるが、之は恐らく同一種の色釉で烏金釉のことであらうと云はれてゐる。其調製法は稍濃厚なる靑料の液に白釉と紫金釉及煉灰を混じたる混合液を作つて之を胎に塗るのであるが、之を燒くには窯の中央部に安置することを要し、窯の上部高熱の處を避けなくてはならぬ。而して燒上げたらば更に其上に金彩を施して再燒して燒付け美くしき效果を奏することを「ダントルコル」は說いてゐる。康熙窯の黑釉に金彩のある者は屢〓見かけるものであるが、其黑釉は一種の金屬樣光澤を有し之を烏金と稱するのは適名である鳥金は赤銅のこと)。然し之は一種の强火釉であつて、後述する素三彩の黑色釉及び洋烏金と稱する黑色釉が軟火釉であるのとは同一で無い。「ダントルコル」が記述する色釉は、必しも當時使用せる全部の種類を盡してゐると思はれない。彼の書簡は第一信が西紀一七一二年(康熙五十一年)、第二信が同一七二二年(康熙六十一年此年が康熙の末年である)に認められたものであるが、其後約百二十年を經て西紀一八四四年(道光二十四年)頃、卽ち今から約百年前に在支佛國大使館財務官「イチエ」氏及支那人布〓師李某の蒐集せる當時景德鎭に於て使用せる色釉の見本を佛國に送り、當時佛國有名の磁學家「エベルマン」及「サルヴエター」兩氏が之を分析して其成分を明かにした。今之を綜合一括して左に揭げるが、〓代軟火釉に用ひられた呈色劑及軟火色釉の種類の大體を窺ふに足ると思六、鑑定の方法九二使用に際しては只水にて溶き之を其まゝ筆に浸して描くのであ
六、鑑定の方法九二So一、白色イ、鉛粉炭酸鉛であつて色料に調合すれば光澤ある亮釉となる、口、粉白これに二三種ある。a.牙白鉛粉、砂及亞砒酸を以て作る。b.玻璃白(不透明)又雪白とも云ふ亞砒酸及鉛粉を以て作る。c、上白bに同じ但し亞砒酸の量稍多し。d,補白亞砒酸を以て作り鉛粉を加へず。二、黄色イ、上黃卽ち所謂硬彩に用ゆる原料である。尤も何れも軟彩に用ゆる白色であつて、其主成分は亞砒酸である。「アンチモニー」を呈色劑とする。これに二種ある。ロ、淨黄「アンチモニー」及媒熔劑を以て作る。ハ、古銅汚なき黄色であつて、酸化鐵及黃色を以て作る。三、綠色イ、大綠これ「ダントルコル」の報告にある大綠と同じものであらう。は粉末狀のときは褐色を呈すからである。ロ、粉綠粉彩の綠色であるから酸化銅と亞砒酸及鉛粉の合劑であらう。ハ、二綠「アンチモニー」の黃及次に記す山綠の合劑である。ニ、山綠酸化銅の靑綠色に媒熔劑を加へる。ホ、淨綠六、鑑定の方法これに二種ある。其一は稍濃く他は稍淡い。此媒熔劑と云ふは蓋し粉白であらう。酸化鐵及黃色を以て作る。黄色と云ふは右のイ又は口であらう。燒成前褐色を呈すとあるは蓋し酸化銅但し鉛粉を加ふること稍多しとある。但し熔劑の量は後記の札藍よりも少い。〓
九四九四六、鑑定の方法酸化銅呈色の粉彩第二種。ヘ淨枯綠同上第三種、ホよりも濃し。ト,上綠同上第四種、へよりも濃し。チ、上枯綠同上第五種、酸化銅の綠色に「アンチモニー」の黄を加ふ。リ、ヌ、本地綠酸化銅呈色の第六種とあるが、他の種類との相違は詳でない。四、翡翠色既述曹達又は加里を主成分とする釉を用ひた酸化銅呈色の靑翠色で洋人のトルコ玉の靑綠色と云ふのに該當する。而して之に粉白を加へたものを札藍と稱せるものゝ如くである。五、靑色靑色は「コバルト」の呈色による。之に數種ある。イ、頂翠ホよりも濃し。へよりも濃し。酸化銅の綠色に「アンチモニー」の黄を加ふ。他の種類との相違は詳でない。之に數種ある。頂とは第一等の品質の意であるが、其主成分は酸化コバルト及酸化マンガンなりとある。口、深藍コバルト、マンガン礦のことであるが、これは主として原料の呼稱である。ハ、寶藍媒熔劑に酸化コバルトを合劑せるもので、二、粉靑媒熔劑を以て甚だ淡めたコバルト靑釉であるが、其名の示す如く粉彩の釉である。ホ、頂翠(第二號)前記の頂翠よりも不純分の多い酸化コバルトを呈色劑とせるもので、廣翠廣東產のコバルト靑釉の意であるが、其品位は第一等だとある。六、赤紅色赤紅色の原料は酸化鐵を用ゆるものと金の化合物を用ゆるものとの二種あることは旣述した。イ、酸化鐵を用ゆるもの。a.礬紅このものは靑綠色の硫酸第一鐵を燒いて得るところのベニガラであるが此事は既に述べた。六、鑑定の方法九五其主成分は酸化コバルト及酸化マンガンなりとある。これは主として原料の呼稱である。特に其コバルトの量が他の靑釉に比して多大である。其名の示す如く粉彩の釉である。品質第二等の靑釉である。其品位は第一等だとある。今此に
六、鑑定の方法云ふのは赤色釉の原料として擧ぐるのである。b.大紅aの礬紅に鉛粉を合へた赤色釉である。卽ち硬彩の赤色釉であつて、萬曆赤繪及康熙五彩等の主色と同じものである。c、寶石紅酸化鐵の礬紅と媒熔劑とを以て合成する。d、姿紅酸化鐵の礬紅、鉛粉及媒熔劑の三種を以て合成する。卽ちbとcとの中間の釉である。因に媒熔劑とは鉛白に對して粉釉の原料を指すものであるが、cとdとは所謂珊瑚釉のことであらう。口,金の化合物を用ゆるものa,花紅燕脂紅、胭脂紅、頂紅等の異名があるが、金の化合物によりて媒熔劑を美しき紅寶石色に着色するものである。卽ちこれが粉彩の紅釉である。b、粉紅花紅に牙白の白釉を加へて淡くしたものである。°、靑蓮九大卽ち硬彩の赤色釉であつて、萬曆赤繪及康熙五彩等の主色花紅、七、黑色イ、烏金コパルト、マンガン礦及酸化銅を呈色劑とし、ある)。ロ、亮黑イと同じ呈色劑を用ひ、姿黑コバルト、マンガン礦を用ゆ。らう。八、金色イ、黃金稍白味がゝつた金色である。金粉を用ふ。一口、枯赤金稍赤味がゝつた金色である。金粉を用ふ。以上は其大略であるが、同じく花紅、粉紅と云うても、六、鑑定の方法牙白及寶藍の三種を合成せるものである。其色は恐らく紫であらう。マンガン礦及酸化銅を呈色劑とし、之に鉛粉を加へる。(これ卽ち唐英の發明せる洋鳥金で只鉛粉の代りに媒熔劑を用ゆる。マンガン礦を用ゆ。前二者との相違は詳でないが、恐らく亮黑に鉛粉を加味せるものであ金粉を用ふ。一其色調濃淡は種類と段階とがあつて決して一樣で無九七
六、鑑定の方法れんいから、全體の總數は決して右に止まらず可なり多數に上ると思ふ。此等を種々に組合せ或は調合して前項に述べた通り、種々の艶美なる器皿を造り、且凡百の物質を仿造してよく其眞を亂るに至つたのが〓代窯業技術の最高頂に達した乾隆窯である。4、開片開片とは釉に生ずる裂文のことである。開片は自然に生ずるものと意識して故意に生ぜしむるものとある。支那に於ては開片を以て一種の裝飾と考へて之を賞美するから故意に之を生ぜしむる場合が少くない。開片には其形に從つて牛毛、柳葉、蟹爪、魚子等の名稱があるが、其生ずる理は胎土と釉との溫度降下の際に於ける收縮率の相違の爲に生ずるものだと云はれてゐる。蓋し窯火の高溫から窯所の氣溫まで器物の溫度が降下するときに、內部の胎も外部の釉も同じ率で收縮すれば龜裂は生じないが、第一胎土と釉とは成分が違ふ、又第二に內部にある胎は冷め難いが外部にある釉は冷め易い。從つて、釉は早く收縮するが胎は收縮するのが遲い。されば燒成後器皿を窯から取出すには細心の注意を拂ひ、窯焚を止めてから數日間は其まゝに放置して徐々に窯内の溫度の降下するのを待つて器皿を取出すのである。然らざれば獨り釉が龜裂するのみならず、龜裂が胎に及ぶ虞もある。昔明代景德鎭に於ては窯も小さかつたが、それでも窯焚を止めて後七日間も放置してから器皿を取出した、然るに〓代康熙頃になると窯も大きくなり、且窯焚後三日位放置するのみで器皿を取出す。其主な理由は窯の利用囘數が多くなるのと、窯がまだ相當熱い內に次に燒くべき生まの器皿を容れると窯の餘熱を利用することになり燃料の經濟になるから、要するに經濟上の理由によるものであるが、其代り製品は明代の如き溫雅の風趣を失ひて冷たく硬い感じのものとなつたのである。大體上燒成後器皿の冷却が徐々に行はれゝば開片は生じないのであるが、假令如何に注意して徐々に冷却しても必ず開片の生ずる場合がある。それは釉に特殊の成分を含有する場合であつて、支那人は滑石を釉に加ふることによりて意識的に開片を生ぜしめることに成功し、且明〓代に於ては其開片の大小形狀等も自由自在に作出したと云ふことであるが、其濫觴は遠く宋代に溯ると云はれる。吾人が日常多く見る支那磁器の開片は、右述ぶるが如く釉に特殊の成分を加へて意識的に作つたものであり且外部にある釉が内部の胎土よりも冷め易く、之が爲に早く收縮することによりて生じたものであるが、若し之に反して內部の胎の方が外部の釉よりも收縮率が多い場合、卽ち多く收縮するときは等しく釉に龜裂を生ずるが、此場合は單に釉に龜裂を生ずるに止まらず、龜裂せる釉は剝落し易く胎土を露はすに至る。蓋し釉と胎との間に空虛を生ずるからである。5.掛釉法本邦にては一般に素燒を行つた後釉を掛けるのであるから、六、鑑定の方法釉の成分を調合した液の中へ素燒の器皿を浸漬九九
六、鑑定の方法〓して釉を掛けても差支無いが、支那では景德鎭は勿論、他の諸窯に於ても三彩物の如き特殊の場合を除く外は、一般に素燒を行はず、泥土を以て成形せる器皿を蔭干しにして十分乾燥せしめたるものに直ちに釉を掛けて又之を燥かし、其まゝ窯に入れて燒造するのであつて所謂生ま掛けの法によるのを普通とする。而して生まの素地を釉液に浸せば水分に侵されて素地に損傷を生し易いから、我邦に於ける如きヅブ掛と稱する釉液の中へ器皿を浸漬して掛釉する法は支那では特殊の場合の外行ひ難い。支那に於て行はるゝ掛釉法は、右の如く生まの素地を取扱ふ關係上何れも極めて細心の注意を要するものであるが、近代の景德鎭に於ては贊釉、盪釉、交釉、刷釉、吹釉の五種に之を大別してゐる。今之を略述することゝする。贊釉贊釉とは釉液中に器皿を浸漬して掛釉する方法であつて、所謂ヅブ掛けに相當する。此方法は前述の如く器皿が生素地であるから極めて小さく且分厚の種類なれば此方法によりて內外一度に掛釉するが、少しく薄手のものでは猪口の如き小さなものでも此方法を用ひて內外同時に掛釉することは、釉に傷みを生ずる危險があるから之を行はない。卽ち先づ次の盪釉の方法によりて內面に釉を施して次に贊釉によりて外面に掛釉するのだが此場合碗又は柄杓を用ひて釉を掛けるのである。二、盪釉器皿の大小を問はず最も一般に行はるゝは此方法であつて、これは先づ柄杓を以て釉液を器皿の内に汲込み器皿を振盪して之を內面に普く掛らしめ、過剩の液は器外に之を瀉出するが、此時器皿を廻しつゝ其口端に無釉部を殘さぬ樣にすること等本邦に於て行へる操作と異らない。三、交釉贊釉を行ひ難き大器、例へば二三尺もある花瓶又は壺類の如きものに行ふ一種の浴掛法であつて、先づ盟又は鉢上に板を載せ、掛釉せんとする器物を板上に置き、掛釉工は兩手に碗を持ち之に釉液を汲み、双手を以て左右より器面に浴注するのであるが、器物が大なれば二人にて行ふこともある。四、刷釉刷毛又は筆を以て釉液を器面に塗布する方法であつて、釉層の均一を要せざる着色釉の施釉又は釉藥の塗り別け等に用ひられる。五、吹釉主として極めて大なる器物例へば高さ五尺もある花瓶の如きものに掛釉するに用ひられる方法である。此の如き大器に在りては交釉法にては到底其釉層の均一なることを望みがたき故に此方法によるのだが、之は釉液を盛れる碗を左手で持ち、右手には竹筒の一端に紗の如き布を張れるものを持ち、之を釉液中に浸して布眼に釉液を含ましめ他端に口を當てゝ之を吹き、器面に釉沫の斑紋を作り此操作を連續して行ひ、遂に器面全部に及ぼし、全面に釉の薄皮を被らしめ、更に之を反覆し釉皮をして數層重襲せしめる。然るときは釉皮各層の厚薄は數囘吹釉の後遂に相平均して殆ど均一するに至るのである。又大器にあらずとも吹釉法による特殊の效果を狙つて之を行ふこともある。卽ち礬紅を用ひた吹紅、靑釉を六、鑑定の方法三釉層の均一を要せざる着色釉の施釉又は釉藥の塗り卽ち礬紅を用ひた吹紅、三靑釉を
六、鑑定の方法一〇二用ひた吹靑の如きこれであるが、後者の如き之に用ひた靑料は特に精選せるものを用ひたから其色彩は艶美を極め、從つて市價は甚だ高かつた。又非常に薄胎であるが爲に普通の方法では施釉しがたいものには吹釉法によつて白釉を施す例あることを「ダントルコル」は記述してゐるが、所謂眞脫胎盃の如きものを指すのであらう。施釉は吹釉によらざる場合に於ても必しも一囘に限らず、鄭重なる場合には、二囘も三囘も行つたものゝ樣だ。勿論粗器雜器の類はかく鄭重なことは爲さゞりしも、官窯等入念の作には宋代の昔に於ても二囘以上掛釉せるものゝ如くである。それは南宋末期の官窯である郊壇窯の破片を檢すると、器皿の厚さの約三分の一を胎土が占め、殘りの三分の二中半分づゝ內外兩層の釉が占めてゐるのが多いが、其內外層とも各二層に釉を重襲してゐることが明かに觀取されるので分る。右は同じ性質の强火釉を二度以上掛けて燒く例であるが、他に强火釉を掛けて一旦燒成した器皿に軟火釉を掛けて再び燒くものがある。勿論所謂赤繪なるものも同じ技法であるが、今此に述べんとするは器皿の一面に同一色の軟火釉を掛けたものであつて、前項にも述べた所謂蘋果綠は其一例である。これは氷裂紋の出る特殊の强火釉をかけて一旦燒上げたものへ銅呈色の綠色軟火釉をかけて更に低溫度で燒いたものである。而して此技法を用ひた證據は口緣及底邊にある各一條の白線と、强火釉の開片が綠色釉の下に在りて綠色釉には別にそれ自身の開片がある事實とであると云はれる。然し此理を其まゝ桃花紅や郞窯に適用するには尙ほ〓究すべき問題が少くないと思はれる。尙ほ盧均釉と稱するもの、澆靑、澆黃其他の單色釉をかけたものに此技法を用ひた例が少くない。此技法は明代に濫觴し、〓代就中乾隆時代に至りて益盛んに行はるゝに至つたと云はれる。Ⅲ形狀甲、形狀の意義及造形法の發達燒物の形狀、卽ち姿は大體に於て古い時代ほど簡單素朴であり、時代の下るに從つて漸次複雜巧緻となる。〓代になつてから形狀が非常に複雜化して眞に神工鬼斧を欺くとい而して明代まではさほどではなかつたが、ふ極度に達した。これをよく甄別理解することが藝術の鑑定及鑑賞に關する最凡そ藝術には各民族各時代の特色があるから、而して此場合に胎土、も重要なる基礎的條件であるが、支那古陶磁の場合にもまた同じことが云へるのである。就中形狀卽姿が最もよく此特色を發揮釉藥、模樣等皆支那民族及各時代の特色を現はしてゐるものであるが、してゐるものであらう。從つて姿の特色をよく理解して置くと云ふことは鑑定上最も有力なる武器を有つてゐることであり、又、適正なる鑑賞を行ふ爲の要件でもある譯である。只然し乍ら此特色を把握することは決して容易ではない。何となれば姿の特色なるものは古き時代の眞によき品は甚だ少く、之を親しく手に取つて仔三六、鑑定の方法
六、鑑定の方法ING細に玩味鑑賞できる機會は特殊の地位に在る人以外には極めて稀であるから、各時代の特色を摑むといふ事は言ふに易く事實行ふに難い。而して仿僞の品は歷代無數にあるから須らく用心してかゝらねばならぬ。又假に各時代各窯の特色を把握し得ても實物によらずして之を巧に說明することは至難の業である。造坏卽ち土を以て器皿の形に造り上げるには大體三つの方法がある。手揑、轆轤、型物がこれである。手揑とは土を手でこね又は捻つて所要の皿碗其他の形に造り上げる方法で最も原始的の方法である。現代に於ては特殊の場合に人物、動物等の像を作る外には支那に於ては恐らく行はれてゐまいが、手揑で造つたもので有名なのは宣興窯の茶壺(急須)で、明の嘉靖萬曆頃創始期の名手と云はるゝ供春、董翰、趙梁、元暢、時朋李茂林、及時大彬あたりまでは壺製最も樸茂であると謂はれてゐるが其後は漸次巧緻に流れるに至つたから、等しく手揑であつても只管規矩整齊に力め技巧的には發達したが、姿のうま味は全く失はるゝに至つた。近代になつては此地の製は恐らく皆型押しか、又は泥を板狀と爲して之を適宜に切つて之を合せて造る方法であつて、手揑は行はれざるに至つた樣だ。小さな器皿は手捏で造られるが、少し大形の碗、壺瓶の類は此方法で造ることは困難である。而も古代人に取りては此等の種類の燒物は飮食物の容器として日常最も須要缺ぐべからざるものであるから、此種の中器及大器を造るに古代人は色々の方法を工夫した。今其數種を記述する。一、先づ匏の如き最も便利な自然物を型として所謂型押法を行つた。卽ち匏を半分に斷ち割つて半球形と爲し、之を型とし其內面又は外面に泥土を塗り半乾の時匏を拔去るのである。此方法で碗形の器が出來るが、若而も古代人此種の中器し之を二つ合せて泥漿で其合せ目を封じ一方に口を付ければ壺と爲る。然し此方法竹又は柳の細枝を以て籠を編んで其內又は外に泥を塗れば所要の形と大さの器が得られる。二、卽ち籠のまゝ燒かねばならず、一器を作るによると粘土が籠の目に入り込むから籠を拔き去ることを得ない。假甚だ勞力の不經濟となるから支那に於ては果して行はれたか疑はしい。每に必ず先づ籠を造らねばならず、令行はれても多くはなかつたであらう。これは軟泥を細長く棒狀又は三、普通行はれた最も原始的の方法で大器を造つたのは所謂卷上げ法である。帶狀に拵へて之を器底の中心から渦卷狀に卷いて漸次底から側面に及ぼして所要の形と大きさとにする方法で一步進むと勿論卷上げ乍ら絕えず層間の繼ぎ目には泥漿を塗つたり押へたりすることが必要であるが、ある。打叩法によつて陶土の質を均密堅硬ならしめる。打叩法といふのは、造つた壺瓶等を生ま乾きの時に外から叩其時內側には燒物又は板で造つた方形又は稍長方形の手頃の板を當てゝ其外側を板に繩を卷付くのであるが、此打叩法は北支の一部に於て今尙ほ行はれでゐると云ふ。けたもので叩くのである。これは弧形に彎曲せる長方形の帶狀の板を型として壺四、卷上げ法の次に行はれたのが帶狀型造法である。先づ臺の上に底部を圓形に造り、其周邊に此型を水平に瓶の側壁を順次下から築き上げて行く方法であるが、生ま乾きになつたら型を去りて又其壁の上に同樣の方法で漸次上方に築き上げるのであ立てゝ泥を之に塗り、るが勿論同時に數個の帶狀型を使用して壁を築き上げるのであらう。帶狀型造法が更に進むと彎曲せる長方形の板卽ち帶狀型を何枚も並べて之を縱に繩で幾ケ所も綴つたも五、ian六、鑑定の方法
六、鑑定の方法三のを數通り用意する。これは恐らく我鎧の釉の如きもので只板が重なつてゐないものであらう。而して此型を立てゝ圓形に列べて其內側又は外側に泥を塗り、生乾きの時此型を拔去るのである。尤も底は前の通り豫め臺上に造つて置くのである。此方法は帶狀型造法によるよりも著しく時間の經濟になるから、遙に進步せる方法であることは明かである。六、繩型法、これは先づ卓子の上に底を圓形に造り、其周邊に高さ凡そ一二寸の壁を泥で繞らす。次に繩を取つて之を其壁の周圍に卷き付け、之を漸次上に卷き付け乍ら繩の內側へ漸次泥を貼り付けて適當の高さに達したならば止め、泥が生ま乾きの時繩を外すのである。此方法は稀であるが、山東の或地方から此法によつたものが發見された。右卷上げ法及型造法等を行ふに只地上又は固定せる臺の上では甚不便であるから、操作の便利上廻轉することのできる卓子の上に於て之を行ふことを考へ出した。之を假に可轉卓子と名づける。此可轉卓子は只中央の下面に支點があつて之を中心として卓子を廻轉することができる樣になつてゐるだけのものであるが、これ卽ちロクロの原始的の形に外ならない。而して初めは此可轉卓子を廻し乍ら其上で卷上法又は型造法を行つてゐたが、グルグル廻して殊に仕上げに甚便益を得、次でロクロの如く此卓子の廻轉のみで器形を造るに成功するに至りて、卷上げ法及型造法は漸次行はれざるに至つた。勿論此間ロクロとして軸を長くするとか、板を圓形にして石又は粘土にて造り相當の重さを持たして廻轉の隋力を强めるとか、種々の工夫が案出せられたことは言を俟たない。以上はざつと現代支那考古學者の說である。成形技術發達の歷史は右の如くであるとして、支那民族は恐らく三代以前に旣に如上の原始的造坏の時代を經過してロクロを使用するに至つたことは黑色陶が之を證明してゐる。尤も甌形土器の如きものは有史以後に於ても全部或は部分的に他の方法によつたものであらう。又地方によりては有史以後久しく原始的方法を用ひたる場合もあらう。然し此等特殊の場合を除外して有史以降大體に於て造形法に主たるものは、轆轤によるものであるが、其他の方法も用ひられた、今其大略を說明する。て、有史以後の造形法1、轆轤による法轆轤のことを支那では普通陶車と云うてゐる樣だ。而して其創始に至る順序を右の如く支那の學者は說いてゐるが、此說によると支那のロクロは支那に於て創意發明せられたことになる。然し西洋の學者は必しもさうは說いてゐない。何でも古いものは「エヂプト」が原始であるが如くロクロもまた「エヂプト」に於て用ひられたのが最も古いと云ふ。而して「ローマ」でも印度でも用ひられてゐたと云ふ。然し此種の創意考案は人類發展の段階を考察すると必しも一元的なることを要せず、否反つて多元的に發明せらるべき蓋然性が多いから時代の先後は兎に角として、ロクロが支那に於て用ひらるゝに至つたのは必しも外部から學んだのでなくて支10〓六、鑑定の方法
六、鑑定の方法え那に於て創意發明せられたものとしても毫も差支無い譯である。又現在に於ては其外來性を證明すべき何等の根據も發見されてゐない。支那に於ける現代ロクロの型は、大體蹴ロクロと手ロクロとの二種に大別せられてゐる。一說によると北支那では蹴ロクロが用ひられ南支那では手ロクロが用ひられてゐると云はれてゐるが、「ラウフテー」の記述す、る北支那の二例に於て手ロクロを用ひて居り、小森忍氏の實見談によれば北支那のロクロ成形は別に手廻しロクロの附屬したものと、附屬せずして大きい圓盤のロクロを蹴夫があつて其圓端を蹴つて成形を援けるものとの二種ある。(毎雅堂談圃附圖第卅六圖說明)。南支那に於ては、同氏の記述によれば、景德鎭窯のロクロは手廻しロクロであり、又北村彌一郞氏の報告にも此地のロクロは手ロクロなることを記してある。然るに「ジユリアン」の佛譯景德鎭陶錄の附圖にあるロクロの圖には專門の蹴夫による蹴ロクロと補助手押工による手ロクロとが繪かれてゐる。而して「ラウファー」の說によれば、此圖は景德鎭陶錄の原刊書より轉載せるものであると云ふから(通行本は覆刻本である)或は陶錄刊行當時は斯る方法が此地に行はれてゐたのかも知れない。德化窯(福建省)に關する北村彌一郞氏の報告によれば、此地に於ては蹴ロクロを使用してゐる。石灣窯(廣東省)に關する同氏の報告によれば、此地に於ても蹴ロクロを使用してゐる。尙ほ「ラウフアー」及「モールス」の記述によれば、中支及南支地方に於ては蹴ロクロを使用するとある。以上數例によりて明白なることは、北支那が蹴ロクロで南支那が手ロクロだと云ふ說が誤りであることである。而して現代に於て此說が誤であるばかりでなく、昔に於てもかくの如く北がどうで南がどうだと斷定するえ又現在に於ては其外來性を證明すべき何等のことはできないと考へる。これは常識の問題である。さて何故に斯ることを繁冗を厭はずして述べるかと云ふに、鑑定家の內にはロクロの間題殊に右廻りだから北だとか、左廻りだから南だとか云ふ一つの規則を拵へて、若し此規則に反するロクロの燒物があればそれは支那製でないと斷定する人があるからである。例へば此に一つの龍泉窯の靑磁と見られるものがあるとする。龍泉窯は浙江省に在りて南支那である。從て手ロクロである筈だから左〓りであらねばならぬ(時計の針と反對)。而して此靑磁のロクロが左廻りなら先づロクロの點では支那產であるとして差支無いが、若しロクロが右廻りならば此靑磁は他に如何なる證據があつても支那產にあらずと斷定してしまふのである。かゝる斷定が甚しき武斷であつて人を誤るものであることは前記の數例に徵しても明かであるが、昔龍泉窯に於て手ロクロのみを用ひて蹴ロクロを用ひなかつたと云ふ證據は一つもない。又手ロクロのみを用ひたとしても何百年或は千數百年も此窯が繼續してゐる間には、恐らく何十萬或は何百萬の陶工が生れて死んだであらうが、其內に決して一人の左利きの陶工も居なかつたと誰が斷定し得ようか。今何百人の右利きに對して何人又は何十人の左利きがゐるものか我輩には調査資料が無いから確然と記述出來ないが、龍泉窯創始以來明末に至りて遂に斷絕したと云はれるまでの間に右の如き夥しき多人數の陶工があつたとすれば、其內に數千又は數萬の左利きの陶工がゐたと決てして不思議はあるまい。而して是等左利きの陶工は右利きの陶工とは逆にロクロを廻すことは理の當然であるから普通とは反對の方向のロクロ目のある器皿が產出するのは何等怪しむに足らないことである。然るに是等を以て悉く支那產にあらずと云ふが如きは甚しき非常識と云はざるを得ぬと思ふ。これは獨り龍泉一〇八六、鑑定の方法
六、鑑定の方法=一〇窯のみに止まらず、又窯の北たると南たるとを間はず同じ理であつて、要するにロクロの右廻り左廻りを以て支那產であるか否かを決定することは決して適正妥當ではないと考へる。北村氏の報告によれ、石灣の陶車は木製にして景德鎭の陶車も亦木製の如くである。而して德化の陶車は竹片を編みたるものに泥土を塗れるものである。又粘土に豚の毛と藁とを混ぜたるものを以て製せる陶車が北京附近に於て使用せられあることを「ラウファー」氏は記述してゐるが、尙ほ同氏に從へば山西省の或地方に於ては厚き石製の重き陶車を用ひて重き大器を造ると云ふ。此他陶車の形及構造等地方によりて可なりの相違がある樣だが今之を略すことゝする。按ずるにロクロを用ひて造坏する陶匠が一人にてロクロを廻し且造坏するよりも.專門の手押工を使用してロクロを引く者はロクロの廻轉に毫も手を用ひずして專心造〓に從事する方が分業の原則に從ひて遙に能率が良かるべきは論を俟たぬと思ふ。故に日用雜器及輸出用の粗器の如きものを造るには專門の廻轉工を使用すべきであり、且又手押工よりも蹴夫を用ゆる方に便宜が特に大であると考へる。從つて〓朝末期には北村氏の實見せる如く專ら手ロクロであつた景德鎭窯も、內外需要の最盛であつた〓朝の初期から乾隆嘉慶頃までは、前記所謂陶錄原刊書の圖の如く專門の蹴夫も使用されてゐたかも知れない。ロクロを以て造つた坏は景德鎭に於ては印坏の作業を行ふ。其目的は胎土を緊壓し且其形狀を整ふるが爲であつて、其方法は景徳鎭附近より產する淡褐色の土を以て作つた生土型があつて、此型を小形のロクロ上に置き、之に〓を當て外部から押撫でゝよく型面に接合せしむるのであるが、これを按拍すると書いてある。此とき坯は一旦乾かしたものを刷毛で外面から水を塗布し水分の土中に滲み込みたるものを型に當てゝ按拍するのである。印〓によりて整形された〓は鋼鐵片を曲げて之に刃を付けたカンナを用ひて其外面を削りて仕上を爲す、之を利〓と云ふ。利〓を了りたる〓は內面に施釉する。之を刹刷〓と云ふ。次に副坯を行ふ、これは高臺を削りて仕上げることである。副坯を行つた後外面に施釉して燒上げるのである。(北村氏による)。脫胎磁は半脫胎でも眞脫胎でも刹坯の後高豪を削るときに外面を巧みに極めて薄く削り取るのだと云ふ。の時內面に施されある釉に支へられて胎土が非常に薄く削られ得るのだと云はれてゐる。之2、型造法景德鎭に於ては、ロクロを用ひて形成せるものでも、碗皿類は前記の如く模型を用ひて印〓を行ふのであるが、ロクロを用ふることを得ざるもの或は之を用ゆるを不便とするものにありては模型を用ひて成形を行ふ。模型の材料は國により又地方によりて異ふが素燒型、木型、金屬型、石膏型等の種類がある。又單純なる押型があり或は割型がある。甚複雜なるものの成形には數種の割型を用ひて數個の部分品を作りて之を粘土にて稠合せるものもある。景德鎭では單純なる器物例へば散蓮華形の匙の如きは單純なる押型を用ひてゐるが、置物の如き複雜なる器六、鑑定の方法三置物の如き複雜なる器三
六、鑑定の方法一二物の成形には割型を用ひてゐる。而して是等の模型は皆土型であるから器坯は精巧なる能はずして何れも粗體である。德化では模型は殆んど全部素燒型であつて土型が稀に用ひられてゐる。而して模型には丸型、割型押型、撫出型等の種類があると云ふ。石灣では素燒型を主とし、又木型も使用してゐるが、何れも一般に粗造であるのみならず其使用法もまた粗雜である。然し割型を用ひて大小各種の器物を製し又模型を用ひて種々の薄肉模樣を作り之を器面に貼付する等其用途はよく普及發達してゐると云ふ。木型は主として壁瓦或は敷瓦の製造に使用せらると云ふ、今其說明は之を省略する。博山に於ては土型を用ひてゐると云はれてゐる。以上は何れも〓末頃迄の情況であるが、民國革命以後は種々の革新が行はれたことを附記する。3、泥板を以て造る法一二而して是等の模型は皆土型であるから器坯は精巧なる能はずして何れも粗體而して模型には丸型、割型押型、3、方形、六角、八角等の器を造るにはロクロを用ひ難い。故に是等稜角の〓を造るには布を以て磁泥を包み平板を以て之を壓し一定の厚さの泥板を造り、之を適當の大さに切りて所要の器を造る。此際板の合せ目は泥を以て調和黏合するのであるが、此事は陶冶圖說に畫いてあるから景德鎭に於ても行はれたことは疑が無い。又他の諸窯に於ても恐らく行はれたことであらう。然し其最も多く行はれてゐるのは恐らく宜興窯であらう。宜興の窯業地は蜀山に在るが、成形は一切ロクロを用ひず、すべて粘土の板を作つて成形するのであつて昔からの熟練とは云ひながら感服の外は無い。然し一面から云へば粘土が非常に成形の上に便利たる粘土である事に基くのであると思はれる。4、4、仕上げの工程掛釉後、窯に入れる前に高臺の仕上げを行ふ。景德鎭の例によるとロクロで作つた器皿は故意に其足部を稍長く大きく作つて置く。これは靑花を畫いたり掛釉するときに片手で此足部を握りて之を行ふ爲の便宜を顧慮してかく大きく造つて置くのであつて、掛釉して乾いたら此足部をロクロの上で削り去りて適當に高臺を拵へる(「ダントルコル」による)。底裏銘を書くものは高臺が出來てから書き、其上に掛釉するのであるが、此時釉が高臺の內側に普く掛かる爲にはどうしても疊付の所まではみ出すことを免れない。而して此はみ出した部分は之をよく除去して置かないと燒成の時に厘に粘着するから更にロクロの上で削り去ることが必要である。此技法中掛釉後高臺の疊付の處を削つて釉の付着せるものを除去することは、ロクロを用ひて成形した圓形の器皿に限らず、型造り及板作りのものに在つても等しく必要である。只此場合には、器形の關係上ロクロの上で廻轉して削ることは出來ないから、卓子の上に安置してカンナで削るのである。右の如く掛釉後カンナで高臺を削ることは、支那の如く一般に生素地のまゝ掛釉する場合には容易に行はれ六、鑑定の方法二三
六、鑑定の方法一四るが、本邦の如く一旦素燒してから掛釉するものに在つては、胎土が素燒の爲に硬化してカンナを以て削るとは思ひもよらぬことであるから行ひ難い。故に鑑定家なる者は高臺を見て、其掛釉後燒成前にカンナを受けたる痕跡あるや否やを驗査して、支那產なるか本邦產なるかを鑑定するのである。卽ち若し釉が削り去られた痕が歷然たればこれ支那產なりと斷定し、之と反對の場合には本邦產なりと判斷するのである。靑磁、染付、赤繪等此方法によりて產地を鑑定する場合が少くない。然し近年本邦產の僞造品と認められる靑磁、染付、赤繪等にして支那產の如く生素地のまゝ施釉したる後高臺を削りたる痕跡を拵へたものが相等市上に見受けられる樣だから、此鑑定法も絕對の信賴を措くことはできない。景德鎭以外の諸窯就中宋元の諸窯には、高臺の內外共に掛釉せず露胎のまゝのものが決して少くない。均窯其他河南諸窯、建窯、吉州窯等の如き其例である。又所謂汝州舊窯の碗の如く器底に掛釉するも高臺の內外側は藥切れで略ぼ露胎のまゝに殘してあるものもある。是等のものにつきては前述の鑑定を行ふこと能はざるは言を俟たないところである。尙ほ壺、瓶の類について、鑑定家が其製作時代を判定する一つの見どころがある。それは何であるかと云ふと、大體壺や瓶の類は支那に於ては之を造るときに胴の略ぼ中央から二つに分けて之より以下の部分と、以上の部分とを別々に造つて胴の處で繼ぎ合はせるのである。例外の場合もあるがこれが先づ普通である。而して其繼ぎ目には泥漿を塗つて離れぬやうに確く密着せしめて置く。宋元は元より明代のものは此繼ぎ目を其まゝにして餘りイヂクラないから、上に釉をかけて燒いても其繼ぎ目の所が少し高くなつてゐて一目瞭然としてゐるが〓代のものは此繼目の所をきれいに削つて他の部分と等しく平坦にしてしまふから、どこが繼目か見別けがたい。故に鑑定家は壺瓶等が明代の產であるか、〓代の產であるかを鑑別するには、先づ此點に注意するのが定石である。而して〓代に造られた明代の壺瓶の巧妙なる仿僞にして此點で觀破せらるゝ場合も少くない。し此鑑別法については異說を唱ふる技術家がある。其說に曰く實際壺瓶の類をロクロの上で削つて仕上げをす但るに方つて、先づ上の方から順次下方へ削り下つて略ぼ胴の半頃で止め、更に壺瓶を〓倒して卽ち高臺を上にし口を下にしてロクロの上に置き、高臺の方から順次口の方へ削つて胴の半に至ると胴の中半の所に削り殘りの少し高い所が出來る。鑑定家は此削り殘りの所を指して胴の繼目だと稱して時代がどうのかうのと云ふのは實に噴飯の至であると。然しこれが所謂畫かき鑑定なるものゝ一例であつて、技術家は自己の狭き經驗を基として小さな頭で廣い世の中を判斷するから此樣の謬說を唱ふるに至るのである。事實支那產の壺瓶の類に胴繼ぎがあるか否かと云ふことは、實物を驗査すれば直ちに分ることである。就中明代の壺瓶にして口が廣くて內部がよく見ゆるものを取つて內部を見るがよい。さうすれば直ちに理解するであらう。又頸部の長いもの脚部の長いもの等に在つては獨り胴のみならず頸部、脚部も繼いである場合が少くない。此場合には三段繼ぎ、四段繼ぎになつてゐる譯である。高臺の削り方についても時代の相違が歷然と看取せられる。卽ち明代の器皿の高臺は大體削り方が粗でカンナの刃の痕が歷然と見ゆるものが多いが、〓代の高臺は大抵滑かに削つてあるのが多い。卽ち高臺の斷面を假定すれば、明代のものは二三ケ所に角が立つやうな傾があるが〓代のものはきれいにカマボコなりになつてゐ一一三六、鑑定の方法
六、鑑定の方法二六る。尤も此相違は必しも絕對ではなく、官窯の如きは明代でも高臺が相當丁寧に削つてあるし、に〓初康熙代のものには粗く削つた高臺も間ま見受けることがある。又〓代でも殊丙、歷代形狀の特色支那古窯器の特色を各時代各窯につきて詳述するが如きことは本書の如き小册子の到底能くするところでない。又既述する如く支那に於ける幾千の古窯中大部分は未開拓の分野に屬するが故に、現在吾人の知見に於ては蓋し全く不可能事である。從つて此には唯現在の知見に於て其〓要を述ぶるに過ぎない。殷周以前更に二千年の昔に上限を有すると云はれる前代未聞の諸窯器の出土によりて、考古學的にも古陶磁學的にも支那上代の〓究分野は二十年來急に廣くなつたのであるが、是等上代の諸窯器中例へば彩色陶、アンフオラ型灰色陶(第07 1圖)、及尖底を有する長き瓶等の如きは異常に特色のある窯器ではあるが、是等は果して支那民族の作つたものであるか甚だ疑はしい。恐らく西方民族の作つたものであると迂生は考へてゐる。其理由は、云ふ迄もなく其形狀なり紋樣なりが餘りにも後世支那民族の造つたものとかけ離れてゐて、西方民族の香が深いからである。彩色陶と略ぼ同時代と考へられる支那民族固有の窯器には鼎〓等の灰色土器がある。之より時代が下つて黑色土器、白色土器があり、更に時代が下つて殷周代から戰國時代に作られた灰色陶がある。此時代のものは從來一般に釉が無いと考へられてゐたが、殷墟から釉のある壺等が發見せられて斯界に新しき間題を提供した。是等の壺には蓋があり、下邊に安定な園足を付した點で古銅器の疊に似て而も圓足には巧緻な透や彫文を加へて木彫の名殘を思はしむるものがあり、又通體に篦書きの幾何學的な裝飾文樣を施し、肩に山形紐狀の耳を加へたもので仲々複雜な趣のものである。又古銅器の〓と全然形を同じくした犠首飾のある窯器片に厚い黑褐色を施した破片もあると云ふ。殷代には旣に複雜な形及模樣の銅器が多く存在したのであるから、窯器にも複雜なものがありたりとて別に不思議は無い。但し日用庶民階級の雜器は單純なるべきは勿論である。河南省安陽の段墟から出土する白色土器に、古銅器に見る如き複雜な雷文其他の文樣を彫刻したものと然らざるものとある。戰國時代の廣口の壺には篆書の刻銘のあるものがあり、中には年記の存する者もあるが、此種の壺は足が卵形で丸く底に連り織蓆文の明かに殘つてゐるものがある。此形は古く殷商代から行はれたものである。三代以降の窯器にして文献に見ゆるものは種類が少くない。其名稱及出典等は大體陶說等の書に集錄してあるが、是等は〓ね祭器に非れば日用雜器の類である。然し此以外に多數の明器がある。明器は死者と共に葬つた器物で漆器、金屬器、木器其他窯器に非るものも少くないが、窯器も亦た種類數量等甚だ多かつた。而して此等の內には其形が太古民族渾厚樸茂の氣象を看るに足り極めて藝術的價値に富める優秀品も少くない。〓言すれば石器時代に於ては石器木器以外には專ばら窯器を使用したのであるが、進んで金石併用時代になると金屬器を併用するに至つた。就中祭器の如く貴重視せられるものは銅を以て之を作るに至つたのであるが二〓六、鑑定の方法
六鑑定の方法二八此時には其モデルとなつた原型は云ふ迄もなく窯器であつた。然るに後世になると更に窯器を以て銅器の形を模造せる場合もある樣になり、卽ち銅器と窯器と相互に原型と爲り模仿品となり、何れが原型か分らぬ樣なことも少くない。而して旣述の如く殷周時代の銅器に於て旣に複雜なる形を造つた支那人のことであるから、秦漢以降の窯器の形が必しも素朴なりとは限らない。而かも此時代の窯器の形が大體に於て簡素であつて、銅器の如く複雜なものが少いといふことは、其頃の支那人の文化が未開であつて複雜な形を案出するに堪へなかつたが爲ではなくて、他に其理由を求めなければ了解しがたいことである。蓋し採鑛冶金法の發達せざりし當時に在つては銅の如きは貴重品であつたから、之を以て製せる器具には當時の技術を盡して之が形狀及模樣を美化するに力めたし、形にしても模樣にしても複雜なものを造るとなると燒物は到底銅器其他金屬器の敵ではない。卽ち燒物を以て複雜な形のものを燒造することは少なからざる技巧を要するのみならず、極めて破損し易き燒物に多大の技巧と勞力とを費すことは決して得策ではないから、燒物は自然と複雜な形と模樣とを永久性の多い銅器及他の金屬器に讓つて、比較的簡素な祭器及實用品の器皿の類を主とするに至つたものであらう。明器卽ち副葬品中の燒物は秦以前のものは明かなものは甚少いが、彩色陶の內鋸齒紋の模樣のあるものは皆明器であるとの說もある。又段代の古墓から瓦爵、瓦觚、瓦曇等が發見せられた例もある。又春秋戰國から秦に至る間の明器に關する文献は多少あるが、實物の事例は秦に至るまで殆ど聞かぬ。漢代の祭器としての窯器につきては「ラウファ」氏は豆、簠等の標本を擧げてゐるが、果して漢代の產か或は戰國時代に溯るものか確證がない。漢代の實用陶としては獸環と狩獵文の帶を有する甕.水注。匏素文の壷、量器等が發見せられてゐるが、綠釉をかけた一群の甕及穀物容壺と稱するもの等は、其釉の耐久性に缺けてゐる事實から觀て果して實用品であつたか疑はしい。明器は漢代になると其種類も數量も少くない。罹振玉の擧げた例によると男俑、女俑、瓦尊、瓦盃、瓦鼎、酌器、瓦〓、陶罍、瓦〓、羽觴、陶匏、硯印、屋舍、防舍、畜舍、瓦竈杵臼、碾磑、瓦井、汲斗、車覆、牛車、壙磚、家畜等であるが滿洲營城子牧城の漢代古墓からは尙ほ瓦甑、水缸、瓦豆、鉢、壺、舟杯、筒形土器、瓦奩、漏斗形土器、桶形土器、皿、瓦盆等が出てゐるから、其既に出土し又は今後出土する器皿の種類は尙ほ多數に上ることであらう。漢代の明器中最も特色のあるものは男女の瓦倆であつて前漢就中其初期のものは素朴雄渾を以て勝り、後漢就中漢末に近づくに從つて技巧的になり感覺が流露するに至る。然し漢代の瓦俑は之を通じて一種古雅な風趣があつて六朝及唐の土偶に見ること能はざるうま味がある。殊に後期のものはよく人物動靜の姿態に就いて其精髓を摑んで巧みに之を樣式化するに成功してゐる。これ畢竟漢代工匠の藝術的感覺が後世に比して遙に高き水準に達しありしが爲であるが、其樣式美は一種特有の類型に嵌つてゐるから一望して其當代の產なることを知り難からざることが多い。六朝時代は塞外民族が支那本土に侵入して散々に荒し廻つたのであるから、窯器も亦た他の美術と共に退步して其形狀の如きも漢代初期の素朴さも後期の感覺も失はれて一種稚拙の田舎藝術に墮したものが少くない。然し寒外蠻族の侵禍を蒙つたのは主として北支那であつて、江南地方は依然として支那民族の統治下に在つてニ一〓六、鑑定の方法其釉の耐久性に缺け硯印、屋舍、防舍、畜舍、瓦竈
六、鑑定の方法三所謂江南文化の花が咲いた時期もあつたのだから、此地方の窯器は都雅の姿態あつて然るべき道理である。但し南朝諸國は〓ね文化に陶醉耽溺して淫靡無氣力に墮して亡んだのであるから、窯器其他の藝術品も自然廢類氣分に滿ちたものが多き譯である。着代に至つて支那の文化は其發達の絕頂に達したことは通說として認められてゐる處であるが、唐は國家の版圖が最も廣大であつて國權が四方の外國へ深く浸透してゐたから自然外國殊に西域地方との交通が頻繁であつて「ギリシア」、「ローマ」等の文物が直接又は間接に支那に輸入せられたものが少くない。旣述の如く支那民族と外國民族との接觸及交通は遠く有史以前に溯るもので、其後殊に秦漢の如く强力なる國家の出現した場合には外國と文化の交流があつたことは勿論である。有名な張騫の遠征の如き其一證である。此等外國民族と交通の結果、西洋又は西域地方の金屬器又は窯器の形狀が支那の窯器に影響を與へたことは言を俟たないが、此事實は唐代に於て最も顯著に現はれた。試に唐三彩と稱する唐代明器の一群を通覽するなれば男女の胡人、胡服を纏へる支那婦人、駱駝に乘れるアラビア人を始め瓶、壺盤、碗皿の類の形狀裝飾に至るまで西洋の影響を受けざるものは殆ど稀である。尙ほ此等唐俑につきて一言すべきは、漢代の瓦倆が素朴から樣式美に發達した代りに、唐代の俑は一般に寫生風の巧妙さに於て勝れてゐることである。唐代に於ける實用陶についても外國の影響を指摘し得るものが少くない。卽ち鳳首壺(第十六圖)及或種の瓶罐の如き其例であるが、一般に唐代の窯器は其姿態が大まかで雄大の氣象に滿ちてゐるのが特色である。これ當代支那が文字通り世界の大國であつて其版圖が廣大で物力、權力共に宇內に冠絕して遠く四邊を雌伏せしめたが故に國民の氣分が自然に器皿に現はれたものである。然し中唐以後殊に晩唐になると、政綱弛緩して地方分權の力が强大となり、又流寇四方に蜂起し遂に滅んだのであるから、器皿も亦た中唐以後次第に其形が頽唐して見るべきものが無くなつた。五代は期間も短く且兵亂相次ぎ兵馬倥偬で窯器のことは詳でない。尤も此間柴窯と云ふ有名な燒物があるけれども、其實體と認むべきものは未だ發見されてゐない。宋は唐に比すれば版圖も狭く、西域地方との交通も殆ど杜絕して專ら支那民族固有の文化が醞釀發育せる時代である。此時代殊に其前半である北宋時代は支那の窯藝が其發達の絕頂に達した時代であつて、幾多無名の名工によりて多くの名器が作られた。其姿は典雅であつて而もよく銳き感覺を失はず、花文の精麗と釉藥の艶美と相俟ちて最も鑑賞家の嘆美する所である。此等の特色は南宋代に至りて尙ほ修內司、郊壇及龍泉諸窯に於て持續せられたが、之を北宋代に比すると幾何か退步の痕あるを免れない。元代に至りて統治者の蒙古は大體藝術に無關心であつたから窯藝も亦た退歩し、器皿の姿は鈍重稚拙に傾いた。明代に下ると形は精巧に且漸次複雜になつてくるが、大體に於て宋代の如き銳き感覺は失はれて再び見ることを得ない。然し之を〓代に較ぶれば尙ほ勝れること少しとしない。卽ち稍や不規則なる成形に反つて無限の妙趣を含んで感興を惹くことが多い。而して明代初期の作は〓して作行重厚齊整で、中期就中成化の作は〓して薄手で纎細なものが多く、嘉靖、萬曆等明末は器種器形共に漸く煩多で其作行は薄手華奢なものと鈍重古拙のものとなつて一樣でないが、之を初中期の者に比すれば〓ね末梢的頽唐氣分が漸次濃厚になつてくる。三六、鑑定の方法
六、鑑定の方法三三〓代に入りて器種器形共に著しく多樣となり、一般に姿が整齊に過ぎて技巧の極致に達し、之が爲に反つて風趣が失はれた。而して此特色は乾隆に於て其頂點に達したと云ふのが通說である。Ⅳ模樣技法による分類模樣も亦た形と同じく古いものほど簡素であるべき理である。然しこれは大體の話であつて、形と等しく幾多の例外があることは勿論である。例へば塩殷から出土する白色土器の模樣は決して簡素とは言ひ難い。又更に溯つて有史以前の民族が遺した彩色陶に描いてある模樣の如きも仲々複雜なものである。而して他方には近代若くは現代の器皿にも模樣の無いもの、有つても甚だ簡素なものもある。先づ技術的方面から見た模樣の種類を擧げて簡單に說明することゝする。模樣のことを支那では一般に花と云ふ。必しも草木の花のみに限らず、人物、動物、山水、何でも模樣は皆花である。又花紋(七つとも云ふ。花文には描花と然らざるものとある。便宜上描花にあらざるものを先に說く。描花にあらざるものに彫花がある。彫花は卽ち刀で彫つた模樣で、之に平彫(又暗花とも云ふ)、凸彫(又法凸彫(又法花とも云ふ)、凹彫(又劃花とも云ふ)の三種がある。だ。平彫とは彫りが淺くて釉の上を手で撫でゝも凹んだのを感じ無いものを云ふ。凸彫とは浮出し模樣のことで卽ち陽文である。凹彫とは平彫の一層深く彫つたもので、釉の上から明かに凹んだのが分るものを云ふ。卽ち陰文である。凹彫は一名劃花と云ふのであるが、これは刀を以て片刀彫りにしたものを主として稱する名稱である。彫花と紛らはしき名稱に彫瓷と刻瓷とがある。彫瓷と云ふのは彫つた模樣が最も深入顯出を爲せる透し彫の浮出模樣とでも稱すべきもので〓代乾隆頃盛に造られたものである。又刻瓷と云ふのは近代人が景德鎭の素白磁を取りて之に針、刀、錐等を以て種々の花文を彫り、墨を之に塡塗せるものを云ふ。繡花と云ふのがあるが、これは明代の文献に見ゆるもので其何であるかはよく分らない。甲說によれば刺繍の如く針を以て刻すのだと云ひ、乙說によれば針を用ゆるに非ず、只其花文が刺繍の花文に似てゐるからかく云ふのだと云ふ。丙說によれば繡は鏽の同音假借であつて鐵鏽花卽ち俗に云ふ鐵砂模樣のことだと云ふ。何れが正しいか未だ定說が無い。印花と云ふは印板を用ゆとあるが、印に模樣を彫り付けてベタ〓〓と押捺する模樣は胎土の柔かい内に押せば彫花と同じ樣に陽文又は陰文が現はれる。それが印であれば幾つも同じものが現はれる。又若し染付の靑料をつけて固く乾いた上に押せば染付模樣が幾つも同じものが現はれる。然し此兩種の如き印花は支那の燒物に六、鑑定の方法三凹彫(又劃花とも云ふ)の三種がある。云ふまでもなく此等は皆模樣の上に釉が掛けてあるの凹
六鑑定の方法三一四は無いことはないが甚だ稀である。普通印花と稱するは成形の項に一寸述べた通り、ロクロで碗又は皿を造つてまだ生乾きの時按〓と稱して型の土にかぶせて手の平で叩いて形を整へる。其時に型に種々の模樣が彫つてあれば坯に其模樣が其まゝ寫る。之を印花と稱するのである。此技法は宋代既に定窯、景德鎭窯、汝州新窯等に於て廣く行はれ、其型も今日出土してゐる。錐花とは錐の尖つた先で彫つたものである。拱花とは凸花の一種で特に浮出しの强いものである。堆花とは筆で粉料(ガラスの粉末)をつけて素胎の上に模樣を描き之に釉をかけて燒けるものである。又之を塡白と云ふ。盛り上げ模樣のことである。又粉料を用ひず單に泥漿を用ひたのもある。一說に此種の模樣で花文の疎略なる者を堆花と云ひ、花文の繁密なる者を堆料花と云ふとある。貼花とは別に花文を磁土を以て造つて之を素胎の上に泥漿を以て貼付せるものである。嵌花とは別に造つた花文を素胎の上に嵌込んだものである。人物等が器から突出せるものである。影靑とは白色の磁胎に彫花又は印花を付けて之に還元鐵呈色の透明なる淡靑色の釉をかけたものである。此釉は花文の處には深くかゝるから周圍の地の處よりも靑色が濃く見ゆるが故に影靑と名けたのである。一說に影靑は甚だ薄手の燒物であるが、若し頗る厚手の燒物で一面のみに靑色の彫花を影出せる場合には之を隱靑と云ふとある。玲瓏磁とは透し彫のことである。又漏空とも云ふ。夾花とは上繪付の模樣の周圍の地に別の色を塗れるものである。又之を夾彩とも云ふ。又之を夾彩とも云ふ。染付のことを支那では靑花と云ひ、其原料の「コバルト」を靑料と云ふ。支那の染付は生まの胎の上に畫いて、之に釉をかけて一度に燒き上げるのであつて、我邦の如く胎を一旦素燒にしてから之に染付の畫付けを行ふのとは技法を異にしてゐる。赤繪のことを支那では五彩と稱し、赤紅色の上繪付の繪具を礬紅と云うてゐる。これは我邦と同じく上繪付をしてから錦窯で燒付けるもので、此窯を明爐暗爐と云うてゐる。赤紅色の外に綠、黄、黑紫等の諸色がある。釉裏紅と云ふ一種の紅色があつて、之を以て花などを畫いてある。これは染付と同じく素胎の上に畫いて、其上に釉をかけて燒くものであつて、其原料は銅である。酸化銅が還元燈の爲に燒かれて純粹の銅又は酸化第一銅に還元して美麗なる紅色を呈するのである。我邦で所謂辰砂なるものである。又鮮紅、宣紅、祭紅等の異名がある。三彩と云ふものがある。古くは唐代の三彩があり、近くは〓代に於ても行はれた。これは紺、紫、綠、黄、褐等の色釉を素胎にかけたものであるが、唐三彩には胎の上に何等豫備工作を施さずして平滑の面に異つた色釉をかけて一種面白き斑文を呈したものがある。又後世例へは〓代康熙年間に之を仿造した虎斑釉と云ふものがある。然し此種の者は或る一定の模樣を色釉で現はさうとするときには釉が融け合つて輪郭が亂れて目的を達し難い。そこで此不便を除去する爲に三種の方法が案出せられた。一、模樣の輪郭を稍深く强き線彫りと爲し、其線を境界として其內外に各異色の釉を塗るときは彫線が溝と六、鑑定の方法二三
六、鑑定の方法一六なつて異色の釉の混融を防ぐ役目を爲す。二、模樣の輪郭を細き線狀の泥土にて圍繞する。然るときは、此細き線が障壁と爲つて異色の釉の混融を防ぐ。三、模樣を透し彫と爲し、又は浮彫と爲し、之に異色の釉をかける。以上三種の內第二の者は其技法恰も線七寶に類するものであつて明代に至つて初めて行はれたものである。然し其原型は旣に遠く漢代の博山爐だの宋代龍泉窯の靑磁にも見られるのであるが、只此場合には一色の釉をかけたもので異色の釉をかけたのは明三彩が初めてゞある。他の二法は明以前より既に行はれたが、明代に於ても行はれ、以後此等三法は用ひられて現代に及んでゐる。又屢〓同一器の上に此等三法を混用せるものもある。三彩は其色種の數が三種だと云ふ意味ではなくして、右述ふるが如き特殊の技法を用ひたものは其色種が二種でも四種でも皆三彩である。又赤繪は五彩と云うてゐるが其用ひられた色が三色でも六色でも五彩である。本邦では此呼稱を知らずして或は二彩だの四彩だのと云ふ者があるのは笑ふべきだ。我邦で搔取手又は搔落し手と呼んでゐる技法がある。これは磁州窯及其系統の諸窯に行はれてゐる技法である。蓋し此等の諸窯は土が大抵灰色又は黄灰色を帶びて甚だ美しくないが爲に、之に化粧掛(engobe)と稱して純白色の美しい泥を塗つて其上に釉を掛けるのが常法である。此化粧掛の技法は既述の通り西域傳來の技法だと唱ふる者もある。或はさうかも知れないが、從來考へられてゐたよりも遙に古く支那に於て行はれ來つたものであることは、其彩色陶に旣に用ひられてゐることでも分る。而して此化粧掛の上に鐵砂で模樣を畫いた一六然るときは、此細き線が障壁と爲つて異色の釉の混融を防のもあるが、搔取手で模樣を現はしたのもある。搔取手を行ふには、例へば唐草模樣を現はさんとすれば唐草のところだけ化粧の白土を殘し置きて其周圍の地のところの白土を搔落してしまふ。斯くした上に釉をかけて燒くと、唐草の處は純白で周圍の地の處は釉を通じて下の灰色の胎土が見えるから、白と灰との兩色が對照して一種美しき趣を現はす。若し又白色の化粧掛の代りに黑色の釉をかけて模樣の周圍の地をかき落せば模樣は黑花となつて現はれ地は無釉の灰色を露呈する。化粧掛の上に黑色で、例へは牡丹の花枝を畫き其輪郭と葉脈等を錐刻すると、其錐刻の線は黑色の模樣に美しき白線となつて現はれる。何となれば錐刻によりて黑色の繪具だけが搔取られて下の白い化粧掛が線と爲つて現はれるからである。此上に無色透明の釉をかける。若し無色の釉の代りに綠色の釉をかくれば綠宋瓷の一種となる。化粧掛を行つた後模樣を錐刻し、其線の處が黑色又は赭色に現はれたのがある。これは線刻の後其線の處へ色を塗つたのではなくて、化粧の前に初め胎に色を塗つて置き、化粧を引搔いて線の處だけ下の色を現はした。ものらしい。卽ち一種の搔取手の技法である。(尙ほ此等の技法につきては磁州窯の項參照)搔落し手は西洋人がSgraffits techniqueと呼稱するものであつて、古代ローマの壁畫等に異色の土を幾層にも塗つて後に其土を搔き落して所要の色を現はして以て壁畫を作つたのと同じ技法だと云はれてゐる。練上げ手と稱する者がある。これは異色の土を二種又は數種重ねて練り上げて器皿を作るものであつて、器の表裏に異色の土が美しく本目になつて現はれてゐる。之に釉をかけたものとかけないのとあるが、釉をかけ六、鑑定の方法三〓
六、鑑定の方法三たものは光澤があつて殊に美しい。(第卅一圖參照)練上手の一種に異色の土を練合せて棒狀にした者を小口から薄く切つて截片とする、之は美しい如輪杢を現はしてゐるが、之を豫め造つてある器皿の表面に竝べて一面に貼付する。而して釉をかけて燒くと美しい斑文を呈する。(第92圖參照)。右二種は何れも胎土を練上けるのであるが、他に釉のみで現はす練上手に似て非なるものがある。之は恰も紙絹に施す墨流しに似てゐるので或は墨流し手と稱する人もあるが、其手法については從來三說がある。甲によれば異色の泥漿を器皿の表面に置いて櫛樣のものでかき廻すのだと云ひ、乙は筆で畫くのだと云ふ。丙は某技術家の說で異色の泥漿を置いて器皿を無茶苦茶に振廻すなり又はロクロの上で廻轉するのだと云ふ。筆者は此技術の丙說に左擔する者である。櫛でかき廻しても決して彼の美しい雲形は現はれない。且平坦な器ならば兎に角、第89圖の如き瓶子の胴廻りに之を施すには櫛でかき廻すことは事實行ひ難い。又筆で畫くと云ふのは事實繪を畫いた事の無い人の云ふことで、筆で墨流しの樣なものは決して畫けない。假令畫き得るとしても非常の手練と勞力とを要する仕事であつて、到底陶工が多數の作品に行ひ難きところである。右第一第二の練上手は唐代旣に行はれてゐるが、第三卽ち墨流手は宋代には行はれたが唐代に果して行はれたか疑問である。以上の外黑色又は黑褐色の鐵釉の上に等しく鐵釉ではあるが、色の一層淡い淡褐色で模樣を現はしたのがある。又之と反對に地色の方が色が淡くて模樣の方が色の濃いのもある。それから木の葉天目と云ふのがある。三これは天目型の茶碗の見込に木の葉が一枚現はしてある。其技法は或は筆で畫くのだと云はれ、或は實物の木の葉を置いて燒くのだとも云うて詳で無いが、其木の葉は細い網狀の葉脈まで現はれてゐるのもあつて、事實筆で畫くことは甚だ困難であると云はざるを得ない。然るに他方には蠶の樣な蟲が葉と共に現はしてあるのがあつて、これは何としても實物の蟲ではなくて筆で畫いたものであらう。從つて、葉も亦晝いたのだと云ふ說もある。これは將來の〓究に待つ外はない。2模樣其者の種類技法から見た模樣の種類は大略以上の如くであるが、模樣其ものゝ種類を說くことになると宇宙の森羅萬象悉く其材料ならざるものは無いのであるから到底之を說き盡すことは不可能である。又模樣につきては其種類と發達變遷を〓究する一の專門の學問があつてよい筈である。將來此方面の學問も必ず出來ることゝ信ずる。而して假に之を模樣學と名づけると、此學問の成果を借りて支那古陶磁の模樣を說明し且其時代の判定に大なる助けを得ることになると考へるが、卽ち未だ此樣な學問が獨立して存在することを知らない。從つて我等古陶磁を〓究する者も片手間に此方面にも手をつけねばならない。最も古くから支那に於て用ひられ、今日尙ほ廢らない模樣に雷文がある。雷文は殷代の古銅器に旣に見事に用ひられ、溯つて其淵源を石器時代の彩色陶に求むる人もある。六、鑑定の方法三元雷文は殷代の古銅器に旣に見事に三元
六、鑑定の方法in狩獵文は漢代の銅器及窯器に頻出する模樣だが後世は餘り用ひられぬ。双魚文は恐らく周代乃至戰國時代に其源委を求むべきものであらうが、漢代の銅盤には盛んに用ひられ、又漢代の瓦器にも用ひられたが、唐三彩には魚形の花瓶がある。宋代龍泉の靑磁に頻出することは周知の通りであるが、後代他の窯器には餘り用ひられてゐない。葡萄の蔓の間に裸の唐子のゐる文樣は唐三彩の扁壺等に見るものであるが、これは「ギリシア」系統の文樣が西域を經て唐に輸入されたものであると云ふ。宋代景德鎭窯の器皿にはこれが變化して牡丹唐草の間に裸の唐子がゐる樣になる。明代の赤繪にも此の系統の繪がある。唐三彩の形と模樣には西域傳來と思はれるものが頻出する。形のことは此に說かぬが、模樣には先づ種々の形を浮出にした、「メタル」を貼付せるものが少くない。又劃花で鳥獸の形を現したものがある。此等は何れも西洋の香の非常に高いものである。龍に關する傳說はずい分古くから行はれてゐたらしいから、其工藝品の圖案に現はれたことも恐らく太古からであらう。六朝から唐代にかけて大きな池の中に龍が躍つてゐる圖案が流行して今尙ほ見受けられる。燒物では第55圖に示す越州窯の磁の如きも其一例である。此時代の龍は上唇が尖つて突出してゐるのが著しい特徴の一であるが、此特徴は宋代から明初頃まで持續した樣であることは第五圖の染付扁壺に畫かれてある龍を見て分る。此扁壺は無欵であるが明代の初期と認められるものである。其後明の中期以後になると此特徴は失はれて龍の鼻の處が丸くなるといふので、鑑定家が時代鑑定の一要點となつてゐる。龍について尙ほ述ぶべきは、明の赤繪にある龍の鱗は往々にして特殊の技法が用ひてあることだ。それは紅色を塗つて後、先の尖つた錐樣のもので鱗の輪郭の處を引搔いて紅色を搔き取つて極く細線で下の白地を現はしてある。尤もこれは明の中期以後就中嘉靖萬曆頃の產と考へられる赤繪の一種で、大抵染付の無い手の器皿について云はれるところであつて、他の種類には適用されない。明代になると龍に色々の名を付けて種類を分けてゐる。例へば面龍は正面を向いてゐる龍起珠龍は珠を追つてゐる龍、昇降龍は上り龍と下り龍、博古龍は宣和博古圖錄に畫いてある龍の意に解せられてゐる。此他雲龍、戯龍、暗龍(暗花の龍)飛糸龍(糸の樣に細い龍が活躍してゐる)、團龍(圓形に蟠居せる龍)、等々種類が少くない。此外に螭龍といふのがあるが、これは普通の龍と異つて蜊蜴の樣な形をした龍である。支那では五爪の龍は皇帝又は皇室の外には使用することを禁ぜられてゐるのが原則であつて、若し此禁を犯せば忽ち刑せられるから、民間では三爪に畫いた龍を用ゆる。故に官窯には五爪、民窯なれば三爪の龍を畫くのである。然るに往々にして此原則に合はないもの、卽ち民窯にして五爪の龍を畫いたものを見るのは何故であるか。案ずるに支那の歷史を見ると明初から〓末迄の間に於ても何百年間に何囘となく亂世の時代があつた。又亂世でなくても政綱弛緩せる時代が度々ありしことは云ふ迄もない。此樣な時代には恐らく禁制を行はず五爪の龍を民窯で畫いたものであらう。此犯禁の事については〓代の末期に貴德鎭を視察した北村氏の報告にも記述してあるから、上記の推測は當らずと雖も遠くあるまい。故に他の條件と相俟つて此點も亦た時代鑑定の爲に役立つことが少くない。六、鑑定の方法三三三三
六、鑑定の方法ing,獅子は支那に產しないが、繪畫及圖案としては西域から傳來してずい分古くから用ひられてゐた。唐三彩に其形を模したものがあるが、或は溯つて漢陶に綠釉がかけてあるのが存在すると云ふ者がある。然し燒物の模樣として最も顯著なるは恐らく明代以降所謂玉取獅子であらう。支那では獅子滾毬と云つて、其最も有名なのは永樂窯の壓手杯で其見込に之が畫いてある。其後此圖案は歷代襲用されたが、我邦で最も高價なのは吳州赤繪に玉取獅子の鉢と云ふのがあつて、其內底に染付で玉取獅子が畫いてある(第十二圖參照)。玉が刺繍せるマリであれば滾繡毬というてゐる。此他尙ほ双獅、三獅、蒼獅等の圖案がある。羊は祥字の略であると同時に陽字の同音假借として吉祥圖案に用ひられる。陽は卽ち一陽來復で春を意味し、易の泰卦は初九、九二、九三の三交で陽數が三つ連亙せるは吉數であるところから、羊を三匹畫いて之を三陽開泰と稱して吉祥圖案として工藝品に用ひられてゐる例が古くは銅器にもあるが、燒物にも用ひられた。又四陽捧壽と云ふのがある、これは四匹の羊の上に壽字が書かれてあるのだ。獸類には此他尙ほ麒麟、寶象、百鹿、(鹿は祿に通じて吉祥)、海獸、怪獸、異獸等の圖案がある。鳥類には鳳凰は瑞鳥として古から圖案に用ひられた。鸞と云ふのは靑鸞のことで南方にゐる珍らしい鳥として用ひられた。孔雀は明代初期から嘉靖頃まで殊に多く燒物の圖案に用ひられた樣である。喜相逢と云ふのは鵲のことで、此鳥は雄雌二匹が差向でゐる習慣があるので相逢を喜ぶと書いて目出度とて喜ぶのである。·鵠のことを喜鵲又は喜雀と云ふからである。此他鶴雉、鴨、燕等々皆晝かれてゐるが鶴の圖案は殊に明代嘉靖窯に多い。壽老人が鶴に乘つてゐる圖、百鶴、六鶴乾坤等の圖案もある。魚類には鯖舶鯉斷等あるが、鯉の外は我邦の魚と異るから文字で其特徴を判斷することはできない。鯉は一名登龍門と云うて殿試及第の意に解して吉祥圖案として用ひられる。蓋し黃河が山西の山岳地帶から河南の平野に出てくる前に龍門の峽谷を通過する際幾里の間瀑流となつてゐる。此嶮岨をよく溯る鯉は龍と爲つて天に登ると云ふ古傳說に基くものである。植物には石榴は粒子が澤山あるから子孫が多く繁榮すると云ふ意味で吉祥圖案に用ひられる。只に實のみでなく其花も畫かれる。其花瓣が幾重にも重なつてゐるのを套石榴と云ふ。石榴はもと西域安息國の產であつたのを漢代張騫の遠征によりて漢に移植されたと傳へられるもので、此故に一名安石榴と稱し、又海外の產と云ふので海石榴とも云ふ。蓮は花がまだ咲いてゐる內に實が出來てゐて、而も、一花に多數の實があると云ふので吉祥圖に用ひられる。而して特に實のある處をよく見える樣に晝いたのは結子蓮と稱す。又、紅白色々の色を畫けば五彩蓮である。我邦では蓮は佛さんの花と考へられ、あまり緣起のよい花ではないが、支那では目出度花である。西蕃蓮と云ふのは西蕃の蓮のことで、印度產の熱帶睡蓮のことらしい。寶相花と云ふのは天竺牡丹だとの說がある。果して然るや否や詳で無いがよく似てゐることは事實である。萱草は一名宜男で、男の子が多く生れると云ふので吉祥である。牡丹は唐初始めて種を西域より傳ふ、玄宗の時木芍藥と稱して盛んに之を賞した。李白が玄宗の寵楊貴姫を牡丹花に比して詠じた〓平調詞は有名であるが、要するに此花は吉祥の意味でなくて其穰艶なるを以て賞美せ六、鑑定の方法三
六、鑑定の方法을られ、唐朝以來圖案に頻出してゐる。此他靈芝、松竹梅、桃葡萄、西瓜辨等々花卉草木の圖案は少くない。人物及其形をした神仙等には仕女、人物故事、百子、團坐欅枝娃々、四仙、八仙、群仙、壽壽、十八羅漢、神仙捧萬古長春四海來朝字又乾坤〓泰字、八仙慶壽、八仙過海等色々ある。仕女は宮殿の奥に仕へてゐる婦人の圖である。人物故事は歷史畫である。刀馬人と云うて關羽張飛の樣な豪傑が戰つてゐる繪も此部類に屬する。又演〓卽ち芝居の圖で武者繪も屢〓見かけるが是亦此類に屬する。百子は文字通り唐子が大勢畫いてあるが吉祥圖である。團坐欅枝娃々と云ふのは娃々卽ち小兒が數名又は十數名團坐して木に攀ぢ上らうとしてゐる圖、又は各手に木の枝を持つてゐる圖である。これは科學に及第することを攀桂又は折桂と云ふことから起つた圖案である。四仙とか八仙とか云ふのは列仙傳中の仙人が晝いてあるので、多くは其風采、衣裳、持物等で其誰であるかが判斷される。八仙過海について云へば、八人の仙人が海を渡つてゐる圖であるが、八仙と云ふのは色々種類があつて上洞八仙、明八仙、暗八仙、蜀の八仙、飮中八仙、淮南八仙等あるが、普通圖案に用ひられるのは鍾離權、張果老、韓湘子、李鐵拐、曹國舅、呂洞賓、藍采和、何仙姑の八人である。壽星は壽老人、八仙慶壽は右八仙人が地上で天から壽老人が鶴又は雲に乘つて下つてくるのを仰ぎ迎へてゐる圖である。神仙捧萬古云々字は仙人が大勢ゐて各是等の字を一つづゝ捧げてゐるのである。을八仙、群仙、壽壽、十八羅漢、八吉祥と云ふ圖案は法螺、法輪、寶傘、白葢、蓮花、寶瓶、金魚、盤長の八種であつて、其起原は元代に在るの云はれ、以後明〓の工藝品に頻出する。此他巴山出水は蜀の山水で嶮岨な山に瀑布のかゝつゐる景色。寶山海水は蓬萊山、薑芽海水は波がしら、雲錦.松文錦は錦の地文、眞言字は梵字等であるが、此外に火焰寶珠、陰陽、八卦、方勝、結帶八寶、結帶如意、邊如意雲、壽意.八寶瓔珞、古老錢、壽帶花等々拙著明代の陶磁に說明して置いたが、此等の圖案は勿論時代によつて流行があつて、例へば前記嘉靖の頃には鶴の繪が流行した。又元から明の初期には八吉祥が流行したといふ如きこれであるが、又廢つたものもある。例へば龜は我邦では今も尙ほ鶴は千年、龜は萬年で目出度ものである。支那では昔は目出度かつたことは漢印に龜紐があり、下つて唐代に於て李太白が先輩で知己であつた賀知章を追慕せる詩に金龜換酒處、却憶淚沽巾の句あるによりても知り得る。其他龜を以て瑞祥ある動物とせしことは宋代にも其例證がある樣だ。而して唐宋代工藝品の圖案にも鶴と共に頻出すものであるが、近代になると龜は一名忘八と云ひて不祥の物となつて圖案に用ひられざるに至つた。中唐以降有名であつた越州窯には龜の圖案が少くない。燒物の圖は他の工藝品殊に織物衣服等の圖案と共に消長するものであるから、此等の方面の圖案を〓究することが甚だ必要である。而して例へば、單にある時代に如何なる圖案が流行したかと云ふことの外に尙ほ如何なる描き方がしてあるかと云ふことも、時代を知る上に甚だ有用であることは前記龍の例で分ると思ふ。支那歴代圖案の變遷を知る上に繪畫及諸種の工藝品について實物を調査することの必要なることは勿論であるが、六、鑑定の方法一二五蓮花、寶瓶、金魚、盤長の八種であつて、其起原は元代に在
六、鑑定の方法二三、此他尙ほ文献としては.二十四史の各代の輿服志を中心として〓究することが必要である。拙者は已に老いて之に沒頭する勇氣は無いが、志ある者若し之を〓究せば必ず得る處が少くないと思ふ。5銘款1、作家の銘我邦の燒物には作者の銘款のあるものが少くない。仁〓、木米、乾山等の名工は元より、あまり有名でない者の銘まで集めると果して何千あるか分らないほどある。然し支那の燒物に作者の銘のあるのは、宜興窯の茶壺だけが例外で、其他には極めて稀である。これ分業が極めて多い支那の窯業に在つては寧ろ當然のことであつて、何等怪しむに足らざることである。康熙頃景德鎭に於ける分業の數は、實に七十餘に分れてゐたと云ふことである。されば一の器皿に某の作などゝ銘を入れることは勿論不可能である。只此例外であるところの宜興の茶壺に於ては明代嘉靖萬曆以後幾多の名手が出でゝ手造りの茶壺に銘款を入れた。今其重な者を擧げると供春、董翰、趙梁、元暢、時朋、李茂林、時大彬、李仲芳、徐友泉、歐正春、邵文金、邵文銀、蔣伯〓、陳用卿.陳信卿、関魯生、陳光甫、陳仲美、沈君用、邵蓋、周後谿、邵二孫(以上正德より萬曆末に至る間の人)、陳俊卿、周季山、陳和之、陳挺生、承雲從、沈君度、(以上天啓崇禎間の人)、陳辰、徐令音.項不損、沈子澈、陳子畦、陳鳴遠、(以上明末〓初の人).徐次京、惠孟臣、葭軒、鄭寧侯(以上時代不詳)。以上は大體明の正德頃から明末〓初頃までの名手の名である。宜興茶壺の制は明の正德頃金沙寺の僧某に創まると云はれてゐるが其名は傳はらない。次に當時此寺に寓居してゐた吳頤山の侍僅供春に傳はつたと云ふのであるが此僧某と供春の兩人は果して名を款したか疑はしい。然し一說によると供春は名を款したと云ふ。果して然らば茶壺の創始者である金沙寺の僧某だけが名を款しなかつたことになるのだが、何故にかゝる事を問題にするかと云ふと、我邦の煎茶家に昔から傳へられてゐる俗に倶輪玉と稱する朱泥の茶壺がある。此茶壺には銘が無いが其作行は渾朴の裡に技巧の冴えを現はしたもので、高さ僅に二寸に過ぎぬ小器であるが作家の大手腕を窺ふに足る名品である。これほどの名品であるから古來やかましく云はれて、眇たる小器にして物價の今より遙に安かつた頃數萬金の高價を呼んだのは宜なる哉であるが、作家の銘の無いのは不思議である。で私に考ふるに此倶輪玉の茶壺は供春に非れは恐らく金沙寺の僧某の作ではあるまいか。これほどの名品にして無銘のものは他に作家を求め難いと思はれる。(尙ほ後文朱泥の茶壺の項參照)。宜興窯以外の作者銘の例は前記の通甚稀であるが、近年將來せる南海古陶中の或種の明代赤繪に何玉〓造、鄧葢自造等の底裏銘が發見せられ、又同種の傳世品に陳文〓造、方志文造等の底裏銘が發見された。支那陶磁製作に關する分業の過程を考察するときは、是等の作者銘が果して幾何の事實を語つてゐるか頗る覺束ないこ六、鑑定の方法毫
六、鑑定の方法ニ八とであつて、或は窯業家の名に過ぎないかも知れないが、兎に角銘には相違ないから例として擧げて置く。尙ほ他に定めし此手の銘が今後發見されると思ふ。明代の頃生榮した有名な流霞盞及脫胎盃の作家具十九は、宜興の陳氏が作つた朱泥の茶壺を仿造して壺隱道人の四字銘を其底に欵したと傳へられるが、其實物は未だ見當らない。德化窯の觀音、達磨其他羅漢等には往々背面に何朝宗、張壽山、林朝景等の瓢形又は方形の篆書印を釉下に押した者がある。此等は恐らく作家の銘印と推測すべきであらう。然るに此種の像には銘印のある者にも又無い者にも大抵底面又は底の空洞になつてゐる內面に林、培等の姓らしき一字が彫つてある。拙者は初は已に前記の如き作家の銘印があるから此方は所藏者が其所藏者なることを示す爲に自刻せるものと考へてゐた。尤も多くは底部無釉の處に彫つてある。然るに後に彫つた上に白い釉が掛かつてゐるのがあるのを實見して、此方が或は實の作家銘であつて、前述背面の銘印は反つて窯業家の印ではないかとの考を抱くに至つたが、然し此問題を解決すべき鍵は未だ發見されない。ニ八兎に角銘には相違ないから例として擧げて置く。尙2、注文者の銘趙府製用、福藩製造等の銘款のある器皿がある。これは明の皇子にして此等の地方に封ぜられた者の御用品であると解せられてゐる。此他に尙ほ晋、秦、肅等の府又は藩名を銘とするものがあるかも知れないが、未だ見當らない。又稀に何家藏、何記等の銘のあるものがあるが、これは私人、商家の記號である。〓代には貴紳大官等が自家用の器皿を注文して之に堂名齋名を記銘せしむることが流行した。尤も其倆を爲したものは康熙帝が內府の堂齋名を器皿に記せしめたのに在るらしく、其後之に仿ふ者が續出した。今堂齋名の主要なるものを左に揭げて置く。(康熙內府)乾惕齋、中和堂、(同親貴)拙存齋、紹聞堂。」(雍正親貴)東園、文石山房。(雍乾間親貴)敬畏堂、正誼書屋、紅茘山房。(乾隆內府)靜鏡、養和、敬愼、彩華、彩秀、諸堂。(乾隆親貴)友業浴硯書屋、瑤華道人、寧晋齋、寧靜齋。(乾隆名士達官)雅雨堂製(盧見會)、玉杯書屋(董蔗林)、聽松廬(張南山)、(同雅匠名工)、寶畜齋、陳國治、王炳榮、李裕元。(乾嘉間親貴)愼德堂、植本堂、有恒堂。(道光親貴)十硯齋、〓竹主人、文甫珍玩。(孝欽后卽慈禧太后)大雅齋。(作者未詳)若深珍藏(康熙)、略園、茘莊、怛齋、明遠堂、百一齋(乾嘉間)、聽雨堂、惜陰堂(道光)。紹聞堂。」聽松廬(張南山)、(同雅匠名工)、寶畜齋、陳國治、有恒堂。文甫珍玩。略園、茘莊、怛齋、明遠堂、百一齋(乾嘉間)、聽雨堂、惜陰堂(道光)。六、鑑定の方法三
六、鑑定の方法一二〇3.年款年款と云ふのは器皿の製造された年號を記せるものである。例へば大明萬曆年製とか大〓康熙年製と書せるごときものである。明〓代景德鎭の官窯は一般に此年欵が付けてあるから、其製作時代を確認することを得て之が爲に斯學の〓究上多大の便益を得ることは言を俟たない。然し元以前は年欵の無いのが普通で、其之あるのは極めて少く、又景德鎭以外の諸窯に於ては明〓代と雖も之を記してないから、種々の點から推測するに止まりて其時代を確認するに由が無い。一說によると北宋の眞宗皇帝の時代に景德鎭に命じて進御する瓷器の底に景德年製の四字を書せしめた。これが磁器に年欵を記す濫觴だと云はれてゐるが、未だ景德年製の欵ある器皿は發見されてゐない。然るに他方には近年太平戊寅の年欵ある越州窯の器皿が少なからず發見されてゐて、これは宋初太宗の年號太平興國の略で戊寅は其三年、恰も吳越王が宋に降つた年であるから、此種の器皿は其時の貢物として燒かれたものであらうと云ふ說がある。之に對して太平興國と云ふ年號はあるが、太平と云ふ年號は無いから、之は天下太平の略であらうと云ふ說もありて、何れが採るべき說か容易に判斷できない。龍泉窯の靑磁花瓶に稀ではあるが元祐年製及淳無年製の篆書方形印を底釉に押したものがある。然し果して其時代の產か、二三の實物だけでは斷定することを得ない。然し果して明〓代になると年欵は稀でない。然し年欵を付けるのは官窯と民窯品中の上手ものに限られてゐる。而して官窯は原則として二重輪の中に年欵が書いてある。尤もこれは器底に染付で書いた場合であつて、器の口邊に書いてある額銘、乾隆に屢〓見る篆體の銘の如きは例外である。此二重輪の中に年欵を書くことは民窯には禁ぜられてゐるが、政綱弛緩せる時代には民窯でも此禁を犯す者がありしことは五爪の龍の場合と同樣である。書には國民性に基く書風といふものがあるから、支那人の書と日本人の書とは容易に判別できる場合が少くない。又時代による書風の變遷があるから、後世の仿僞は等しく支那の產であつても年欵の一點で觀破できることも少くない。故に他の諸點は姑らく之を措き、年欵からのみ云うても明〓代の官窯は民窯に比すれば比較的時代を見分け易い譯である。明〓代でも年欵のある器皿が發見されてゐないか、或は極めて稀な時代がある。例へば、明代では洪武、建文、正統、景泰、天順、崇禎等は此種に屬し、〓代では順治の年欵は甚稀で康熙の官窯には年欵の無いものが少くない。これは康熙十何年かにある地方官の建議により年欵を記すことを止めた時期があるからである。又咸豐の初年に長髮賊の爲に景德鎭は燒打に遇ひ同治に至りて漸く囘復したのだから、成豐の銘のある器皿は比較的少い。年欵は染付で書いたものが最も多いが、此外に彫つたものがあり、印を押したのがある。又篆體で印に仿つたのもある。堆料欵といふのは料卽ちガラスを以て書いたもので、色は粉靑色が多く、其定規で引いた樣に整齋なのが良いと云はれてゐるが、古月軒と云ふものは此堆料欵で雍正又は乾隆の銘があると云はれてゐる。六、鑑定の方法一三一
一三、六、鑑定の方法年欵の位置は底に在るのが多いが、時としては殊に高い足の、例へば馬上杯の如きものに在りては、足の內側又は外側の下方に橫書きにしたのもある。又口邊、腰、腹等に橫書きせるもある。見込に書いたのもある。蓮葉の臺座の上に書いたのもある。其他にも種々の例があると思ふが今悉く述べない。銘欵の種類の多いのは何と云うても〓代になつてからである。今其一例を擧げて置く。康熙の銘欵單圈雙圈無圈關雙邊正方形雙邊長方形門雕凸雕地掛白釉字掛黑釉地與字統掛一色釉白地寫藍字白地寫紅字綠地寫紅字楷書〓書半行楷虞永興體宋槧體歐王體六字分兩行每行三字六字分三行每行二字四字分兩行省去大〓二字紅紫色款天靑色款湖水色款沙底不掛釉而凹雕天字方關內不可識之字滿〓文囘々文喇嘛文(以上字ある者)雙圈秋葉梅花團龍團鶴團螭花形物形完全無字(以上字無き者)雍正以後の銘欵の種類は右康熙と大同小異であるが、康熙の樣に種類が多くはないと云はれてゐる。但し乾隆朝の銘欵は其種類が相當に多いが就中圖書欵卽ち印文に仿へる篆體のものが最も多數を占めてゐて、其他のものは比較的少いのが特徵である。前述の如く民窯の上手のものには年款を記せるものが稀で無いが、それは無圏であるか單圈である。而して大抵景德鎭の產に限られ他窯の產は極めて稀である。其稀な者に龍泉の靑磁に旣述元祐及淳〓の銘のあるものの外に大明宣德龍泉の銘を器底釉下に刻せる皿がある。又德化窯の觀音、佛像等に宣德年製、乾隆年製等の印但し乾其他のを釉下に押した者がある。以上極めて大略であるが銘款のことを述べた。而して注意すべきは、歷代銘款の仿僞が非常に多いことであ300仿僞には勿論銘款も巧みに仿僞する。宜興の茶壺の場合には作家の銘款を僞造したものが少くないが、大抵明代の名品とは思ひもよらぬ近代又は現代の僞造であるから一望して判然と分る。又年款の場合には仿僞の數量が甚多大であつて、年款を見たら仿僞と思へと云うても不可なきほどであるが、勿論眞正の年款もあるから須らく其見分け方を〓究すべきである。それには先づ書の〓究と、時代による風尙の變遷といふ事を〓究し、且つ手鑑又は付け石となる確實な眞正の年款を成るべく多く實見して、其特色をよく頭裡に印象づけて置くことが肝要である。今明〓代に於ける顯著なる數例を擧げて參考とする。明代永樂の年款は殆ど見たことが無いが、有名な脫胎杯には暗花で篆體の四字款があると云はれてゐる。永樂窯の壓手杯の見込の中心に染付で玉取獅子を畫き、其玉の內に篆書で大明永樂年製の六字又は永樂年製の四字が米粒大の細字で書いてあると傳へられるが、此等の器は絕無稀有のもので今容易に見難い。宣德窯の器皿は近年漸次世に現はるゝに至つた。宣德の年款は暗花と靑花との二種あつて、其書風は宋槧の如くにして最も意味ありなどと支那人は云うてゐるが、宣德帝の人と爲りに相應して重厚溫雅とも云ふべきである(第3第47圖參照)。成化窯の年款は楷法嚴整、筆力道勁であるが民窯に在りては筆意は暢達、姿態は峭健〓峻であるのが普通である。(第4圖參照)六、鑑定の方法一三筆力道勁であるが民窯に在りては筆意は暢達、姿態は峭健〓峻であるのが普通で一三
六、鑑定の方法一四四嘉靖及隆慶の年款は共に隷書がゝつてゐて、莊重雅健で蒼古の意が饒いが、此種の書風は兎角俗態に陷り易bo故に或る支那人は、嘉靖の款字は嚴分宜に似たり一時の風尙然らしむ、などゝ云うてゐる。萬曆の年款は最も莊重雅健で渾厚の氣象に富んでゐるが、何しろ四十餘年に亙る長き治世であつて、其初期と末期とでは世相も極端に相違してゐたのであるから、年款の書風も幾變遷を經たことは當然であつて、初期の年款と末期のものとを比較するときは其間霄壤の差がある。天啓の年款は貧弱の一語に盡く、王氣既に朱明を去りて明朝滅亡の差し迫つてゐることを豫言してゐる。〓代は康熙、雍正兩朝の年款は楷書が多く、嘉慶から同治までは篆書が多い。而して乾隆は楷書と〓書と竝び行はれたが然し〓書の方が多い。光〓と宣統とはまた仿古以外には楷書の方が篆書よりも多い。(年欵につきては右の外第7、第8、第13圖參照)以上粗略ながら支那古陶磁の胎土、釉藥形狀、文樣、年款等につき大體のことを述べた。尙ほ此他につきては以下各項に於て分說する。形狀、文樣、年款等につき大體のことを述べた。尙ほ此他につき一靑花唐草及波濤文等龍頭把手酒盃(ブランクストン氏著明初の磁器による)七、染付2宣德窯靑花唐草文等有脚合子(回轉による)七、染豆
2.靑花魚藻文等把盃(成化〓) (ホブソン氏著明代の陶磁さんな)フラインシンス蒐集高3吋永樂窯及宣德窯蓮子鉢(ブランクストン氏著明初の磁器による)七、七、染染付付ンギンギンの素材でのキングメンヘン靑花靈芝蘭花小碟底裡銘袋三四、ーチャンネルメント開催!!(電信物(株)会社(前世19
ち、染七、染付付亞馬場所謂アルコミュ三勝)新有事故事故意6 7.弘治窯黃地靑花果折枝文等皿10- (ライデマイスター氏著明の磁器による)萬曆窯靑花鍾馗追鬼國一八九(ホプソン及ヘザリントン兩氏著支那の窯斷による)受8.正德窯黃地靑花果花折枝文等皿(同書による)
七、染付〓o三古染唐子遊び模樣皿(アシュトン及グレー兩氏著支那美術による) 25康熙窯靑花氷梅文有蓋罐(ホブソン氏著近代の支那陶磁器による)七、染付染付の起原染付とは靑色の繪具で種々の模樣を畫いてある燒物のことであつて、支那では之を靑花白磁と云ふ、時には略して靑花とも云うてゐる。而して此靑色の繪具のことを我邦ではゴスと稱し、之に吳須、吳州等の字を當てゝゐるが、ゴスと云ふ呼稱の由來に關しては諸說紛々として詳でない。支那では此繪具のことを靑料と云うてゐる。此繪具は今の科學で云へば「コバルト」である。然し純粹の「コバルト」が使用せられてゐることは恐らく其例が無くて、必ず多少の夾雜物を伴つてゐる。從つて其夾雜物の種類と分量とにより、又胎土釉藥の成分の相違と燒成技術の如何とによりて、等しく靑色と云うても其發色の調子は千變萬化して、嚴密に云うと二つの染付が全然同じと云ふことは殆んど有り得べからざる處に無限の面白味がある。而して同じく染付を愛好する人でも、人によりて其色合とか濃淡等に色々と好みがあるのは當然である。染付及赤繪等については、景德鎭に於て作られたものが大部分を占めてゐるのと、他窯のことは詳ならざる七、染付一二一他窯のことは詳ならざる一二一
七〇染付三重ものが多いから、勢ひ景德鎭を主として說くことになる。旣述の如く支那の染付は生まの胎土に靑料で模様を畫いて之に掛釉して燒くのであつて、一度燒である。我邦の如く一旦胎土を素燒にして後之に靑料で模樣を畫き、再び燒くのとは大に異るのであるが、之が爲に支那の燒成法は時間、手數、及燃料等著しく經濟的になることは云ふ迄もない。それのみならず造られた器皿について云うても、生ま素地に畫くから靑料が胎土に喰ひ入つて燒上げた上で見ると染付に深味がある。又素燒にした器皿の上に畫くのと、生素地の上に畫くのとでは、筆の伸びが違ふから從つて繪の趣も違つてくる理である。然し實際を聞くと我邦でも〓の上に白繪土を一旦塗つてから畫く場合もあると云ふから、根本的に此點で違ふとは云はれない。又近代景德鎭でも生素地の上に直ちに畫くのではなくて一旦釉を塗つてから畫くのであると云ふ。西洋磁學家の中には明初の染付は靑花の模樣が釉の中程に浮び懸つてゐる樣に見ゆる。これは恐らく染付で畫く前に塗る泥漿に釉と同一の成分のものを用ひ、染付を畫いてから再び其上に釉をかけて燒くから、染付が上下兩層の間に挾まつてゐるのであらうと說く者もある。此說は一應尤もであるが、然し、染付が釉の中程に浮び懸つて見ゆるものは獨り明初の染付のみに限らず(明初のものでも然らざる物も少くないから注意を要する)、明の中期以後造られた所謂古染と稱する者、〓朝では就中雍正の產の如き幾多の例がある。又〓末に於ても釉を塗つたことは北村氏の報告にも明記してあることを牢記せねばならぬ。又宋代の染付と認められる影靑風の土と釉とを用ひたものに、厚い釉層の上から下へ靑花が浮んだり滲透したのを往々見ることがある。恐らく宋代の昔から現代に至るまで釉又は磁土の泥漿を染付着畫前に塗り、其塗料の性質と厚薄とによりて此現象が或は顯著に現はれ或は然らざるのであらう。染付を見るときは此事を必ず念頭に置くを要する。支那に於ける染付の起原は詳でないが一般に宋末に創まつたと云はれてゐる。而して其形及模樣から判斷して宋代と認められるものが近年相當出土してゐるのは事實である。中には影靑と稱する靑白磁の土と釉とを具へ其形は宋の中期頃まで溯ると認められるものにして、影靑にある劃花等の代りに靑花を晝いた者も發見されてゐるが、是等は或は案外古く南宋初期又は北宋末に造られたものかも知れない。景德鎭に赴きたる人の話によると同地河岸一帶に夥しく堆積せる破片の層は明かに影靑風のものから染付に移行せる事實を物語つてゐると云ふことである。從來景德鎭の燒物は染付赤繪等比較的後世の產のみが認められ、其以前の古き器皿については說く人が無かつたが、昔は初め影靑風のものから宋代に於て染付が創造せられ、元明に至りて遂に靑花白磁卽ち染付の大流行を見るに至つたものであることは今日疑ふ餘地が無くなつた。染付の原料である「コバルト」は比較的に普遍的に存在するものであつて支那でも諸方に產出するが、良質のものを多量に產する地は容易に發見し難い。而して世界的に良質の一コバルト」を多量に產する地として有名なのは「ベルチスタン」の「アフガニスタン」寄りの山岳地方であつて、古來良質のコバルトを產出したが今尙ほ之を產すと云ふ。此地の「コバルト」は「ペルシア」の古窯器に使用せられ、又支那へ輸出せられて唐代の所謂藍彩に用ひられある美くしき「コバルト」は此地の產なりと推定せられてゐる。然るに其後支那では唐末から五代へかけて兵亂相次ぎて外國との交通も杜絕し勝であつた爲め、「コバルト」の輸入も亦た絕え從つて窯器に用ひられなかつたが、宋の中期又は其後に至りて再び靑花白磁として用ひらるゝに至つたのであ七、染付三
七、染付一番る。然し此場合には唐代の如く軟火釉として用ひられず、强火釉をかけた所謂本燒に用ひられた譯である。初期の靑花白磁卽ち宋代に燒かれた影靑風の土と釉とを具へた染付の中には、靑料の色調極めて幽舊で其品質の優秀なることは前後に匹儔を見ないものがある。これは到底支那內地產の所謂土靑とは認められないから、恐らく前記「ベルチスタン」地方から輸入せられたものであらう此輸入は斷續して明の中期頃迄繼續したものと推定せられる。卽ち永樂、宣德から成化頃までは、此外國產の優秀なる靑料を用ひた靑花白磁が存在してゐる。此靑料は蘇麻離靑又は蘇泥勃靑と稱せられたものであつて、前者は昔から歐洲で賞用せられた靑色の顏料の名「スマルト」の支那音譯であらうと云はれてゐる。而して此外國產靑料の輸入は宋の中期恐らく北宋末頃から再び始まり、南宋の滅亡後明初に至るまでは恐らく一時杜絕したか又は輸入せられても、其回數と分量とは甚少なかつたものと思はれる。何となれば宋末及元末は共に天下大に亂れて外國からの輸入が圓滑に行はれたとは考へられず、假に若干靑料の輸入ありしとするも到底之を以て優秀なる器皿を造るだけの豫裕も需要も無かつたと思はれるからである。而して元朝は支那民族の文化に關しては終始甚だ無關心であつたから、宋末及元末の天下大亂の中間に挾まれた五十年許りの比較的短かき治世の間に於ては一時東西に亙る大帝國を現出し版圖內の物資交流に多大の便宜あるべき理であるが、右述ぶるが如くにして文化的施設には一顧を與へざりしが故に、靑料の輸入の如きも恐らく顧念しなかつたらうと考へられる。而して元代の靑花白磁と認められるものも間々見られるが、此推定を裏書するが如く其靑花は大抵黑ずんで土靑を專用せるが如くである。2、明代の染付明が天下を一統しても恐らく尙ほ直ぐには外國產の靑料を用ゆるに至らなかつたであらう。其之を用ゆるに至つたのは恐らく永樂頃からであると思はれる。永樂時代から宣德にかけて有名なる鄭和の數囘に亙る大遠征あり、彼は幾多の艨艟より成る大艦隊を率いて南海方面から印度「アラビア」より遠く「アフリカ」沿岸に至つて外國產の珍稀なる物資を多量に輸入したが、此內に例の蘇麻離靑も少なからず含まれてゐて、靑花白磁の燒造に用ひられたと云はれてゐる。然し此頃になると影靑風の器皿は漸く影を潜め、染付が之に代つて大に流行するに至つたのであるから、輸入靑料のみに依存することを得ず土靑も少なからず用ひられたやうである。近年磁學家は永樂宣德頃の靑花白磁に關して其靑花が美しき「コバルト」色を呈せるものと、黑ずんだ暗晦色のものと兩種あることを說くが、これ恐らく一は多く蘇麻離靑を用ひ、他は多く土靑を用ゆるが爲であらう。然し此間の事情は尙ほ詳ならず、今後の〓究に待つものが多い。明初洪武の確かな染付器皿は未だ知られてゐない。此時代に書かれた格古要論と云ふ書に、景德鎭の窯器は體薄くして潤ひ、色は白くして花は靑いと記してあるから、無論染付も燒かれたのであるが、今之を確認するに由が無い。又同書に靑黑色創金の酒壺と酒盞とがあつて甚だ愛すべしとあるが、これは恐らく「ルリ」に金彩のある者であらうと云はれてゐるが、之亦今確認するに由が無い。案ずるに洪武頃はまだ白磁が主に用ひら七、染付
七、染付美れてゐたものであらう。永樂時代に至りても尙ほ白磁が主として用ひられたものゝ如くであるが、染付もまた相當に燒かれたものゝ如くである。然し磁學家の說によると、此時代には陶匠等が未だ靑料の使用法に習熟せざりし爲に靑料にむらが多くあつて、濃い處は重り合つて濃く、淡い處は煙の樣に薄い。又一說に此時代の靑料は釉中へ煙の樣に解け廣がる性質があるとも云ふ。宣德の染付も如上の性質があり、むらもあるが、永樂のやうに濃淡の變化が烈しくない上に煙のやうに釉中に散る現象は無いと云ふ。色調は濃い翡翠色から煙のやうな黑色まで種々の段階があつて、釉が濃くかけてある處は鮮麗な藍色を呈してゐるが、釉の薄い處は黑色乃至褐黑色である。然しこれは單に釉の厚薄のみによりて生ずる現象ではなくして、其處に用ひた靑料の多少卽濃淡も等しく大なる關係がある。卽ち靑料が甚多ければ釉が少し位厚くても黑色乃至褐黑色となるし、若し靑料が少なければ釉は薄くても藍色を呈すべし。又永樂宣德兩窯の染付にかく甚しきむらのあるのは、當時靑料を微細の粉末として使用する方法が未だ行はれず、粗き分子のまゝ用ひた爲であることは殆んど紛れなき處である。明代の他の文献によると永樂窯には染付の壓手杯があつて、見込の中央に二匹の玉取獅子を染付で畫き、其玉(毬であると)に米粒大の篆字で永樂年製と書いてある。これが當代の最高級品であつて獅子の代りに鴛鴦を畫いたのが次等で、花を畫いたのが其又次であるが、是等は何れも其外側の染付(何が畫いてあるか分らぬ)は深い翡翠色で其技巧精緻を極めたものであると記してあるが、現在此三種の杯は未だ一つも發見されてゐない。壓手杯と云ふのはロが端反りになつてゐる、卽ち開いてゐる杯であつて、手に持つと其開いた口が手美を壓するやうになるから名づけたものだと解せられてゐる。現在見ることを得る染付の永樂窯の標本としては、蓮子の鉢又は蓮花の鉢と云ふものがある。これは其形が稍深い圓錐形を倒置して之に高臺を附けた形になつてゐる。或は蓮の實に似てゐるから蓮子と名づけたのだとも云はれ、或は蓮花に似てゐるからだとも云ふ。此鉢の外側には蓮瓣が染付で畫いてあるのは事實であるが、又鉢の見込の中央が圓錐形に凹んでゐて、之に當る底の處が外へ凸出してゐるから、恰かも全體が蓮の實を中央から橫に切斷した形でもある。而して此中央に凹凸のあるのが永樂の蓮子鉢の特徴であつて、宣德窯にも此形と模樣の鉢はあるが底は大抵平坦に近く凹凸が少いと云はれてゐる。尙ほ此種の鉢は外側には蓮瓣の外に八吉祥の內の四つを四つの蓮花と交互に畫き、口緣に唐草が晝いてある。尤も八吉祥と四つの蓮花は晝いて無いのもある。內側にも亦た口緣に近く唐草文樣、內底に近く囘〓文樣の如きものを畫いたのがある。又外側は染付で內側は暗花のもある。永樂窯の胎土は美しき純白色で、宣德窯に比すれば一體に薄手である。而して釉は口緣等薄くなつてゐる處や外底などは稍微黃色を呈してゐる。又釉の表面は滑澤で艶があつて、橘皮紋を特色とする宣德窯とは可なりの相違がある。染付の蓮子鉢は宣德窯には年欵のある者が多く發見されてゐるが、永樂窯には未だ年欵のある者は見當らないやうである。右は主として永樂窯の蓮子鉢について述べた處であるが、小形の鉢、杯の類で當代の產は右と同じやうな特徵があつて、例へば底の中央が外部へ向つて圓錐狀に凹んでゐ、外底は凸出してゐる。然るに此に之と反對に七、染付二百
七、染付一五八外底が凹んで内底が盛り上つてゐる鉢がある。尤も此場合には底が蓮子鉢に比すれば大きく、而して高臺が缺如してゐる。姿は蓮子鉢に比すれば平たく、高さは低い。而して其底が盛上つてゐる狀態が恰かも饅頭の如くであるから支那人は饅頭心と稱してゐる。此種の染付鉢も當代に作られた。然し年欵のあるものは未だ發見せられてゐない。此外後代の摸造品と認められるものに間ま染付で永樂の年欵の書いてある器皿がある。此等は大抵〓代の摸造であつて永樂年製の四字を篆體で書いてある。例へば外側に鳳凰を畫き內側中央に年欵を記し、底に掛釉せざる皿益等、圓錐形の杯で松柳等の木蔭に讀書に耽る隱者を晝いたもので內側中央に年欵のある者等の如きは恐らく此原型が永樂窯に存在せるものであらう。宣德時代になると染付の器皿は澤山造られるやうになり、從つて立派な年欵のあるものが少なからず現存してゐる。又其器種も皿、無、把杯、壺、瓶等少くない。當代の皿は之を大小の二種に大別するのが常識である。甲は比較的小形で上手のものであつて底裏に掛釉し釉下に染付で大明宣德年製の六字款を双圈內に二行に書いてあるものである。乙は大形の皿で厚手で直徑二尺以上のものもあつて、其底裏は掛釉せず露胎のまゝになつてゐて年欵はない。但し中には外側口緣に近く六字款を横書したのもある。大皿の方は永樂の末から宣德の初期頃の產と考へる說もある。甲の上手の小形の皿は作行が丁寧で其模樣は松竹梅、波濤と龍、蓮花と龍、穿花又は穿雲鳳凰、蓮花魚藻等が主なものである。又乙の大皿の方には松竹梅、種々の花卉、蓮花又は石榴の唐草、葡萄及其他の果實等が主從つて立派な年欵のあるものが少なからず現存しに畫いてある。把杯は或は馬上杯とも云はれてゐるが宣德時代の染付の把杯は明かに數種あつて大小、形及模樣等が夫々異つてゐる。中には蓋があつて全體が球狀を爲したものもある。其模樣は染付の波に刻花の白龍、穿花鳳、波濤に海獸、染付の龍、蓮花、牡丹、萱草、石榴等花卉の唐草文、八吉祥、八寶等が畫いてある。染付の鉢は永樂窯の形を繼承せる蓮子形、饅頭心、及大形の鉢等がある。此等は蓮子形の底が平坦に近い以外には其形模樣等殆ど永樂窯と變りは無いが、只宣德の六字款が書かれてゐるのが相違するのみである。尤も宜德の皿鉢は其内底が少しばかりうねつて凸出してゐるのが大切な特徴であつて、〓代の摸寫は底が全く平坦であると云はれてゐる。尙ほ作行について云へば皿鉢等の高臺は銳く削つてあつて、稍斜に內側に削り込んである。又口作りは端反りになつてゐる所謂撤口、少し內方に締つてゐる磐口、花瓣狀の所謂葵瓣口等種々あるが、花瓣狀の口作りの者は獨り口のみならず其胴迄此形になつてゐる場合が少くない。又鉢の外側に花卉を畫けるものには間ま其花の處だけ胎が少し盛上つてゐるものがある。これは胎が生ま乾きの内に型に載せて按〓の作業を行ふときに內側から壓したものであつて、之によりて平滑な器形に變化を與へ無限の興趣を起さしむるものである。右以外の形には葢物、花瓶、水注等があるが、年欵のある者は餘り多く發見されてゐない。皿は甲乙兩種あることは旣述したが、鉢、花瓶等につきても大體小形の者は作行丁寧で上手であるが、大器は稍粗笨となるは止むを得ない。七、染付死付死
七、染付성胎土は永樂の場合と殆んど差別が無く、純白の堅緻なる磁質であるが、釉藥は豐潤で其表面が所謂橘皮紋を現はしてゐるのが特徴である。之が爲に、釉が平滑で光澤のある永樂窯とは可なり異つた感じを與へる譯である。染付の色は、永樂窯が一帶に黑ずんでゐるのに反して、一帶に明るい感じを與へるが、然し處々に黑色乃至褐黑色の大小の斑點が現はれてゐることは永樂窯と變らない。只永樂窯に在りては染付濃淡の變化が烈しく其凝結して濃色を呈せる處から忽ち釉中に散渙して煙の如く霞の如く朦朧依稀となるのは甚興趣深いものがある。宣德の染付も亦た、後世のものに比すれば尙ほ猶ほ此變化に富んでゐるが、到底永樂窯の比ではない。其代り畫は甚巧妙に描かれてあり、靑料の驅使に於て永樂窯よりも遙に勝れた技能を有つに至つたことは事實である。永樂及宣德の染付は明代後期及〓代に於て多數の摸造品が造られてゐる。而して其色調の如きは明末及〓代康熙雍正頃の仿造には可なり巧みなものがあるけれども、靑料が自然に重なつて黑色乃至褐黑色を呈してゐる大小の斑點は如何にしても其自然の趣を摸することが出來ない。筆で大小の斑點をわざと拵へてあることは一見明瞭だから直ちに看破出來る。加之此種の仿造品は大抵模樣も拙劣であり、例へば牡丹唐草にしても花瓣の排列、枝から葉が左右に出てゐる工合等眞正のものは巧みに寫生の妙を得てゐるが、仿造品は甚亂脈になつてゐるから直ぐに看破出來る。正統から天順の末迄は確かな年欵のある器皿が未だ發見せられてゐない。此間約三十年は天下多事で英宗は瓦剌の爲に捕虜となつた位であるから、窯事は甚振はなかつたのが事實である。又景泰帝は藍色を主調とする七성純白の堅緻なる磁質であるが、釉藥は豐潤で其表面が所謂橘皮紋を釉が平滑で光澤のある永樂窯とは可なり異つた感じを與へる譯であ寶を偏愛し之を景泰藍と稱する位であるが、此種七寶の製造に要する靑料は塊まりを其まゝ使用するに近いのであるから、燒物に使用するのとは違ひ夥しき量を要し、之が爲め多量の蘇麻離靑を濫費した。かくて國內の貯藏も盡き外國からの輸入も何等かの事情で社絕した爲に、成化に至りて大に靑料の節約を必要とするに至つなこれ成化の靑花白磁が其染付の色淡く且多くは細き線描のみで渲染が少い理由の一である。而して弘治に至りて蘇麻離靑遂に使用し盡されて專ぱら土靑に依存せざるを得なくなつたから、弘治及正德の染付は甚だ黑ずんだ色になつた譯である。右は至極大づかみの說明であるが、詳しく論ずると斯く簡單には片付けられない。明代の文献には、蘇麻離靑が宣德時代と共に盡きたから成化には平等の靑を使つたと明確に書いたのと、成化に至つて蘇麻離靑が盡きた記したのと二通りある。これは何方が眞であらうか、事實により實物に徴して判斷する外に途は無いと考へる。然るに今日現存してゐる成化の器皿を見ると、染付の色は宣德に比すれば甚淡く且線描を主とせること前陳の如くであるが、其色調に依然として蘇麻離靑の鮮かな藍色を維持してゐると認めなければならぬ。然るに弘治及正德になると急に色調が暗晦になる事實に鑑みるときは、結局前記のやうな結論とならざるを得ないのである。因に平等の靑と云ふのは此處では勿論土產の靑料を指すと見る外解釋の餘地は無い。成化窯の器皿は其染付たると五彩たるとを問はず現在最も鑑定に困難なる課題である。而して何故にかく困難であるかと云ふに、成化の器皿は當代の皇帝憲宗の人と爲りを反映して一體に纎細できやしやである。卽ち小器が多くて大器が少い。薄手が多くて厚手が稀である。繪は線描が多く渲染が少い。染付は一體に淡い。凡七、染付一六一
七、染付一六三そ此等の諸點は悉く器皿の確認を難からしむるものである。何となれば小器は見極むることが容易でない。薄胎であるから高臺の露胎の部分も甚細くて土を見るのに困しむ染付に濃淡無く一帶に淡いから靑料の品質を認定するに苦しむのである。加ふるに後代就中〓代に極めて精巧なる摸造が多量に作られた。而して右に述ぶるが如き事情があるから此種器皿の眞僞鑑別は非常にむつかしいのである。大體成化窯はきやしやで薄手の者が多いから、今日無事に傳世せる者は比較的少い道理である。これは染付で無く五彩であるが、成化を去ること僅か八九十年に過ぎざる萬曆時代に、神宗皇帝の食卓に供へられた成化窯の雞缸杯は一對で十萬錢であつたと特記されてゐる。其他明季頃旣に成化窯が貴重視された文献は萬曆野穫編、曝書亭集等に散見するけれども今略すが、要するに明代既に成化窯をしてかく珍稀ならしめたのは畢竟きやしやで破損し易く無事に傳世せる者が少なかつた爲である。當時既に少い者が更に三百五十年後の今日一層稀少なるべきは言を俟たない。磁學家就中西洋磁學家等は從來成化窯就中年欵のある官窯に付きては其認識に苦しみ暗中摸索の觀があつたが、今囘の歐洲大戰直前に至り漸く其實體を確認するに至つたと稱し、從來〓代の仿造品として一〓に斥けられた器皿中にも幾多の眞品があると說いてゐるが、其說は尙十分の檢討を要するものゝ樣だ。成化窯の五彩は最も貴重視され古來宣德の五彩に勝ると評せられたが、其靑花白磁は宣德に及ばぬと云はれてゐる。これ前述の如く成化の染付は一帶に淡くして弱々しいからであるが、楚々として可憐の情趣に富めることは其特色であつて決して宣德窯に求むべきところではない。從つて何れを好み何れを擇ぶかといふことは人々の嗜好に在つて必しも優劣をつけることは出來ない。成化窯の染付の色調については旣に之を述べた。胎土は淨膩瑩白と形容せられ由色堅緻であるが、前陳の如く高臺露胎の部分が甚だ細いのが常であるから詳しく之を認識し難いのが定石である。釉は瑩白、粉白、瑩潔等の文字を以て形容されてゐるが、釉の表面は平滑なのが多く、稀に粟文隱起と形容されるものがあるに過ぎない。作行は前陳の通一體に薄胎であるが、所謂眞脫胎と稱する竹紙の樣に薄く指の螺文を透視し得るものは當代に創まると云はれてゐる。器皿の種類は皿、無杯、壺瓶、水注、合子等種々ありて其模樣もまた神仙、人物から龍鳳、獅子、小禽、蟲魚、花卉、果實.唐草文等に至るまで多樣である。然し前陳の如く後代の仿造品が極めて多く眞品は甚だ稀少であることを牢記せねばならぬ。弘治及正德兩窯の官窯器皿は其胎土は淨賦瑩白で成化窯と大差が無い。釉は美しく微綠色を帶び繻子樣の光澤があつて、中には聊か雞皮文の面影を存する者もある。只然し蘇麻離靑は既に絕えて專ぱら土靑のみに依存したから、其染付の色は勢ひ暗晦とならざるを得ないのは當然である。弘治の治世は十八年正德の治世は十六年、兩方合せて約三十四年だが、此間の確かな器皿は甚少く染付のみの器皿は殊に少いと云はれてゐる。蓋し此兩時代には官窯を開いた囘數が少かつたのと、黄釉をかけることが流行せると、靑料が土靑のみに依存し美しくなかつたことが原因であらうと思はれてゐる。今第7及第8兩圖に揭げた兩窯の皿も黃色の釉が掛けてあるから純粹の意味では染付と云ひ難いが、染付のみの確實な寫眞が見當らないから不得已之を揭ぐることゝしな此種の者は普通の染付の器皿の上に黃色の軟火釉をかけたものである。嘉靖の治世は四十五年の長きに亙り燒造せられた器皿の數量は巨額に上り、燒造に關する文献も前代に比す七、染付一三燒造に關する文献も前代に比す一三
七、染付一六番れば著しく豐富となつてくる。加之此後は崇禎、順治の如き特別の例外を除いて殘存する器皿も少くないから、說明も鑑別も比較的容易となる理である。然し其代り、器形模樣等種類が頗る繁多であつて到底本書の如き小冊子に之を網羅し盡すことを得ないから只其要領を說くに止め、詳細は之を專門の書に讓らねばならぬ。嘉靖窯の胎土は有名な麻倉の土を用ひてある。一說に麻倉の土は嘉靖頃旣に盡きたとあるが、然し萬曆窯の項に說く如く、萬曆の十年頃麻倉の土が漸く枯渇せんとしてゐると云ふ確かな文献があるから、嘉靖の頃には尙ほ盛んに用ひられてゐたことは疑なきところである。麻倉の土は影靑の土によく似たところがあるが單味造坯を行はず油果を混用せるものであるから、其品質は常に一定してゐない樣だ。典型的な嘉靖官窯について見ると所謂潤膩滑澤で手觸りは油の樣な感じである。其色は純白である。嘉靖に至りて回靑と稱する優良靑料を多量に輸入するに成功し、染付の發色再び鮮麗となつたが其色調は花やかな堇色である。此回靑の輸入は何時迄續いたか詳で無い。恐らく明末から〓初まで斷續して輸入せられたものであらう。但し隆慶以後漸く染付の色が低劣となり、殊に萬曆の中期以後は之を嘉靖に比すると格段の相違がある。これ大量生產の爲に粗製濫造に陷りたると、靑料の輸入が間に合はず土靑を多く混用せるが爲だと云はれてゐる。然るに萬曆の中頃回靑の欠乏を來し、土靑中の優良品である漸江省產の靑料を以て之に代用せんと考へられた記錄があるから、明末から〓初へかけての器皿には此浙靑を専用せる者が少くないと思ふ。宋代から明の中期まで輸入せられた蘇麻離靑と嘉靖以後輸入せられた回靑とは等しく「ベルチスタン」の產であるが、一は海路により又一は陸路によりて輸入せられたものであらうと云ふ西洋磁學家があるが、其色調から判すると兩者はどうも產地が異ふのではないかと思はれる。卽ち蘇麻離靑の方は稍黑ずんだ內に實に美くしい純粹のコバルト色を呈し、時には翡翠色を現はす場合もあるが、回靑の方は紫がゝりたる鮮かな靑色で所謂菫色である。勿論呈色の相違は單に靑料の異同のみによりて生ぜず、胎土、燒成技術及殊に釉の成分によりて著しく變化する場合が少くないから、此等の諸點につきて篤と〓究した上でないと斷言すべきでは無いが、其色調のみから判斷すると、此兩靑料は全く別異の地方の產か、然らざるまでも產坑を異にするものらしいのである。嘉靖窯の釉は純白甜淨で白玉の樣だと云はれてゐるが、當代の釉は殆ど透亮で光澤のある者が少くないが、時としては稍失透して表面がマツトがゝつたのもある。以上胎土、靑料、釉藥の特色は官窯及民窯中の上手物につきて其特色を述べたのであつて、民窯就中其下手物雜器の類に至りては必しも斯く優れてはゐない。卽ち胎土は必しも潤膩滑澤にあらず、釉の如きも往々にして稍や灰白色又は黄綠色がゝり、染付も灰靑色がゝつたものがある。然し此の如き下手物の場合でも明代磁器の通有性であるところの和かで潤ひがあり且一種の深さを有する釉と、釉の奥に沈むが如く見ゆる染付とは、〓代の釉が一般に堅くして冷たく平板の感じを與へ、其染付が動もすれば表面に露はれてゐるのとは格別の相違である。嘉靖窯の器皿と模樣とは多種多樣であつて到底枚擧し難いが、大體を赤繪の項に擧げて置いた。隆慶窯は治世短く燒造囘數も只一囘に過ぎなかつたから現存する器皿は比較的少い。而かも初め五年間は官七、染付一五五當代の釉は殆ど透亮で光澤のある者が少くないが、
ち、染付一六窯は開かなかつたのであるから、嘉靖窯との關係は一時斷えた次第だ。從つて嘉靖窯と比較すると一體に可なり見劣りがするのは止むを得ないけれども、胎土、釉藥、靑料の關する限り尙ほ末期の嘉靖窯と大同小異である。萬曆の治世は四十七年の長い間であつて官窯の燒造數量は恐らく嘉靖の數倍にも上つたであらう。殊に中期以後は宦官が暴威を逞うして大量生產を强ひ其結果粗製濫造に陷つた。萬曆窯は、初の十四五年間、次の十年間,及最後の廿餘年間の三期に分けて視るのが至當である。第一期は皇帝尙ほ幼冲で賢臣張居正の善政によりて天下太平國家繁榮であつたから官窯も見事なものが出來た。然し燒造囘數も、從つて數量も少い。此時は尙ほ胎土も麻倉の土を使用してゐた。それは萬曆十一年に坑が深くなつて採堀及搬出に困難であると云ふので人夫の手間賃を增給せんことを監陶官から上申してゐるから此頃は尙ほ之を使用せるは明白であるが、其後萬曆廿年前後に至り產坑枯渇して吳門托の土を用ふるに至り、同卅年頃に至り更に一轉して高嶺の土を用ふるに至つたのである。釉は種類が多いが、之を大別すると和かき感じのある透亮潔淨のもの、等しく和かい感じではあるが稍乳白色で半透明の玉樣の光澤のあるもの、透亮明快であるが稍や冷く堅い感じのあるもの、鷄皮又は橋皮文の如き栗文が隱起せるもの等數種と爲すことを得る。勿論此等の中間に位するものもあり、又徵靑、徵緣、乃至徵黃色を帶ぶるものもあるから、之を細別すれば頗る多岐に亘るであらう。染付の色調は依然として回靑が使用されてゐることは諸家の指摘してゐる通であつて、中には發色極めて鮮かで嘉靖窯を凌ぐものさへあるが、かくの如きは極めて稀であつて多くの場合其色調は佳良であつても淡いか或は大抵稍暗晦に傾くのが常である。而して大抵嘉靖窯器皿の中位のものと用じ色調のものは萬曆窯としては上位に屬する者である。蓋し萬曆中期以後大量生產の爲に製造粗雜となれると所要靑料の分量甚多き爲に土靑を多く加へ、又は浙江產の土靑を以て回靑に代ふるに至つた爲である。天啓になると世の中が亂れて來て、國家滅亡の徵候が顯著に現はれて來た。窯器の如きも此機運を反映して胎土、釉藥、描畫等一帶に作行が粗雜となつた。中には染付に釉上著畫を行ふべき餘地を殘して其まゝにしてある器皿も稀でない。又天啓の年欵を書いた官窯風の皿に奇怪な羅漢神仙、馬、虎などを描いて到底皇帝の供御とは思はれないものも少くない。是等は恐らく官窯ではあるまい。天啓窯は恐らく萬曆の後期から引續いて高嶺の土を使用せるものであらう。釉は流石に明代の特色を維持して和かく稍厚い亮釉で美しい。染付の色調には尙ほ回靑が認められるのは寧ろ不思議である。天啓窯の晝風は皆粗疏であるけれども、或は頽唐瓢逸、或は奔放豪快で反つて愉快のものが少くないから之を愛する者が多い。只不思議なことには、天啓窯の器皿は獨り我邦にのみ多く殘存し、支那にも西洋にも非常に稀少である一事である。蓋し本邦では舶來品として愛護せられ、彼地に於ては雜器だから破損し盡きたのであらう。崇禎は明代最後の年號であるが、此年欵ある器皿は非常に稀少である。其土は美しき高嶺の土で、釉は漸く明代特有の和かさを失ひつゝあるが如く、染付の色調亦た回靑の調子から漸く〓代の色調に移行しつゝあることを感ずるのである。ち、染付一六百付一六百
七、染付一八、3.〓代の染付〓代になつてから最初の年號の順治年間には景德鎭の御器廠は只一囘燒造せるのみで、數量も少く、殘存せる器皿は非常に少いが、當代の民窯を見ると明から〓への過渡期の特徴を現はし、胎土は高嶺の美しき土を用ひ染付の色調は崇禎窯と略同調で黑味がゝつた藍色と紫菫色の混合せる調子である。康熙の染付は一體に陰氣で冷たい感じがするが、これは一は其釉が冷たい感じがするのと又一は染付の色に紫又は紅色の分子が無いからでもある。然るに康熙官窯の內には間ま和かな美くしい透亮な特殊な釉をかけたものがあつて、其釉の裡に鮮かな純粹な「コバルト」色の靑花が或は濃く或は淡く、而かも視角の動くごとに恰かも顫動する碧玉の如く見ゆるは、寶玉の美も遠く及ばないと英人が絕讃してゐる。蓋しこれは釉の調合に何か特別の方法があつたものであらう。但し此の如きは無論上手の官窯の而かも最も優れたるものゝみに限つて見られる現象であつて、大部分の民窯の如きは其釉が硬く冷たい感じがするし、染付の感じもまた此の如く美しくはない。然し官民兩窯を通じて康熙染付の優れたる特色は其線描に力があり而して殊に渲染の場合に染付が濃淡種々の層次を爲して判然と現はれることであつて、之が爲に描いてある模樣の何たるを問はず極めて鮮活〓麗の感じを與ふるのである。後世例へば乾隆朝の染付の如き此點に於て格段の相違があるのは何故であるか、一口に時代の隔りと云へばそれまでゞあるが、恐らく技法上に變化があつた爲であらうと察せられる。康熙染付の缺點は其色が前陳の如く冷たく且陰氣なのと、且兎角黑味がゝるか又はねぼけた樣に不鮮明となることである。而して色が淡い場合には美くしい銀靑色を呈することもあるが、往々灰靑色に傾き易い。支那人は之を灰黯と云ふて厭うたのである。事實康熙の染付中此等の缺點を全く免かれてゐるものは稀有であつて貴重視すべきである。康熙窯の土は有名なヵオリン(高嶺の支那音)であつて、靑料は旣に回靑の痕跡なく全く土靑恐らく浙靑に依存せるものと察せられる。器皿と模樣の種類は千〓萬端で一々述べ難いが、作行は國運勃興の機運を反映して何れも重厚で堂々としてゐる。然し康熙の後期には漸く溫雅纎巧となつて雍正に近づいてくる。康熙の器皿につきて一言すべきは所謂漿胎卽ち滑石を以て胎とした器皿である。尤も之には眞の漿胎と假の漿胎とあつて、眞の方は中まで悉く滑石であるが、假の方は中は普通の磁土で只之に滑石を塗るのである。れは滑石が高價であるから上にだけ塗るのである。漿胎の器皿は大〓小器のみで文房器玩の類であるが、之に使用する靑料は特に純良無雜のものを選み妙手をして畫かしめたと云ふ。一說に漿胎は明代に創まると云ふが未だ確證は無い。雍正の染付は紫がゝつた美しい鮮明な靑色で明代嘉靖窯に用ひた回靑と色調が酷似してゐる。而して雍正は仿古の最も盛んな時代であつたことは屢說する如く、從つて自然嘉靖萬曆兩窯の仿造品も少くないが、之が鑑別は最も困難と云はれてゐる。現今雍正に造つた嘉靖萬曆兩窯の仿造品が大威張で市場に跋扈してゐるが、誰も之を制壓する者が無い。此種仿造品は釉が巧に明代の柔かい厚い白玉の樣な感じのするものをそつくり摸し七、染付一六九
七、染付〓〓〓てあり、此の釉の中に回靑に酷似してゐる色調の靑花が沈んで見えるから、鑑定家も欺かれるのは無理が無い。加之雍正から乾隆へかけて土も漸次高嶺を捨てゝ祁門から採り、或は又明代に一旦廢坑と爲つた麻倉を再び掘つた形跡があつて、甚やゝこしくなつてゐるから之が觀破は蓋し容易では無い。以上は仿造品のことであるが本來の雍正窯は如何と云ふに官窯染付の作例は至つて稀であるが染付の色が鈍く康熙染付の深さも鮮活さも失はれてしまつた。而して渲染による美しさ層次も見られず渲染に代るに線描を以て主とするに至つた。これ染付が顧られざるに至り從て靑料の精選に力を致さゞりし故であると云はれる。乾隆の染付は其色調がまた一變して稍黑ずんでくる。乾隆の染付に見る靑色は鈍き「インヂゴー」色であつて而かも康熙の染付の如き釉と染付との微妙なる調和も、頭動する碧玉樣の美しさも將た又鮮活〓麗なる妙趣も失はれて見ることを得ない。蓋し康熙窯の項に述べた如く染付の濃淡が劃然と判別する層次が見られないことが之をして平板にして生氣なからしめた所以であらう。且又其描法は鄭重を極め一點一畫苟くもせざるも反つて康熙染付に見る如き手法の自由奔放より來る面白味は毫末も求め難い。只漿胎の小點のみは例外であつて、之には依然として康熙以來の傳統が守られ、畫法の妙と靑料の純とが見られると云はれてゐる。西洋磁學家の中には、乾隆に至つて初めて浙江省から優秀なる靑料が產出し之を用ふるに至つたと說く者がある。唐英の畫いた陶治圖說にはなるほど當時卽ち乾隆時代の官窯に浙靑を用ひたことが述べてあるが、然し乾隆に至つて初めて之を用ひたとは書いて無い。而して他方には旣述の通り明の萬曆時代既に浙靑の優秀なることが認められ之を以て回靑に代へんとする議があつた位である事實を看るときは、浙靑は恐らく明季以後引續き優秀代用品として用ひられ回靑が杜絕すると同時に之に代つたものであらう。而して乾隆頃には其浙江の紹興及金華の二府に屬する山から產出せること、韮菜邊と稱するものが其色〓楚で火に入りて散らないから細器には必ず之を用ふること等が陶治圖說に述べてある。又邦人の內には〓代に入りて雲南から優秀なる靑料を產し之を用ふるに至つたと云ふ者があるが其根據は詳でない。景德鎭陶錄は嘉慶に刊行せられた書であるが、此書に當時雲南、廣東及江西からも靑料を產したが浙靑が最上であると書いてある。只〓末景德鎭を視察した北村氏の報告には、主として雲南產の靑料を用ひ浙江產の靑料は下等だとあるから、嘉慶以後〓末までの間に斯く〓到するに至つたのであらう。尙ほ前にも述べたが、乾隆頃になると明末以降就中康熙頃に最も重用せられた高嶺の磁土は斥けられて祁門の土を重用し、高嶺の土は玉紅、箭灘等の產土と共に粗器製造にのみ用ひられてゐたことが陶治圖說に述べてある。此變化は何時起つたのか詳で無いが、恐らく雍正から乾隆の初頃かと察せられる。乾隆窯は支那窯業技術の最も進步發達せる時代であつて、凡そ人力の及ぶ限りに於て之を窯技に試みて剩す所が無かつた。其結果鬼斧神工を詒くと云ふ程度に達し、絕妙の窯技は空前であり恐らく絕後であらうと云はれてゐる。然し技術的には發達したが藝術的には反つて退步し、之に一片の情趣を求むるも索然たるものがあると云ふのが定評である。而かも此技術上の發達も凡そ乾隆の半ば頃を絕頂とし、其後は所謂下り坂となつて漸次劣等と爲り、乾隆の末期には最早技術的にも昔日の面影を見ること能はざるに至つた。嘉慶窯は此乾隆窯末期の餘勢を受けたものであつて、乾隆窯の延長と見るべきものだと云はれてゐる。其繪七、染付一二其繪
七、染付三付は殊に劣惡であつて染付の色調は乾隆の低劣なるものと殆ど差異が無い。加之啻に其色が暗晦なるのみならず描法拙劣にして毫も精神が無いと云はれてゐる。道光窯に至りて大體に於て原料の品質が愈〓低下し、從つて器皿の品質も亦た益〓下るに至つた。但し此時代には繪畫の妙手があつて殊に小點ものに繊細綺麗の妙筆を揮つた。これは嘉慶窯に見ること能はざりしものであるが、其染付は細き線描に淡き渲染を加へたものが多く大抵雍正窯に似て少しく劣れるものである。成豐三年景德鎭は長髮賊の爲に燒打に遇ひ、御器廠初め悉く灰燼に歸した。同治に至つて漸く囘復したのであるが、此間の〓末を述ぶるは本稿の能くする處でないから之を省略するが、感豐窯は右の如く初めの二三年間燒造せるのみであるから比較的少い譯である。染付の色調から判斷すると道光窯から以降使用せる靑料に變化があつたものゝ如く察せられる。蓋し嘉慶窯の染付は大體乾隆窯に似て稍黑みがゝつた靑色であるが、道光窯以後は染付の色調が明るく派手になり、其色も或は稍綠色調を帶びた翠藍色、又は稍紫がゝつた鮮かな靑色となる。これ恐らく浙靑に上質のものが求められなくなり雲南產の靑料を用ひた爲であるかと思ふ。尙後になると西洋產のコバルトも使用するに至つた様である。雲南產の靑料は高熱に遇ふと暗淡となる缺點があると云はれてゐるが、西洋の「コバルト」は此缺點なく且其色艶美であると云ふ。これが爲め光〓窯の染付で康熙窯に仿へるものは極精にして其藍色竟に能く十に七八を得たものがあると云うから實に油斷はならぬ。然し其畫法を觀れば時代は爭はれぬもので、楊伯潤等の一派に流入してゐるから一望して光〓の器たることが判ると云はれてゐる。三加之啻に其色が暗晦なるのみなら古染、祥瑞、南京染付、吳州染付此等は從來我邦市井の用語であるが、其如何なる器皿を指示するかにつきて此に略述して置く。イ、イ、古染古染とは古染付又は古渡染付の略であつて大凡明代の染付中民窯の產で年款の無いものを指すものゝ樣だ。大抵皆粗器雜器の類で輸出品として大量生產せられたものであるから、官窯の器皿の如く整齊完備せる作行を之に求むることを得ない。然し其代りに洒脫瓢逸等雅趣ある作風に於て官窯に求め難き藝術的價値に富むものが少くない。譬へて言へば、官窯は楷書で、古染は草書か行書の如きものである。此種の器皿は時間と資材とを經濟的に使用する關係上、薄手でザングリした名工の冴えた技術を窺ふに足るものが稀でない。此種器皿の製造に從事する工匠は極度に發達せる分業制度と傳說を重んじて、新加入者を許さゞる組合制度に守られて數百年間に亙り子々孫々生より死に至るまで同一の作業に從事し、而かも古染の如き雜器の製造に方りては晝夜最大能力を發揮するのであるから、其熟練の極致に達せる腕の冴えは到底俄仕込の藝術家の匹儔にあらず、無意志の間に面白いものができるのである。古染は右の如く明代の產であつて、其時代も明初から明季迄約三百年に亙るのであるが、大抵嘉靖、萬曆か七、染付三萬曆か
七、染付一個ら明の末迄のものが多く、明代初期のものは比較的稀である。然し近年明代初期の器皿が〓究される結果として往々明初の民窯が我邦傳世品の內から發見されるやうだ。紀三井寺、雲堂等は恐らく宣德から遲くも正統天順迄溯るものであらうが、芙蓉手の如きは萬曆若くは其後に下るものであらう。ロ、祥瑞ロ、祥瑞は伊勢松坂の人伊藤五良太甫の號で、明代入明して燒物を燒いたと云はれてゐる。然し其時代と燒いた場所とについては古來諸說紛々として定說が無い。今日では時代は凡そ文祿から元和迄(萬曆廿二年頃から同四十四年頃迄)、燒いた場所は景德鎭で、歸朝後にも本邦各地で燒いたらしいと云はれてゐる。祥瑞の作品には在銘品もあるが無銘品が多い。在銘品には大抵器底に染付で五良太甫吳祥瑞造と書いてあるのが普通で、稀に刻銘のもある。器種は殆ど皆染付で(色繪祥瑞のことは赤繪の項に說く)大凡左の如きものがある。(茶碗)松竹梅胴紐、胴紐雲形模樣、筒、唐草、古祥瑞、杏等。鉢段捻、山水臺、木葉形反、杏等。(三四捻小及中、詩入花鳥輪花口紅中、口紅丸紋中等。(向附)輪花々鳥、針木、沓形花鳥丸紋、扇丸紋葢、四方、龜甲形等。(酒次)瓢形吉字、同丸紋、同筋、同捻、同瑠璃等。唐草、古祥瑞、杏等。龜甲形等。(水差)口紅松竹梅、ヘコミ蜜柑等。(香煎入)丸紋、瓢形等。(香合)鳥指瓢簞、橫瓜、竪瓜、豆男、豆獅子、瑠璃雀、鶴、蜜柑、茄子、桔梗、兜、橋杭、鳥雞、雞、鶉.枕、誰袖、笠、玉章、鳥葢、唐犬葢等。右は坐右の書から書拔いたものだが勿論全部を盡してはゐない。又此他掛花生、湯呑、酒盃、蓋置等々多種多樣のものがある。祥瑞の胎土は美しい白磁で、所謂祥瑞のゴマ土と稱して黑色の小點のある者もあるが、無いものもあつて之は必須條件では無い。然し燒成時に置いた砂の痕が大抵ついてゐるものだ。染付の色は燒成の結果によつて必しも一樣でないが、大體萬曆中期の染付の色調であつて、非常に美しい囘靑色のものもある。模樣は大抵支那風の繪が畫いてあるが、大體畫が馬鹿丁寧であつて、筆行は神經が行屆き過ぐる程纎細巧緻である。銘は純然たる日本人の書である。器形は鈍重なのと薄手で非常に巧みなのと二種ある。前者は祥瑞の自作であらう。而して此種の者にワザと一部を凹ませたものがある。例へばへコミの水差、ヘコミの茶碗の如きこれである。これ遠州あたりから起つた純然たる我邦茶人の好みであつて、支那人の考へざる所である。又後者は專門の陶工にロクロを引かせて繪付だけ祥瑞が自分で行つたものであらう。七、染付一 五瑠璃雀、鶴、蜜柑、茄子、桔梗、兜、橋杭、鳥雞、雞、鶉.又此他掛花生、湯呑、酒盃、蓋置等々多種一 五
七、染付尙ほ祥瑞に關する詳細の考證は茶道全集卷十五、一六器物篇四に載せた拙稿を參照せられたい。ハハ南京染付南京何々と云ふのは、元來本邦產に對する支那產の意味であつたらしい。然し現代の慣用例では〓代のことで、南京染付は〓代の染付で年欵の無い民窯の粗器雜器の意味である。此種の器皿は土も、釉も、染付も、繪付も皆古染に劣り殆ど藝術的價値の無いものが多い。然し〓初康熙頃の產には流石に尙ほ未だ棄て兼ぬる者もある樣だ。ニ、吳州染付吳州と稱する一種の燒物がある。其種類は赤繪、白磁、赤磁及染付等であつて其產地は未だ詳で無いが、洋人は福建省漳州府石碼窯の產だと云うてゐる。石碼は厦門から漳州府に至る途上に在る殷盛なる市街であるが、窯の所在地は此附近のPakwohと云ふ處であつて盛んに粗器雜器を燒いてゐる。吳州の器皿は明代から〓初頃にかけて最も盛に產出して海外に輸出せられたものゝ如く今日南海及印度地方から多數傳世品及出土品が發見せられる。支那の書には胎質粗厚で釉に藍色多く、奇異の式が多いと記されてある。吳州の胎土は微灰色の白磁であるが、時として鈍黄色を帶び露胎の處褐色を呈する者もある。釉は一種寒天時として鈍黄色を帶び露胎の處褐色を呈する者もある。釉は一種寒天又は「ゼラチン」樣の感じがあつて貫入のある者が多い。染付は「インヂゴー」色で繪付は一種奇怪なる繪が畫いてあるものが多い。吳州染付には香合、皿等あるが古來我邦で最も聲價の高いのは赤繪である。染付圖版解說第三圖(原色版)宣德窯靑花太極花文等双耳葫蘆扁瓶高一〇·二吋姿は瓢簞の形で下の胴が扁平になつてゐる。而して上の球の下から下の胴の肩へかけて左右に耳が付けてある。模樣はむらのある濃い翡翠色の染付で、下の胴の一面に樣式化せる一輪の花の如きものを畫き、他面には花形の中に太極を描いてある。上の球には菊及石竹樣の花を唐草にして帶狀に畫き、口の下に染付で大明宣德年製と一行に横書してある。「コンスタンチノープル」故宮美術館にこれと類型で然し無銘の瓶がある。第五圖靑花龍文等扁壺高十四吋肩の下に如意形を畫き其中に菊、牡丹、桔梗樣の花枝を樣式化して其中に羽根を擴げた水鳥を畫いてある。扁平の胴には下に波濤を、其上に躍り上らんとする龍が描いてあるが、此龍の顏は甚古風であつて、六朝から唐代によく見る如く其鼻が尖つてゐる。明になると此鼻は平たくたるのが普通であるから、此圖のみから判斷七、染付一七〇
七、染付一八すると此壺は少くとも北宋頃まで溯るものゝ如く見ゆる。然しこれは恐らく古い圖によつて描いたものであつて、此壺の時代は北宋まで溯るとは考へられない。然し側面にある唐草文は「デヴヰツド」卿所藏の元の至正十一年在銘の瓶に酷似し、全體の感じは土京美術館所藏の明初染付の一群に近い。尙ほ類型の瓶が「アルデビル」の囘〓寺院磁器堂にも現存する。此扁壺には年款は無いが、其形及文樣から考察して元か遲くとも明の洪武永樂等極く初期を下らぬものである。染付の色はむらの多い濃靑色であると云ふ。第六圖宣德窯靑花萱草文玉壺春瓶高十三·四吋此形の瓶を玉壺春と云ふ。此瓶は年款が無いが、北京の故宮博物院に類型の瓶があつて、双圈內に宣德の六字款があるから、此瓶も亦た宣德窯の產であると云はれてゐる。染付の色は黑みがゝつた濃いむらのある美くしい翡翠色で、胴の表と裏に萱草を畫き之に蝶を配してあるが、頸、肩及足には宣德特有の唐草文帶を廻らし加ふるに蓮葉如意頭及蓮瓣等の諸文様を配してある。萱草は吉祥文樣の一であつて、產婦が之を帶ぶれば男子を生むと云ひ、一名宜男とも云はれてゐるが、又之を食すれば能く憂を忘れるから忘憂草とも云ふ。其他黃花草、金針菜、紫萱等の異名があり、支那では繪畫及工藝品に頻出する草花である。第七圍靑花牡丹孔雀文壺高十一吋七五廣口の壺で之に染付で牡丹と孔雀とが畫いてある。描法は精妙で腕の達者な者でなければかうは描けない。一寸硬い處があるのは元から明の極初期にかけて共通の點である。之を西洋磁學家は弘治頃に考定してゐるが其理由は牡丹孔雀の文樣は十六世紀(嘉靖窯を指すと思はれる)の官窯器皿の品目に載つてゐると云ふ一事に在るものゝ樣だ。然し牡丹孔雀の如き文樣は決して十六世紀の新しき文樣にあらず、恐らく唐或は宋代より工藝品に用ひられ來りし圖案であるから、西洋磁學家の說の如きは勿論膠柱の謬說である。此壺の土は細かい磁土で底は掛釉せず、染付の色は濃淡二つになつてゐるが、濃所には黑いむらのあることが看取される。第八圖靑花魚藻文壺高二七、五c.m.前圖と略同形の廣口の壺に染付で魚藻文が描いてある。此と類型の壺が東京帝室博物館にあるが、其他には此手の物は知られてゐない。釉は透亮の釉が厚くかけてあり、染付の色は黑味がちでむらが少なからずある。此に揭ぐる壺は土京美術館所藏のものであるが「チンメルマン」氏は之を十六世紀の半頃卽嘉靖窯と考定してゐるが、染付の色、描法等から見て此考定が全で見當違ひなることは云ふ迄もない。我邦の磁學家中には之を以て成化頃に考定せんする人もあるが、管見によれば染付にむらがある點及其描法から判斷してもつと時代を溯らして宣德の末か正統頃と考ふべきものであらうと思ふ。.m.第1圖靑花唐草及波濤文等龍頭把手酒杯高一五c.此形を酒杯と稱するは穩當でないが何と稱して可なるかを知らないから假に酒杯と名づけて置く。七、染付一元ビール等
七、染付〓oを飮むに用ゆるタンカードと稱する大コツプに類してゐる。龍の形をした把手がつけてある。染付は褐黒色のむらの多い藍色で、年款は無いが永樂窯と考察されてゐる。第2圖宣德窯靑花唐草文等有脚合子高約一四c.m.之を有葢の把盃だとプランクストン氏は說いてゐるが、把盃にしては脚が短過ぎて手に持つに不便であるから恐らく合子であらう。球形の胴に畫いてある花は宜男の樣に見ゆるが、樣式化して唐草になつてゐる。宣德の六字款が一行に橫書してある。第3圖永樂窯及宣德窯蓮子鉢永樂窯の方は直徑凡そ一六 、宣德窯の方は一五·六cmある。永樂窯の方は年款が無いが其形及染付から永樂の產と認定せられるものであつて、此兩者が類型であるから特に二つ並べて其底部を寫眞に取り、底の相違せる處を示したのであるが、寫眞が不鮮明なのは遺憾である。第4圖靑花靈芝蘭花小牒之は成化の年款を示す爲に裏を寫したのであるが、見込に靈芝と蘭とを畫き、其上に三日月が描いてある。問圍には三角形の中に波を重ねた模樣を畫き、外側は蓮花唐草が畫いてあるが、胎土は白く滑膩で、釉は玉のき光如澤と和か味とを有つてゐる。染付の色は淡く幽邃の內に深味と華やかさとがある。第5圖靑花魚藻文等把盃(成化窯)淡き灰靑色の染付で外側に魚藻文を、見込にはメタルの中に螺旋形の波濤に螺殼を、而して脚には岩と波とが筆先の利いた線を以て描かれてゐるが渲染はない。此盃には西紀一五三〇年に歐洲に於て造つた銀の裝飾具が口と臺とに付けてある。一五三〇年は明の嘉靖九年に當り成化の末年を去ること約五十年であるが、比較的早く歐洲へ渡つたものである。此盃は民窯であるから年款は無い。第6圖靑花演〓文花瓶所謂截筒形の瓶であつて、比較的長い其胴に美くしい淡靑色で芝居の光景が畫いてある。大將が二人の文官を接見してゐる處であるが、陣太鼓、靑龍刀劍戟等が林立してゐる、尤もこれは何か歷史上の故事であらうが詳しいことは分らない。只大將の頭上に長い山鳥の尾が二本立つてゐるのは支那の芝居にある武將の型であるから芝居の光景かと思ふのである。尙ほ頸には菊の唐草が畫いてある。此瓶の畫は主として線を以て畫かれ而かも筆がよく立つてゐる。民窯であつて年款は無いが成化の產と云はれてゐる。·底は露胎で平底に近い。.m.直徑二六c.第7圖弘治窯黃地靑花果花折枝文等皿ち、染付스
七、染付124一帶に黃釉がかけてあるが模樣は染付で畫いてある。見込に一本の花の折枝を畫き、其周邊には、葡萄、石榴柿蓮花の折枝を畫いてある。外側には花の折枝が唐草の樣に連結してある。底裏銘は双圈に大明弘治年製の六字款が染付で書いてある。此皿の染付の色は黑ずんだ靑である。第8圖正德窯黄地靑花果花折枝文等皿直徑二九·三c.m.前記弘治窯の皿と類型の皿であつて、黄地に染付で同じ樣な模樣が描いてある。卽ち見込には中央に花枝を、其周圍には柿、茘枝、櫻桃及桃の折枝を畫き、外側には樣式化せる蕃蓮が畫いてある。而して底裏に染付で大明正德年製の六字款が双圈內に畫いてある。器形も模樣も弘治窯と大同小異であるが、皿の姿及描畫共に弘治窯に比すれば力が弱く見劣りがするのは時代の相違である。而かも此兩器の作られたのは恐らく僅か十年か十五年の差であらう。第9圖染付高砂手花瓶高約八寸古來我邦の茶人仲間に珍重されてゐる花瓶であつて、頸の兩側に男女の像が描いてあるので之を尉と姥に見立てゝ高砂手と云ふ。我邦に六七點類型のものが發見されてゐるだけで、支那には一つも殘つてゐないと見えて未だに破片一つ發見されてゐない。或は曰くこれ我邦よりの註文品ではなからうかと。或は型物の香合の如く註文品かも知れない。從來此種のものは時代が成化頃だと一部の磁學家に唱へられてゐた。其理由とするところは主として畫があつさりしてゐるのと染付の色が淡いと云ふことに在つた樣だ。然しよく見ると染付の色調は淡いが、成化よりは寧ろ囘靑を使用した嘉靖萬曆の民窯に近く、且其作行は鈍重で成化とは認められない。矢張り萬曆頃の註文品と見るのが妥當かと思ふ。第10圖萬曆窯靑花鍾馗追鬼圖皿直徑十一·八吋底裏に染付で萬曆の六字年款があるから萬曆窯であることは間違ないが、ら或は萬曆末期の產かも知れない。此圖柄は寧ろ天啓窯に相應するか第11圖古染唐子遊び模樣皿直徑八吋我邦で古染と云ふのは凡そ明の中期から明末頃迄の間に造られた染付を指稱するのであるが、今此に圖示する皿も其手である。民窯の雜器だから年款は無いが、西洋磁學家は萬曆の後、明の末年までの間に造られたものと考定してゐる。先づ其邊の品であらう。めくら鬼とか云ふ遊〓らしいが、誠に罪の無い愉快な畫である。第12圖康熙窯靑花氷梅文有蓋罐商十分康熙染付の典型的のものとして英人の最も喜ぶものである。云はれ、十九世紀末頃英國に於て數千磅を以て取引せられた。ち、染付然し其發色の理想的のものは實に稀少であると大抵は銀灰色か暗晦に傾くのが常である。これ〓
七、染付合は早春池に氷が張り詰めてゐるのに旣に其上に梅花が綻びてゐる處を描いたもので、一說に新年に之に種々の珍らしい菓子を容れて重臣等に下賜せられたものだと云はれてゐる。英人の之を喜ぶのは、其染付の色が本文にも說ける如く、幾重にも層次を爲して鮮活〓麗なる碧玉の樣な美を呈してゐるからであらう。13.宣德窯靑花五彩石榴花纒枝文等盤(ライデマスター氏著明代の磁器による) 14.靑花五彩酒瓶(ホブソン氏等著支那の窯藝による)一五八、赤繪
八赤無1六15.靑花五彩八吉祥纒枝牡丹獅子文等酒壺16.五彩纏枝牡丹獅子穿蕃蓮花鳳凰文等皿(同書による) (チンメルマン氏著コンスタンチノープル故宮の磁器による) 17.礬紅地金彩八角胡蘆瓶18.藍地漏空金彩牡丹孔雀文水注(チンメルマン氏著コンスタンチノープル故宮の磁器による) 1(〓八、赤無
21.隆慶窯靑花五彩花卉龍文四方瓶19.嘉靖窯靑花五彩蓮花魚藻文等壺八、赤八、赤繪(ホブソン氏著明代の磁器による) (ホプソン氏等者私人蒐集の支那磁器による)繪20.綠地金彩纏枝牡丹文碗x八八(ホブソン氏著支那陶磁による)云22.萬曆窯靑花五彩外花果折枝內花鳥風景等長方盒(ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による)
23.萬曆窯靑花五彩花果折枝正面龍文等水注(ホブソン氏著明代の磁器による) 25.萬曆窯靑花五彩騎牛人物等碗八、赤八、赤(ライデマイスター氏著明代の磁器による)繪繪※一八一一九〇26.萬曆窯藍地堆花魚藻文碗(ホブソン氏等著私人蒐集の支那磁器による) 24.萬曆窯青花五彩蓮花水禽文等魚缸(アシユトン及グレー兩氏著支那の美術による)
28.古赤繪唐子遊圖壺27.吳州赤繪香合(大小四種)八、赤八、赤繪繪(ラツカム氏等著支那の美術による) 29.吳州赤繪麒麟文大皿一三(吳須赤繪圖鑑による) (吳須赤繪圖錄による)一八八
32. 30.八、吳州赤繪玉取獅子鉢の底裏天啓窯靑花五彩菊花文等皿八、赤赤繪繪(第十二圖參照) 33.吳州赤繪牡丹文壺31.古赤繪網手蟹及小魚模樣小皿一〇(雄山閣陶器圖錄による)一四
バ赤無1RK 34.康熈窯五彩梅花小禽等花瓶(ホブソン氏等著近代の支那磁器による) 35.康熙窯五彩蓮花翡翠文皿(ホブソン氏等著近代の支那磁器にによる) 37.雍正窯粉彩花鳥文瓶(ホブソン氏等著私人蒐集の支那磁器による) 36·雍正窯粉彩牡丹胡蝶文皿(ホブソン氏著近代の支那磁器による)バ赤無1九七
八、赤衆1元八39.雍正窯粉彩玲瓏磁燈籠38.雍正窯粉彩貴婦人逍遙圖皿(ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による) (ホブソン氏等著私人蒐集の支那磁器による) 41.乾隆夾彩瓢文胡蘆瓶(雄山閣陶器圖錄による) 40.乾隆窯梅花文茶壺(ホブソン氏著近代の支那磁器による)八、赤程15
44とら宣德窯孔雀綠地皿底裏銘乾隆窯花鳥詩句等八こ(ホプソン氏著近代の支那磁器による)起八、赤八、赤徳年奥大明宣(プルエト氏著明代の磁器による)繪繪有事務管理事業本部基礎電話(無駄本社)〓〇〇000 45宋赤繪碗底裏(第九圖參照)耳其のみ焼き、にて、(40%)、
八、赤繪10°大明隆慶年造(雄山閣版陶器圖錄による)大明萬曆年展明〓代年欵銘46.年製八赤繪赤繪の技法と宋代の赤繪我邦の赤繪のことを支那では五彩、加彩、釉上着彩等と云うてゐる。我邦では又之を釉上着畫と云ふ人もある。何れにせよこれは一旦强火釉をかけて本燒した器皿に軟火釉を以て黃綠紅紫等の色繪を着け、再び之を低溫の火熱によつて燒付けたものである。此軟火色釉の燒付けに用ふる窯は明爐、暗爐と云うて我那の錦窯に該當するものである。明爐は小器に用ひ、暗爐は大器に用ふる爐である。赤繪には染付のある器皿に上繪付けをしたものと、染付のない白磁に上繪付をしたものと二通りある。染付のあるものに上繪付をしたものゝ方がそれだけ手數がかゝるのだから上手であるが、然し既述の通り赤繪が美くしく見ゆる爲には、本燒の釉が白色の强きことを要する故に特殊の釉を用ひて、釉を失透性とするのであるが、斯くすると染付の色が掩はれて少しも現はれぬことになる。されば染付の色を鮮かならしめんが爲には釉の透亮ならんことを欲し、赤繪の美しからんが爲には釉の失透性の强からんことを欲し、所謂ヂレンマに陷る八、赤繪100.
人、赤繪20mから勢ひ釉は餘り透亮でもなく、又失透でもない中間の性質となり、其結果として染付も赤繪も共に理想通りの鮮麗さが現はれないことになる。染付のない赤繪のみのものは之に反して地の白釉も思ひ切つて理想通りに白玉の樣な純白色を出せるから、赤繪も亦た目のさめる樣な美しさとなるのである。支那に於ける赤繪の技法は宋代に創まる。金の年號である泰和元年の黑書のある盗が發見されてゐる。泰和元年は支那では南宋の寧宗の嘉泰元年に當り、西洋では紀元千二百一年であつて今から約七百四十年前である我邦で柿右衞門が初めて赤繪を燒いたのは三代將軍家光の時代で正保頃と云はれてゐるから、約四百年支那より後れてゐる。尙宋代の赤繪は其技法頗る勝れたものであつて南宋時代の北支那卽ち當時金によりて占領せられてゐた地方で創製せられたとは信じ難い。恐らく更に古く溯つて北宋時代に其起原を求むべきであると考へるが未だ其確證が發見されない。或專門の書に金の泰和元年の黑書ある宋赤繪の盗が直隷(今の河北)省の鉅鹿から出土したと書いてあるが、之は甚しき誤である。鉅鹿が黃河の大洪水の爲に地下一丈八尺の下に埋沒したるは既述の通北宋末の徽宗皇帝の治世である大觀年間のことであつて其後何時とはなしに此地の地下に斯る都會が埋沒してゐることも忘られてゐた。然るに民國何年であつたか偶然此地の地下に種々の品物が埋沒してゐることが分り其後種々の器物が出土した。右の如く此地が埋沒したのは北宋の末であるから(西紀千百〇八年)其後百年に垂んとする金の泰和の年號のある器皿が此地から出土することは有り得べからざることである。宋赤繪の種類は皿と盗とが比較的多いが其他壺、瓶合子、把盃等々種々の器皿がある。此他羅漢、壽老人、婦女、童子等の人形や猿羊等の動物の小像もある。而して器皿に描いてある所謂赤繪には花卉が多いが、其他鳥、獸魚風景、唐草、吉祥文字等々もある。宋赤繪の色釉は赤と綠とが多く、時として黃色も用ひられてゐるが先づ此三種位である。色は赤の如き非常に艶美なものから、暗赤色鈍紅色に至るまで種々の段階があつて一樣でない。綠色は鉛釉を多く含む關係から多くは變化を受けてかせてゐる。中には所謂銀色を呈する物も少くない。筆勢は輕快にして非常に藝術的な手法のものもあるが、亦た鈍重にして稚拙のものもある。宋赤繪の產地は北支那就中磁州系統のものが最も多いが、洋人は江蘇系のものあることを說いてゐる。要するに宋赤繪の產窯は未だ確認せらるゝに至らないが、獨り磁洲窯のみに限らず、又北支那のみに限らず、恐らく江南地方にても燒かれたものと思はれるが、其詳細は將來の〓究に俟たねばならぬ。又時代の如きも所謂宋赤繪と稱するものゝ內に或は元明代に下る者をも包含する恐がある。就中模樣の繁細なる者は〓ね時代の下るものと考へうれてゐる2、明代の赤繪元代の赤繪は未だ確認されてゐないが、然し種々の點から見て凡そ宋代よりは新らしく明代よりは古いと認められるものがあつたならば元代と考ふべきである。明代になると染付の流行と共に赤繪もまた大に造らるゝに至つた。其產地は大部分景德鎭であり、他の諸窯については詳ならざるものが多いから、勢ひ景德鎭の赤繪を主として說く次第である。然し明代の初期から中期迄卽ち洪武永樂宣德から成化弘治正德頃に至る迄の赤繪八、赤繪二〇
八、赤繪10kは寧ろ稀少であつて見る機會が甚だ少い。之に比すると嘉靖以後は非常に多く、殊に萬曆以後〓代末迄の赤繪は市場に汎濫してゐると云うても過言ではあるまい。尙ほ明代五彩の釉と其呈色劑とについては、釉の項に說いてあるから再說しない。洪武年間の編述である格古要編を見ると、當時景德鎭窯に五色花なるものがあつた。然し俗なりとして賞玩せられなかつた。又靑黑色餓金の者があつた。多くは酒壺、酒盞であるが愛すべしと記してある。後者は金爛手で恐らく當時用ひられた蘇麻離靑を以てせる濃紺色のルリであらうと思はれるが、今洪武時代は勿論永樂時代の五彩も金爛手も見ることは難い。宣德時代の五彩については文献から云へば博物要覽に漏空花文塡花文、五彩實塡花文、塡畫藍地五彩等の各坐墩があつて華やかなること雲錦の如く絢艶目を悅こばすとあり、罩葢の扁罐、蜜食の桶罐等は大抵五彩で甚だ美麗なりしと記してある。其他項墨林の歷代名磁圖譜にある積紅朱霞映雪魚耳彝爐、積紅龍文宮碟、積紅す笠杯等は五彩であらうと云はれてゐるが、何分此等の名器は一點も殘存する物が發見せられてゐない。且又宣德時代の五彩と認められる器皿は眞に稀少であるから今其特色の詳細を叙述することは困難であるが、筆者の偶目した一二の例と磁學家の說とを綜合すると、宣德の五彩は器形作風は染付の項にも述べた通り一言以て之を掩へば重厚であつて、五彩も亦た之に相應して大まかな圖柄が多い。尤もこれは盤鉢等稍大形の器皿の場合であつて把盃、盡、盗等の小器に在りては必しも此規矩を以て律する譯にはゆかぬ。宣德赤繪の確實な器皿は非常に稀少なものであつて、我輩の偶目したのは前後只二點のみである。今當時の今當時の記錄を見ると、-其一は直經九寸二分、高一寸八分五厘、而して高臺の直徑が六寸三分もある聊か厚手の堂々たる盤であるが、其釉は半ば失透性の白釉で前述の如く染付を掩はぬ程度に組成分を加減してあることがよく看取せられた。其理由は此盤の口緣に側うて細楷で大明宣德年製の六字款が一行に橫書せられてあるからである。然し夫れにも拘はらず此染付の年款は聊か色が淡くなつてゐるのは已むを得ないことである。上繪付は卽ち見込中央に石榴、見込の周圍に櫻桃、柿桃茘枝の各折枝を畫き、外側には蕃蓮を大まかな唐草で畫いてある。此釉上着畫は皆赤紅色一色であつて只輪廓及葉脈等には濃き紅を使ひ、渲染には稍淡き紅を用ひてある。而して此盤の特色の一は高臺の內底に掛釉せず、而して其無釉の部分が一面に淡紅色に汚れてゐることである。これは出土品によくある埋葬當時の朱色の汚れかと思うてゐたが、近頃「ブランクストン」氏の著書を讀むと、宣德代の銅呈色の紅色器皿の高臺の生地に所々淡紅色の汚れがあるのを以て仕上げの過程中に外側にかけた銅呈色の釉が幾分高臺に流れ込むによるものであらうと述べてある。此事は尙ほ將來の〓究間題である。此盤は紅赤一色であるが如何にも宣德と云ふ時代に相應する豪華の氣分に滿ちたものである。他の一は把盃卽馬上盃であつて、染付で盃の外側に波濤の間に出沒する怪獸を畫き、波濤は紅色で畫いてある。而して見込の中央に染付で二重圈の中に宣德の六字款が畫いてある。脚の底は塞いでベタ底になつてゐて底裏には掛燒してない。此方は小器で釉も薄く染付も割合に鮮かでない。此他「デヴヰツド」卿の圖錄に二三の例が擧げてあるが皆信ずると云ふ譯にはゆかぬ樣だ。人、赤繪201
八、赤繪こい明代弘治正德等に行はれた黃色の地釉を用ふることは宣德の創製だと云ふ說がある。例へば右兩窯に類型のある(第7及第8圖)黄色地に染付で花卉折枝を晝き、外底に無色の釉をかけた下に染付で年款を記入した皿も宣德窯にある。又第十圖黃地に染付で朝顏を描いた花瓶も當代のものである。支那の書を見ると、宣德の五彩は深厚堆垜で鮮麗を極め、成化の五彩が瀟酒典雅で粹な氣の利いた水彩畫風であるに對して、宣德の五彩は濃厚に顏料を盛上げた油繪風のものであつたと云ふのが通說である。然し宣德の五彩が後世の上繪付の技法による五彩のみを指稱したものか、或は又三彩風のものをも併稱したものか判然しない。明代に於ては未だ三彩と云ふ名稱はなく、三彩も五彩も等しく五彩と稱してゐた樣だから、前記塡五彩又は五彩實塡と云ふものも其名稱から考へて恐らく三彩風のものであつたであらう。其他明代の文献に宣德の五彩として揭げある器皿は大抵三彩であつたであらうと云ふ說がある。然し赤紅の色は三彩では燒けないと云ふのが此說の弱點であつて、要するに銅呈色の赤紅色にあらざる赤紅色が使用してあれば、宣德窯でも釉上着畫であることは疑ない。又他方から考へると、宣德の赤繪には必ず相當に纎細巧緻のものがあつて決して悉くが深厚堆垜と貶稱せらるべきものにあらざることは宣德染付の用筆を以て略ぼ推側できる。然し乍ら宣德其ものが大體に於て成化に比して尙ほ渾朴の氣象に富んでゐたことは時代の風尙が然らしむるところであるから否定できない。卽ち釉上着畫にも自づから顏料を驅使する上に於て濃艶のものがあつたことは當然であり又前記盤の例でも分る。之を以て成化の瀟洒典雅、時としては輕妙酒脫なのと比較するときは、其間に著しき差別のあることは認めざるを得ない。然し優劣の論になると必しも成化の瀟酒典雅が優つて宣德の渾厚朴茂が劣つてゐるとは斷定し難い。蓋し水彩畫と油畫との優劣好惡と同じ理であると思ふ。正統、景泰、天順の赤繪は確實な標本は本邦にも外國にも未だ發見されてゐない。成化窯の赤繪は明代の赤繪中最も勝れたものだと云はれてゐる。然しこれは主として明末頃の評であるから當時の風尙に適したことが其最も有力な原因であつて、從つて一〓に此評のみを盲信することは不可である。前述の如く成化の五彩は宣德の深厚堆垜に對して瀟酒典雅であつて、或は色を用ふるに淺深頗る畫意ありと評する者もある。又前陳の通り明末頃最も尙ばれたのであるが、萬曆年間に神宗皇帝の尙食御前の成杯一雙の値、錢十萬と云はれたのも五彩の杯であつた。成化の五彩は明代既にかく貴重であつたから今日極めて稀少なのは當然であるが、成化の五彩は染付中最も見にくいと云はれてゐる成化の染付よりも更に見難いものになつてゐる。項墨林の歷代名瓷圖譜には成化の五彩が相當に載せてあるが、今見られるものは殆んど一つも無い。而して其內で若干のものは一見三彩風の感じがあるから、宣德窯の項に述べたと同じ樣に三彩であらうと云ふ說があるが、此說にも宣德の項に述べたと同じ弱點がある。成化窯五彩の器皿にして支那の文献に見ゆるものは葡萄撤口扁肚把杯、雞缸杯、鵝缸杯、草蟲杯、齊筋小碟、胭脂合等であるが何れも染付と同じ胎土作行であつて頗る薄胎で、姿が粹で、畫は纎細巧妙である。これ當時高名の畫家をして之に畫かしめ、且彩料精なるが爲だと云はれてゐる。八、赤繪二八鵝缸杯、草蟲杯、齊筋小畫は纎細巧妙である。これ二八
八、赤繪三〇五彩の成化窯の例は甚だ少く我輩の如き前後只二例を見たに過ぎない。其一は雞缸盌であつて、杯と云ふには大に過ぎ、〓としては小形である。胎土は甜淨堅緻だが高臺が細いから甚だ見にくい。釉は玉の如くで光澤がある。之に染付で岩と椿の樣な花木の葉の一部と雲とを畫き、赤、黄、綠紫黑等の硬彩を以て雌雄の親雞と數羽の雛とが畫いてあり、又月と椿の花とは赤、椿の葉の一部は綠、蘭は黄に塗つてあり、染付で盌の口邊外側に帶狀に花卉文を、高臺の外側に二條の線を、而して器底に長方形の二重線の中に大明成化年製の六字款を二行に記してある。見込は白釉のみで文樣は無かつたと記憶してゐる。他の一は民窯で第十一圖に揭ぐるものである。其解說は後述する。此他、日常散見する成化銘の五彩器皿は必しも稀少ではないが、然し首肯し得べきものは未だ出會つたことが無い。成化窯には鬪彩を用ひてあり、鬪彩は五彩とは全然別であると說く者もあるが、其技法は如何に異るかを說明しない。然し支那の磁學家は鬭彩、豆彩、逗彩等皆同じものであつて同音の轉訛である。而してこれは豆靑色が多く使用せられてゐるから豆彩と云うたのを、同音の爲め色々に訛つたのだと云うてゐる。此說の方が正しいと思ふ。此說によれば、闘彩は卽ち豆靑色が多く使つてある五彩と云ふ意味になる。尤も成化窯の綠色は靑味の多い〓亮な綠色で極めて美くしいことは事實だから之を何か特異の技法と考へたのであらう。西洋磁學家は此綠色を以て成化の特色と考へ以て鑑別の一要點としてゐる。弘治時代は政府が民力休養に專念したから燒物は多く作られず、又作つても良き品は出來なかつた。當代の繪は殆ど見當らないが黃釉をかけた器皿が流行し其色も一樣でなく或は熟した栗の如しと云ひ、又葵花が初めて開いたときの色と形容してゐる。又五彩も稀にあるが黃地錐花綠彩趕珠龍高足盌、又は黄地靑花果花折技盤の如く大抵黃地のものが多い。尤も稀には五彩龍文盛の如きものもある。正德窯は殆ど弘治窯の延長と云ふべきものであるが、政治が亂れ江西地方に反亂が起つた爲に弘治から引續き燒成は餘り行はれなかつた。此等の原因から大體正德窯の現存する者は少く就中五彩は殆んど見當らない。只黄地靑花の器皿が間ま見られる。これは染付の器皿に上繪付の技法によつて黃釉をかけたものであるから、所謂赤の無い赤繪である。又稀に黃釉の外に綠釉を用ひたものもある。嘉靖窯は治世も長きに亙り、殊に中期以後は大量生產を行ひ且鮮紅の器皿に代ゆるに礬紅卽ち赤繪を以てした關係もあつて、當代の赤繪は必しも稀ではない之を萬曆窯に比すればまだまだ少い方だが、それでも器式模樣を列擧して一々說明することは到底限られたる紙數の能くするところでないから、之を專門の書に讓り、此には只其大要と二三の例を擧ぐるに止める。五彩卽ち赤繪には染付と赤繪と組合せたものと、染付は無くて只だ赤繪のみのものとあることは旣述したが、當代になると此他種々の色釉の組合せがある。試に其數種を擧げると。イ、黃釉の上に礬紅色を加へたもの、例へば方形の盌に外部に紅地に黄及綠色で魚藻を畫き、見込に黄魚、內緣に綠色で唐草を畫いたのがある。これは一旦內外全面に黄色を塗り、其に更に紅色を部分的に塗つて處々黄地を塗り殘したものである。紅地に綠色の模樣あるもの、例へば光澤ある鐵呈色の紅地に綠色で獅子を現はした皿。八、赤繪三又は黄地靑花果花折技
八、赤繪三ハ、右と反對に綠地に紅色の模樣あるもの、例へば內外に紅綠で龍を現はし、緣は白色で之に渦狀文を紅色で連ねてある盤。ニ、染付で蓮を畫き、地に綠釉をかけ之に紅色を加へてある瓶。又綠地の代りに黃地のものもある。木、孔雀靑と茄紫との組合せ。例へば龍の暗花があつて之に孔雀靑と茄紫とで彩色が加へてある合子。此他尙は靑地(又藍地と云ふ所謂ルリなり).黃地、綠地、紅地、紫地等の器皿がある。此等にも暗花のある者と無いのとある。又堆花(我邦の餅花手)のあるものもある。尙ほ此種のものは大抵單色釉をかけたもので所謂單色磁に屬するが、旣述の如く一旦白釉をかけて本燒せる上に此等の色釉をかけるのが定石であつて、此場合色釉は下の白釉を反映して色が淡くなるが光澤は强くなる。之に反し一旦素燒にした上に色釉をかけたものは色は濃くなるが光澤が少く汚れて見える。嘉靖窯の器式には、尊、爵其他古銅器の仿造品、瓷磚、碗碟盤茶鍾、酒鍾、酒盞、有蓋無蓋の各種の罐魚缸、金、譚、〓〓〓膳碗、磐口〓、各樣の瓶、水注、水丞、醋注.植斗等があつて、此內五彩の器皿を全然造らなかつた器種は恐らく無いであらう。模樣も繁多であるが植物、動物、神話的怪物、人物、神仙、風景、記號等に分類して其名稱の大要を列擧することゝする。(植物)壽山福海の字を捧ぐる天花、四季花、牡丹、花草、菱、萬花藤、松竹梅、團花、西蕃蓮、結子蓮、轉枝寶相華、同蓮、靈芝、水藻,回々花等。三緣は白色で之に渦狀文を紅例へば內外に紅綠で龍を現はし、瓷磚、水注、碗碟盤水丞、醋注.茶鍾、酒鍾、酒盞、有蓋無蓋の各種の植斗等があつて、此內五彩の器皿を全人物、神仙、風景、記號等に分類して其名稱の大要を列擧す牡丹、花草、菱、萬花藤、松竹梅、團花、西蕃蓮、結子蓮、轉(動物及神話的怪物)龍(趕珠、控珠、昇降戯龍、飛龍、博古龍、圖龍、出水龍、雲龍、蒼龍等の種類がある)、鳳凰、鸞雀、孔雀、獅子(蒼獅、飛獅等がある)、鶴、鯖舶鯉〓三陽開泰(陽は羊に通ず)、等。(人物神仙)要娃々、要戯鮑老、八仙過海、八仙捧壽、江下八仙、三仙鍊丹、二仙、群仙捧壽等。(記號)乾坤六合、八卦、八寶、八吉祥、如意頭、文字。(風景)巴山出水、波濤薑芽等。此他古錦の模樣から取つたものが少くないと云はれてゐる。隆慶窯は染付の項に述べた通り只一囘の燒造に過ぎないから染付も少いが、五彩は尙ほ更ら稀少である。第21圖は其稀少なるものゝ一であるが、大體嘉靖末期の器皿と大同小異の作風であつて、之を嘉靖の中期頃の製に比すれば相當に品質低下するを免かれない樣だ。當代の模樣には前代に見えないものが文献に見える。其名を擧げると朶々菊花、玉簪花、長春花、貫套海石榴、芙蓉花、喜相逢翟雉、朶々雲龍、靑鴻〓、人物故事、八仙慶壽、板枝娃々、四季花捧乾坤〓泰字、淡海水、飛魚、紅九龍、梭龍、曲水、海水獸等であるが、此等の內には恐らく前代已に用ひられてゐる者も包含してある樣だ。これ前代の記錄が不完全の爲であつて止むを得ない。萬曆窯は治世も長く世相も初と末とでは著しく變化したから、器皿の作風も可なりの變遷がある。加ふるに中期以降大量生產と粗製濫造との爲に苦んだ此等の事情と作風の變遷、器皿及模様の種類を詳細に說明することは本書の能くせざる處であるから之を專門の書に讓り、此には只大要を略述する。八、赤繪二三圖龍、出水龍、雲龍、蒼龍等の種類があ鯉〓三陽開泰(陽は羊に通ず)、等。三仙鍊丹、二仙、群仙捧壽等。二三
八、赤繪二番萬曆の初政は善政が行はれたから器皿の燒造數は少いが優秀であつた。然るに廿餘年頃から秕政の爲大量生產から粗製濫造に陷つたのであつて、五彩の如きも亦た此時代の變遷により影響を受けたのは云ふ迄もない。萬曆窯の五彩は染付と釉上着彩との組合せが最も多く、之が爲に後世此種の者を萬曆五彩又は萬曆赤繪と稱するに至つた。萬曆五彩に用ひられた色釉の種類は、多少色調の變化はあるが大體前代から使用されたものゝみであつて、只唯一の例外は眞の藍靑色釉卽ち染付と同じ色のコバルトを色料とした上繪付の釉である。此色釉は〓代に於ては盛んに使用せられて少しも珍らしくないが、萬曆に創製せられたものであつて當代之を用ひある器皿は甚だ稀少である。萬曆色釉の色調につきて磁學家の說を綜合すると左の如くである。綠色、濃淡の二種がある。翠綠色又は翠靑色、これ從來用ひられた靑藍色に最も近き上繪付の色釉である。黃色、混濁せる稍褐色がゝつたのが多いが、又淡き明快なのもある。蓋し前者は素燒の上にかけたもので、後者は白色强火釉の上にかけたものである。紅色、トマト色を呈し屢〓虹彩がある。これ礬紅色であつて其光澤あるは鉛釉の爲である。褐色、マンガンを主成分として光澤が無い。多く描線に用ひられ、又此上に綠釉をかけて綠黑色として用ふる。茄紫色、前代と異らない。前代と異らない。右の如く萬曆窯に使用せる色釉は其種類に於て大體嘉靖.隆慶窯と大差が無かつたが、然し器式及模樣が繁冗複雜化するに從ひ此等色釉を使用する上に於て勢ひ其の配合及組合せの種類も益複雜多岐となつた。而して所謂赤繪の內に染付のあるのと無いのとあるが、染付のある者の內にも只一色のみの色釉が使用してあるのもある。例へば染付で龍を描き雲を黄色に彩つたもの、赤玉又は綠地金襴手の盌の如き是である。然し大多數は少くとも二種以上の色を帶有するのが普通で、此種の主なものを擧ぐれば左の如くである。イ、染付に釉上着彩の綠、黄、及紅色を併用せるもの、萬曆赤繪の内で比較的最も多いのが此手である。厚手で粗笨の花瓶、硯、筆架.方尊形の花瓶.水注、盤等に其例がある。染付の外に釉上着彩の綠、黄.茄紫、紅、綠黑等當代色種の大部分を用ひたるもの、澤の無い褐色又は赤褐色で線描を行ひ、之に色釉を塗つてあるが、壷、罐瓶盤、盌、る。只粗笨のものが多い。底裏の年款のみ染付を用ひ、繪畫は總て釉上着彩を用ひたるもの。ひたるものが多いが中には紅綠二色のみのもある。此他嘉靖窯に說きたる如く、ある一種の色釉を地色として之に他の彩色を加へたものがある。其種類を述べると左の如くである。イ、黃地五彩のもの、ロ、黃地染付のもの、八、赤繪二此種は多くは光碟等に其例があ此種の者は紅黃綠の三色のみを用其種類を述べ二
八、赤繪二六ハ藍靑地黃花のもの、ニ、紅地染付のもの、ホ黄地染付に五彩のもの、ヘ、褐黃地紫花及染付のもの、ト、染付五彩及素三彩を混用せるもの、此地に尙ほ褐色、黃色、紫色、綠色、藍色、黑色等の單色釉をかけた器皿もある。器式及模樣は嘉靖窯よりも更に繁多であつて例へば抔繫半邊胡蘆瓶、屏、藥台、燭台、棋槃筆冲、香奩檳榔益、冠益、巾盡.扇匣等の者が作られた。又模樣の如きも動物には蹲龍、正面龍.昇降龍飛糸龍.百龍異獸、朝蒼龍、團螭虎、昇轉雲龍、白龍、麒麟寶象、百鹿、百鶴、六鶴乾坤、四陽捧壽。花卉草木には一杷蓮、萱草花、結篆壽字外蟠桃、海石榴、葡萄西瓜瓣、年鐙等。人物には團座板枝娃々、百子圖、神仙等。雜には雲錦、松文錦、錦地、山水、河圖洛書、詩意等。記號には火焰寶珠、陰陽、八卦、方勝、結帶八寶、結帶如意.邊如意雲、壽意、八寶瓔珞、古老錢、篆梵字、壽帶花等がある。器式及模樣は、當代の作は大體作行が薄手で繪付が巧妙なものと、作行が鈍重粗笨で繪付が亂雜なのと二種ある。前者は勿論初期から中期迄の製で、後者は中期以後の作である。尙ほ金彩は嘉靖窯にも萬曆窯にもあるが、多くは貼金卽ち箔を貼手せるもので、描金卽ち金泥を以て描いたものは稀である。偶々之あれば僞が多いやうだ。二六描金卽ち金泥を以て描いた天啓窯の器皿は海外には稀少だが本邦には比較的多い。五彩も相當にある。然し盌と皿とが多く、瓶罐等は少い。繪は染付の場合と同じく奇怪なものが多く、當時の世態を偲ばしむるものがある。然し其赤色の如き尙ほ優れた色調であつて、染付の色及釉と相俟ちて一種の美觀を呈してゐる。其グロテスクなる繪もまた面白いとて非常に之を喜ぶ人もある。これ鹽辛、このわたが酒客に喜ばれるやうなもので、一種の趣のあることは事實である。崇禎の銘款ある赤繪は殆ど見掛けないから說くに及ばない。3、〓代の赤繪〓代の官窯の赤繪は事實上康熙に始まる。而して康熙の始め十數年間は殆ど赤繪を燒いたことは無かつたと察せられる。其後康熙の末年迄約四十五六年間を前後二期に分ち、康熙四十年頃迄を前期とし其後を後期とするのが定石である。前期には尙ほ明代の影響を受け且國家勃興の氣運もあつて、作行は形狀模樣共に堂々として豪快なるものが多い。然るに後期になると姿は漸次薄手できやしやになり、繪付も之に相應して纎麗典雅となり一般に雍正に近くなつてくるのである。上繪付の色釉は明代と大差ない。旣述の如く染付と同色のコバルト色の色釉が漸次使用せらるゝに至つたがニ〓八、赤繪旣述の如く染付と同色のコバルト色の色釉が漸次使用せらるゝに至つたがニ〓
八、赤繪二八康熙の色釉の特色としては、むらのある濃綠、美しき淡綠の兩色は、當代の特色である。其他マンガン呈色の紫色、種々の色調の黄色、褐色に綠釉をかけた黑色、及紅色が用ひられた。〓代の彩瓷は變化繁蹟、幾んど方物すべからずと云へる者もあるが如く、本書に於て其全貌を盡すことは固より不可能である。此事は康熙の彩瓷についても云へることであるが、大體に於て康熙の彩瓷は硬彩が主であつて何れも色彩が强い。軟彩は中期以後少しづゝ用ひられた如くであるが未だ雍正窯の如く甚しくはなかつた。而して硬彩就中藍綠の二色は堆起して厚くなつてゐて、歷年の久しき時に剝裂せるものがある。畫法について云へば人物は陳老蓮、蕭尺木に、山水は王石谷、吳墨井に、花卉は華秋岳に似てゐると云はれてゐる。但し官窯には往々敬謹の極用筆澁滯して興趣の無いものもある。染付と五彩との組合せもあるが、此場合には染付の發色がいつも惡い。西洋磁學家中或は之を以て此種の器皿には良質の靑料を使用せざりしものならんと云ふ者もあるが、これは恐らく明代の例に於けると等しく五彩を施す爲に釉の調合が染付のみの場合と異ると、上繪付の爲に再び窯に入れる爲に染付が明快なる色調を失へるとの二原因に歸すべきであつて、强ち染付の質が不良なる爲ではあるまい。尙ほ五彩と他の技法とを混用せるものがある。例へば珊瑚釉を一面に塗つた器に開光を設けて此內に五彩の着畫を施せるもの、吹靑又は染付の上に之と無關係なる五彩着畫を行へるもの、氷裂のある綠郞窯又は灰白色の器の上に五彩を施せるもの、稀ではあるが淡き靑磁釉の上に五彩を施せるもの等があるが、何れも效果を相殺し合つて邪道と云ふべきである。只此種の內で稍見るべきものは、淡き光澤ある南京黄と稱する褐色釉を地二八其他マンガン呈色の色として之に硬彩を施せるものであらうと云はれてゐる。雍正窯は軟彩の時代と云はれるが、康熙の末期頃から行はれた金を原料とする美しき紅色を主調とする所謂バラの手(famille rose)が其代表である。硬彩も亦た之と併行して行はれたが、既述康熙の末期の如く薄胎の極めてきやしやな器皿に淡き硬彩で繊細巧緻な畫を描いた。而して其染付と組合せの者は淡い染付で先づ纎細な素描を行ひ、之に透明〓淨なる硬彩を塗つたのであるが、其結果器皿は極めて洗練せられた典雅な趣を呈してゐる。蓋し其目的とする處は明代成化窯の仿造にありしものゝ如くである。此他嘉靖、萬曆兩窯の仿造の眞を亂るものあるは屢說するが如くであるが、尙ほ外に宣德窯の黄地靑花及礬紅の仿造も行はれた。バラの手に用ひられてゐる軟彩は一名粉彩又は洋彩とも云はれ、西洋から傳來せるものと云はれてゐるが、硬彩の透亮なるに對して失透性の粉釉であつて、其色は紅色の外諸色に及び、其色調の如きも粉釉の使用によつて硬彩よりも遙かに多數の段階が得られる便宜がある。當時バラの手は景德鎭に於て造られたる以外に廣東に於て盛んに造られて主に西洋に輸出せられた。此輸出品は白磁を景德鎭から廣東に送り同地にて繪付したのが多く、其繪付の種類も數種の型があつて一見して之を看別出來ると云ふ。景德鎭の官窯に於て造られたものは繪付も巧妙で且冗繁ならず高尙典雅であるが、乾隆になると甚しく手が込んで來て俗惡となる。雍正から乾隆へかけて造られた彩磁の内に一種古月軒と稱する者がある。之は其地釉が一種特別な白いガラスの樣な地であつて之に瀟洒な粉彩の色繪が畫いてある。古月軒については數種の異說があつて詳で無いが、ニ九八、赤繪
赤繪三二元と料製の巧妙な鼻煙壺があつて古月軒と稱したが、其地が如何にも美しいから景德鎭に於て磁器を以て之を仿造せしめた、これが古月軒だと云はれてゐる。此種の燒物は器底に靑色の堆料款で雍正年製又は乾隆年製の銘款があつて、其文字及外廓等皆定木で引いた樣にきちつとして毫末も歪つてゐないのが特色である、(古月軒の銘あるのは皆僞だ)。又其繪は纎巧の極致であつて且粹であると云はれてゐる。此等の條件に外れたものは皆僞物である。支那の批評家は雍正窯の彩繪を評して其花卉は純ばら憚南田一派に屬し、沒骨の妙は以て上徐熈に擬すべく、草蟲は尤も変々として神あり、蠅を誤つて拂はんと欲するに幾し。人物と山水とは則ち稍ゞ康に如かず。然れども先正の典型、猶ほ未だ之を墜さずと云うてゐる乾隆の着彩は硬彩は逼塞して稀少であつて殆ど悉く軟彩ならざるは無い。蓋し雍正に於ける流行が乾隆に入つて益〓旺んとなつた爲であらう。而して其色種の如きも雍正に勝るとも劣らざるべきは當然であるが、當代に於て特筆すべきは軟釉使用に關する技法に於て一段の進步を來したことである。それは卽ち西洋畫法に見る如く徐々に濃淡の變化を現はす爲に色を混ぜ合すことを創めた。之によりて花瓣の色に濃淡をつけたり、美人の顏に淡紅色で陰影を付けたり、又は岩石山岳等の凹凸を實景の如くに描くに至つた。然し當代の模樣は一般に華縟冗繁なのが缺點であつて「畫き過ぎ」の爲に反つて藝術的價値が失はれるに至つた。錦地開光や百花圖の如き其著しき例である。此の如き缺點はあるが、部分的に之を見れば畫法の精妙は之を前代に比して決して遜色が無い。故に之を賞讃する者は乾隆は大に錦地花を興し、泰西界畫の法を參入す。俗に之を規矩花と謂ふ。鏤金錯采、觀止を嘆ず焉。人物は細微にして毫髪畢く現はれ、翎毛は尤も工緻を極む。均しく古月軒を以て極致と爲す。則ち又蔣南沙、沈南蘋等と臂を把りて林に入る矣と評してゐる。但し乾隆は六十年の長き治世であつて而も康熙と違ひ初めから終りまで天下泰平で燒造を盛んに行つたのであるから、初期と中期と末期とでは相當に作行が違ひ品質が異るべきは當然である。卽ち中期に於て略ぼ絕頂に達した窯業技術は、其後次第に下り坂となり、末には可なり低下したことは既述の通りである。嘉慶窯は此乾隆窯末期の延長であつて、殊に其繪付は益〓拙劣となつたと云はれてゐる。或は嘉慶窯の畫手は最も俗であつて、次の道光窯に如かざること遠く甚しと酷評する支那磁學家もあるが、西洋磁學家は必しも斯く拙劣だとは云うてゐない。大凡乾窯の末期と區別し難いと論じてゐる。道光窯に至りて胎土及釉藥の原料が一段と粗惡となる。磁土は白堊樣できめが粗く、又釉は我邦伊萬里によくある如く繻子樣の光澤がある薄つぺらな釉となつた。然し其畫付殊に小點物の畫付は極めて巧妙なものがあつて、嘉慶を凌ぎて乾隆窯に迫ると云はれてゐる。卽ち支那磁學家は道光の精なる者は亦た改七〓、玉小梅の如し、これ蓋し一代の畫筆と一代の名手と相步趨す。故に其畫を一望して已に某期某代の器なることを知る也と評してゐる。又道光窯は大體に於て雍正窯を目標にせるものだと說く者もあるが、雍正窯に見る如き染付で和らかい釉をかけ、之に硬彩と軟彩とを併用して繪付をしたものがある。咸豐は長髮賊の亂の爲に御器廠は燒打されて燒造量も少く且見るべきものが無い。又同治には燒進する官窯器皿の品目があつて之を見ると其名稱は甚だ立派であるが其實物は粗劣で前代の面目は無いと云はれてゐる。然るに光〓に至りて反つて優秀な作を出した。これ蓋し此時に至りて景德鎭は長髪賊の亂に受けた打擊から漸八、赤繪三一
八、赤繪〓く脫却するに至りしものであらうと云はれてゐる。康熙の染付に仿へる巧妙なる者に付いては染付の項に說いたが、乾隆窯の彩繪人物に仿へる內に、至つて精なる者があつて乾隆窯と眞に紙一重の差があるのみである。斯の如きは道光窯を突過し之をして後に瞠若たらしむるものである。古赤繪、色繪祥端、南京赤繪、與州赤繪此等は大凡古染以下に旣述した染付の用語に相應する我邦從來の用語であつて說明の必要無き樣だが、一通り略說して置く。イ、古赤繪古赤繪とは古渡赤繪の略であつて、大約明代民窯の赤繪を指稱するものであるが、明の中期以前に溯る者は甚稀少であつて大抵嘉靖萬曆又は其後の者が多い。民用の雜器であるから作行も繪付も粗疏なのが多いが、染付の場合と同じく反つて藝術的興趣の饒かなものが少くない。此種の內には染付と組合せて赤繪の描かれてゐるものもあるが、中には染付が無くて赤繪ばかりのものも稀でない。殊に此種の者は近年南海から將來する昔の輸出雜器に多く、大抵皿盗か壺瓶の類であるが、中には陳文〓其他作家銘らしいものが記してあるのもあり、又時としては大明年造、嘉靖年造、宣德年造等の年款を朱書したのがある。然し此等の年款が果して信賴できるものか否か、其作行と照合すれば甚だ覺束ないものと考一通へo0へo0其眞の時代は恐らく嘉靖以前に溯るものはあまり無いのかと思ふ。大抵明末の作である。色繪祥瑞祥瑞風の模樣で五彩の上繪付のしてあるものを、昔から本邦で色繪祥瑞と云うてゐる。此等は大抵明末から〓初までの器皿で、中には康熙の作と思はれるものもある。眞實と認められる在銘品は未だ發見せられない。從つて今日では祥瑞風の模樣の五彩で明末乃至〓初の器皿と云ふことになつてゐる。南京赤繪南京の意義は染付の場合と同じく。もとは支那產の意味でありしならんも、今日では古赤繪と區別して〓代產の赤繪で民窯の器皿を指す名稱となつてゐる。二、吳州赤繪吳州の意義は染付の項に說いた通りであるが、此手で赤繪の者を吳州赤繪と云ふ。此內に染付と赤繪と併用せるものと赤繪のみのものとある。元來雜器で、主として輸出品であつたものだが、其內の或物卽ち赤玉の香合(第27圖)及玉取獅子の鉢(第十二圖)、菊竹、魁手等の鉢の如きは我邦茶人の愛玩する處となつて、何萬金の高價を呼ぶに至つた。而して大皿の如きは棄てゝ顧みられなかつたが、近年價格暴騰し一個數千金の者も稀でない。吳州赤繪の繪畫は其染付の場合と等しく一種グロテスクなのが特色であるが、其色釉中紅色の特に目の覺める樣な鮮かなのがあつて、其奔放自在な繪付の筆行と相侯つて大に鑑賞價値の饒かなものがあるから、雜器だとて馬鹿にはならぬ。吳州赤繪の時代は大凡明末から〓代の中期期迄と考へられてゐるが、此等優秀の八、赤繪三三大抵明末の作である。今日では古赤繪と區別して〓代
八、赤繪ものは恐らく明代の產であらう。二四赤繪圖版解說第四圖(原色版)康熙窯五彩梅花小禽文盌直徑七·四分ノ三吋洋人が綠の手と稱する康熙の赤繪である。梅花は紅、綠及靑の三色が塗つてあり、小島には黄、靑の二色と、羽の黑光りの處ヘマンガンと酸化鐵とを用ひてあるやうだが、梅花及鳥の靑は、染付ではなくて「コバルト」を軟火釉の五彩の色釉として用ひてある。內側口邊の帶狀文樣は所謂氷梅であるが、染付の氷の代りに綠色の硬彩が用ひてある。第九圖宋赤繪菊花模樣碗直徑四寸八分鈍黃灰色の胎に白土の化粧掛を施し、見込に紅綠の二色で菊が畫いてある。四本の環線、菊花及葉の輪廓竝に枝等黑く寫つてゐるのが赤色で色の薄い處が綠色である。枝と葉との描線の自由で流麗な處が生命である。第十圖黃地靑花牽牛花文龍耳瓶高五·五吋染付で朝顏模樣を現はし、軟火釉の黄色釉がかけてあるが、花と耳にはかけて無い。之と同じ形、同じ模樣の染付ばかりの瓶で其底裏に宣德の六字款のあるものがあるが、此方には年款が無いやうだ。然し同時代と認められてゐる。第十一國靑花五彩唐子遊圖壺高三寸一分染付と赤繪とで唐子遊びの圖が描いてある。胴繼ぎになつてゐて、其痕は外ばかりでなく內側にもよく見られる。高臺の削り方は內と外と稍斜に、疊付は平坦に、三刀に削つてある。土は白いが、黑いゴマ點が入つてゐる。釉は光澤があつて美しい。染付の色は淡いが描線は筆がよく利いてゐる。民窯の上手で年款は無いが成化時代であらう。第十二圖吳州赤繪玉取獅子鉢直徑六寸七分五厘茶道具中古來有名な種類で、內部周圍は八區劃に分けられ、交互に行平菱文地に綠輪郭の赤玉を表はしたものと、蓮とバラのごとき草花文樣とを對向的に描き、見込は染付で、獅子滾繡毬、卽所謂玉取獅子を表はし、外側は行平菱文地中に花鳥の香狭間と赤玉とを表はしてゐる。色彩は赤と綠とである。第2圖は此鉢の裏である。八、赤繪三三
八赤繪三六第十三圖色繪牧女三陽開泰圖瓶高十二吋半此瓶の肌地は所謂古月軒風であるが、それとはまた少し異つた象牙の樣な美しい肌地で之に色繪で牧女と三匹の羊とが畫いてある。羊は陽に通じ三匹の羊は三陽開泰とて吉祥文樣である。女の牧人は異常であるが、先づ女蘇武といふのであらう。而かもそれが花を簪し素足で立つてゐるなどは仲々面白い構圖である。我々日本人と異ひ支那では婦人の素足は甚だ意味深長な示唆的圖柄であるから、須らく其積りで鑑賞すべきである。三六第13圖宣德窯靑花五彩石榴花纒枝文等盤直徑廿三c.m.平たい圓形の盤で、下の方は少し締つて狭くなり、之に三つの雲形の足が付いてゐる。外側に染付で輪郭を描き黃、綠の二色で彩つた石榴花の唐草と一種の唐草文とがある。而して口邊の下に染付で宣德年製の四字款が橫書してある。原著者は香爐と書いてゐるが、香爐にしては形が異ふし、殊に大き過ぎるから矢張り水盤だと思ふ。第14圖靑花五彩酒瓶高十三吋酒海壺の形をした瓶で、染付で胴に八仙慶壽の圖を畫く。壽老人が岩に腰をかけて、其前に香爐を置き傍に鶴がゐる。八仙人は夫々の持物を手にして壽老人に敬意を表しに來たところである。周圍には岩石、松、雲等の山水を畫き、肩に大形の如意頭文を廻らして其各に蓮花一輪を中心とせる唐草を描いてある而して短い頸部に雷文を。稍長い脚部に立葉形を廻らしてある。地は一面にトマト色の色で彩つてあるのが此瓶の特異な點である。底は掛釉して無い。藥切の處は赤く燒けてゐる。此瓶は民窯で年款が無いが、正德頃に考定されてゐる。第15圖靑花五彩八吉祥纒枝牡丹獅子文等酒壺高三一c.m.之も第14圖と同じ形の瓶で肩に如意頭を畫き其內に染付で繪が描いてあるのも似てゐるが、然し其染付の畫は蓮花の上に八吉祥が載つてゐる圖で、此文樣は元から明初頃大に流行した圖樣であるから、此圖樣だけから云へば第14圖の瓶よりも少し古い譯である。又此方の脚部には染付で寶相華樣の唐草が描いてある。而して胴と頸は赤繪で、胴には牡丹唐草に獅子、頸には菊か寳相華かの唐草が畫いてある。此方が第14圖よりも模樣から云へば少し古いかも知れない。或は正統天順頃の輸出陶器かとも思ふ。m第16圖五彩牡丹纒枝獅子穿蕃蓮花鳳凰文等皿直徑四六c.此皿には染付が無く綠黃及赤の釉上着畫で、見込中央に一輪の蓮花の俯瞰圖を描き、其周圍に牡丹唐草の中に獅子を、而して其周圍の最も外側に寶相花樣の唐草に凰鳳が畫いてある。畫は丁寧に畫いてあつて時代は恐らく第15圖の瓶と大差ないと考へる。此兩者は共に近年南海から多數本邦に將來されるのと同じ手であるが、只此瓶と皿とは普通の此手のものよりも繪が甚だ丁寧に畫いてあるのと、殊に瓶の方は染付が肩と脚とに用ひ三七八、赤繪
八、赤繪てあるのは此手には稀である。尙ほ南海から來る此手の皿には大明年造、者が間まあるが、此等の年款は餘り當てにはならないと思ふ。三八、宣德年造等の年款のある嘉靖年造、第17圖礬紅地金彩八角葫蘆瓶高一七·六吋全體を光澤ある濃紅色に塗り潰し、其上に金彩で花果折枝、八卦、壽字、海馬、立葉等を畫いてある。內と底とは白釉のまゝである。年款は無いが恐らく嘉靖頃の產であらう。「ホブソン」氏は十五世紀の產と考定してゐるが、恐らく百年位時代を下げてよいものかと思ふ。尙ほ此金花は金箔にあらずして金泥を以て描いたものである。第18圖藍地空漏金彩牡丹孔雀文水注高三五c. m.體は美しい濃藍色で卽ち所謂ルリであるが、少し扁平な胴の兩側に倒心形の輪郭の中に牡丹と二羽の孔雀を透し彫にし、牡丹孔雀と口邊、把手、龍頭から上に出てゐる注口及之を頸に引付けてゐる支索等は綠色に塗り、之に金彩がしてある。然し金は可なり剝落して今其一部だけが殘つてゐる。チンメルマン氏は十六世紀半頃に考定してゐるが中らずと雖も遠からざるところであつて、嘉靖頃の產と思はれる。我邦で此形の水注(或は酒注)をセイサンビンと稱し、盛盞瓶の字を當てゝゐるが其由來は詳でない。第19圖嘉靖窯靑花五彩蓮花魚藻文等壺高九·八分ノ三吋鯉は黄地に紅の線描、蓮花は紅、其葉、水草等は、染付に綠、肩と脚との帶狀文は染付、紅ひ、短かい頸に紅で唐草が畫いてある。底に嘉靖の年款がある。此壺は一對中の一個である。黄、綠等を用第20圖綠地金彩纒枝牡丹文碗直徑四·四分ノ三吋白釉をかけて燒いた碗の外側に綠釉を塗つて低溫度で燒き、之に金彩を施して燒付ける。卽ち三度火に入る金は箔であつて大體の模樣の形のだ。釉上着彩に金彩のある器皿は何れも之と同じく三度火に入るのである。を箔で切つて之を綠地の上に貼付し、其上を錐の樣な銳尖なもので輪郭を引搔くのである。此引搔くのが何でも無いやうで實際は仲々うまくゆかぬものらしい。僞物は勿論であるが、眞物でも金が餘りに剝落してしまつたものには、金彩を補つたものが少くない。是等は大抵箔でなくて金泥を以て筆で描いてある。此場合に此銳く引掻いた線は塗り殘すのであるから、どうしてもうまくゆかない。或は太く或は細くでこぼこになつてゐるから直ぐに看破できる。此碗は民窯だから年款は無く底に染付で長命富貴と書いてある。此手の碗には紅地、藍地等に金彩のもの、五彩で種々の畫の描いてあるもの等多種多樣であるが、綠地金彩は割合に稀少の樣である。時代は嘉靖頃と見るのが妥當であらう。第21圖隆慶窯靑花五彩花卉龍文四方瓶人、赤繪高七吋半二元
八、赤繪110-口の廣い四角で肩が張つて脚の締つた瓶であるが、胴の四方に香狭間を大きく開光し其內に花果園の風景、香狭間の左右上下に花果折枝を、肩に龍を、脚に榴花樣の唐草を染付と五彩とで畫いてある。底に染付で大明隆慶年造の六字款が双圈內に畫いてある。隆慶窯は只一囘の燒造であるから少い。就中赤繪は甚だ稀少である。之と殆んど同じ瓶が我帝室博物館に在るが、横河翁の蒐集献納せられたものである。其年款は第46圖Aに示してある。第22圖萬曆窯靑花五彩外花果折枝内花鳥風景等長方盒長一一·八吋染付と五彩とで畫が描いてある。葢の上面には香狭間を大きく描き、其內に一輪の蕃蓮を中心として周圍に雜花纏枝を、上面四隅に果實折枝を、葢の側面は斜菱錦地文の中に長方形に崩れた香狭間を開光し之に花卉折枝を畫いてある。內部は葢で見えないが牡丹、桃樹、岩等が畫いてある。底に染付で唐草文の中に萬曆の年款がある。此合子にはコバルトの軟火釉が用ひられてあるが、これは〓代になると可なり頻出する色釉であるが明代に用ひられた例は極めて稀であつて、此盒子は甚だ稀な例である。第23圖萬曆窯靑花五彩花果折枝正面龍文等水注高六·四分ノ三吋所謂盛盞瓶であつて胴は縱にくびれて瓜形になつてゐる。之に花果折枝を畫き、長い頸部に正面龍が描いてある。染付と軟火釉と併用してあるが、白色の强火釉は微かに綠色を帶び、使用せる色釉は特に其質が優れてゐる。而して其胎は薄く作行丁寧であるから恐らく萬曆の初から同十四五年頃迄の產であらう。款があり、頸の上兩側に萬壽の二字が表はしてある。底に萬曆の年第24圖萬曆窯靑花五彩蓮花水禽文等魚卸直徑三十二吋染付と五彩とで蓮、水草、波等と鴛鴦樣の水鳥が畫いてある。萬曆の銘があるといふが、此種の者には口邊に染付で萬曆の六字款が額銘に横書してあるのが常である。之は庭園に置いて金魚を飼つておく缸である。第25圖萬曆窯靑花五彩騎牛人物等碗直徑一四·六c.m.端反りの碗で、其外側に美しい染付と五彩とで牛に騎つた人物、向ひ合つて相關ふ二匹の牛、羊等が畫いてある。花の咲いてゐる梅の樹らしのがあつて、騎牛の人物は其一枝を肩にし、此枝から紐で籠か書物の如きものがぶら下つてゐる。誠に春らしい暢氣な圖柄であり、筆ゆきも之に適して如何にも伸び〓〓してゐる。畫風から云ふと可なりくだけてゐるが、恐らく萬曆中期以前の產であらう。見込中央に一匹の臥牛が畫いてあるといふ。茶香酒萬曆窯藍地堆花魚藻文碗直徑六時明代のルリは間まあるが官窯のは少い方である。此ルリの色は暗灰色を帶びてゐるといふ。蹶魚、三八、赤繪蓮等の堆
八、赤繪花は白色の「スリツプ」で表はしてある。言藍ゴス等にある餅花手と稱するものと同じ技法である。柿ゴス、第27圖吳州赤玉香合大小四種吳州赤玉の香合は昔から茶人のやかましく云ふものであつて、一個何萬圓と云ふのだから、決して馬鹿にはならない。蓋し幽玄枯淡を主とする茶道に於て何故に吳州赤繪の鉢だの赤玉の香合だのを貴ぶかと云ふと、恐らく餘り佗び〓〓と云うて薄暗い四疊半で伊賀だ、信樂だ南蠻だとうす汚いもの計り並べておては陰氣で氣が滅入つてしまふ。そこへ眞紅色を彩つた小さな赤玉の香合が一つ出ると單調な陰氣を破つて座敷中が生き〓〓としてくるからであらう。第28圖古赤繪唐子遊圖壺高五·八分ノ五吋逆立をしてゐる子供と、笛や太鼓で囃し立てゝゐる子供とが畫いてある愉快な圖である。治か正德頃に考定してあるが、少し古る過ぎる樣だ。恐らく嘉靖頃の產であらう。民窯で、洋人は弘美酒吳州赤繪麒麟文大皿赤色が主調で、淡く寫つてゐる處だけが淡綠色である。なのが吳州の特色である。中央の怪物はキリンだと云ふことだが其グロテスク第30圖天啓窯靑花五彩菊花文等皿直徑五寸四分天啓によく見る圖で染付と赤繪とで繪が畫いてある。稍淡いのが染付で、黑いのが赤である。其他綠黃色が使つてある。裏に染付で天啓の年款がある。此手の天啓窯には染付のみで赤繪の入れて無いもの、年款の入れ明の滅亡に垂んとする當時の落付かない人心や動搖せる社會の有樣が目に見えるやて無いもの等が少くない。うである。第31圖古赤繪網手蟹及小魚模樣小皿直徑三寸四分網と蟹とは染付で魚は赤繪である。古赤繪としは簡單な圖柄であり又網手も別に珍らしいことはないが、央に蟹のゐるのが變つてゐる。中第2圖吳州赤繪玉取獅子鉢の底裏第十二圖の鉢の裏である。外側の模樣が內側のと餘り變らないが、られる。只香狭間になつてゐるのが異ることが見第33圖吳州赤繪牡丹文壺八、赤繪高七寸七分112
八、赤繪言吳州赤繪は鉢皿の類が多く壺、瓶永注等は甚だ稀少である。此壺は豪華な赤繪で牡丹が畫いてあつて、州赤繪として優れた瓶である。之は橫河翁の帝室博物館へ献納せられたものである。吳第34圖康熙窯五彩梅花小禽等花瓶高一一·五分ノ四吋康熙五彩の典型的な花瓶である。紅梅に小禽のとまつてゐる圖が美しい硬彩で描いてある。其筆行が銳く力强いのが康熙前半期の特色であつて、後半期殊に末になると弱くなることは本文に說いて置いた。臺座の雲形の渦線は紫色である。第35圖康熙窯五彩蓮花翡翠文皿直徑十吋蓮花とカワセミとが美しい硬彩で畫いてある。周邊は錦地文である。底裏に染付で康熙の年款がある。此手の皿は間ま金彩のある者もある。今此皿の圖樣と前圖の花瓶の繪とを比較すれば、此方が康熙の後半期に下るとは一見明瞭である。或は康熙の末だと云ふ人もある位だ。第36圖雍正窯粉彩牡丹胡蝶文皿直徑六·四分ノ一吋所謂バラの手であつて淡紅色の紛彩を主色として牡丹、胡蝶等が美しく畫いてある。ゐる。之を過枝花と云ふ。底に雍正の年款がある。此圖案は裏へも續いて第37圖雍正窯粉彩花鳥文瓶高七·四分ノ一時何と云ふ鳥か、山鳥でもなく八かん島と云ふ鳥らしい雄が岩上にゐる。方に雌がゐる樣だ。上に蝶が一匹飛んでゐる。紛彩で美しく描いてある。がある。傍には宜男、牡丹等を畫き、右の下底には靑色の雍正年製の四字堆料款第38圖雍正窯粉彩貴婦人逍遙圖皿直徑一一·三吋邊が平坦で急に斜面になり、底は又平坦な形の皿で俗に面盆と云ふ形である。バラ色の手で淡紅色が主色で中央見込は貴婦人が腰元等を從へて池邊を逍遙す之に綠、黄、靑、紫等に金彩を用ひて美々しく彩つてある。年款は無い。る圖で、邊緣は色々の花の中に香狭間を四つ開いて之に金彩で花果折枝が晝いてある。第39圖雍正窯粉彩玲瓏磁燈籠高十三吋バラ色の手であるが必しも淡紅色が主色では無い。粉綠、粉靑等の色もずい分使はれてゐる。透し彫になつ燈光は薄胎の白磁を透しても外へほんのりとさすからてゐるのは勿論中から燈光が外へ發散する爲であるが、全體が明るくなつてさぞ美しいであらう。勿論これは金殿玉樓の備品であつて、賤が伏屋に置くべきものではない。ISIA八、赤繪
八、赤繪〓第40圖乾隆窯梅花文茶壺直徑(把手及注口共)七吋所謂古月軒風の彩磁であつて、肌地は料の如き光澤がある。之に粉彩で古月軒風に岩石及梅花等を畫き、ふ側には二行に詩句を書し、三顆の印が書いてあると云ふ。底に靑色の堆料で乾隆の年款がある。向第41圖乾隆夾彩瓢文葫蘆瓶高一尺一寸分此瓶の地色は粉靑色で、蔓及葉は綠、瓢は萠黃、花は白、蝙蝠は赤である。夾彩とは一つの色で他の色を夾むから云ふので、結局數種の色彩で器面全體を埋めたものを云ふのである。此瓶は口が三つに岐れた特殊の形であるが、瓢の形の瓶に瓢が多く畫かれてゐるのは、瓢が支那では子孫萬代の意を寓する吉祥文であるが故である。又蝠は福に通じて支那では吉祥文として圖案に頻出する。此瓶は全體の色彩の感じが七寶の如くであるから七寶を模したものであらう。乾隆最盛期の最も代表的な作である。横河翁が博物館へ献納せられたものである。第42圖乾隆窯花鳥詩句等八角筆筒高四·八分ノ一八角形であるが四角の筒を二一つ橫に付著した形である。粉彩で美しく花鳥を畫き詩句が書してある。下に乾隆の印があるが、底にも乾隆の年款がある。詩句の第43圖康熙窯彫花靑花釉裏紅靑磁釉等花卉文尊式花瓶高一六·二分ノ一吋之は康熙窯で說明の順序が少し〓倒するが、之に用ひある技法は特殊のものであるから、此に說明することにした。此瓶の圖案中岩石及花卉の一部は胎土を彫つてある。而して岩には鐵呈色の靑磁釉を、中央胴の白木蓮花の周圍には「コバルト」呈色の染付を、而して上部の花には銅呈色の釉裏紅を塗つて强火の還元熖で、一氣に燒き上げたのである。康熙窯には間ま此手のものがあるから參考までに揭げて置く。〓代の卓越せる技術を立證する一例である。(〓代釉藥の發達第四十五參照)第44圖宣德窯孔雀綠地皿底裏銘直徑五·八分ノ七吋宣德の年款は旣に第3圖にも見えるが鮮明でないから此に典型的な標本を出して置く。此皿は外側に一面孔雀綠を塗り、內側は白地に雲の暗花があるのみであるが、底の染付銘が透けて內側から見えてゐる。第45圖第九圖宋赤繪碗底裏高臺の作行と化粧掛けに釉のかゝつてゐる工合を示す爲に揭げて置く。第45圖明〓代年款銘八、赤繪三百
八赤經年款銘を悉く揭げることは到底望むべくも無いから、1111其代表的のもの若干を載せて置くことにした。47.明綠地三彩牡丹孔雀文壺(ホブソン氏著明代の磁器による)九、川彩48.明藍地三彩三星圍碁圖等壺(ホブソン氏著明代の磁器による) 11月号九、川
49.康熙黑地素三彩四季花文等方瓶(ホブソン氏著近代の支那磁器による)九、三九、三彩彩51.康熙素三彩松下圍碁風景文半月形軸臺(ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による) 52.康熙素三彩刀馬人硯屏(ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による)三四、一四、50.綠地素三彩渦狀波濤海馬梅花等皿(ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による)
九、三彩三四53.唐綠釉葵花形瓶(ホブソン氏著支那の窯藝による) 54.唐黃釉馬俑(ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による)九、三彩明〓の三彩三彩の技法については模樣の項等に旣に述べたが、要するに一旦素燒にした胎に色釉を塗つて低溫度で再燒したものである。磁學家の說によると低溫度でないと酸化銅呈色の綠色や酸化マンガン呈色の紫色は變色すると云ふ。されば此等の色釉が用ひてある三彩が比較的低溫度で燒かれたものなることは疑がないが、然し低溫度と云うても一樣でない。明代の初期から中頃迄主に行はれた半ば失透性で濃暗色の、餘り光澤の無い三彩釉は鉛の成分が比較的少く、樊土分を多く含有し、從つて低溫とは云へ、稍や高き溫度で燒かれたものである。而して正德頃から以降に多く見られる光澤のある稍透亮で、色の餘り濃くない美しい釉の三彩は、樊土が少く鉛の成分が多いもので、恐らく前者よりも少し低い溫度で燒かれたものであらう。右の內第一種の方は線七寶と同じ技法卽ち泥漿を以て胎の面より少し凸出せる細線を作り、之を以て文様の輪廓を圍み、其内外に異色の釉を塗つたものが多い。この細線は異色の釉が融ける際に互に混淆するを防ぐ爲九、三彩三四三
九、三彩一四である。然るに明の中頃卽ち正德頃から行はれた稍低溫度で燒かれた美しき釉の三彩には此線七寶の技法を用ひたものは比較的少く、多くは文樣の輪廓を錐花で刻したるのみで、之に異色の釉がかけてある。此場合釉は勢ひ薄くかけてあるが、それでも融けるときに互に少しは混淆するのを免かれない。然し之が爲に反つて全體に於て一種の美觀を呈するものである。此種には正德、嘉靖、萬曆等の年款のあるものもある。第一種の方は明代と共に終焉を〓げ、〓代に於ては殆ど造られない樣になつたが、只單色釉としては尙ほ用ひられ、又桃形の水注、線香立に附着せる獅子、鸚鵡等に部分的に廣く塗つたのがあるのみである。之に反して第二種の方の三彩は、〓代に入つても盛んに行はれ、就中康熙及雍正時代には、非常に巧緻な碗や皿の類が造られた。此手のものは例へば薄手の端反の碗に錐花で五爪の龍を現はし黃地綠彩、又は綠地黄彩等の釉が之に塗つてあり、底に康熙、雍正等の年款があつて官窯であるが、其餘りに精巧なるが故に一見近代の僞造にあらざるかを疑はしむ。然し「ドレスデン」に在る第十七世紀に行はれた蒐集中に此手の者があるから、決して僞造でないことは明瞭である。清代康熙の頃造られたと云ふ「ダントルコル」の書簡に見ゆる本燒窯の低溫度の部分に於て燒いた三彩は恐らく此後の方の粗器であらう。現在此種の康熙三彩は人物島獸等の形をしたものに多く見かけるのであるが、これは此種の像は衣服や羽毛等の輪廓が自然の襞となり且之に線刻もあつて此種三彩の釉をかけるのに最も適してゐるから、自然之に用ひられるに至つたものであらうと云はれてゐる。而して鳥等に此三彩を施したのは旣に明代に始まつたもので、〓代は之を繼承せるに過ぎないことは「スヰーデン」の「ウブサラ」にある海老の水注(第四十三圖參照)及「ドレスデン」にある海老及鳳凰の水注等が之を證明してゐる。三彩は獨り景德鎭のみならず、後述の如く他の地方でも作られたのであるが、今景德鎭の產のみについて云へば前陳の如く年款のある官窯の如き精器と、民窯の粗器とがある。而して精器は小器に多く、大器は勢ひ粗ならざるを得ないが、官窯だちのものは土も純粹で美しく、正德から萬曆に至るまでの胎土は甜淨滑膩であることは此時代の他の器皿と毫も相違はない。三彩に用ひられた釉は綠、黄、紫、孔雀靑、暗藍等の諸色であつて、其內三色を用ひある場合が比較的多いけれども、例令二色でも四色でも之を三彩と呼んでゐるのは、之を以て五彩の技法と區別せんが爲である。此に附記すべきは、明代正德以前の三彩にして年款のある者は見當らないが、赤繪の項に述べた宣德窯に漏空花文塡彩、五彩實塡花文、塡畫藍地五彩等の各坐墩があると云ふのは、恐らく今日云ふ所の五彩に非ずして三彩であらうと云ふ說があることである。これは實物が殘つてゐないから何とも判斷は出來ないが、一應尤もに聞ゆる說であるが、實物の出るまで暫らく疑問として置く外はない。2、素三彩以上の三彩に用ひてある釉は皆半强火釉である。然るに此外尙ほ〓代に於て主に行はれたものに素三彩と云ふものがある。之は一旦素燒にした胎に五彩に用ふると同じ色釉、卽ち軟火釉である硬彩を以て描繪着色して九、三彩三四
九、三卷二六、錦窯で燒くのであるが、他の三彩と見分けるには此種の器皿は必ず褐黑色を以て模樣の輪廓を描いて之に色釉が塗つてあるから、此描線の有無が他の三彩と見別るに最も顯著なる目印である。技法から見れば三彩と五彩との中間に位するものである。素三彩は明代に始まるといふ說もあるが確かでない。尙ほ此に附記すべきは、外觀上三彩に似て實は釉上着畫であるものである。之は明代萬曆頃にも相當作られたものであるが、一見素三彩の如くであるが、下に强火釉がかけてあるから色釉の色調が明快で、素三彩に比すれば澄んで稍淡いのが特色である。只其文樣は渦狀波濤に三山梅花、海獸等のものがあつて、素三彩に似てゐるから兎角誤られ易い。尙ほこれには暗花を伴つてゐるものが少くない。素三彩に用ひある釉は、前述の如く硬彩と同じ鉛釉であるが、硬彩よりも一層鉛の成分が多く、從つて和かく且細かい裂文と虹彩とが饒く現はれてゐる。加之其色調は既述の如く釉上着彩の場合とは異り、鈍く且汚れ其上其種類が多い。例へば綠釉の如き硬彩に見られざる數種の色調を使用し、其內には非常に美しい和かな蘋果綠がある。尙ほ特記すべきは素三彩に用ひある黑色釉であつて、これは前陳の線描に用ひあると同じ褐黑色の釉を塗つて其上に再び綠釉をかけるのである。さうすると綠黑色が得られるのである。此綠黑色は敢て康熙に創まつたのではなく、恐らく明代の中期から用ひられてゐたものであるが、當時は主として描線のみに用ひられたに過ぎなかつた。〓代に入つて同じ褐黑色の釉を地釉として用ふるに至つたが、初めは礬紅の如く釉を加へずして色のみを塗るか、又は此上に無色の釉をかけるに過ぎなかつた。然るに康熙の恐らく中期以後に至りて褐黑色を地に一面彩つた上に綠色の釉をかけて非常に美しい效果を擧げた。蓋し此綠黑色は從來の無色の釉をかけた黑色よりも黑色が强く且光澤があつて、其黑地の中を塗り殘して之に他色で花卉等を畫くと著しく之を引立たせる效果があるからである。洋人は此種の器皿を黑色の手(famille noir)と稱し、其梅花を畫けるものを(black hawthorn)と名づけて萬金を抛つて惜まない。後に唐英が之を改良して一一重かけの代りに初から褐黑色と綠釉とを調合して之をかけることを工夫し、之を洋烏金と號した(釉の項參照)。此洋鳥金は雍正乾隆の頃大に持てはやされたが、前の二重掛の樣に美しくないから現代に於ては餘り珍重されない。後になると洋烏金は褐黑色に只無色の釉を調合したから益々色が惡くなつた。黑地の代りに黃地のものを黄地素三彩しゅjaune).綠地のものを綠地素三彩けverte)と稱し、皆洋人の喜ぶ者であるが、大體三彩は支那人も五彩の如く貴ばず、又邦人の趣味にも餘り適しない樣だ。康熙の素三彩は硬彩を使用するのであるが、雍正から乾隆へ下ると粉彩をも混用する樣になり、又康熙時代には大きく黑地を塗るが、乾隆になると黑地に綠色の唐草や粉彩の錦文を加描して繁碎になる。素三彩に紅色を使用する場合には其處だけ部分的に白色の强火釉をかけて素燒の時に燒いて置き、之に樊紅色の釉上着彩を行ふのである。これ樊紅色は素燒の上には施し難いからである。又一部分染付とする場合も同じ方法を行ふ。之と反對に五彩の器皿に一部三彩を用ひたものもある。其方法は三彩の部分だけ素地のまゝ殘して置き、他の部分に强火釉をかけて本燒を行ひ、釉上着彩を行ふときに三彩の部分に色釉を塗るのである。九、三彩二〓
九、三彩三八3.唐宋元の三彩話は前後するが、此に唐宋元代の三彩のことを附記して置く。釉の項に述べた通り三彩は曹達鉛釉又は鉛釉であつて、初めは西域から學び得たものであらうと云ふ所謂漢の綠釉であつて、これが唐代になると更に べルシヤあたりの影響を受けて綠釉の外に黃、褐、藍等の色釉を用ふるに至り、且時として胎に化粧掛を施したり、或は之に赤又は黑色を以て模樣を畫き、其上に釉をかけたり、或は又刻花貼花等を巧みに用ひて美くしい效果を擧げてゐる。且又唐三彩の釉は鉛の成分が多く、隨つて久しく土中して保存狀態の良好なるものは美しき光澤に富んでゐるものが少くない。然し一旦出土して殊に本邦の如き濕度の高い處に在ると、此光澤は恐らく急速に失はれて見違へるやうに汚くなるのかと思はれる。本邦のやうな濕度の高い處で變化するのは獨り三彩の釉のみでは無い。唐三彩の胎土の如きも殊に土偶の如きものに在りては梅雨の頃にボロ〓〓と剝落したり、手足がモゲたりするのがあるさうだ。而して嚴めしき天部の脚から鐵筋が出てきたなどゝ云ふこともある。唐三彩の胎土は灰白色、白色、微紅色、鈍黄色、灰赭色等種類が多く、硬軟も一樣でないのは勿論、產地が色々あるからであらう。而して最も多いのは極めてきめの細かい白色又は白色に近い色の土であつて、一見和かい感じがするし又實際小刀で傷つけられる位の和かいのもある。これは漢の綠陶も唐の三彩も素燒を行はずして生まの素地に掛釉して一度に燒上げるのであつて、釉が低溫度で融解する曹達鉛釉であるから胎が十分に燒締つてゐないのだ、と西洋の磁學家が說いてゐる。而して其證として此和かい唐三彩の胎を取つて高溫度で燒直すと非常に堅くなつて刄が立たないと云うてゐる。唐三彩の器形模樣は一般に唐代の風格を反映して雄大であるが、西域風のものが少くない。瓶皿等の底は大抵ベタ底で大きく、又人物、動物等の像は寫生の妙を盡したものが多いことは旣述した。宋元の三彩は皿、鉢、枕瓶等に多く見かけるが、大抵化粧掛に刻花を施して之に綠.黄、褐等の釉がかけてある。胎土は灰白、鈍黃、赭色等あつて、其產地は詳で無いが恐らく磁州其他であらうと云はれてゐた。然るに近年熱河から出土せる遼の三彩とも考へられるものに、殆んど從來支那の宋元の三彩と稱せられ來つたものと變らないものがあつて、其鑑別は將來の課題となつた。瓶皿等の底は大4、法花三彩の內に法花と云ふものがある。これは支那の磁學家に云はせると元代に始まり、明代に盛んに行はれたもので、其產地は皆大抵北方である。其蒲州方面から出る者は最も佳で、藍は深色寶石の藍の如く、紫は深色紫晶の紫の如く、黄は透亮の金珀の如くで、其花は生物及花草が多い。平陽及霍州から出る者は其胎半ば瓦胎であつて藍は略ぼ紫を發し、綠は略ぼ黑を發し、殆んど精品に非ず。西安、河南等から出る者は瓷胎であるか九、三彩ニ見
九、三彩〓〓〓ら平陽、霍州等のものに比すれば略ぼ鮮亮と爲すと云うてゐるが、西洋磁學家の內には、法花の內には蘇州邊で燒いたものもあると云ふ者がある。又支那の學者は、「德德鎭では〓代になつてから始めて法花を仿造したと說く者があるが、明三百年間仿造をしなかつたと云ふのは甚不合理で、何か特異の理由が無くては信ずることは出來ない。又前段陳べた處によつて明代旣に景德鎭で多數の三彩を產せることは多言を要せずして明かであらう。尙ほ景德鎭の產と右述ぶる他所の產とは、其胎土を見れば大凡判るものである。法花は大抵線七寶の技法による三彩である。三彩圖版解說第一圖(原色版)唐藍彩長方枕長七·七五吋普通陶枕と云はれてゐる長方形の器である。胎は鈍黃白色の炻器であつて、之に圖に見る如き錐刻を施し、黄、褐.藍等の色釉で彩つてある。中央の模樣は唐代に行はれた鏡背の模樣に類型のものがあるが、中央に一輪の花を置き、其周圍に如意雲を圓く竝列せるものである。藍彩は他の三彩に比して比較的少いもので珍重される。呈色材はコバルトで西城から輸入されたもので三彩そのものと等しくペルシア窯器の模倣であり、此コバルトの原產地は恐らく明初輸入された蘇麻離靑と等しく「ベルチスタン」又は其近傍であらう。尙ほ白いのは化粧掛の色である第四十圖唐三彩龍耳瓶高一尺五寸一分二匹の龍が相對して口緣を噛んでゐるのと、胴に大なる寶相華樣の貼花が三つあるのとが此瓶の主な特色であつて、西域の影響が一見顯著である。釉は綠、黄、褐の三彩であるが、堂々たる豪華の作品である。橫河翁が博物館へ献納された。第四十一圖唐三彩婦人像高十二吋淡紅色の胎に綠及黃の美しい亮釉がかけてある。方鏡である。此婦人はお化粧をしてゐるところらしい。左手に持てるは第四十二圖明三彩蓮花八卦龜甲文等香爐高八吋明代に創案せられたといふ線七寶に類する技法の三彩であつて、泥漿を以て文様の輪廓を凸出せる線で造つて置き、其輪廓の內と外とへ各異色の釉を塗るのである。此香爐は弘治から正德頃に考定されてゐるが、濃藍色の地に文樣は孔雀綠、黄及紫で現はされてゐる。第四十三圖九、三明三彩海老水注彩高八吋三三一
九三彩二此グロテスクであるが極めて特色のある水注は一匹の海老が岩の上に這ひ上つた形で、下には波濤と一匹の躍り上る魚とを現はし、海老の背上に蓮房を置き、之から水を入れる様になつてゐる。素燒せる胎に色釉を塗つて燒いた所謂三彩であつて海老は黄、魚は紫、波は綠、波頭は白で、細部は孔雀靑を使用し、海老には金彩の痕が殘つてゐる。此水注の胎土は康熙三彩と判別すること難く、其綠、紫等の色釉も亦た康熙の釉と區別し難い。唯此水注は瑞典國の「ウプサラ」に在る「ハインホーヘル、キヤビネツト」の蒐集に屬し、此蒐集は西紀一六二八年以前に完成せることは確かな記錄があつて疑が無いから、之が遅くも萬曆の產なることは確かである。又「チンメルマン」氏に從へば、此他に海老の形及孔雀の形をした水注が「ドレスデン」の蒐集に在つて其輸入は十六世記まで溯ると云ふ。元來三彩は粗材であつて、年款の存する者は殆んど見當らないから、其時代については只臆測の外に方法が無いのであるが、此海老の水注の如きは此間に在りて他の三彩の付け石ともなるべき貴重なる者である。之で見ると〓代康熙頃盛に造られた動物や人物像の三彩は明代既に造られたことが明かである。而して「ダントルコル」の書翰に見ゆるものは此手のものであると云はれてゐる。麥丁目明綠地三彩牡丹孔雀文壺高一一吋半所謂線七寶と同じ技法の三彩で文樣の輪廓は皆細い凸出せる線であるが、只孔雀のみが全體の凸花で其細部は錐花で現はしてある。頸に飛雲、肩に如意頭內に蓮花及纓絡、脚に便化せる花卉を現はし、地は綠、文樣は紫、黃及灰白色の釉が塗つてある。綠地三彩は少いものである。第48圖明藍地三彩三星圍碁圖等壺高十五吋之も前圖と同じ線を用ひた三彩で、圍碁の三人は福、祿、壽の三星であると云ふ。はしてある。頸には龜甲地文の中に飛雲、肩には如意頭の中に蓮花に載つた八吉祥、地は濃い紺靑文樣は淡綠、黄、孔雀綠で、細部は白で現はしてある。周圍に尙ほ八仙人等が現纓絡等が現はしてある第49圖康熙黑地素三彩四季花文等方瓶高一九·五吋黑色の手であつて方瓶の四面に黑地の中に牡丹、蓮菊.梅等が綠、黄、紫で描いてある。頸は龜甲錦文の中に如意頭を開き、之に螭龍を畫き、肩には菱形文樣が描いてある。此瓶の黑地は本文に說明せる如くマンガン呈色の褐黑色を塗り之に綠釉をかけたものであつて、美しい光澤のある綠黑色である。而して、此種の黑地の特色として最も肝要な點は、只眞黑に一樣の黑色に非ずして、同じ黑色の內に濃淡や色調の變化があつて藝術的に活々とした黑色である一事である。近代の仿僞は此特色がうまく出來ないのが多い。第50圖綠地素三彩渦狀波濤海馬梅花等皿直徑一〇·七五吋端反りの素三彩の皿で、內外に暗綠色の地釉の下に渦狀の波を描き、之に海馬を黃、紫、白で現はし、其他梅花、火焰波頭等を夫々右の三色を用ひて畫いてある。底には綠紬が塗つてある。此皿は十七世紀に考定せ九、三彩三重
九、三彩二番られてあるが、此種の素三彩は大抵〓代の產であつて明代に溯るものは無いか、又は少くとも甚だ少いと云はれてゐる。然るに中には嘉靖の美事な年款のあるものが間まあるのは餘程警戒すべきであらう。(Ⅱ釉藥の内ロ、軟火釉の項參照)第51圖康熙素三彩松下圍碁風景文半月形軸臺長一〇·四吋長目の半月形の軸臺で足が三本付いてゐる。松樹の下で碁を圍んでゐる風景と、周邊の錦地文とが綠、黄、紫の三色で美しく晝いてある。足は鬼面から出てゐるが、鬼面は黄、足は綠である。これは書畫の卷物を載せる臺である。年款は無いが康熙であることは疑ない。第52圖康熙素三彩刀馬人硯屏素三彩の硯屏である。武者繪のことを刀馬人と云ふ。これは水滸傳にある梁山伯の光景であらうと云ふ說があるがよく分らない。下にゐる大將は女らしいが誰であらうか。周邊の龜甲文と其中にある壽字文等は紫と綠とで彩どり、中の繪は綠黃紫の三色が用ひてある茶香唐綠釉葵花形瓶高一二·七五吋漢の銅器にある葵花瓶を摸したのだと云はれてゐる。胎は淡紅色の堅緻なる磁胎であつて、之に白色の化粧掛を施し其上に綠釉がかけてあるが、處々剝落し且風化して虹彩を發してゐる。第54圖唐黃釉馬俑高一六·二五吋馬の俑は唐三彩に珍らしくない。大小種々あり、三彩、藍彩の美しきものもある。又姿態も種々あるが、何れも肥えたアラビア馬で西域種である樣だ。又人物でも馬でも所謂三彩には釉の外に黑、朱等で彩つたところがあるのは珍らしくない。此馬は三彩の內の黄釉のみがかけてある。餘り上手では無いが活動する姿勢の一標本として揭げて置く。十靑磁二〇五
57.汝窯紅斑水承(ホブソン氏等著支那の窯藝による) +、靑十、靑磁磁55.越州窯龍波濤文金釦碗(デヴヰツド卿蒐集圖錄による)ニモル三六六58·第十八圖汝窯碗の底裏56.越州窯鳳凰文等碗(同書による)
+、靑+、靑磁磁59.均窯菖蒲盆(ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による) 60汝窯紅斑皿61.宋均窯碗(デヴヰツド卿蒐集圖錄による)三八八八一元62.同上底裏
+、靑+、青磯磁は、不干、シャンシャル)の名称にてるのである。いーして、宇井明神社会社会社63. 65.北方靑磁菊花唐草文碗(ホブソン氏等著私人蒐集の支那磁器による) 64.天龍寺手靑磁浮牡丹香爐(ホブソン氏等著私人蒐集の支那磁器による)三六二六、65.北方青磁纏枝牡丹文合子(ホブソン氏等著支那の窯藝による)
69.砧手靑磁鳳耳花瓶(ホブソン氏等著私人蒐集の支那陶磁による)十、青士靑磁磁67.砧手靑磁蓮瓣文碗三三一八一70.七官靑磁皿底裏68.同上底裏
+'青類Ⅱ长度(ホブソン氏者支那古陶磁による)宋末によりト天龍寺手靑磁浮牡丹文瓶北方法律(税) 72 74.影靑花卉唐草唐子模樣瓶(ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による) UKN 73·影靑筍形水注(ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による) +〓靑權+〓
77. 75.十、靑靑磁梅花文等輪花形皿(ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による)修內司窯獸耳不遊環素方瓶十、靑磁磁(デヴヰツド卿蒐集圖錄による) 78.第二十二圖砧手靑磁竹節花瓶底裏二天二七日76.郊壇窯碗(雄山閣版陶器圖錄による)
十、青磁二八八十、靑磁靑磁の〓念及初期の靑磁靑磁とは遠元鐵の呈色による靑綠色の單色釉が一面に掛つてゐる燒物のことであるが、此〓念の內に入る器皿は支那の古窯器の內で可なり廣い分野を占めてゐる。靑磁の釉は强火釉であるが、燒成の際に釉中に含まれてゐる酸化鐵が還元焔の爲に還元して純粹の鐵及酸化第一鐵となる。而して此等のものは綠色乃至靑綠色であるから之を含有する釉が此色を呈するのである。靑磁の釉中に含まるゝ鐵は比較的少量であつて、僅かに二乃至三「パーセント」內外なるを常とし、これ以上鐵含有量の增加するに從ひ漸次還元が困難となり、六、七「パーセント」又は以上になると釉は黄色、又は黄褐色を呈すると云ふ。靑磁の燒成には右の如く釉中に鐵が存在し而して其含有量が適當なることを要するが、此外に尙ほ還元焔を以て燒成することが必要である。之が爲に窯の構造、燃料及窯焚法に特殊の要件がある。此〓念の內に入る器此外に尙ほ還元焔を還元燒成が完全に行はるゝには還元熖がうまく出なければいけない。而して之が爲に窯の底面の勾配を成るべく急にして燃燒が迅速に行はるゝことを助けなければならぬ。又燃料は松新の如く高熱を發すると同時に長い焰を出すものを選ばなければならぬ。石炭の如きものは高熱を發するが、其熖が短いから不適當である。これ殆んど石炭のみを燃料とする北支那に靑磁が比較的少く、薪のみを使用する南支那に靑磁が多く燒かれた理由の一つだと說く人もある。又窯焚法も急速に焰の上る樣にせねば還元は行はれ難い。靑磁は大體右述ぶるが如きものであるが、吾人が普通靑磁と稱するもの卽ち例へば龍泉窯の砧手とか天龍寺手とか云ふものについては問題は無いが、其他のものについては之を靑磁の內に入れるべきか否かについて問題となるものも少くない。例へば汝窯の舊窯、均窯、影靑の如きは從來所謂靑磁として一般に認められなかつたのであるが、等しく還元鐵の呈色による單色釉をかけた器皿であつて、其色も靑色乃至靑綠色の系統に屬するものであるから、之を他の靑磁と全然關係なきものとして別種の取扱をすることは妥當でないと思ふ。又他方には等しく龍泉窯の砧手又は天龍寺手であつても偶-何等かの原因で恐らく燒成法の不適當なりし爲に酸化焰燒成が行はれ、それが爲め綠色又は靑綠色を呈すべく企圖された釉が黃色を呈する者もある。此等は黄磁であつて靑磁で無いといふのは正に理篇である。之と同樣なのは普通酸化焰燒成の窯で偶々還元熖燒成の行はれたものである。例へば定窯に稀に此種のものがある。但し其綠色は甚だ淡くて目立たない。然し此後述の兩者は共に一種の窯變として取扱はるべきものであつて、前に述べた汝窯、均窯、影靑等とは日を同うして語るべきものではない。十、靑磁二八磁二八
十、靑磁=10從來本邦では支那の靑磁を分けて砧手、天龍寺手及七官の三種とし、更に、之を細別して其時代、磁質、窯別等によつて上代手、本手、名物手、古渡七官、中渡七官、新渡七官、福州手、南京手、安溪靑磁、珠光靑磁等に分ち、又其形態、文樣等から桶手、竹の子(又は竹節とも)、袴腰、腰帶、口寄手、一重口、朝顏手、ギリ手、千鳥、端反浮牡丹、麒麟手、鯉手、八卦手、飛靑磁、人形靑磁等々と名づけてゐる。然るに近年支那古陶磁の〓究が進むに從ひ、如上の分類に含まれない猶多くの靑磁のあることが明かになつた。而して之と同時に支那に於て靑磁を燒いた處も河南、陝西、湖南.江西、浙江、福建、廣東等頗る廣汎なる地域に亘り、其時代も古く戰國時代又は秦代にまで溯ることが漸次わかつて來た。今之を列記すると戰國及秦時代窯名及所在地未詳漢時代越州德〓窯浙江省德〓縣越州九嚴窯浙江省紹興縣九嚴鎭六朝時代越州德〓窯前出越州九嚴窯前出唐時代浙江省德〓縣浙江省紹興縣九嚴鎭前出前出越州德〓窯越州九嚴窯越州餘姚窯婺州窯洪州窯吉州窯岳州窯鼎州窯五代越州餘姚窯柴窯北宋時代越州餘姚窯龍泉窯景德鎭窯汝州窯+、青前出前出浙江省餘姚縣上林湖畔浙江省金華縣江西省南昌江西省吉安縣永和鎭湖南省岳陽縣陝西省淫陽縣前出河南省鄭縣(或云開封府又說陳留縣)前出浙江省龍泉縣江西省浮梁縣河南省臨汝縣青磁ニセー
+、靑河北窯唐邑窯鄧州窯北宋官窯東窯耀州窯南宋時代南宋官窯(修内郊壇窯司窯)龍泉窯食事哥窯麗水窯德〓後窯餘姚窯餘杭窯西山窯景寧窯景德鎭窯靑磁三十一河南省汲縣河南省唐河縣河南省鄧縣河南省開封府河南省陳留縣陝西省耀縣浙江省杭州府前出浙江省麗水縣浙江省德〓縣前出浙江省餘杭縣浙江省永嘉縣浙江省景寧縣前出碎器窯江西省吉安縣永和鎭元時代龍泉窯前出明時代龍泉窯前出處州窯浙江省麗水縣景德鎭窯前出橫峰窯(弋器窯)江西省橫峰縣石碼窯福建省石碼陽春窯廣東省陽春縣〓時代龍泉窯前出景德鎭窯前出以上は從來の通說によりて列擧したのであるが、此等諸窯の事情は未だ詳でないことが多く、從つて將來尙ほ〓究の上是正すべき餘地が少くない。例へば龍泉窯、汝州窯等の如き宋代の靑磁窯として重要且有名な窯の起原は更に古く恐らく唐にも溯るものかと考へられる。又景德鎭窯の如く其起原は六朝に溯ることが明かなも+、青磁二三江西省吉安縣永和鎭前出前出浙江省麗水縣前出江西省橫峰縣福建省石碼廣東省陽春縣
+、靑磁三日のは其當初から恐らく靑磁を燒いたものであらうが、文献又は遺品によつて之を證明することは未だ難い實情に在る。又吾人の支那靑磁に關する知見は未だ幼稚であつて、以上の諸窯につき悉く其時代と特色とを甄別指摘することを得ないから今は只其主要なものにつきて其大略を述べることとする。前述の如く靑磁は一定の要件を具へた燒成法によりて造られるものであるが、若し此等の要件さへ具へてゐたら時代は如何に古くとも必ず燒かれ得るものなることを知らねばならぬ。何故に、斯の如きことをクドく述べるかと云ふに世の中には靑磁の起原が案外古いと云うて驚く人がゐるからである。極端に云へば既述靑磁燒成の諸要件は數千年或は萬を以て數ふる古い時代でも人類が火を用ひて燒物を造ることを知つたならば燒かれ得るものである。尤も平地に只土器を置き之に薪を積重ねて燒いたとて靑磁は出來ない。又地面を掘つて凹くして之に土器を置いて燒くことも少し進んだ方法として考へられるが、これでも靑磁は恐らく出來ないであら50然し尙ほ少し進んで小山又は岡の傾斜地を利用して之に所謂害窯を掘り土器を安置して上を土にて掩ひ、下方の口から薪を入れて燒くだけに人類の智慧が進めば靑磁は自然に燒かれ得るものである。勿論此場合に於ても釉の原料が無ければ靑磁は出來ないが、自然に灰釉が掛る場合には靑磁となる機會が發生する譯だ。鐵は此地球上に於て最も普遍的に存在する物質の一であつて、窯業技術家が實驗に際し全く鐵分の無い原料を用ひて實驗を行ふ必要があると之を除去するに少なからぬ面倒がある位のものであるが、一方前述の如く靑磁の釉には微量の鐵が存在すれば足るのだから、自然灰釉がかゝつた場合に於ても其內に必要なる鐵分が含まれてゐるのが普通であり、而して右の如き害窯で薪を用ひて長焰を起さしめて强火で蒸燒にすれば、これ畢竟還元燒成であつて、厭やでも靑磁が出來上るわけである。事實所謂須惠器又は新羅の土器等に自然灰釉と認むべき綠色の釉のかゝつてゐるものを間ま見るのは此理によるのである。若し人類が此事實を認識して意識的に灰釉をかけるに至れば卽ち釉は普遍的に器を掩ふのである。されば秦漢以前の支那民族の智慧が此域に達してゐたならば其當時靑磁が燒かれたとて別に不思議はないわけだ。從つて今後其發見例も追々報告せられるものと期待してよいと思ふが、從來報〓せられた戰國及秦時代の例は梅原末治博士が米國ボストンに於て實見せられた陶製の編鐘及同一人の收藏だと云ふ錞及鐸が殆ど唯一の例である。是等は其樣式から前記の時代に屬することは疑無いが、梅原博士の見られた編鐘は其素地は佳良な粘土を堅く燒き締めたもので正に陶器と云ふべき外容をなし、色は淡い茶赤色であるが、之に其全面に薄い黄綠の釉藥が施されてあつて、それが永く地中に埋沒した結果風化して一部銀泥狀を呈してゐると云ふ。此他尙ほ殷墟の戰國以前と推定せられる層から幾多の掛釉せる陶片が出たが其釉は靑磁と稱し難い樣である。漢代になると河南省信陽縣游河鎭の擂鼓臺と云ふ所の古墳から永元の年記ある墓磚と共に一群の靑磁器皿が出土した。其種類は四耳壺、洗、盌、盃等であるが、何れも同調で素地は淡灰色を帶び、焦げた部分は灰褐色を呈した堅緻な半磁質で、透明乃至失透性の淡「オリープ」色の釉がかけてある。而して全面に荒い貫入があり又釉下に型押の網代文樣の施されたるものもあると云ふ。此種漢代の樣式を具へてゐる幾多の靑磁器皿が近年支那に於て出土し、本邦及外國に將來せられた。其種類には魚文洗、博山爐、熊足、羽觴、農舍、豚舍、厨爐、獸環耳壺、皿、鉢、斗等々であるが其出土地も產窯も判然+、青磁二〇
+、靑磁二六せざるものが多い。而して、多くは九巖の產だと云はれてゐるが、九巖の外にも德〓、禹王廟鎭、富陽縣、蕭山縣等々幾多の靑磁窯の古址があると傳へられてゐて、而かも其詳しきことは未だ全く調査されてゐないから此等の器皿が果して何窯の產であるかは未だ鑑別し得られる時期に達してゐない。又其產出の時代につきても漢代の樣式を具へてゐても中には六朝迄下るものもあるかも知れない。加之、九巖窯の時代については一プルマー」氏は後漢の初期から唐迄存續せる窯だと云ひ、松村雄三氏は唐から五代へかけての窯だと說いて其說が一致しない。而かも此兩氏共に親しく九巖の窯址を踏査する幸運に惠まれた甚だ少數の人達である。六朝の靑磁につきては近年出土せる二三の群があつて可なり明かとなつた點もある。其第一群は南京の雨花臺附近の古墳群から出土せるもので山羊形容器、高形燈臺、燈臺、盌、器蓋、有蓋四耳壺等によつて代表せられ其數も少くない樣であるが、此等の古墳は他の副葬品其他によりて專門學者によりて六朝時代に考定せられてゐるものであるから、此等の器皿も當然六朝の產と考へられるものである。其二は浙江省紹興の古墳群から出土せるものであるが、此等の古墳群は其數極めて多く、時代も六朝から唐頃までのものを含んでゐるが大部分は六朝時代に屬してゐることは同時に出土せる多數の六朝の年號のある墓〓等で明白である。而して此等の古墳から近年夥しき靑磁器皿が他の器物と共に出土した。其種類は盤、神亭(明器の一種で上に亭臺を堆砌してある壜形の器)、壺噂(壜形を爲して口邊に小噂五を付けてある。我祝瓶に之と似たものがある)、鱒(形式多種、大腹小頸、大口、双耳、四耳、六耳、獸環、人馬を刻せるもの、龜蟹等の動物を堆せるもの等)、罍(兩耳、四耳、兩獸頭あるもの、大小等)、洗(種類花文多種)、瓷鼎鉢(種類多し)、多孔燈及燈臺、鷄壺(其壺嘴が雞の形を爲す)、雞鱒(全體が雞の形を爲す大小種々)、食盤(大小種々、明〓等に染付又は赤繪にて屢〓見る俗に藥味容れと稱する中に多くの仕切りのある盤なり。現代果盆、饌盒、盤格等名づけてゐる)、觴(羽〓、鳥形杯等)、獸盤(盤中に虎豹豺狼の類を堆す)、勺、丹盤(丹鉛を〓調す、大小種々)、水盂(水滴種々、龜形蛙形の者あり)、脂粉盒(大小)、溫器、盌(大小種類多し)、瓷灶、猪欄、雞罩、鴿棚、溺器等で枚擧に遑がない。第三は杭州西湖畔の寶淑塔附近から晋の元康九年の築造銘のある〓と共に出土せる靑磁器である。以上六朝時代の靑磁器皿は何れも江南地方から出土したものであるから、其產地も恐らく此方面卽ち九巖、德清、禹王廟鎭等に求むべきであらうが、吾人の知見は未だ之を的確に鑑別するに至らない。而して試みに此等の三群の器皿に通ずる特色を記述すれば、堅緻なる灰色又は淡灰褐色の半磁質に多くは透明性、時には半透明性の淡灰黃綠色の靑磁釉をかけ、時としては褐色釉の垂滴紋を加へ又は要所々々に茶褐色の彩釉を施せる外、一部分に鐵砂釉をかけて裝飾とせる者がある。普通は釉の全面に貫入があつて口作り、耳.把手等が〓して大柄で、又壺鉢、盌皿其他何れも底が大きく平らなこと又は糸切りのまゝで高臺の無いのが特徴である。而して多くは無地だが、文樣のあるものでも肩に簡素な型押しの網代文や條線がある程度で作風は〓して古樸重厚で茫容とした大きさがあり幽玄蒼古の意が饒いが、然し之を漢代の靑磁に比すれば何處となく形が和かで崩れたところが見え、銳さと雄渾な趣とに於て缺けてゐる。以上は何れも南方の出土例であるが、北方河南省承德小屯の殷墟にある隋代の古墳からも近年一群の靑磁器三七青磁
+、靑磯元皿が出土した。此古墳は隋の仁壽三年の墓誌銘があつて其時代については疑問の餘地が無い。而して其出土せる器皿は四耳壺四、碗五、臺鉢一が他の副葬品と共に發見された。之と同時又は前後して多數の類型の靑磁器皿が此地方から出土したらしく、北支方面の商人によりて取扱はれたと云ふ。此等殷墟出土と傳へられる器皿の特徴は何れも淡灰色又は淡灰褐色の堅緻な素地に淡「オリーブ」色の靑磁釉がどつぷりとかけてあり、而かも腰以下は露胎で、底は平らである。作風は古樸重厚で、幽玄蒼古の趣のあるところは越州等の南方諸窯の漢六朝器皿と相通ずるところが、〓して南方の器皿よりも作行が太く荒く、下手であり、形は雄放で、口作り、耳、底等皆大柄である。而して何れも無頓着に作り放したと云ふ風があつて入念の作は之を見ず、文樣の如きも皆無である。典雅優美を特色とする南方文化に對して、塞外蠻族の蹂躪に委した北方の所產であるから此相違のあるのは當然である。素地釉藥は同時代の南方靑磁器皿よりは鐵分が少く、從つて色調に淡い感じがある。北方からは此外山東省曲阜の遺蹟から唐代と認められる類型の靑磁器皿で右よりも一層淡い「オリーブ」色の釉をかけた一群の陶片が出土した。此等北方出土の靑磁の產地は何地であるか現在詳で無い。文献から云ふと晋に縹瓷と云ふものがあつたのであるが、果して如何なるものであるか何分實物が見當らないから詳でない。然し〓して一種の靑磁であらうと云はれてゐる。2德〓窯(舊窯胎土は灰白色で露胎の處は褐色を呈してゐる。堅緻なる半磁質の素地であつて、之に灰靑綠色乃至綠色がゝつた褐色の釉をかけてあるが、釉には小貫入が多いプ器形は漢銅器から轉化したものが多く、形は强く大柄で〓して厚手である。而して底が皆平坦であるのが一般的特徴である。又放膽な篦目の文樣のあるものが少くない。水瓶類は好んで鳥形の注口を付け、又方形の特色ある耳が付けてある。胎及釉は一見全く區別が付かぬほど九巖の靑磁に酷似してゐるが、九巖よりは素地が堅く、釉に貫入が少く、釉色が幾分か靑味がゝつてゐる感じがある。此窯の器皿は九嚴よりも幾分古調を帶びてゐるが其樣式から見て恐らく其原始漢代に溯るものであつて、六朝にも盛んに燒造したものであらうが、其詳細は尙ほ今後の〓究に待たねばならぬ。此窯からは靑磁の外に黑釉の器皿の破片も採取せられたが、今之を略す。又舊窯に對して新窯があるが之は後述する。3九巌窯胎土は德〓窯に酷似した半磁胎で只場合によりて聊か軟かい感じがあるのは恐らく稍土氣を多く含む爲であらう。然し燒造の工合によりて此相違は殆ど認められず、鑑別は困難である。釉は大體灰黃綠色で、德〓よりも黄色が强く且比較的變化が少いが然し亦た黄褐色のもの、稍靑綠色の强きものもある。而して後者に在つては德〓窯の釉色に酷似し其間に區別を認め難いと云はれてゐる。器形作行も德〓に酷似し漢銅器から轉化せるものが多く、底も等しく平坦で、水瓶等に雞頭をつけたものが少くない。只之を通觀して德〓よりも作風に於て一元+、青磁
+、青磁二〇時代の稍〓降下を認めさせる如き崩れがある。文樣は平盛にば無地のもあるが多くは口邊に簡素な模樣を付けてある。而して獨り盤のみならず他の器皿に付けてある模樣は網代の押型、稀に菊形の押型、波及唐草の線文、獅子、雞頭等の浮彫等であつて素朴ながら力强い、又耳を二乃至四付けたものもあるが、線文浮彫共に餘姚窯に比して雄勁で、彼の女性的なのに對して男性的である。此窯に特有の燒成器具に一種の受臺がある。それは一方が平らで他方が六、八、稀に十二個以上の山型のギザ〓〓な受臺で、燒成に際し其山型の方を下に皿、盛等の見込に置き其の上に他の皿、盗を置きて重ね燒にするのである。其結果皿盌の見込に此山型の痕跡を遺す。餘姚窯の受臺は下方も平坦で、之が揉砂で下に在る皿盌の見込の釉と隔てられてゐるから、皿盛の見込に砂の痕はあるが山型の受臺の痕は無い。これが此兩窯を見分ける著しき相違點であると云はれてゐる。二〇4餘姚窯上林湖畔に在るから又餘姚上林湖窯とも云はれてゐる。唐代就中中唐から以後最も盛んであつた靑磁窯で五代迄最も優秀な靑磁を產したが、宋代に入つて恐らく品質甚しく低下したものゝ如く、其後は土窯として局地的生產を行ひたることはあつたらうが、昔の面影は失はれてしまつた。上來述べた漢六朝の靑磁は南方の產でも北方の產でも、又德〓窯にせよ九嚴にせよ、現在吾人の靑磁と云ふ〓念からすれば決して美しいものでは無い。只學問的に見て靑磁であると云ふに過ぎない。勿論其色が澁いから好むと云ふ人もあるが、それは特殊の好みであつて一般的嗜好では有り得ない。而して今日の考へ方で最初に現はれた美しい靑磁は、餘姚窯の產であつて、略ぼ中唐から晩唐及五代へかけて其美麗なる靑磁を產したことは、其時代の詩人が咏じた幾多の詩句に徵し、且近年其窯址に於て散見又は採收せられた多數の破片によつて疑なきところである。此窯の產は唐代には越州窯、五代には祕色窯の名を以て天下に知られたのであるが、其後品質低下の爲に振はざるに至り何時となく忘られるに至つた。然し餘姚縣志には其事が記述されてゐて、支那の知識階級就中此地方出身の人達には此事實はよく知られてゐた。而して近年古窯器熱の〓騰するにつれて此窯址から破片や完器を採收して利を博する商人等も多く、又他方には古墳から出土する器皿も相等數に達して是等は專門家によりて世に紹介せらるゝに至り、此窯の產品も大體分る樣になつた。然し何故か今日見かける完器は殆ど全部が甚だ美しくない。而して他方窯址から採收せられた破片を見ると釉色は美しき靑綠色を呈してゐるのが少くない。又親しく窯址を踏査せる人士の記述を見ても、窯址附近の民家の壁間に積重ねたる破片には實に鮮麗なる釉色のものがあると云ふ。されば今後此優秀なる釉色の完器が出土する日もあるかと思ふ。餘姚窯の胎土は淡灰色の半磁質であるが德〓、九巖等よりも一層磁化してゐるから一層堅緻で且之が爲め釉が淡く明るい感じがある。釉は大體薄くかけてあり其色は灰綠色、オリーブ綠等が多いが、淡い靑綠色のもの六十、靑磁
+、青磯144もある。又褐黄色のもある。中には均窯の釉の如き靑又は紫斑の存する者もあると云ふ。盖し後述の如く偶然藁灰の落ちた爲に鵜の斑を生じたものであらう。作行は大體に於て薄作で精巧であつて、特に皿益等に在つては口作り及高台等は入念で、底足は下方が外へ向つて卷出してゐるのが特色であつて、陸羽の茶經に所謂底は卷くとあるものである。而して釉は此高台の下の方まで全部にかゝつてゐるのが亦特徵である。作風は唐代の時代精神をよく現して雄大で壺、瓶等堂々として大まかなのが多い。皿盗の高台は亦た大抵廣く且大である。器種は皿、盌、壺.瓶から盒子、水注、多嘴瓶、盤其他多種多樣であつて一々枚擧に遑が無い。而して無地の者もあるが種々の文樣を付けたものがある。其種類は花卉には牡丹、蓮花.蓮弁、蓮實、荷葉、寶相華、唐草等があり、動物には龍、鳳.鶴、小禽、鸚鵡、鴛鴦、雁、獅子、龜、魚、胡蝶等がある。又神仙、佛像、人物、山水、雲、波濤等も用ひられてゐる。而して此等の文樣は細い線を以てせる錐花が最も多いが、亦た貼花、浮彫、透彫等もある、越州窯の本邦に於ける傳世品は甚稀少で其出土品も甚少數である。傳世品には法隆寺傳來御物靑磁壺のみが現在知られてゐるが、餘姚窯の產に擬定されてゐる。出土品には仁和寺圓堂跡出土の合子二點が餘姚の產と認められてゐる。又福岡縣筑紫郡水城村の立明寺出土の鎭は九嚴窯の典型的の名品だと云はれてゐる。現在知られてゐるのは此位であるが、將來尙ほ發見される可能性は大にあると思ふ。若し夫れ近年支那からの將來品に至りては少なからざる數に達してゐる樣だ。144盖し後述の如く偶然現在其破片が越州窯は昔盛んに燒造せる頃外國へも輸出せられ其數量も恐らく相當に達したものであらう。發見せられてゐる地は埃及の「フオスタツト」、波斯の「サマラ」印度の「ブラミナバツト」等であるが、是等は大抵餘姚の產と考へられてゐる。此他此等諸地方を含む廣汎な地域に亘つて今後尙ほ其發見せられる地は決して少くないであらう。第一に陸羽の茶經に越州窯と共に靑色だと述べてある岳州窯があ以上の外唐代の靑磁窯として擧ぐべきは、る。又洪州、婺州、鼎州等も靑磁を燒いたと云はれてゐるが詳しいことは未だ知られてゐない。只吉州窯は從來宋代に一種の天目及碎器を燒いたことのみが知られてゐたが、近年洋人で此地から唐代と認むべき幾多の陶片を採收せる者があつて、唐代已に此窯が燒造せることが明かとなつた。而かも其陶片の內には美事な鳳凰を浮彫にしたのがあつて其陶片の素地、釉藥、模樣から判斷して、從來初は宋代の官窯又は汝窯に、次で唐代越州窯の名器と認められてゐた「ユーモルフオプロス」翁所藏の鳳首壺が此窯の產であると更めて認定せらるゝに至つた。鳳首壺は第十六圖に示すものであつて、素地は白色の磁胎で之に淡き灰綠色の釉をかけてあるが、釉の厚き處 は綠色、又模樣の線等最も釉が厚い處は靑味がゝつてゐると云ふ。此器が果して吉州窯に間違ないか否かは尙ほ〓究の餘地があると思ふ。5柴窯三+、靑磁
+、靑磁二〓五代になると柴窯と云ふのがある。これは後周の天子世宗の命によりて燒かれたもので、靑きこと天の如く明かなること鏡の如く、薄きこと紙の如く、聲馨の如しと形容せられ、古來諸窯の冠であると嘆美せられたのであるが、夙く已に跡を絕ちて今見ることを得ない。尤もこれが柴窯だ、あれが柴窯だと種々勝手の臆說を唱ふる者が何度かあつたが未だ信ずべき實物は現はれない。若し筆者の推測にして誤らざれば、柴窯と云ふものは恐らく後述する汝窯の舊窯に似たものであつて、之が先驅を爲したものかと考へる。柴窯の釉色は所謂雨過天靑色であつて、此色澤は「コバルト」の冴えた色であるから普通の靑磁を以てしては到底此色調は出ない。最も發色の見事な龍泉靑磁でさへも此色とは根本的に違ふ處がある。又所謂影靑と稱する靑白磁は何分にも其色が淡くして天の靑色には到底達し難い。加之其色種は寧ろ「プルー·ド·プルツス」であつて「コバルト」ではないそこで最も「コバルト」に近い釉色を物色すると、汝州の舊窯が恰かも之に該當する。これは推定の最も重要なる根本理由であるが、更に附加的の理由は五代に次ぐ北宋代に於て汝窯の舊窯が官窯として盛んであつたのは恐らく柴窯の雨過天靑色を承繼して燒造せるが爲であらうと考へられることである。兎に角拙者は此二つの理由によりて柴窯は汝州の舊窯に類する釉の燒物であると考へる者であるが、何分共質物が容易に發見されないから此推測の中れるや否やを判斷するに由が無い。宋代官窯の靑磁官窯には廣狹色々の意義がある。宮殿用の瓦額其他の建築材料を燒くのも官窯である。又宮室用の酒缸、酒鱒其他飮食物の容器を燒く窯も官窯である。それから帝室供御の器皿を燒く窯も官窯である。官窯の起源は恐らく三代以前に溯るものであるが、然し餘り古いことは姑らく之を措きて、六朝の陳の時代に後の景德鎭卽浮梁に命じて陶磁を燒かしめたとある。其後唐代此地に博易務を置き、更に監務廳を置いたとあるから、磁器の燒進を司らしめたものであらう。越州窯の如きは唐代或は官窯となつたかも知れないが詳で無い。五代には吳越王の官窯であつた。又五代後周には有名な柴窯と云ふ官窯がある。而して帝室供御の器皿を燒く官窯にも廣狹二義あつて、一は燒物の產地である窯業地に監陶官を派遣して其地に特別の窯を築くか又は民窯をして御器を燒進せしむるのである。他の一は京師の宮城内又は附近に築窯して原產地から陶工を呼びよせ原料を悉皆運ばせて燒造せしむるものであつて所謂御庭燒である。越州、定州、景德鎭等の諸窯は或は唐、五代或は宋代の官窯であつたが所謂御庭燒ではない。柴窯につきては御庭燒であつたと云ふ說と、さうでないと云ふ說と二つあつて詳で無い。汝州窯(又汝窯とも云ふ)だけが初めは普通の官窯であつたものが後に御庭燒になつたものゝ樣だ。又南宋の官窯卽ち修内司窯及郊壇窯は共に純然たる御庭燒であつた。尤も郊壇窯の方は城外三里の地に在つたが、其性質は御庭燒に外ならない。南宋の官窯では定窯の如き白磁も燒いたと云ふ說もあるが未だ確證は無い。此外には唐五代及宋代の官窯は悉く靑磁専門の窯であつた。只景德鎭だけは普通の靑磁とは少し違ふ靑白磁であるが、これは主として胎土の相違からかく違ふのであつて、技術上から云へば同じく還元焰燒成による鐵呈色の靑器である。+、靑磁二五
+、靑磁二六上述の如くであるから純然たる官窯卽ち御庭燒は南宋の修內司窯及郊壇窯だけである。故に此二窯は別に項目を設けて說くが、他の官窯は別に官窯として項目を設けないで各窯の項中に說くこととなる。越州餘姚窯だけは宋會要によると北宋の〓寧頃迄は官窯でありし記錄があり、又志雅堂雜鈔には宋初趙仁濟なる者が越州の窯務監督でありしことを記してあるが其後杏として消息を絕つた。恐らく宋代に入つて品質急に低下し何時となく官窯として存在せざるに至れるか、又は酒缸、酒鱒等を燒くのみとなつたのと思はれる。今日出土する多數の太平の年記ある(宋初の年號太平興圖の略だと云はれてゐる)器皿を見ると大抵皆鈍黄色を呈し毫も美しいことはない。恐らく當時已に大量生產の爲め粗製濫造に陷り急に品質低下せるものであらうと云はれてゐる。越州窯のことはこれだけで再說しない。7汝州窯(汝窯汝窯は河南省の臨汝縣に在る。北宋代に於ける北支那の靑磁窯として最も有名な窯であつて、初めは其土地に於て官窯を燒き、次で汴京卽ち今の開村府にあつた北宋の宮城內に窯を築き汝州から陶工を招き原料を運び來つて所謂御庭燒を行つたと云ふことになつてゐる。此說の由來する所は南宋初期の書である周輝の〓波雜志に汝窯は宮中の禁燒であるが、宮內に瑪瑙の粉末があつて之を釉となした。唯だ供御に用ひ揀び退けたものゝ宮內に瑪瑙の粉末があつて之を釉となした。唯だ供御に用ひ揀び退けたものゝみを拂下げた。近ごろ尤も得難い。と記してある一節によるものである。周輝は北宋末から南宋初期へかけて生榮せる人で、其記述は先づ信用出來る。加之汝窯が定窯に代りて官窯となつた一事は、南宋の書老學庵筆記、垣齋筆衡、負喧雜錄等が一致するところであつて疑ふ餘地が無い。且又近年デヴヰツド卿が入手した汝窯の色見に大觀元年歲次丁亥三月望日將作少監監設汝州瓷窯務蕭服視合靑効初試火照と隷體で型押で記されてある。以上を綜合すると北宋代汝窯が官窯となつたこと、初は汝州に官窯があつたが後に宮城內で燒いたと云ふことになる譯だ。尤も理窟を云へば御庭燒となつたのは必しも後だとは斷定出來ないが、かう云ふ場合の事態の推移を考へると、初めは其地で燒き後に宮中に於て燒くやうにした方が自然であるからかく推測するのである。さて然らば此汝窯の器皿は果して如何なる者であるかと云ふと、從來の磁學家は遺憾なるかな一致した見解はなかつたのである。然し拙者は前に陶器講座に宋元の陶磁を書いたときに述べた見解を今尙ほ正しいと確信固執する者であつて、當時未だ前陳デヴヰツト卿入手の色見に關する論文の發表なかりしも、其後此論文の發表を見て益々自分の見解の正しきことを信ずるに至つた。それでは汝窯の本體は如何なるものであるかと云ふと、從來西洋磁學家が官均窯と稱してゐたものがそれである。此者は均窯風の釉がかけてあるが其作行は極めて上手であつて、均窯の厚手で鈍重なのに比すればずつと薄手であり、且均窯が腰まで掛釉してあるも高臺及高臺の內底は露胎のまゝであるに反して、これは高臺の際まで及び高臺の內底にも掛釉してある。かく作行が+、靑磁二七
+、靑磁三人上手であるから西洋磁學家は恐らく均窯の官窯であらうと云ふので官均窯と名づけたものである。然し均窯に官窯があると云ふことは古來一行の文献も傳はつてゐないのと、均窯と云ふ名稱が南宋以後の名稱であることから考へて、洋人の云ふ處は沒條理であると斷ぜざるを得ない。然らば何故に此を以て汝窯であるかと云ふ理由は大凡左の如くである。一、汝窯の本體に關する一等資料とも云ふべき同時代の文献は甚稀少であるが、其稀少なる者に幸なることには前記の〓波雜志の記事がある。而して之によると汝窯の釉は一見瑪瑙の如き外觀を有したことは明白である。瑪瑙の粉末を釉としたと云ふことは恐らく無稽であらう。大谷師の如く此事につきて詳論せる人もあるが拙者は瑪瑙を碎きて釉に用ひたりとて別に美しい釉が出來るとは考へられない。凡そ古人の書を讀むに方り今日の發達した科學知識を具へた者の記述として之を讀むべきでないことは勿論であつて、其時代相當の頭を以て讀まねばならぬ。周輝が南宋の初に之を書いた時には勿論事實瑪瑙を釉にしたのを實見した譯にはあらず、只世間の噂により又は其釉を見た感じによつて述べたに過ぎない。卽ち汝窯の釉が瑪瑙そつくりであるから瑪瑙で造つたと考へ且信じたのであらう。何分八百年も昔の人の頭であるから此釉を見てかく考へるのは決して無理ではあるまい。そこで此時代の燒物で瑪瑙の如き釉のかけてある者と云へば均窯及所謂官均窯の外には無い。されば此內で作行の上手の所謂官均窯が汝窯であると認めざるを得ない。尤も瑪瑙と云うても其色は種々ある。必しも靑いとは限らないと云ふかも知れない。然し汝窯が靑かつたことは此時代を去ること遠からざる南宋の垣齋筆衡と云ふ書に汝州に命じて靑器窯を造らしむとある。又汝窯が靑器であつたことは現在磁學家の間に異論が無い處である。あらう。二、此見解を裏書する者は前記「デヴヰツド」卿の入手した環狀の色見である。此色見の釉は均窯風の淡靑色の釉で小さな貫入が多く、其土は鈍黃色である。尙ほ此色見に型押してゐる書體は美しい隷書であつて、色見の下には三つの受臺の小痕がある。而して蕭服の傳は宋史卷三百四十八に載せてあり、徽宗の朝に仕へて將作少監に任ぜられたとも記してある。此色見は此等の點から見て先づ僞物ではあるまい。宋史列傳まで調べて此樣な僞物を造ることは到底考へられぬことである。三、凡そ此種の燒物には大體の系統があつて、時代によつて漸次變化してはゆくが、別に理由もないのに急に突飛な變化は有り得べからざるものである。而して南宋初期の官窯は近頃段々其本體が判明して來たのであるが、元來北宋の汝窯系の官窯を摸倣して造つたものである。此說の基くところは、南宋の著である垣齋筆衡に、南宋の初めに邵成章と云ふ宦官の親方がゐて、舊京の遺製を襲ぎて修內司に窯を築いて燒造したとある。(後述修內司窯の項參照)。此記事は大體南宋の著述であるから信用してよいと思ふ。尙ほ傍證として南宋の初め高宗皇帝が當時の權臣〓河王張俊の邸第に行幸せられた時、張俊は非常の盛宴を張り種々の寶物を献納して歡待し奉つた。其時に献納した寶物の內に汝窯の器皿が若干ある。之を以て觀れば南宋の初期汝窯の器皿が貴重でありしことを窺ふに足ると同時に、前記郡成章が宮中で之を做造せんと努力せることが事實であつたことを知るを得ると思ふ。かくの如く南宋初期の官窯である修內司窯なる者は汝窯を「モデル」にしたものであるから、假令其通+、靑磁二八試に均窯手の釉を取つて靑瑪瑙と對比してみれば其如何に酷似してゐるかを覺るで
十、靑磁二八日りには造れなくても曲りなりにも汝窯に似たものでなければならぬ。而して今日南宋官窯の本體が漸く分つて來るに從ひ、それに近い北宋時代の燒物を求むるならば所謂官均窯の外には無いと云はなければならない。四、五代柴窯以來雨過天靑を理想とした釉色は、所謂均窯釉でなければ得られない。而して汝窯に依存して初めて此釉色が得られたと考へるのが至當である。以上は從來官均窯と稱せし者が汝窯であると云ふ拙者の論據の大要である。さて汝窯の本體がかくの如くであるとして古人の記述を讀むと、大に思ひ當ることが少くない。例へば前記〓波雜志の如き之であるが、降つて明人の記述を見ると、隨分胡亂杜撰のこともあるが、亦た頗る肯綮に當つてゐることもある。例へば明初の書である格古要論には宋時燒く者は淡靑色と云ひ、遵生八賤には其色卵白、汁水瑩厚にして堆脂の如しと云へる如きこれである。卵白と云ふは畢竟瑪瑙又は蛋白石樣の光澤あるを指したのだ。然るに從來我邦の磁學家中には洋人の所謂北方靑磁なる者を以て汝窯であると云ふ說を唱ふる者がある。此說には拙者は賛成し難い。其理由は右述ぶる處で分明であるから反覆しないが、假に此說に依るとすると北方靑磁を「モデル」にして南宋官窯を造つたのに何故に此兩者は斯くまで作行が違ふのであるか說明することを得まい北方靑磁は後述するが如く彫花、刻花、印花等の模樣が非常に多いものである。花文の無い北方靑磁は寧ろ稀であるが、南宋官窯にも官均窯にも斯る花文は殆ど見ざる處である。其他皿、盌、壹瓶等の作行は北方靑磁と南宋官窯とは全然異ふのであつて、到底後者が前者を「モデル」として造つたとは考へられない。北方靑磁が汝窯だと云ふ說の唯一の根據は、北宋末に高麗に赴いた徐競の高麗圖經に高麗靑磁を形容して越州の古祕色及汝州の新窯に似てゐると記してあることである。之によつて高麗靑磁に稍似た北方靑磁が汝窯だと云ふのである。然し汝州の新窯であるから、舊窯で無いことは言ふ迄も無い。尤も汝州には元と窯は無く、此頃初めて窯を作つたから新窯と云ふたのだと云へないことはないが、然し元來窯が無かつたと云ふ證據は何處にも見當らない。加之支那の有名な窯業地は大抵太古から燒いてゐたのが普通で、宋代而かも北宋末に至りて初めて燒き出したと云ふやうなことは殆ど考へられないことである。或は又越の古祕色に對する新窯であると云ふが、成るほど支那人は古に對する新と云ふ樣な對句を喜んで使用するが、然しそれが舊窯が無かつたと云ふ證據には爲り得ない。大谷光瑞師が昭和四年原田玄衲師に命じて臨汝縣地方に於て表面採收せしめた破片には大體均窯風のものと北方靑磁のものとが大多數を占めてゐた。之によりて大谷師は、汝州には均窯風の釉をかけた舊窯と北方靑磁風の器皿を燒いた新窯があつたと云ふ說を立てられたが、拙者は當時其烱眼に服し、今尙ほ此說を堅持してゐる者である。汝窯の舊窯は其土が露胎の處は稍赤味を帶びた鈍黃色である。支那人は昔から之を銅胎と云うてゐる。然し火加減によつて色が薄く鈍黄色となり又は濃く褐色ともなることがある。破面は灰白色で可なり細かく堅緻である。釉は屢述するが如く靑瑪瑙の如き均窯風の釉で、開片のあるものと無いものとある。皿と碗とが多く壷、瓶の類は少い。皿は高臺の甚だ低い者が多く、外側と高臺の内底とに十分に掛釉する結果高臺の下面が釉と水平に漸く現はれてゐるやうなのが多い。而して燒成の際に釉が匣に粘着するのを防ぐ爲に外底に目を置い+、靑磁一九八
十、靑磁二八二た痕がある。其數は中皿ならば三つか四つ、大皿だと六つも八つもある。碗は高臺が比較的高いから高臺の内底にも掛釉してあるが、目を置く必要なく從つて其痕は無い。作行は胎は薄手だが釉が堆脂の如く厚い。前述の通り模樣は皿、碗には無い。尙ほ面白いことは、同じ作行の皿で釉が普通の靑磁の如く靑綠色で硅石質を加へないものがある其釉は細かい貫入が多い。此手の者は次に述ぶる汝州の新窯の先驅者と見るべきものではなからうか。新窯の方は所謂北方靑磁であつて、胎土は略ぼ舊窯に似てゐるが露胎の處は舊窯ほど美しくなく且褐色がゝつた澁が出てゐるものが少くない。釉は美しい靑綠色のものも無いことは無いが寧ろ稀であつて、多くは草綠乃至黃綠色がゝつてゐる。作行は彫花、刻花、印花等の花文が多く付けてあり、皿盗の類から壺、瓶合子、水注其他百般の器皿に亘つて種類も多く、數も舊窯に比すれば甚だ多い。さて御庭燒の汝窯は大體舊窯に近いことは疑なき處であるが、果して全然同じかどうかと云ふことは未だ斷言出來ない。「デヴヰツド卿」は色々考證して、等しく均窯風の釉であつても常軌を追はず相當變化したものだと云うて種々の標本を擧げてゐるが、此等の標本は皆外國に在つて見ることを得ない。然し假令變化はあつても決して所謂北方靑磁の如きもので無いことは斷言し得る。今「デヴヰツド卿」所說によりて北宋官窯の汝窯の如何なるものであるかを述ぶれば、形は大體汝窯の舊窯と云ふものと大同小異で、模樣は銅器の模造を行へるものには饕餮文雷文等があるが、皿盗等には殆んど何等文樣が無い。土も汝窯と等しく淡い鈍黄色である。釉は厚く堆脂の如きものが多いが、又稍薄く下の胎土の鈍黄色を透視し得るものもある。釉の色は稍紫がゝつた「コバルト」其釉は細色から天靑色、徵綠色を帶びた靑色、靑綠色等に至り、中には黄色がゝつた綠色もある。而して釉の透亮度に至つては、靑瑪瑙又は卵白に比すべき半透明のものから、殆んど失透せるものに至るまで種々の段階がある。開片は中形又は細かき開片のあるものが多い。又大抵櫻眼卽ち「ピンホール」がある。上述の特色就中釉の外觀は南宋の官窯卽ち修內司窯及郊壇窯中殊に月白失透性の開片の多い釉と頗る相通ずるところがあつて、〓代雍正朝に唐英が倣造せる月白、粉靑、大綠の大觀釉、銅骨無文の汝釉、同魚子文の汝釉等の淵由する所は此に在ることを首肯するに足る次第である。尙ほ汝窯につき一言すべきは、紅紫色の斑點の出てゐるものである。此紅紫色の斑は均窯と同じく還元銅の呈色であるが、此種のものは均窯にもあり、又我輩の汝窯の舊窯と稱するものにも大に存在するのである。これは宋代の文獻には全然見當らないものであるが、實物が存在する以上これを抹殺する譯にはゆかない。此手の器皿は其作行から見てそれが北宋代の汝州舊窯であることは一點の疑なき所である。管見によればこれは明初の書格古要論に南宋官窯の修內司窯として「色靑くして粉紅を帶び濃淡一ならず」と云ふものに該當する者であると思ふ。只格古要論の著者は汝窯であるのを修内司窯と誤つたのである。修內司窯にはかく紅斑のある者は未だ見當らない。恐らく南宋になつてからは此種の紅斑は燒かなかつたのであらう。而して其理由は、可なりの熟練と祕訣とを要する此種紅斑燒出の技法が失はれたるか、或は又妖變として此種器皿の使用を北宋時代から巳に宮中に於て厭ひたるからであらうか、將來の〓究問題である。+、靑磁三八
+、青磁二四8均窯均窯は河南省禹縣で燒かれたものである。禹縣は汝州の隣接地で元と鈞州と云うたから鈞窯と云うたのが鈞が均に訛つたのだと云はれてゐる。然るに鈞州と云ふ名稱は南宋の頃金が此地方を占領してから金が付けた名である。北宋時代卽ち宋が此地方を領有してゐた頃には陽翟縣と云つた。從つて宋には均窯なるものは無い筈だと云ふ說がある。成るほど宋代殊に北宋代に均窯と云ふ名稱は無かりしことは此說の通りであらう。然し今日均窯と稱する者が無かつたと云ふ證據にはならない。名稱は異つたであらうが同一物が必ず存在してゐたことは疑なき所である。此事は所謂均窯の作行が北宋代に溯るものがあるのでも明かであるが、それよりも驚くことは吾人が作風上時代が元頃に降ると考へて元均窯と呼んでゐた鉢の破片が鉅鹿から出土してゐる。もとより宋均窯と稱する者の破片も鉅鹿から相當出土してゐるのである。鉅鹿は北宋の大觀年間黃河の洪水によりて地下一丈八尺に埋沒せる都會であるから此地から出土するものが北宋を下らぬものなることは言ふ迄も無い。西洋人は均窯について色々に說いてゐるが、管見によれば均窯は要するに汝窯の下手物に外ならないと思ふ。此事は其作行を見ればすぐ分ることである。卽ち汝窯の薄手なのに對して均窯は厚手である。汝窯は高臺の內底まで掛釉してあるのに均窯は腰の下から丸で露胎である(第58及62圖參照)。汝窯の胎土は淡い鈍黄色で其質は細かく堅緻であるが、均窯の土は露胎の處は煉瓦色を呈せるものが多く其質は稍粗くて硬い。案ずるに均窯の產地陽翟縣は汝州の隣接地であるから、汝州では上等品の汝窯を燒き、隣の陽翟縣では下手物の均窯を燒いたのであらう。均窯は明代にも存續して酒缸酒〓等を燒いてゐた、又民國になつてからも燒いたと云ふ。恐らく南宋以後も今日に至るまで斷續して燒いたが、品質は甚しく低下したものであらう。北宋代の均窯は其作行が重厚で、高臺は大きく厚く堂々としてゐる。釉は屢說する如く還元鐵呈色の靑磁釉であるが、釉中に意識的に藁灰の如き硅酸質の多い灰を混合せる爲め牛乳狀に半ば失透し且其色が普通の靑磁とは著しく相違し往々人をして酸化銅呈色と誤らしめた。釉色は美しき天靑色から靑絲、黃綠に至るまで各段階の色調があり、加ふるに時としては海鼠狀を呈し、又月白調と爲る。釉の成分は汝州の舊窯と同じであるが、均窯の方が下手で精選されてゐない。均窯の產地は前陳の如く宋代の陽翟縣であるが、縣內神屋鎭を中心として多數の窯が散在し、時代と地方とによりて多少異つた土と釉とを用ひて燒造してゐたものゝ如く、其作風も一でない。加ふるに縣外の諸地方に於ても均窯風の器皿を燒いてゐた窯が此處彼處に在りしものゝ如く、胎土作風の違つた器皿が少からず現存する。然し其多くは皆均窯よりも遙に劣等の下手物であつて鑑賞價値の少いものである。均窯に貴ぶところは紅紫の斑の存在である。之は汝窯の場合と同じく還元銅の呈色であつて、明代頃迄は紅一色の者を貴び、紅紫其他諸色の混同せるものは雜色として排斥したとあるが、今日紅一色のものなど容易に見ることもできないのみならず所謂雜色のものさへ稀少である。十、青磁二三汝州では上等品の汝窯を燒き、隣の陽翟縣では下手物の均窯を燒いた恐らく南宋以後も二三
+、靑磁三六八均窯は鐵分を含んだ靑磁釉の基地へ、銅釉を或部分へ塗り、還元熖で燒成したもので、其時鐵分は還元して純粹の鐵又は酸化第一鐵と爲り、銅は還元して純粹の銅又は酸化第一銅と爲るから、靑綠の靑磁釉の中に紅紫の銅斑を現はし極めて艶美を呈するのである。又此時釉中の夾雜物や火加減の爲に釉が色々の變化を呈して色も千變萬化で靑綠紅紫、深淺濃淡眞に端睨すべからざるものがある。支那人は其色を形容して、玫瑰紫、海棠紅茄花紫、梅子靑、縣肝、馬肺、新紫、米色、天藍、等々記述してゐる。又其色の現はる〓狀態も紅色が恰かも苺を潰した如く現はれるのもあり、天藍色と紅色及茶褐色が交互に瑪瑙の樣に縞を爲したのもあると云ふ風に千〓萬端で筆舌に盡し難い。均窯の器種は盗、碟、瓶罐.盡、香爐、植木鉢、水盤等であるが、此內で植木鉢、水盤、香爐等は作風から見て汝窯の作もある樣だ。香爐、植木鉢、水盤等であるが、此內で植木鉢、水盤、香爐等は作風か景德鎭窯景德鎭の靑磁は二種ある。一は支那で影靑と稱するもので、一は所謂南靑卽ち南京靑磁である。影靑と云ふのは胎土に彫花、刻花、印花等の模樣を施して之に淡靑色の透亮なる釉をかけたものであつて、景德鎭の白色の胎土が釉を透して白く見える。而して胎土が高くなつてゐる處は釉が薄いから靑色は殆ど見えず白色に見えるが、模樣が彫られて低くなつてゐる處は釉が厚いから美しき淡靑色を呈する。卽ち器皿は恰かも淡青色で模樣を描いた樣に見えるのである。此種の模様を器皿に付けることは、染付が行はれる前には景德鎭の如き白色の磁土を產する地には最も適した方法であつたであらう。而して恐らく浮梁と云うた景德鎭の初期から此方法は行はれ來つたものと思はれるが、其最も美しきものは蓋し北宋時代に造られたものである。唐代以前に造られた此地の白磁を見ると、藥溜りの處は勿論微靑色乃至徵綠色を呈したものもあるが、未だ意識的に模樣として其色を强調せんとする考は判然と働いてはゐない樣である。然るに宋代になると、釉の微靑色を强調して模樣の色卽ち所謂影靑を美くしく見せる意識が判然と現はれてくるが而かも其目的を達成せるに近い。北宋代に造られたと認むる影靑器皿には、作行が極めて精妙で鑑賞價値の大なるものがある。是等は大抵薄胎で其土は純白脆美で、洋人は之を角砂糖の如しと云うてゐる。之を日光に透せば指の影を見ること恰も薄き白玉か「ガラス」の如き感じがあつて、西紀第九世紀頃支那へ來た「ソレーマン」と云ふ「アラビア」人の紀行に、支那磁器には半透明で瓶中に容れある液體を外から見得るものありと述べてあるのは、正しく此種の燒物であらうと云はれてゐる。全體の感じは〓楚であつて丸で玻璃のやうである。北宋代の影靑に彫つてある模樣はまた極めて巧妙で、之を彫つた工匠の腕の熟練と冴えとは眞に驚嘆すべきものがあり、後世及現時如何なる藝術家と雖も到底眞似ることが出來ないのは、蓋し子供の時から年老いて死ぬまで多年習練の結果此妙地に達したものであつて、如何に理窟を云うてもこれ計りは造り難いものである。又印花のものもあることは定窯と變らないが、模樣は大分違ふ樣で、影靑には牡丹唐草の中に裸の唐子がゐる模樣が頻出するが、これは恐らく「ギリシヤ。「ローマ」から西域を經て漢唐代に傳來せる葡萄に唐子の模樣から脫化せるものであらう。其他葵花、波に三七日+、靑磁
十靑磁二六八双魚、蓮其他の花卉等が多い。器形は皿經壺水注、瓶合子等種類が少くない。南宋代になつても影靑は依然として作られたことは鎌倉海岸から幾多の破片が採收せられるのでも分る。鎌倉から出る影靑の破片は稍厚手の壺瓶等が多く.之に唐子と花、唐草等が彫つてある。此手の壺や瓶は寺院等に傳世し又は發掘出土せるものも若干ある。南宋代には江北は金の占領する所となり、定窯の熟練せる陶工等は江を渡りて南に逃げ、景德鎭及其附近で定窯の傳統を追つて器皿を燒造した、之を南定と云ふといふ傳說がある。南定に關しては白磁の項に說くことにするが、要するに南定が作らるゝに至りて影靑風の作品も漸次其影響を受けて白磁に傾いて來たところへ、染付の項に述べた通り染付が燒かれる樣になり、面倒な影靑風の作は南宋末に至りて影を沒するに至りしものと推察せられる。因に西洋磁學家の說によると、影靑の釉には鐵の外に「リチウム」と稱する稀元素を含んでゐるが爲に美しき靑色を呈するのだと云ふ。南京靑磁とは我邦で〓代に景德鎭で造つた龍泉靑磁の仿造品の意に用ひられてゐる名稱であるが、景德鎭で此種龍泉窯靑磁の仿造を行へるは恐らく古いことで、南宋代に始まると考へられる。凡そ或る地方の器皿が有名になれば他の地方に於て之が仿造を試むることは支那の昔には普通の現象であるから、南宋代龍泉窯の名聲藉甚なるに及んで景德鎭に於て之が仿造を試むることは極めて自然の事である。又甚稀ではあるが南宋代此地に於ける龍泉靑磁の仿造品と認められるものが現存する。下つて明代に於ても龍泉靑磁の仿造品が存在するのは勿論であるが、明代の確かな年款のあるものは本邦に於ては甚稀少である。然るに西洋磁學家の言によれば二六八第十五世紀に溯る明代の年款ある此種靑磁の器皿は西洋に澤山あると云ふ。勿論あつてもよい道理であるが、我邦に於ける例に徵するときは、實物を一見せねば直ちに信用する譯にはゆかぬと思ふ。下つて〓代景德鎭に於ける龍泉靑磁の仿造品は決して稀ではない。近年我邦では此手の器皿を南靑と云うて一〓に輕蔑するが、康熙、雍正、乾隆時代の製品は相當に鑑賞價値あることは認めてよいと思ふ。尙ほ康熙の末年に書かれた「ダントルコル」の書簡には、當時景德鎭に於て龍泉靑磁を創めて仿造するに至つたことが述べてあるが、これは「ダントルコル」の誤で、旣に久しき昔より此手の仿造が行はれてゐたと說くのが西洋磁學家の通說であつて、事實正に其通りではあるが、考へ樣によつては龍泉靑磁の仿造が相當の年月の間例へば數十年の間杜絕えてゐたことが「ダントルコル」の書簡から窺はれるのではないかと思ふ。〓代釉の發達の項に述べた樣に雍正頃の仿靑磁釉には二種あつて、其一は「コパルト」を入れたもので之を龍泉釉と稱し、其二は還元鐵のみの呈色によるもので東靑釉と云うてゐる。此兩種の釉は恐らく明代に於ても景德鎭で行はれてゐたものであらうが、本邦で南靑と云ふのは主として後者卽ち東靑の方である。10南宋の官窯(修內司窯及郊壇窯)南宋の初めに北宋代の官窯であつた汝窯の器皿が非常に珍稀となつて、宦官の親方邵成章なる者が修內司に窯を設けて之が仿造を行つたことは既述した。其器皿が如何樣のものでありしやと云ふに、垣齋筆衡、負暄雜錄二六九十靑磁
+、靑磁OO等には「澄泥を範と爲し其精製を極む、油色瑩徹にして世の珍とする所と爲る」とあるばかりで、果してどんなものか久しく判明しなかつた。然るに近年斯學の發達によりて漸次其本體が判明し來り、之と同時に修內司窯に相違ないと認定せらるゝ器皿も漸次現はれ來つた。今其特色を述べると大體左の通りである。1.胎土は灰白色乃至灰黑色で露胎の處は褐色、帶紅褐色又は帶黑褐色であつて紫口の現象は見られない。2、釉は龍泉の靑磁に比すれば著しく粉色を帶びた靑磁釉であつて、稍汝窯の釉の面影がある。然し汝窯の天靑色が著しく「コパルト」調であるのに比すれば、此方は其靑色は稍や龍泉の靑磁に近い。尙ほ修內司窯の釉色は粉靑、淡白、油灰の三種に之を大別し得るが、就中粉靑色のものが美しく、其色調は龍泉靑磁に勝つてゐる。3、氷裂は無いのと有るのとある。又大なる開片のもあり、小なる開片のもある。4、飛はあるのもある、然し窯變と稱する胡蝶、魚、鱗豹等の形のあるものは未だ發見されない。屢述する如く修內司窯は汝窯を仿造したものであるが、何分北支那を去ること遠い杭州のことであるから、所要の原料卽ち胎土及釉藥の如きは勢ひ大に異らざるを得ない。從つて邵成章以下の努力にも拘はらず汝窯と同じものが得られなかつたのは當然であるが、然し釉は稍之に近接せるものが得られ、而して器式に至つては大體汝窯と大差なきものを燒いたのは何等不思議でない。此等の器皿は決して或る論者の主張する如く北方靑磁卽ち汝州の新窯の如きものでは無いのが事實である。修内司窯の器式は銅器の仿造から日用の雜器に至るまで多數の名稱が妙品、一等品、二等品、三等品に分類一等品、二等品、三等品に分類して遵生八賤に擧げてあるが、今現存せるものは盌、花瓶等が主である。今第廿圖に算木手の花瓶を又第75圖に方瓶を示して置く。南宋の後期の官窯に郊壇窯と稱するものがある。これは前記垣齋筆衡等の續文に「後ち郊壇下に別に新窯を立てた」とあるのでわかるのだが、其如何なるものであつたかは只だ「大に伴しからず」とあるだけで詳しいことは書いてない。然るに近年郊壇下の窯址が發掘せられ大小幾多の破片が續々と採收せられた。之によつて初めて郊壇窯の如何なるものであるかが明かになり、又之と對比して傳世する器皿中稀ではあるが郊壇窯が發見認識せらるゝに至つた。今郊壇窯の特色を述べると、1.胎土は堅緻で色は暗灰色であるが、時としては灰色に稍黃色を帶ぶるものもある。而して高臺露胎の處は大抵黑色を呈してゐる。これ卽ち鐵足なるものである。口邊は亦紫褐色であるがこれ卽ち紫口なるものである。然し破片を見ると紫口でないものも稀ではない。胎土は總じて薄胎であつて後世の半脫胎程度のものも珍らしくない。2、釉郊壇窯の釉は靑磁釉であるが他の官窯に比すれば著しい特色がある。これ其胎土及裂文の關係から來つてゐる。釉は他の窯器と同じく下方に流れてゐるから上部は薄く、口緣の如きは之が爲に紫口の現象を呈してゐるが下方は比較的厚い。而して盛の如きものに在つては其甚だ低い高臺の下面疊付の處だけ殘して外側及外底全部に掛釉してあるのが普通である。又他の窯器と同じく器皿の內部の方が外側よりも美しいのが常で+、靑磁30.今現存せるものは盌、花瓶等が主である。今第廿圖に算木手の花瓶を又第75これ其胎土及裂文の關係から
十、青磁201ある。破片を見ると胎土は極めて薄く.之に釉が厚くかけてあつて內側及外側の釉が各三分の一、胎土が三分の一位の比が多い。而して釉の斷面を見ると一一層又は三層にもなつてゐるから、釉は二度又は三度もかけたものであらうと說く人がある。開片は大形の氷裂文が内外を通じて存在するのが原則であるが、中には稍小さな開片のものもある。然し魚子文の如き小開片は見當らない。釉色は可なり變化が多い。卽ち粉靑色の失透性のものもあるが、又透亮性の極めて美しい靑色もある。甚美麗なる色澤は恰かも優秀なる琅玕を見るが如くであるが、不良のものは鈍黃灰色である。此兩極端の中間に種々の段階色調のものがあるわけだが、支那人が米色と稱して特殊の賛辭を與ふるものは稍透亮がゝつた大理石の如き肌の和かい黃色調の色である。郊壇窯の釉色の缺點は、胎土が鐵分を多く含む爲に釉が動もすれば色調暗晦に傾き易いことである。卽ち美しき靑綠色も之が爲に沈闇幽欝となり易い。又釉が薄く、色も淡い處は釉下の胎土を反映して稍紫色を帶ぶるものもある。釉色は開片によりて圍まれた各區域每に濃淡の變化を現はしてゐる場合がある。此現象は例へば盌の内側から内底の如く釉が厚く溜つて結晶狀を呈せる如き場合に見られるものであつて、濃淡種々の錯綜せる靑綠色が縱橫に走る開片によつて區切られてゐる狀態は、深淵に張る氷の裂文を見る如く眞に〓亮雅偶の感青磁201中には稍小さな開片のものもある。然しを起さしむ。これ恐らく前記の如く釉が層を爲してゐることと、開片が斜に釉の表面に入つてゐることとの二者に有力なる原因が存在するものであらう。兎に角他の窯器には殆ど見かけない現象であつて十分鑑賞に値するものである。然し此の如き美麗なる釉色のものは勿論特に優秀品に限り見られるものであつて多くは色が鈍く、中には甚だ見劣りのするものもある。郊壇窯の傳世品にして發見せられたものは比較的稀少である。勿論御庭燒の類であるから初から大量生產を行へるものにあらず、他の官窯と等しく傳世品の少いのは當然である。而して傳世中比較的多いのは盛、礫、盤等で盡、瓶香爐等が之に次ぐ樣である。尙ほ此種の器皿には模樣は殆ど稀である。蓋し釉色及開片等を以て裝飾とする此種の器皿に在つては、模樣を付する必要なきのみならず、之を付するときは繁冗となりて釉色及開片と相互に效果を減殺し合ふ爲である。此事は北宋の汝州官窯、南宋の修內司窯及郊壇窯に一貫せる原則であることを銘記せねばならぬ。尙ほ修內司窯と郊壇窯との關係については、後者が後起の窯であると云ふこと以外には詳ならざるものが多い。而して修内司窯は南宋の宮殿の改修膨脹と共に恐らく幾囘か窯が移動し、多分內部から段々外部に押出され遂に郊壇下に移つたものであらう。且又移動と時代とによりて內窯の器皿も段々汝窯風のものから郊壇窯風のものに移行したるべきは推察し得られると思ふ。從つて修內司窯の胎土及釉藥は時代の推移と窯の移動とによつて追々變化ありしものであらうが、其詳細は一に今後の〓究に俟たねばならぬ。十、靑·磁200
+、靑磁三〇円11龍泉窯龍泉窯は浙江省處州府龍泉縣に在つた靑磁窯である。他處の例と等しく此縣の內外に何百と云ふ窯があつて盛んに燒造を行つてゐた。その起原は詳でないが、恐らく地方的の土窯として唐代から燒造してゐたのであら50其最も盛んとなつて見事な靑磁を燒いたのは恐らく北宋以後であつて、元代以降大量生產の爲め粗製濫造に陷り漸次品質劣等と爲り明末に至つて終に絕えたと云はれてゐる。然し一說に〓末頃又粗器を燒いてゐたとも云はれてゐる。龍泉窯の内で我邦で砧手と稱する最も優秀なる靑磁は大體南宋頃の產出であつたことは從來推定せられてゐたが、我鎌倉海岸から幾萬の破片が拾はれるので確證を得た。今日靑磁の內で最も貴重視される砧手も當時は最も普遍的の存在であつたことは、鎌倉で顆しく拾はれる破片の大部分が悉く砧手であることによつて窺はれる次第である。此他鎌倉で拾はれる靑磁は前述せる影靑と、天龍寺手及七官手の或る種類、珠光靑磁等である。從つて此等の靑磁が同じく南宋の產であることは明白である。珠光靑磁は德〓後窯の產であるが、龍泉窯の產である砧、天龍寺及七官手について此に述べる。イ、砧手砧手と云ふ名稱の起原につきては三說あるが今之を省略する。此種の靑磁は古來我邦で最も貴重視せられたものであるが、其特色は左の如くである。胎土は灰白色の堅緻なる磁器質で、新鮮なる破面は一種の光澤がある。露胎の處は〓褐色を呈し、其色恰も褐色がゝつた赤煉瓦、又は赤味を帶びたチヨコレートの如くである。釉は粉靑色であるが一種特別の色調を有し、之によりて他の靑磁と區別せられる。此色調を縹(ハナダ)色と云ふ人もある。同じく靑磁の釉でも一種冴えた空色卽ち天靑色に近いから、西洋磁學家の中には或は「コバルト」を徴量加へある如く誤解せる者もあるが、「バートン」氏の如き技術家は之を否定してゐる。又「スペクトル」分析によつて「リチユーム」の存在によると云ふ人もある。又粉色で表面が「マツト」なるが正色であるが、由來此等は燒成溫度の關係で左右せられるから釉は著しく透亮で表面滑澤なる場合も稀でない。又砧手には貫入卽ち開片無きことを昔から約束だとするが、然し開片は燒成の關係で出ることもあるから絕對の標準とは爲し難い。器式は皿、盌、香爐、壷、瓶水盤、水注其他種々の形がある。而して南宋中期以前の作と認められるものは何れも比較的薄胎で强く銳き感覺の流露せる部分と、厚實渾樸なる部分との對照調和の妙によりて至高なる藝術的價値を有するものが多い。模樣は砧手には比較的少く、最も普通なるは浮牡丹、凸花双魚、蓮瓣等であるが、間ま起珠龍、劃花魚藻文のものもある。又花瓶には管耳、龍耳、鳳耳等のものがある。器底は第68及第78兩圖で見る如く元明代の天龍寺等に比すれば格段に薄作なのも見所である。天龍寺手+、青磁201此種の靑磁は古來我邦で最も貴重視せられた露胎の處は〓褐色を呈し、其色恰も磁201
十、靑磁三〇六天龍寺手の名稱の起原についでも數說あつてよく分らないが、其特色は大體左の通である。胎土は灰白色であるが、高臺露胎の處は黄褐色を呈してゐる。釉は砧手に比すれば黄綠色を呈するものが多い。然し中には美しき靑色調のものもあるが、所謂「ハナダ」色では無い。器式は厚手のものと薄手のものとあつて、鎌倉海岸から拾はるゝものは薄手のものが多く、此手のものは作行が砧手と同じく銳く强い感覺が流露してゐるから、一見して其同時代の產なることを認めしめる。此手のものは破片から判斷すると皿盗が多く.口邊に波條文をつけた手であつて、釉は草綠乃至黃綠で砧とは全然異つてゐる。厚手で牡丹等を凸花にしてドロドロした失透性の黃綠色の釉をかけたものは、恐らく元以降のもので中には元代の年號や宣德の年記の彫つてあるものもある。天龍寺手には大體大器粗器が多いが、比較的小形の瓶盤皿も稀で無い。然し何れも大抵厚手で作行鈍調であるから是等は皆元明の產であらう。前記砧手の如く作行整正で强く銳き者は宋代の產であつて、我邦にも傳世品が必しも稀で無いが、之を元明の產とすることは作行から見て不合理であるのみならず、鎌倉の破片が承知しない。天龍寺手の器皿は、皿盌盤壺、瓶香爐其外種類が甚多く、模樣も亦牡丹、蓮花、龍鳳、山水、人物、神仙、禽獸等多種であるが、其技法も彫花、貼花、劃花、錐花等少くない。ハ七官手七官手の名稱の起原についても數說あつて詳で無い。其特色も亦た種類が多いだけに甚だ茫漠として之を總三〇六其特色は大體左の通である。所謂「ハナダ」色其特色も亦た種類が多いだけに甚だ茫漠として之を總括するに困難であるが、大體前記砧手と天龍寺手とを除いた靑磁は全部之を七官手の中に入れるのが、從來のやり方である。又他方には明代龍泉窯の產である靑磁が七官だと云ふ說もある。此說によると龍泉窯の產中砧手は宋代、天龍寺手は元代、七官は明代の產だと云ふので甚だ便利であるが、然し事實は此說を支持證明せず前記の如く鎌倉から砧手と共に天龍寺手及七官手が相當拾はれるのである。從つて七官手の或ものは南宋代に溯ることは明白で疑が無い。七官手は旣述の如く多種多樣で種々の名稱が付けてあり、〓括して其特色を擧げることは難いが、大體作行は砧手及天龍寺手に比すれば粗劣で、胎土の含有鐵量は〓ね少く、釉色は天龍寺に比すれば翠靑色を帶び、砧に比すれば透亮性がある。恰も靑色のビードロを見る樣な光澤の强いのが多いと云はれてゐる。龍泉の靑磁は中世紀頃非常の勢で外國へ輸出せられ、海路及陸路によりて印度、ペルシヤ、アラビア諸地方、マライ半島、南海方面はもとより遠く歐洲にも入つた。從つて此等の地方に今日傳世又は出土する者が少くない。我邦も亦た其餘波を受けて前記錄倉其他九州中國の地方から他の支那產器皿と共に出土すると云ふ。龍泉の靑磁窯が同縣内外に數百も分布しありしことは既述した。處州窯、麗水窯等稱するものは恐らく隣接せる地方的の窯で、此種の窯は慶元縣にも又福建省內にも在つて、是等は龍泉窯と共に輸出せられたやうだから所謂七官手の種風が頗る多いのは怪むに足らぬことである。十、青磁三〇七
+、靑磁こん12哥窯哥窯と云ふのは明代の文獻によると龍泉窯の一種であつて、宋代龍泉に章生一と生二と云ふ兄弟があつて靑磁を燒いた。弟の窯を弟窯と云うて今日普通に宋代の龍泉窯の靑磁と云ふのは此弟窯の產だと信ぜられてゐる。然らば兄の窯は如何であるかと云ふと、之が卽ち哥窯であつて、其靑磁は紫口鐵足で氷裂文が多く、或は之を百級碎と號したとある。そこで宋代の靑磁で之に該當するものを搜しても仲々見當らない。然るに他方郊壇窯を見ると其土は鐵の如く黑く所謂紫口鐵足であり、加之開片が滿面にあるから哥窯と云ふのは之であらうと云ふ說が卽今流行してゐる。明代の文獻なり傳說なりを信用せざるならば致方ないが、苟くも之に多少の信を措くならば此說は採用し難いことになる。筆者をして云はしむれば、哥窯の傳說は必ず其根據があつたもので、卽ち宋代龍泉に傳說の如き靑磁窯があつて裂文の多い器皿を燒いた。其名聲の高いのを見て南宋後期の官窯である郊壇窯が之を仿造したのかと推測するのである。支那の學者中龍泉窯址を一一囘に亘り踏査した陳垣氏の如きは龍泉大窯に哥窯の器皿の破片を發見したと云ふが、其確實な標本を擧げ得るまでは姑らく宿題として置く。13德〓後窯(珠光靑磁)德〓舊窯のことは既述した。德〓後窯は窯と同じく德〓縣に在るが、德〓の市街から水路約十八支里の運河々畔に在る。此窯で燒いた靑磁は我邦で古來珠光靑磁と云ふ手であつて、其破片が鎌倉海岸から幾らも出るので南宋時代の產であることが判然とする次第だ。珠光靑磁の胎土は灰白色であるが、露胎の處は鈍黃色のものもある。質は堅緻で傳世品を見るとネツトリとしたのがあるが、鎌倉及窯址から採收された破片を見ると可なり粗糙のものもあるから一樣ではない。釉は昔から珠光靑磁は枇杷色と云はれてゐるが、右兩所の破片を見ると必しも枇杷色に限らず、灰綠.灰靑緣、黄綠等の諸色もある。而して多くは釉が薄くかけてあつて厚いのは少い。器式は殆んど盌のみであつて、之に猫掻きと稱する一種の櫛目模樣の彫つてあるものが多い。而して釉は腰の下までかけてあるが、高臺及高臺の內底にはかけて無い。又破片を見るとベタ底のもあるが、これは恐らく皿であらう。然し傳世品には皿は殆ど見かけない。これ恐らく珠光靑磁は昔から茶碗のみを尊重して皿の如きは省みられなかつたが爲め早く破壞して棄てられたものと察せられる。灰靑14石碼窯(吳州石碼窯は卽ち吳州と稱する一窯器の產地であることは染付の項に旣述した。此地に一種の靑磁を產する。土は染付のと同じであるが釉が靑磁釉である。然し龍泉の靑磁釉と異り淡靑綠色の美くしい釉で、略ぼ透亮で表+、靑磁Scu
十、靑磁三m面は滑澤で多くは之に細かい開片が入つてゐる。而して染付の釉と同じ樣に全體に「ゼラチン」又は寒天樣の感じがある。大抵大小の皿が多く、時に盌鉢の類もある樣だ。而して無地のもあるし又花卉等を暗花で彫つたのもある。此外尙ほ靑磁を燒いた窯は少くないと思はれるが主要なる窯は旣に說き盡した。而して他の諸窯は未だ詳かならざるものが多いから之を省略する。而して他の諸窯は未だ詳か靑磁圖版解說第二圖(原色版)汝窯紅斑碗直徑七·六吋少し口の處が締つてゐる形の碗で高臺は小さい。灰色の磁胎で露胎の處は褐色がゝつてゐる。釉色は灰色がかつた「ラヴエンダー」色で不規則な氷裂文がある。而して內外に多少「シンメトリカル」に三つの大きな紅色乃至深紫色の斑がある。高臺の內底は「ラヴエンダー」色の釉がかけてある。此種の器皿は盃、皿、香爐、壺、瓶等々あるが、從來均窯に似て而かも薄作で且高臺の內底に掛釉してある等、作行が均窯よりも遙に丁寧で上手であるから恐らく均の官窯ならんと西洋人は官均窯と呼んでゐたものである。然し均窯に官窯が無い事實と、此種の器皿の作行が汝窯の舊窯と何等異るものなきを以て、筆者は之を汝窯なりと斷定する者である。尙本文汝窯の項を參照のこと。第十六圖第十六圖靑磁鳳首牡丹纒枝文等壺高一五·四分ノ一吋白色の磁胎に淡灰綠色の釉がかけてあるが、厚く濃くなつてゐる處では綠色が强く、最も厚い處は靑味がゝつてゐる。上が鳳首になつてゐて胴に牡丹唐草が彫つてある。此壺は初め越州窯に擬定せる人があつたが、近年吉州永和鎭窯であらうと云ふ說が有力である。時代は五代から宋初と云ふ說もあるが、恐らく唐代に溯るものであらう。然し何窯の產であつても、又何時代の作であつても、名作絕品と稱して憚らない。高一五·四分ノ一吋第十七圖景德鎭窯靑白磁瓶高一〇吋所謂影靑と稱する種類であつて胴が縱に括れて瓜形になつてゐる。北宋の產であつて此種の最も優秀なるものである。本邦にも類型の者があるが肩が撫で肩になつてゐて姿が稍や劣ると云はれてゐる。高一〇吋第十八圖汝窯盌所謂汝州舊窯の盗で土は稍紅味ある鈍黃褐色で釉は靑瑪瑙の如く美しき「コバルト」色である。蓋し硅石質を混じた靑磁釉であつて半ば失透せる處に名狀すべからざる美しさがある。外側よりも內側の方が發色がよい。而して開片の處に濃紺色の小點が集合排列して一種の美觀を呈してゐるが、これ此種の釉に間ま見る處の窯變である。某技術家が之を見て染めたのだと云うた笑話は本文に記載した(第一七頁參照)。此手の者の紅斑のあ+、靑磁三一
十、靑磯るのが卷首原色版第二圖の盌及次に記す第十九の花瓶である。三二第十九圖第十九圖汝窯紅斑花瓶高一一·五吋細長い頸の花瓶で胴は西洋梨の如き形である。口が少し開いて頸の下が甚だ細く締つてゐるから、姿が何とも云へない美しさである。灰色の磁胎で高臺露胎の處は茶褐色である。釉は蛋白石樣の灰色がゝつた「ラヴエンダー」色で紅紫の斑が滿面にある。高臺の內は掛釉してある。此手の器皿は皿盌等はあるが、斯る花瓶は全く絕無稀有で恐らく天下一品であらう。之は嘗て關西の某商人が支那から本邦へ將來したのだが、當時某と云ふ有名な鑑定家に見せたところ、某は其餘りに見事なのに疑念を抱き或は僞造では無いかと考へ自分の御出入してゐる金滿家に周旋しなかつた。それが爲め「デヴヰツド」卿の爲にマンマと攫はれたのださうな。我々から云はすれば此姿は到底にせの出來るものでないと思ふが如何。高一一·五吋第二十圖修內司窯琮瓶高七·二吋紅褐色の磁胎で底は平坦で掛釉してないが處々に釉のはねかゝつた痕がある。釉色は灰色がゝつた靑綠色である。此形は我邦では算木手と云うてゐるが、玉で造つた琮と云ふ器の形であつて支那では琮瓶と云ふさうだ。琮は黄玉を以て造り地祇を祭るに用ふと云ふ。此の瓶は其姿、胎土等から推察して恐らく南宋初期の內窯の產かと思ふ。第廿一圖郊壇窯龍耳八卦文六角香爐長徑一〇·八吋六角形で左右に長くなつて其角に樣式化した龍の耳が付いてゐる。口と脚とは外へ張つてゐる。胴に八卦文と、短い頸と脚とに丸い鋲の形が共に凸花で付けてある。此は銅器の形を摸したことは勿論である。胎土は灰黑色の炻器で足の露胎の處は赤褐色になつてゐる。釉は蒼灰色で厚く、之に赤褐色の裂文がある。第廿二圖砧手靑磁竹節花瓶高一尺一寸一名竹の子花生とも云ふ。龍泉窯の產で我邦で砧手と稱する靑磁である。作行は薄く胎土は露胎の處赫褐色である。釉は砧特有の冴えた〓楚なる靑綠色の釉が厚くかけてあり、其表面は「マツト」がゝつてゐる。寫眞に見える下の方と向ふ側の頸とに飛がある。此飛は無意識に出たものであつて茶人の喜ぶものである。尙ほ口作りは上端が內側に銳く彎曲して居り、同型の花瓶でロが只左右に開いたまゝの弱い作行のものと區別せられてゐる。此方は恐らく南宋初期の產で、弱い方のは多分南宋中期以降の產であらうと云はれてゐる。尙ほ此花瓶の底は第78圖參照のこと。第廿三圖砧手靑磁龍耳香爐高三·七五吋耳は甚しく便化せる龍である。胴の上部が帶狀に少しく隆起して形の單調となるのを防いでゐる。胎土は灰三三長徑一〇·八吋第廿二圖高一尺一寸第廿三圖高三·七五吋耳は甚しく便化せる龍である。十、靑磁胎土は灰
+、青磁白色の磁胎で釉は淡き灰綠色の靑磁釉である。口緣と高臺の下とは露胎で赭色である。た形で、釉は名狀し難い優雅な色澤であつて砧手と認定されてゐる。三四此姿は極めて洗練され第廿四圖砧手靑磁雙魚文皿直徑七寸此皿は砧手ではあるが、胎士は鈍黃色で、釉は黄色で透亮なビードロ藥である。還元熖で燒かるべきものが酸化焰で燒かれた結果である。所謂窯變の一種であつて鎌倉海岸の破片にも間ま此種黄色の破片が發見される。此黃色は一種澄んだ强い黃色であつて、鐵以外の釉の組成分子に何か此色調を呈する要素があるのではないかと思ふ。黄色の釉の中に泡沫が多く含まれて、中央に二匹の魚がゐる有樣は黄河長江等支那の河には靑綠の釉よりも寧ろ相應するかと思はれる。作行は薄手で銳く砧手の特色を具備してゐる。第廿五圓飛靑磁玉壺春瓶高一〇·七五吋玉壺春と云ふ形で、胎土は灰色の磁胎で釉は綠色の靑磁釉に光澤ある褐色の飛がある。此飛は意識的に造つたものであるのは一目してすぐ判る。所謂天龍寺手であるが薄胎であり、其姿、作行から見て南宋代の龍泉窯の產なることは恐らく誰も異論あるまい。第廿六圖靑磁龍耳鬼面獸脚等香爐直徑(耳共)九·一吋原圖の說明には耳は怪物だとあるが恐らく便化せる龍であらう。胴に鬼の樣な面がある。脚は恐らく漢銅の熊脚から脫化せるらしき獸脚である。灰白色の磁胎で底の露胎の處は赭色を呈し、釉は玉樣の綠色釉である。作行は確かりして宋代龍泉窯の產で、我邦で天龍寺手と云ふものに屬する。之は根津氏の蒐集中に在りしものを「デヴヰツド」卿に拔かれたのである。義大利越州窯龍波濤文金釦碗直徑五·七吋高臺が小さく淺い碗で、高臺は卷いてゐない。胎は灰色の妬器で、釉は灰色がゝつた「オリーブ」色で、內側に龍の首が玉を追つて波濤の間から出現する處を、又外側には波濤文が彫つてある。口緣には中の廣い金のふくりんが卷いてあるが金の質は良くなくて大分酸化してゐる。これ宋史、宋會要其他の書に金釦又は金稜と云ふものであることは疑が無い。尙ほ底には受臺に載せたときの砂が尙ほ附着してゐる。越州餘姚窯の產で、時代は五代から宋初までであらう。義大利直徑五·七吋第18第18越州窯鳳凰文等碗直徑六·九吋底が廣く高臺は所謂外へ卷いてゐる形である。見込の中央に小さな圓を刻し、之を繞つて二匹の鳳凰が刻してある。又内側口邊には帶狀に唐草文を刻り繞らし、外側は大きな蓮瓣が凸花に彫つてある。胎は灰色の磁胎で、釉は灰色がゝつた綠色の靑磁釉である。底には楕圓形の砂痕があり永の字が彫つてある。餘姚窯の產で恐十、靑磁三直徑六·九吋
十、青磁らく時代は前圖と大差あるまい。三六第57圖第57圖汝窯紅斑水丞高三·五吋第二圖(原色版)、第十九圖等と同じ手のものであるが、形は蓮の實の形で口が少し締つてゐる。胎は灰白色の磁胎で、高臺の露胎の處は褐色を呈してゐる。釉は厚く淡靑色の蛋白石樣の感じがあつて櫻眼がある。之に三つの稍S形の彎曲せる紅紫の斑が現はれてゐる。尙ほ釉は、口邊は薄く下の方は厚く滴珠の樣になつてゐる。紅紫の斑は「シンメトリカル」であつて、意識的に付せられたことは明白である。高三·五吋第58圖第58圖第十八圖汝窯盗の底裏第二圖(原色版)、第十九圖、第57圖等の底裏は皆此盗と類型である。と其作行が著しく異ることが一目瞭然である。之を第52圖均窯の碗の底裏と比較する第酒田均窯菖蒲盆直徑八·三吋側面が十二の反曲線を以てせる葉片に分れ、口邊は平坦で之に隆起せる反曲線の緣を廻らす。我邦では之を輪花の形と云うてゐる。足は雲形のが三つ付いてゐる。灰色の磁胎で、釉は外側は濃紫色に褐色のナダレと灰色がゝつた「ラヴエンダー」色の小斑點が密集してゐる。內側は灰色が濃く氷裂文があり、口緣には蚯蚓走泥文が直徑八·三吋走つてゐる。底は斑のある紫褐色の芝麻醬釉をかけ之に圓形に竝列する芝麻花細小の錚釘がある。底の釉下に七の番號が刻してある。支那では之を菖蒲盆と云ふ。菖蒲とは我國の石菖のことで之に石菖を植ゑるのである。此盆には此圖の如く輪花のと圓形のとあるが作行は略ぼ同じで、底には一から九までの番號が刻してある。又方形、長方形、輪花等の形の普通の植木鉢もある。是等の器にかけてある釉は、本文にある樣に玫瑰紫其他美麗なる色調のものが多い。此種水盤及植木鉢は從來均窯と云はれてゐたが、其作行の鄭重なる點から見れは矢張り汝窯の產かと思はれるが、今從來の呼稱に從つて均窯として置いた。底の釉下に第60圖汝窯紅斑皿直徑七·三吋此皿の形は側が低く、緣が平坦で、底が淺い。灰白色の磁胎で高臺の露胎の處は赭色を呈してゐる。釉は蛋白石樣の淡靑色を呈し之に稍「シンメトリカル」に紅紫の大斑が出てゐる。其周圍は紅紫色が淡くぼかしになつてゐて底の高臺內底は「オリーブ」綠色の釉がかゝつてゐる。第61及62圖第61及62圖宋均窯碗及同底裏直徑六寸八分典型的な均窯の碗であつて、胎土は高臺露胎の處は稍褐色がゝつた赤煉瓦色で堅緻である。内部はわからないが此手のものは大抵灰白色の磁胎である。釉は蛋白石樣の淡靑色乃至靑藍色で櫻眼が多い。之に紅紫の斑が出+、靑磁三百直徑六寸八分
+、靑磁二八てゐる。此碗と第十八圖及第58圖の汝窯の碗とを比較すれば直ちに其作行に著しき相違がある事が判ると思ふ。麥酒砧手靑磁纏枝牡丹文葫蘆瓶高四五·五m和らかい淡靑綠色の釉がかけてあると云ふ外說明がして無いが、一見して其砧手なることが首肯せられる。口に純金製の素晴しい裝飾が施してあるから、其貴重視されたことが窺はれる。昔から「トルコ、チノーブル」宮殿に祕藏せられたものだ第64圖天龍寺手靑磁浮牡丹香爐直徑九吋此種の凸花文樣は大抵貼花である。此香爐は濃厚な海綠色の釉がかけてあつて典型的な天龍寺手であると云do此型の香爐で砧手のものは我邦に於て國寶となつてゐるのがある。夢の里北方靑磁菊花唐草文碗直徑七吋洋人が北方靑磁と稱するもので、我等が汝州の新窯と稱するものである。胎は土氣の多い鈍黄灰色で、釉は薄い「オリーブ」綠色である。此の內側には羽狀の唐草文が廣い帶狀に彫つてあると云ふ。外側の唐草は菊花だと云ふが或は寶相華かも知れない。第64圖夢の里第66圖北方靑磁纒枝牡丹文合子直徑六·九吋圓形の合子で蓋は角が面が取つてある。胎は褐色の炻器で、細巧な彫花文の上に褐綠色の靑磁釉がかけてある。內側と底との釉は褐色調が强く、均窯の盆底を想起せしむと云ふ。第67圖及第68圖第67圖及第68圖砧手靑磁蓮瓣文碗及裏直徑四寸胎は高臺の處〓褐色を呈してゐる。外側は蓮瓣になつてゐて濃い縹色の釉がかけてある。其釉色は砧手の最も優秀なる色調である。作行は此種靑磁の特色として薄手であることは其高臺を見れはすぐ分る。直徑四寸第69圖砧手靑磁鳳耳花瓶高一一吋所謂砧形の花瓶に鳳耳が付いてゐる京都毘沙門堂の有名な花瓶と類型であつて、灰色の釉がかけてある。之には滑澤な綠色がゝつた第70圖七官靑磁皿底裏七官靑磁の皿の作行を示す爲に此寫眞を揭げて置く。前出砧手の底と比較して見ることを望む。甚だ種類が多いから、之は只其內の一種に過ぎない。明代中期以後の產で最も多い手である。+、靑磁三元但し七官は
十、靑磁三二〇第71圖第71圖天龍寺手靑磁浮牡丹文瓶微かに靑色調を帶びた灰綠色の靑磁釉がかけてある。高一九·五吋宋代の龍泉產であらうと云はれてゐる。第72圖北方靑磁蓮花文皿直徑六寸三分北方靑磁の手で稍透明な釉がかけてある。もある。此皿の釉は黄綠色であるが、此手のもので靑色調の可なり强いの第73圖影靑筍形水注高八·七吋胴が筍の樣になつてゐて蓋に獅子のツマミがついてゐる。白色の磁胎で底は掛釉せず、露胎の處は淡褐色を呈してゐる。釉は微靑色で泡沫が多い。時代は恐らく北宋であらう。高麗靑磁に類型の水注がある。高八·七吋第74圖第74圖影靑花卉唐草唐子模樣瓶高一六·二五吋口に蓋がある。白色の磁胎だが底は掛釉せず赤褐色を呈してゐる。釉は帶靑色で泡沫がある。模樣は椿.石榴蓮花等の唐草の中に裸の唐子がゐる。これ等は浮出模樣の彫花で、其中間の地には一面櫛目の刻花がある。前者も之も景德鎭の產であるが此方は時代は南宋であらう。鎌倉海岸から此手の破片が相當出る。高一六·二五吋第75圖修内司窯獸耳不遊環素方瓶高一二·四吋漢の銅器にある方壺の形を模したもので口と底とが同じ大さに締つて其姿は誠に優美である。胎は暗褐色の堅緻なる炻器で失透性の厚い釉がかけてあるが、其色は美しき靑灰色で、其肌は琢磨せる大理石の如く之に大きな不規則な裂文がある。其作行及胎等から考へると南宋中期前の作であらう。高一二·四吋第76圖郊壇窯碗直徑八寸六分口が輪花形の碗であるが底の露胎の處を見ると胎土は黑く鐵色である。釉は恰も大理石の如く全體に大小の開片があつて內側の釉色は殊に美しく碧玉の如く又琅玕の如く、胎土が黑いのを透映して稍陰氣ではあるが非常に奥深い感を抱かしめる。典型的な郊壇窯である。此碗は先年金澤から出た傳世品で甚だ珍らしいもので、横河翁が我帝室博物館へ獻納せられたものである。第77圖靑磁梅花文等輪花形皿直徑六·六吋輪花形の皿で高臺は小さく、灰色の磁胎で高臺露胎は赭色を呈する。釉は美しい滑澤な灰綠色の靑磁釉で、模樣の處は大體露胎で赭色を呈し之に處々白色及黃色の色釉を用ひて彩色がしてある。模樣は岩、梅三日月、蝙蝠等であるが、反對側に暗花で釉下に梅の花枝と三日月とが刻つてあるのは水に倒影した處を現はしたナ、靑磁1111第77圖直徑六·六吋
+、靑磁ものであらう。器底の作行は宋代と認められるが、其模樣と技法が宋代としては餘りに出來過ぎてゐる。且他に類例なき品であるから姑らく疑問として揭げて置く。第78圖第廿二圖砧手靑磁竹節花瓶底裏底裏の寫眞は諸書に揭げて無いから此にまた之を出した。此作行を注視して、前に出した第68圖の碗の底裏と共通の點があることを認むることが必要である。但し宋代の天龍寺手には間ま同一作行の底があるから、底計りでなく同時に釉色を以て之を判別することが必要である。且他第78圖第酒龍泉窯靑磁袴腰香爐直徑七·七五吋南宋代の龍泉窯靑磁で我邦で袴腰と稱せられる形である。此形にも砧手と然らざるものとあつて、砧手は甚だ珍重せられて高價だ。此手の香爐は足の尖端に少しばかり露胎の處があるが、殊に傳世品にあつては大抵ズルズルになつて砧特有のチヨコレート色が摩滅して分らないのが多い。加ふるに此手の香爐には砧と七官との中間の釉のものが少なからず存在して非常に見にくいものゝ一つとなつてゐる。之は金繕ひがしてあるが只形の說明に揭げて置く、釉色は實物を見ないから知る由がない。直徑七·七五吋(ホブソン氏著支那の陶磁による) (ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による) 79.建窯兎毫盛80.建窯銀條文碗十一、天目IIIII
81、玳十一、天玻盡十一、天目(雄山閣版陶器圖錄による)目83.梅花天目碗(ホブソン氏著支那の窯藝による) 82.吉安天目碗SIM (ユーモルツオプロス翁蒐集圖錄による)言84.鸞天目碗(同上)
十一、天目三六五85国口眼幾年直86出入浴池袋水ほこ焼き石膏塩にアイドルントンファン最大利用の悪によりダンンチキ十一、天目天目とは古來我邦に於て茶褐色、黑褐色乃至黑色の釉をかけた支那產の沫茶用の茶碗に與へた名稱であるが此名稱の由來については未だ定說が無い。只最も穩健と思はれる說は、天目とは浙江省天目山に因んだ名であつて、此地方は古來茶の名產地として知られ、又南宋から元代にかけて此地に禪宗の名僧が多くゐた。就中元代には有名な中峰禪師が住んでゐて、我邦留學僧が之に投じて鉗鎚を受けた者が少くなかつた。而して此等の留學僧によりて天目山から將來された茶碗に對して自然に天目と云ふ名を與へたものでものであらうと云ふのである。此初め名の起つた天目は福建省の建甌縣で作られた茶碗であつて、支那では建盞と呼ばれるものであるが、之と稍や似通つた茶碗に吉安天目(又吉州天目)と河南天目と云ふものがある。此等は各〓距たつた別異の地の產であるが今便宜上此に一括して說明する。1建窯十一、天目三五〇
十一、天目三八、建窯は福建省建寧府治の建〓縣內の水吉鎭と云ふ處に窯があつて宋代に盛んに燒いたのであるが、元明以後何時とはなしに廢絕した。而して此窯で燒かれたものは殆んど全部が茶碗であつて、他の器皿は非常に珍稀だと云はれてゐる。宋代に此地の窯が何故にかく盛んであつたかと云ふと、これは喫茶法と至大の關係があつて、唐末から漸次流行するに至つた抹茶法が五代から宋初にかけて天下を風靡し.中唐頃陸羽の時代に行はれた煎茶法が殆んど行はれざるに至つた。而して之と同時に試茶及鬪茶と云ふことが士大夫初め一般に流行するに至つた。茶といふものは煙草と同じ樣に產地によつて甚しく品質を異にし、甲地と乙地と隣接してゐても其產茶は大に品質が異ふものである。そこで、初めは茶を持寄つて之を試飮して其品位優劣を批評するのが主旨であつたが、後には其方法が形式に落ちて、抹茶を立てゝ其泡が長く持續して消えないのを以て勝れりと爲すに至つくら之が爲には茶液が長く其溫度を持續することが必要であり、早く冷却すると泡も之に從つて早く消えてしまふ。そこで成るべく茶液の長く溫度を持續する茶碗を物色すると、建盞が此點に於て最も勝つてゐると云ふので、人々が爭つて之を用ふるに至つたのである。然るに支那では抹茶法は宋一代を以て其流行が廢れ、元代にはまだ地方には其風習が殘つてゐたが、明代になると殆んど行はれなくなり淹茶法が之に代るに至り、茶碗も之に適當する景德鎭の靑花白磁が愛用せらるゝに至つたのである。此に於てさしも天下を風靡した建盞も世に棄てられ、之を燒く建窯も亦た廢絕するに至つたのである。建窯の胎土は非常に鐵分の多い土であつて、之が爲に褐色又は黑褐色を呈し、時としては黑色でさへある。釉も亦た鐵分を多く含有し、之が爲に燒成に際し種々の物理的竝に化學的變化を起して釉に種々の色調と樣々の文樣を現はすのである。但し建盞には作意的に模樣を現はしたものは殆んど絕無と云うてもよい。我邦では此釉に現はれてゐる色及文樣によつて種々の名稱を與へてゐるが、支那では大體兎毫盞と鶴鴣斑との二つ位しか名稱は無い。而して我邦で禾目天目と稱するのが兎毫盞に該當し、油滴と云ふのが鶴鵠斑らしいと云はれてゐるが我邦では此外に灰被ぎ、柿天目、蓼冷汁、烏盞曜變.靑兎毫、黄兎毫等種々の名稱を與へてゐる。以下二三の例について說明して置く。イ、曜變、又容變曜十等に書いてあるが恐らく窯變のあて字であらう。窯變とは釉の成分と火加減とによつて全く豫期せざる色又は文樣が現はれたものであるが、極めて高度の偶然的變異現象であつて何百萬又は何十萬個の內に僅かに一個しか出來ないものであるから非常に珍貴なものである。從つて君臺觀左右帳記の書かれた足利時代に在つては、之を以て建盞の內の無上の品なりとして天下に多からぬもの其價萬匹と評してある。然るに時代が下つて戰國時代と爲り利休が主張せる佗び茶の湯の時代になると此の如き艶美なる茶碗は使用に堪へぬとして排斥せられた。卽ち其頃書かれた茶器名物集には代輕き者だと品評してある。然らば窯變とはどんなものかと云ふと、第廿七圖にあるのがそれであつて、詳しきことは同圖の解說に讓るが、要するに艶麗無比で或は之を妖變と稱するのが最も適切でないかと思はれるものである。ロ、油滴これは恰かも油が滴沫を爲せるが如き觀を爲すもので第廿九圖に示すのが其例であるが、之も窯變の一種に相違ないが其文樣によつて油滴と名づけてある。此方は曜變よりは少し多く數がある樣であつて珍らしいことは珍らしいが曜變ほど艶美では無い。君臺觀左右帳記には上々は曜變にも劣らぬ五千匹と評價し十一、天目三八
十一、天目10mてある。烏盞これは特に釉色の黑きものを指したのであらうと思はる。君臺觀左右帳記には三百匹に評價してある。ニ、灰被灰潜とも書く。これは釉の融解不十分で失透し恰かも灰をかけたる如き觀があるから名づけたものである。其內で綠色の著しきを蓼冷汁と云ふ。灰被は總じて灰白色、蒼綠色、乃至茶褐色等に變色して光澤が無いから利休時代には最も之を賞美した。此外柿天目と云ふのは赭褐色で柿色をしたものである。建盞には大體二つの形がある。一は口が端反りになつて開き高臺が比較的締つてゐる所謂撤口であるが、此方には大形が多い。他の一は幾分深目で口の處が煙り返しになつて少し締つて又開いてゐる。時代から云ふと前の方が恐らく古くて北宋の中期頃迄の形であらう。而して後者は恐らく北宋の末期から現はれたのではあるまいか。勿論北宋の末頃には兩方が併用された時代もあつたであらう(第廿八及80圖は前の形、第79圖は後の形)。尙ほ建盞の高臺は蛇の目の形で厚いが高臺の中は比較的淺く、釉は腰の下か精々脚の處までしかかけて無い、而して藥切れは滴沫狀を爲してゐるものが多い。高臺及脚の削り方等は第79圖を見られ度い。盞これは特に釉色の黑きものを指したのであらうと思はる。君臺觀左右帳記には三百匹に評價し2吉安天目(吉州天目)吉安天目と云ふのは吉州窯の產である。此窯は江西省吉安府廬陵縣永和鎭に在る。我邦に於て古來鸞天目、木葉天目、玳玻盞、梅花天目等の名を以て呼ばれたものは、昔は漫然建盞と同じ產地から出たものゝ如く考へられてゐたが、三十年許り前から支那古陶磁に關する知見が廣くなるに從ひ、此等は作行から見て建盞とは別異の一群を爲すものであつて恐らく產地も異るものならんと云はれてゐた。而して西洋磁學家は支那骨董商の言說に基いて其產地を吉州窯だと言ふに至つたのであるが、何分支那商人の言であるから奈邊まで信賴できるか實は半信半疑であつた。然るに西紀一九三七年の夏新進の磁學家「ブランクストン」氏は自から永和鎭の吉州窯址に赴き多くの破片を手に入れたが、其中に所謂文字天目、梅花天目等幾多の破片もあつて此等が此地の產なることは殆ど動かぬことゝなつたのである。吉安天目は胎土が鈍黃色乃至鈍黃灰色で砂氣があり、而して釉は殆んど疊付の際までかけてあるが、高臺の作りが何れも皆甚だ貧弱なのが著しき特色である。形は殆んど皆茶碗であつて他の形は稀有であるが、茶碗の形は種々あつて高臺が比較的小さく一文字に左右に開いた北宋特有の形もあり、又稍深目で口が少しく締り之に煙返しの付いたのもあり、或は煙返しの無いのもある(第83及84圖參照)。地色は茶褐色乃至褐色であつて建盞よりも淡く、作行も亦た稍や薄い。而して文樣は建盞と異り人爲的に現はしたもので種々ある。我邦で古來名高いのは鸞天目(鳳凰が出てゐる第84圖)、梅花天目(第88圖)、文字天目(香狭間を現はし其內に金玉滿堂、長命富貴等の吉祥文字が書いてある)。玳玻盞(恰かも鼈甲の如し)、木葉天目等であるが、此他にも例へば餅花手に似た堆花のあるもの、灰白、蒼綠等の色で縱橫に環狀又は抛物線樣の文樣を現はせるもの黃色の地に赭十一、天目를
十一、天目三褐色のなだれのあるもの等色々ある。吉安天目にも時代により形と文樣に變化があると思はれるが詳しいことは判らない。筆者の實見せるものについて云へば吉安天目の上手の者は二つ見た。其一は木葉天目であつて稍大ぶりの茶碗であるが高臺が小さく形は一文字に左右に開いた北宋の形で、極めて薄作であつた。地色は光澤のある柿色で見込の中央に木の葉が一枚現はれてゐる。一體木の葉天目の木の葉は如何にして現はしたか疑問であることは既述したが(模樣の項參照)、此木の葉は大體が淡黃色と靑綠色で網狀葉脈がよく現はれてゐて到底筆では書けさうもない。又他の一は玳玻盞であつたが、これも一文字形の大ぶりの茶碗で薄作であつた、而して其釉は內外共黑地に黃色又は黃地に黑色の大小不規則の斑があつて釉に美しい光澤がある。恰かも鼈甲で作つたものそつくりに見える。成るほど之を玳玻盞と云うたのは尤もだと思つた。案ずるにこれ必ず鼈甲を仿模したものであらう。而して玳玻盞の名は之から起つたのであつて、鸞天目や梅花天目までも玳玻盞と稱するのは不當に其名を擴大するものである。因に前者は先年たしか重要美術品に指定され、後者は一兩年前國寶に指定された。三3河南天目此種のものは河南省方面から多く發見せられるから西洋磁學家は假に河南窯又は河南天目の名を之に與へたのであるが、實は獨り河南のみならず河北から甘肅省に至る間の北部及西北部の支那各地到る處から發見されてゐる。而して其釉は相互に似通つてゐるが胎質は種々異つたものがあるから、產地も恐らく右の諸地方に多數散在して決して一二の窯に止まらないであらうと云はれてゐる。河南天目の胎土は鈍黃、鈍黄白、蒼灰乃至蒼黄白色の炻器質で多少磁化せるものもある。又白色乃至灰白色の純然たる磁器質の者もある。釉は建窯と同じく鐵分が多く、黑色乃至褐色を基調とし之に褐色の斑があるものが多い。而して河南天目の褐色の斑は建窯と異り、一見不作意の觀あるものも實は故意に現はしたものであつて、時に木の葉、寫生風の花卉、便化せる圖案等が見られる。又時としては濃厚なる黑釉がスパニールの毛の如き光澤を有し、驚くべき深さと光澤とを現はせるものもある。中には又全面に平坦に赤褐色又は褐色の釉をかけて毫も黑色を現はさゞる柿色のもあるが、此場合には釉の表面は多少マツトになつてゐる。而して此褐色釉は一般に黑色釉よりも薄く失透性で流動してゐないが、此兩色が一器に共用されてゐるときは黑釉は褐釉よりも一段高く盛上つて見える。河南天目の器式は壺、瓶〓罐鉢、皿等凡百の器に及んで茶碗の如きは寧ろ少い。釉色の如きも上述の外に黑釉にクリーム樣の白釉を組合せたのもある。前陳の如く河南天目の產地は廣汎の地域に亙つて其窯も多數であるべきが故に器式、胎釉の種類が多いのは當然であるが、之を建盞、吉安天目と對比すると其胎釉及作風に著しき相違があり、就中高臺の作りは決して吉安天目の如く貧弱でなく一目瞭然たるものがある。油滴天目と古來我邦で稱したものゝ內に建盞とは著しく異る一手があつて、此者は油滴が滿面に出てゐるが十一、天目care產地も恐らく右の諸地方に多釉色の如きも上述の此者は油滴が滿面に出てゐるがcare
言十一、天目釉が薄く土は建盞と異り、形も宋代よりは下る樣で恐らく元明頃の河南窯の一種であらうと推測されてゐる。天目圖版解說第廿七圖曜變天目茶碗直徑四寸曜變天目は我邦に現存するもの六個ありと云ふことである。而して支那にも外國にも他に一つもないから我邦の六個は世界中の六個である。而して就中此圖に示すのが拔群に優れてゐる。此は古來稻葉家に傳來して稻葉天目と云はれて有名なものである。二三年前國寶に指定された。博物館藏異本君台觀左右帳記には曜變天目に關して左の通り述べてある。地いかにも黑く、濃き瑠璃薄き瑠璃の星一面にあり、又黃色、白色濃淡の瑠璃等混淆して錦の如し。今泉雄作翁は左の如く述べてゐる。曜變。眞黑也、或は紺靑地の釉に九曜、七曜の形の如く、所々に花紋を爲し、其點の色紺靑、紅黃等の暈を成す。如何にも兩說共各其一端を說いてゐるが、之れだけでは實感を喚起することを得ない。然し曜變天目の實感形容は遙かに筆舌を超越してゐるから說明を試みても或は到底目的を達し難いかも知れないが、試みに記憶によりて拙き筆を進めてみる。直徑四寸又黃色、白色濃淡の瑠璃等混淆して錦の如し。七曜の形の如く、所々に花紋を爲し、其點の色紺靑、紅黃等の1器式は口が一寸煙り返しになつてゐる形であつて、高臺の作行は尋常で建盞に見る形であるが只幾分丁寧に造られてゐる樣だ。胎土の色も灰黑色で別に異る處は無い。釉は外側腰の下までかゝり、藥切れは不規則で藥溜りを爲し、一箇處特に稍大きく滴沫狀を爲してゐて其傍に土はげがある。釉の地色は漆黑で著しき光澤があつて美しく.之に徴細の長き裂文が少しばかり迷走してゐる。而して外側は此眞黑の釉が大部分で處々に紺靑の濃艶な「コバルト」色を現はしてゐる。其最も驚くべきは内側の所謂曜變であつて、內側も亦た外側と同じく光澤ある眞黑色が基調であるが、紺靑色の出てゐる部分が多く、就中星の近傍に著しく濃艶なコパルト色から淡紫淡紅、淡綠.淡黄等のなだれを現はせる處がある。星は見込中央には無く、中央から内側へ立上る邊から或は小さく或は大きく三々五々群落を爲して內側一面に散在してゐるが、口邊には亦た一も無い(圖版參照)、而して星の色は其中央は色薄く灰色の濃きが如く見ゆるが其周圍は紅、緣黃等七色の量層を爲して黄金樣の金屬的虹彩を放ち、視角の動くにつれて其色が條忽として變化すること恰かも玉蟲を見るが如くである。而して此星が圖の如く一面に散在してゐるから、晴天の日には假令室内太陽の直射せざる處に於て之を見ても一面に朦朧として霧の立上るが如く、其正體をよく見極め難い、宜しく梅雨の候か朝夕太陽の光線徴かなる時に於て見るべきである。又星の群落のある地域は其色彩から云ふと大體二通りある。其一は紺靑乃至コバルト色を主調とするもので比較的內側の中邊より下方に多く出て居り、他は黄金色を主調とするもので比較的上の方にある。而して紺靑を主調とする地域にも靑色の明快に現はれてゐる部分あり、暗調を帶びて周圍の漆黑地に融合せる部分あり、十一、天目三三五而して外側
十一、天目三三六又コバルト、鈍黄、黝黑の縦線混走して所謂兎毫狀に排列せる部分があつて、地域内の大小の星及其周邊から七色の虹彩を放つのである。而して黄金色を主調とする地域は、之をすかせば地域一帶に强烈なる金屬樣黃彩を放ち其內に淡靑、淡紅等の光彩が認められる。大體右の如き茶碗であるから之を妖變と稱するも不可なく、之で茶を飮むべきものではあるまい。之で茶を飮むべきものではあるまい。第廿八圖第廿八圖油滴天目碗直徑七吋半大ぶりの撤盞で建盞の油滴であるが、油滴が少し小さく密集し過ぎて理想的には出てゐない。油滴のある茶碗で優秀なものは恰かも大理石の如く燒物とは見えず、而して油滴は銀白色を呈してゐるものである。外側藥切れは藥が溜つてゐるが、これも建窯の一特色である。油滴天目直徑七吋半第廿九圖河南窯鐵鉢形鉢萬七好鐵鉢形を爲した鉢で、此形は正倉院の御物に綠釉をかけた三彩手に幾多の例があるが、他に餘り類例が無い。尤も間ま此形があるが、此鉢に比すれば形が大に崩れたものが多い。之は底の尖つた處の釉が薄くなつてゐて胎土が灰白色なることがわかるが、口緣は金屬のフクリンが付けてある。恐らく伏せ燒にして、口緣は露胎であらう。釉は厚く暗黄褐色に褐黑色の縱縞がある。宋代の河南窯に考定されてゐるが、時代は恐らく唐迄溯るものであらう。萬七好第79圖第79圖建窯兎毫盞高三·四分ノ三吋所謂兎毫盞であつて、宋代建窯の產として典型的のものである。其狀恰かも野兎の毛の如くであるから兎毫盞と稱せられた。高三·四分ノ三吋紫黑色の地釉に金褐色のなだれが出てゐて第80圖第80圖建窯銀條文碗直徑六·四吋端反りで所謂撤口の形である。高臺は小さい。胎は黑褐色で之に厚い紫黑色の釉がかけてある。而して此釉には圖にある通り銀色の條文が一面に縱走してゐる。博物館本の君台觀左右帳記には「地藥黑く、銀の如くきんはしりて、同じく油滴の如く星のあるもあり三千匹」とある建盞なるものに該當する樣に考へられる。要するに油滴の星が流れて長く條文になつたものである。直徑六·四吋第81圖玳玻盞直徑三寸九分内側は梨皮色の地釉に黑色花文十五を配し、口邊に唐草文樣帶を現はした碗で、吉安天目である。本文にある通り之を玳玻盞と云ふのは當らないが、古來其名を以て呼ばれ來つたものであるから姑らく之に從つた。此碗は先年國寶に指定されてゐる。蓋し此手の優秀品である。十一、天目Sid,
十一、天目三三八第82圖吉安天目碗直徑六·四吋鈍黄色の炻器質の胎に微かに褐色の斑ある黑色の釉をかけ、之に白色及び茶灰色の浮滓のある黃褐色の厚い色釉が大膽にはねかけてある。此碗は口邊に少し煙返しのある形で、宋代の吉安天目に考定されてゐる。第88圖梅花天目碗直徑四·六吋鈍黄色の炳器質の胎で外側に暗褐色の釉をかけ、で梅花文が現はしてある。宋代の吉安天目である。內側は紫色がゝりたる兎毫樣の灰色釉をかけて之に褐黑色第84圖鸞天目碗直徑五吋口邊に煙返しのある形で、鈍黄色の炻器質の胎に外側は黄灰色の斑のある黑色天目釉をかけ、内側は兎毫樣の灰色釉であるが、口邊に近く帶靑色を現し、下方は灰色に深黃色の小斑點がある。而して見込中央に梅花一輪を、內側に二羽の鳳凰と胡蝶とを褐黑色で現はしてある。宋代の吉安天目である。義語河南窯廣口瓶高九吋半圖に見る如き特異の形の瓶であつて、口が廣く張つて頸が細長く肩は平坦に張り廣がり、胴は短かく急に腰から脚へ窄まつてゐるが足はまた少し廣くなつてゐる。鈍黄白色の磁質の胎に厚い栗色の褐色釉をかけ、其上に頸を中心に黑色の釉がかけてあるが、此黑釉は胴の下方と口の內側になだれになつてかゝつてゐて、肩及足に藥溜になつてゐる。宋代の河南窯に考定されてゐるが、時代は恐らく唐末乃至五代に溯るものであらう。我博物館にも横河翁の獻納された殆んど同じものがある。第86圖第86圖黑褐釉飛鳥文瓶高一〇吋半西洋梨の形の瓶で、玉壺春の少しく肩の太くなつた姿である。鈍黄灰色の胎に褐黑色の厚い釉をかけ、胴の兩面に褐色の釉で便化せる飛鳥が二羽畫いてある。西洋磁學家は之を宋代の磁州窯に考定してゐるが、類型の瓶に花卉を現はせるものを河南窯に考定してあるから彼等自身迷つてゐるのであらう。實物を見なければ何とも云へないが參考の爲に圖示しておく。高一〇吋半十一、天目三元
+11°但趙四五0 88白釉輪花形碗87.白釉輪花形瓶(アシュトン及グレー氏著支那美術による) (ホブソン氏著支那陶磁による) 89-白釉瓶90怪獸把手水注(ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による) (ホプソン氏等著支那の窯藝による) +11'一二麴加図1
十二、十二、白白リングジャールド氏著支那古陶磁によ6))磁磁93.白定窯彫花蓮花文皿(リュツケル·エムデン氏著支那古陶磁による)日本業務省事件本日本大学大学1) 25豆腐(コーチルプオプロス翁蒐集國錄による)白定窯印花鳳凰纒枝花井文碗言94.玲瓏白磁碗(ホブソン氏等著支那の窯藝による)
十二、白磁言十二、白磁白磁の項目の內に白色又は之に近い燒物を一括して述べるが、時代から云ふと上は六朝から下は現代に至るまで、又地域から云へば景德鎭を中心として殆んど支那全土に亘つて散在して其產窯があるから、之を悉く說明することは到底此書の及び難きところである。且つ歷代白磁の產窯及其器皿の實體につきては今尙ほ詳ならざるものが多く、例へば杜甫の詩によりて名高き四川省大邑窯の如き、又陸羽の茶經によりて名高き河北省の那州窯の如き今尙ほ其窯址を訪ひたる者なく其實體も分らないのである。從つて此には只景德鎭、定州、磁州、德化等二三の比較的明かなものゝみにつきて略說することゝする。白磁は景德鎭、定州、德化の如く胎土の白色の場合には只之に白色又は無色の釉をかけさへすれば直ちに之を得られるのであるが、胎土が白くない場合には之に白土の化粧掛を施さなくては白色の器皿は得られない。磁州窯の如き其例である。又既述の通り白色の釉と雖も殆んど例外なく微量の鐵を含有するものであるから、酸化焰燒成の場合には微黄色を呈し、還元熖燒成なれば微靑、微綠等の色を呈する。只中性焰の場合には靑くも黃色くもならざる理であるが、元來鐵は酸化鐵の形で存在するのが常であるから此場合には微黃色を呈するであらう。かくの如くであるから純粹の白磁と云ふものは殆んど無い譯であるが、此には理窟は拔きにして先づ白く見えて染付、赤繪其他色釉の用ひてない器皿のみを說くことにする。1景德鎭窯景德鎭窯は屢說の如く白色の胎土であるから古くから白色の器皿を燒いたことは疑ないが、唐以前の器皿は甚だ稀少でよく分らない。唐代には先年國寶になつた菅公遣愛の白磁硯は此窯の產と考定されてゐる。而して旣述の如く北宋代に下ると鐵分の含有を利用して胎に彫花、印花、錐花等を施して意識的に影靑と稱する一種の靑磁を燒いたものが多い。これは南宋代にも行はれたが南宋代になると他方に微靑色を呈せしめないで意識的に白色の器皿を燒いたと認められるものがある。これは南定と稱するものであつて、北宋末に北支那が金の爲に占領せられ定窯も廢滅に歸せる際、定窯の熟練せる陶匠が江南に逃れ來つて景德鎭に定住し、定窯の器皿に仿つて此地で作つたものであると云はれてゐる。此種の器皿は碗と皿とが主であつて之に彫花、印花、錐花等で文樣を施し白色の釉がかけてあるが、器式、文樣共に北宋代よりも溫雅となつてゐる。而して元代になると元の官窯だと云はれる樞府窯の白磁となるのであるが、これは薄胎で大抵見込に樞府の二字が堆花又は錐花で現はれてゐるが、其文字は朦朧としてよく讀めないものが多く、形も崩れてゐるのが多い。明代初期就中洪武永樂頃は染付の技法が未だ熟達せず且前からの遺風もあつて白磁が珍重された。從つて官窯の名品も此種のものが多かつた。然し所謂脫胎磁で薄手の器であるから現代まで完存せるものは甚だ稀少で十二、白磁蛋白豆
十二、白磁員あつて殘念乍ら我邦では未だ發見されてゐない。支那及外國の例も後世の仿造が多く、眞の永樂脫胎杯は甚だ稀少であると云はれてゐる。而して此ものは大抵壓手杯と稱するものであるが、實は碗の大きさで口が少しく端反りになつて腰の處が折れてゐる。內側に雲龍の暗花があつて、見込に同じく暗花で永樂年製の篆體四字款がある。又雲龍の代りに蓮座に載つた八吉祥を現はせるものもある。此他永樂染付の蓮子碗と同じ文樣を堆花で內外側に現はせる無款の蓮子碗、穿花又は穿雲鳳凰を堆花で現はし永樂の四字款を暗花で現はせる皿、蓮花に八吉祥又は梵字を現はせる無款の僧帽瓶、〓朝御府舊藏の錐花双龍無款の高足盗、同劃花蕃蓮八寶高足盗(永樂年製の暗款がある)、同錐花葵花殘(無款)、同劃花纒枝蓮梅瓶(無款)、同三繫把壺(無款)等が其例であると云はれてゐる。宣德以後になる景德鎭では染付赤繪等に主力を注ぎ、純粹の白磁は極めて稀少であつて殆んど見かけなくなる。然し第94圖に見る如き精巧なる透し彫の器が萬曆頃に造られてゐる。之は純粹の白磁ではないが稍之に近いものである。それから明末から〓初頃にかけて我邦で饒州と呼ばれてゐる開片の多い、鈍黃乃至微灰白色の單色磁の內に此窯で造られたものもある。然るに〓代になると仿古の氣運に乘じて定窯の仿造が多く此地で造られ之を粉定と呼んでゐる。此種のものは大抵漿胎であつて文房器具の如き小點が多く、印合、水丞、小盂、香合等をよく見かけるが、多くは之に錐花、印花、堆花等で螭龍、花卉等の文樣を巧みに現はしてある。又時としては德化窯の仿造もあるが、胎及釉が異るから一見して判るものである。又他方には前述の永樂窯白磁脫胎杯の仿造も少くない。2定窯定窯は北宋代に最も盛んであつた窯で、優秀品を產し、一時は官窯であつた。其窯址は河北省曲陽縣澗磁村と云ふ所に在る。初め其所在地が判明しなかつたのを、先年小山富士夫君が共產匪の蟠居せる中を彈丸雨飛の危險を冒して踏査せる結果、大小八個の山の如き破片群を探し當てて其所在地が明かになつたのである。定窯の起原は可なり古いと思はれるが詳で無い。其初めて文獻に現はれたのは唐代の書である唐本草に藥物として定州の磁器の粉末を用ふることが記してある。定窯として今日一般に知られてゐるのは北宋代の產で、其器式は碗と皿とが多いが、瓶、壺.香爐其他種々のものがある。而して之に印花、彫花、錐花等で牡丹、萱草、蓮花、魚藻、水禽、飛鳳、雲龍、石榴、唐子、牛馬等種々の文樣が現はしてある。定窯の胎土は純白色の細緻なる磁質を以て原則とするが、時に微黄色を帶ぶるもあり、又磁化不十分なるものもある。只何れの場合に於ても露胎の處が火の爲に毫も變色してゐないのが一の特色である。定窯には化粧掛を施してない。蓋し其胎土が殆んど純白であるから化粧掛の必要がない爲である。或は化粧掛をしてある樣に云ふ者があるが誤である。釉は白色失透性の釉であるが、時としては微黄色又は徵紅色を帶びてゐる。又極めて稀には還元熖で燒かれ十二、白磁三巴香爐其他種々の石榴、唐子、牛時としては微黄色又は徵紅色を帶びてゐる。又極めて稀には還元熖で燒かれ三巴
十二、白磁三八て微綠色を呈せるもある。而して定窯の碗皿は原則として伏燒で高臺に掛釉し口緣は露胎であるから、之に金屬のフクリンがかけてあるものが多い。定窯は白色の釉をかけたのが通常であるが時として柿色の釉又は黑色の釉をかけたものがある。而して之等には時として金彩を施したものがある。稀には白定金花のものもある。又宋代の文獻には紅定なるものが見えるが、現代未だ發見されてゐない。北宋代の定窯を北定と稱するが、之に對して南宋代景德鎭で造られた定窯の形式の器皿を南定と云ふことは景德鎭窯の白磁の項に旣述した。又土定と云ふものがある。これは恐らく南宋時代定窯又は其附近で燒かれた下手物の定窯であらうと云はれてゐる。定窯は宋代既に諸所で仿造が行はれ就中泗州、宿州等の產が著名であると云はれてゐる。之に金宿州等の產が著名であると云はれてゐる。3磁州窯磁州窯は種々の形式文樣のものを燒いたのであつて詳細は別項に陳べるが、此には只其白磁についてのみ略述する。元來磁州窯の胎土は鈍黄灰色乃至蒼灰色で稍粗き妬器質であるが、釉の項にも述べた通り之に純白色の白土を以て化粧掛を行ひ、其上に無色透明の釉をかけると化粧掛の純白色と釉の光澤と相俟ちて極めて美觀を呈するものであつて、其美しいことは定窯を遙かに凌ぐものがある。故に明初の書格古要論には定窯よりも貴いと評してゐる。然し純白色の定窯は寧ろ稀少であつて、大抵鐵砂か搔取法によつて模樣が現はしてある。又時としては胎に堆花、彫花を施し其上に化粧掛を行へるものもある。4德化窯德化窯は福建省の德化縣に在る。通說によれば既述の如く元代以降喫茶法の變遷によりて福建省の建窯で造られた建盞が用ひられざるに至り、淹茶に適する白磁或は靑花白磁が之に代りて用ひらるゝに至りたるを以て德化の白磁窯も大に隆盛となつたと、云はれてゐる。其後引續き此地の窯は現代に於ても燒造してゐる。德化では染付及赤繪も燒いてゐるが、然し其最も特色ある器皿として有名なのは白磁である。德化白磁の器式は香爐、瓶壺から日用の雜器碗皿の類に至るまで種々あるが、然し就中其最も特色あるは神仙及佛像の類で、時としては西洋人の像もあり、又鳥獸の像も造つてゐる。德化窯の胎と釉とは又極めて特色があつて、何れも白いのであるが、胎と之にかけてある釉とが渾然一體を爲して其境界が判然としない。而して之を光に透せば可なり厚手の胎であつても光を透して恰かも料(ガラス)の如き感じがする。德化窯の色は純白色が原則であるが、多くは牙黄又は微紅色を閃するものである。これだ屢說する如く微量の鐵分の存在によるのである。而して〓末以降の產は微綠色を呈するのが多い樣であるが、これは燒成焰の變遷を物語るものであらう。十二、白磁三角三角
十二、白磁我邦では德化窯のことを何故か白高麗と呼んでゐる。」INO白磁圖版解說第三十六圖第三十六圖白定窯彫花蓮花文皿直徑八寸五分典型的な白定窯の皿であつて、見込に蓮花文樣を彫花で現はし、高臺に掛釉してあるが、口緣は露胎で銅のフクリンがつけてある。品である。直徑八寸五分周邊は雷文の帶を繞らしてある。伏せ燒で横河翁が博物館へ獻納せられた定窯の優秀第三十七圖第三十七圖白定窯彫花蓮瓣文樣葫蘆水注高八吋全體が瓢形をした水注であつて、外部一面に蓮瓣が凸彫で現はしてある。形が整然としてゐるのは恐らく北宋の盛期の作であるからと思はれる。釉色は牙白である。第三十八圖紫定窯金花牡丹文碗直徑四寸三分褐色の釉がかけてあつて之に金彩で牡丹の如き花が現はしてある。尙ほ銀彩も用ひてあると云ふが筆者の記憶に無い。金花は金箔であつて金泥では無い。褐色は支那では紫の內に入るから、之が所謂紫定であらうと云高八吋形が整然としてゐるのは恐らく北直徑四寸三分はれてゐる。白磁の部に揭げるのは變であるが他に入れる處が無いから便宜上此に揭げた。第三十九圖德花窯觀音像高六寸八分殆んど純白の釉がかけてあつて背に宣德の角印と何朝宗の瓢形印とが釉下に捺してある。果して宣德まで溯るか疑問であるが、顏が陳賢の觀音像と略ぼ同じ型で明代の特色を現はしてゐるから明代の產なることは確かである。尙ほ此種の像は古いものは非常に厚手で手で捏ねた痕があるが、時代の下る者は段々薄くなり殊に〓末の產は型で造つた痕が歷然としてゐる。此像の底露胎の處に培の字が彫つてあるが恐らく作家の名であらう。第87圖白釉輪花形瓶高七吋此瓶は口が胴よりも少しく開いて輪花の形に八個の半圓形にくびれてゐるが、甚だ類例の稀な姿であつて恐らく西域の影響によるものと思はれる。鈍黄色の胎に少しく裂文のある同色の釉がかけてある。用途は恐らく花瓶であらう。唐代に考定されてゐる。第88圖白釉輪花形碗直徑三·四分ノ三吋前圖と類型の器であるが、然し此方は前のよりも小さく、形も多少異つて五瓣の花輪形の口が廣く、茶碗であらう。牙白色の釉がかけてあるが處々微紅色を帶びた鈍黄色の汚れがある。唐代の產に考定されてゐる。十二、白磁三五一
十二、白磁三第89圖白釉瓶高一八·四吋此瓶の形は甚だ特異であつて類例の稀なものである。灰色の磁胎に「クリーム」色の白釉がかけてある。而して上にもと黑色が塗つてあつた痕跡があると云ふ。時代も產地も明かでないが、宋又は以前に考定してある。管見によれば此形は六朝末隋頃迄溯るものであらう。白高一八·四吋第90圖第90圖怪獸把手水注高三·五吋口の廣い、短かい注口のついてゐる水注であるが、其だ把手が甚特色があつて一匹の怪獸が双手を口にかけて中を覗いてゐる形をしてゐる。白色の磁胎に牙白色の釉をかけてあるが、處々淡褐色の滴珠及藥溜になつてゐる。其形から見て唐代の產なることは疑ないが產地は未詳である。尙ほ下に鬼面の足ある臺座がついてゐると原書に說明してあるが、これは明かに唐代の磁硯であつて、水注とは無關係だ。第91圖白定窯彫花牡丹文龍口水注高一九m. c.堅緻な白色の磁胎に、胴の周圍一面大きく牡丹唐草を浮彫にし、之にクリーム色の釉がかけてある。宋代定窯の名品である。高三·五吋之にクリーム色の釉がかけてある。宋代定第2圖第2圖白定窯印花鳳凰纒枝花卉文碗直徑六·九吋底の小さい口の開いた形の碗で、白色の堅緻なる磁胎に印花で見込に一輪の花、內側に二羽の鳳凰と花卉唐草文とを現はし、之に美しい「クリーム」色の釉がかけてある。伏燒であるから高臺に掛釉し、口緣は金屬の「フクリン」がかけてある。此文樣は唐代に流行した所謂花喰鳥であつて、宋代尙ほ此文樣が行はれたことを立證してゐる一例である。第93圖白定窯彫花蓮花文皿直徑二六四堅き白色の磁質樣の胎に蓮花文樣を平彫にし之に牙白色の釉がかけてある。伏燒であるが口邊の「フクリン」は剝脫して胎が現はれてゐる。宋代定窯の產である。直徑六·九吋第93圖直徑二六四伏燒であるが口邊の「フクリン」第94圖玲瓏白磁碗直徑三·八吋此碗は胴に卍字の文樣を透し彫にし、之に四個のパネルを置き、其中に八仙人を二人づゝ貼花で現はしてある。此仙人の像及びパネルの輪郭は掛釉して無い。而して口邊及脚は靑色の地釉に白色の堆花で唐草文が現はしてある。されば純粹の白磁ではないが、此手で純粹の白磁の寫眞が見當らないから之を揭げて置く。萬曆頃の景德鎭窯に考定されてゐる。此透し彫は〓代乾隆窯に至つて更に精緻なるものを產した。十二、白磁三三
十二、白磁三四第11圖3白磁水注(鉅鹿)高一一吋半俗に鉅鹿陶と稱せられるもので、河北省の鉅鹿から近年出土する燒物であり、此手の水注も相當數が出ると云ふから、此地が北宋末頃地下一丈八尺に埋沒せる當時の實用器であつたことは確かであらう。此水注は鈍黃灰色の短器質の胎に化粧掛を施してあるが、處々褐色のシミになつてゐる。此水注の形から云ふと唐代又は遲くとも宋初頃迄溯らしたいのであるが、右の如き實情であつてみれば早くも北宋の中期以前に溯らしむることは無理であらう。尙ほ鉅鹿に關しては本文參照。(ホプソン氏等著支那の窯藝による)釉裏紅花卉文等瓶95. 96釉裏紅蓮花文等波斯風水注(同上)十三、鮮紅、郞窯、桃花紅、綠郞窯、火力會計三重
十三、鮮紅、郞窯、桃花紅、綠郞窯、大事件三叉97娑辨崗88通燃番組ロメラ醤油醤油でよりアーモンフォリッ無邪なるのどうよみんとう(ホプソン氏著近代の磁器による) 100火焰靑竹節形花瓶(ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による)挑花紅水丞99.十三、鮮紅、郞窯、桃花紅、綠郞窯、必要件勇
十三、鮮紅、郞窯、桃花紅、綠郞窯、炎骨三八八十三、鮮紅、郞窯、桃花紅、綠郞窯、火焰靑此等は皆銅呈色の色釉であつて、綠郞窯を除く外は、還元熖燒成によつて釉中の銅が純銅又は酸化第一銅に還元せられ美しき紅色乃至紅紫色を呈するのである。鮮紅は又宣紅、祭紅、霽紅、積紅、寶石紅等の異名がある。其異同については古來色々の說があるが、按ずるに宣紅は明代宣德窯の此種の器皿が最も優秀で名高かりし爲にかく呼ばるゝに至つたものであり、祭紅は恐らく明代祭壇に於て使用せる器皿の內日壇のものは紅色を用ひた、其器に此種の紅釉を用ひたから起つた名稱で、霽紅は祭紅の轉訛であらう。霽も祭も同音同韻であつて、其紅色が如何にも美しいから霽に訛したものである。積紅も亦た祭の同音(○5i)轉訛で紅色が礬紅の平板なるに對して恰かも積上つてゐる如く見ゆるからかく云うたのである。寶石紅は紅色が恰かも寶石の樣に美しいからかく云うたものであらう。而して實際ルビーの粉末を用ふと云ふ訛傳も生じたのである。鮮紅は等しく其紅色が鮮かであることから起つた名稱であらうが、明代の嘉靖頃には事實最も普通に此名を以て呼ばれてゐたのである。我邦でも以前から鮮紅手と云はれてゐたが時としては淺綠手と訛してゐた、これは勿論誤である。此者は大體還元銅の呈色であつて生まの素地に其釉を塗り本燒のとき一氣に燒上げるのが原則であるから支還元熖燒成によつて釉中の銅が純銅又は酸化第一銅に那では釉裏紅と云うてゐる。これ釉上着彩の礬紅と區別する爲である。而して旣述の通り(靑磁の項參照)八百年前北宋代既に汝窯均窯等に於て盛んに此釉を用ひてゐたことは支那の窯藝の驚嘆すべき業績であると云はれてゐる。蓋し鮮紅色は燒くのに最も困難な色釉であるからである。北宋代に發明せられた此色釉が南宋代果してどう云ふ風に造られたかと云ふことについては未だ何等の發見も無い。然るに元代に於ては景德鎭に於て造られた年記のある釉裏紅の盤が發見せられてゐて、これが明代此種の釉の先驅を爲したことは疑を容れない所である。然し乍ら明代に於ても洪武永樂の鮮紅手は未だ十分に其艶美の紅色を發揮するに至らなかつたが、宣德に至つて技術上完成の域に達し極めて美しいものが造られた。洪武は扨措き永樂、宣德の鮮紅手は最も稀少であるが、就中永樂の鮮紅手は最も稀である。現在知られてゐる唯一の例は〓朝御府舊藏の把杯であつて、見込に暗花で二匹の趕珠龍を現はし、其珠の中に〓體で永樂年製の四字款がある。内外悉く鮮紅釉がかけてあり、僅に脚の下少しばかりが露胎で、脚の內側は空で之に徵靑色の白釉がかけてあると云ふ。宣德の鮮紅釉は稀少と云うても永樂に比すれば相當にある。卽ち〓朝御府舊藏の僧帽瓶、滷壺等を初とし香爐合子、花瓶、碗皿、把盃の類が知られてゐるが、殘念ながら皆支那か歐米に在つて我邦には未だ見當らない樣だ。宣德の鮮紅手には器皿の表面全部に紅色の釉をかけたものと、所謂釉裏紅で模樣を現はして地色は白釉のものと二種ある。而して此後者には又、染付と同時に使つたものと然らざるものとあるが、單獨の方が多い。文十三、鮮紅、郞窯、桃花紅、綠郞窯、火雞骨三五九
十三。鮮紅.郞窯、桃花紅、綠郞窯、火焰靑三六〇樣は纒枝花卉、龍.獅子、魚果實等が主なるものである。現代の磁學家中或は鮮紅手の外に寶石紅と云ふ別種のものを認める者もあるが、其差別の要點を示さないから不通の論である。然し例へば單に花や獅子の文樣が筆で描かれてあることが明かな場合と、第十四圖紅魚の把杯の如く胎から釉の表面に盛上つてゐるのとは一見相違がある如く見ゆることは事實である。然しこれは恐らく程度の相違であつて、單に鮮紅色の釉を厚く盛上げるに過ぎないと考へる。鮮紅色は嘉靖頃其原料である鮮紅土が絕えて其後は燒けなくなつたと云ふのが從來の通說であつたが、當時の事情をよく檢討してみると、これは當時餘りに多量の鮮紅色器皿を燒進することを命ぜられた、然るに鮮紅色を燒くことは技術上困難があり、殊にそれが「テーブル、セツト」で一囘に何千點と云ふ巨數であつて到底命に應ずることは不可能であつた。蓋し鮮紅色は同じ程度の色調を燒くことが最もむつかしいのであつて、數千のセツトの器皿を同一の色に燒くことは出來ない相談である。從つて礬紅を以て之に代ふるに至つたのである。又事實明季頃の民窯に間ま鮮紅色の使用せられてあるものが現存するから、鮮紅色の原料が絕えたのでもなく燒成技術が失はれたのでもないことは確かである。かくて〓代になると、これが康熙代の美しい釉裏紅の文樣となつて現はれてくるのである。然し康照代に於る銅呈色の紅釉中最も優秀であり且高名なのは郞窯である。郞窯と云ふ名稱の起原については未だ定說が無いが、康熙年間に江西の巡撫であつた郞廷極の姓に基くと云ふ說が最も有力である。郞窯は明代宣德の祭紅の復活又は仿製であると云はれてゐるが、支那の磁學家の說に三六〇依ると康熙の郞窯は大體二時代に分れ、初期の製は其色深紅で牛血の如く(西洋人は080g OP boeufと云うてゐる)其底は米湯底と稱して微黄色を帶びてゐる。而して後期の製は其色鮮紅で、其底は淡靑綠色を呈し之を蘋果底と稱す。而して共に口邊及底際に整然たる一道の燈草邊文がある。燈草邊文とは恰かも一本の燈心草の如き鈍黄白色の線が周圍を圍繞してゐることを云ふのである。(第97圖參照)此燈草邊文の無いもの、或はあつても整齊でないものは後世の仿僞である。郞窯の釉は厚い透亮の玻璃釉で之に大きな開片がある。而して其色は右の如く康熙に於てさへ時代によつて變化があるのだが、初期の製は口の間際まで悉く深紅であるが、時代の下るに從つて上の方は段々色が薄くなり雍正頃の產は旣に上の方は少し黃ばんでくる。それが乾隆になると上の方が少し淡白くなり其部分が大きくなると云ふ。蓋し釉が融ける際自然に下方に流下するから、下の方は濃くなり上の方は薄くなるのを免かれないのである。然るに康熙代には此現象が起らないのは何故であるか、恐らく何か祕訣があつて、それが遂に失はるゝに至つたものであらうと云はれてゐる。尙ほ郞窯には瓶、鉢皿等があるが、·瓶は内部は鈍黃白色の釉がかけてあつて、それが口際に燈草邊文となつて現はれるのである。同じく康熙の特產に桃花紅(洋人の所謂peach bloom)と云ふのがある。これは恰かも桃の花の如き艶美な淡紅色であつて多くの場合淡靑綠色と相伴つてゐる。大抵太白尊、美人肩、水丞の如き小點物に多いのだが小さくても非常に高價のものである。これにも詳しく云ふと二種ある。一は太白尊美人肩等薄手のものに釉も薄くかゝつてゐる。此方には團龍、團螭の如き暗花のあるものが多い。他の一は合子の如きもので釉が厚くかゝ十三、鮮紅、郞窯、桃花紅、綠郞窯、火事件풋
十三、鮮紅、郞窯、桃花紅、綠郞窯、火焰靑三八、つてゐて、其紬は恰かも異色の料が混清せる如き美しき外觀がある。此方は暗花は無い。桃花紅は大〓康熙年製の年款が染付で書かれてあるのが普通であるが、郞窯の方には年款は無い。綠郞窯と云ふのは一名蘋果綠(洋人のapple green)と云うて、元來郞窯を作るべく企圖せるものが窯變の爲に綠色に燒けたものである。蓋し還元熖で燒かるべきものが酸化焰で燒かれた爲めに釉中の銅が紅くならないで靑綠色に燒けたのである。然し本來の綠郞窯卽ち窯變の郞窯は極めて稀なものであつて、もと怡親王家から流出して米國「バルチモーア」の「ウオルター」氏の藏品に頸の缺けて金で繕つてある小さな美人肩の瓶がある位のもので、他に存在することを知らぬ。此綠郎窯は美しい淡靑綠色の地色の亮釉に、處々ホンノリと淡紅色が出てゐて、釉中に何か魚卵の如き形の黄色のむらむらがあること恰かも田黄の如き趣のもので、其稀有の窯變であることは疑を容れないが、綠郞窯であると同時に恐らく桃花紅の着想の根原を爲すものであらうと考へる。然しかくの如き自然の綠郞窯は殆んど他に類例が無くて、大抵綠郞窯と呼ぶものは人工的に之を仿造せるものに過ぎない。而して之は多く蘋果綠と云うてゐる。此者は灰白色の氷裂のある本燒せる磁器に靑綠色の軟火釉をかけたもので、透亮の靑綠色釉を透して內部の氷裂が見えてゐる。かくの如く蘋果綠と云ふものは人工で造るのであり而して其の製法は別にむつかしいことは無いのであるが、何故か甚だ不廉であるのは不可解である。尤も蘋果綠には明代の產があると云はれてゐる。若し明代の產であれば綠郞窯の仿造にあらざることは言ふ迄もない。然し前陳の如く製法はむづかしくもないのであるから明代にも造られた可能性はある。又明代の產にあらずとも康熙の產なれば相當珍重されても可いと思ふ。尙ほ蘋果綠には年款は無いが、桃花紅よりは稍大形の瓶壺の類が多い。郞窯が燒け損ずると豇豆紅となり、更に暗晦となると乳鼠皮と爲る。豇豆紅はアヅキ色である。又綠色の斑點が出ると苔點綠と云ひ、桃花紅も其色調の濃淡や趣によつて或は娃々臉(小兒の頰の色)、楊妃色、桃花片、桃花浪等と呼んでゐる。又支那の磁學家は此等の桃花紅を總稱して美人祭と稱する者もある。火焰靑は洋人のflamb〓と稱する者であつて初めは恐らく康熙郞窯の燒損じの一結果として現はれたものであらうが雍正から乾隆初へかけて唐英が自在に之を燒くことに成功した。これは還元銅呈色の窯變の一種であつて紅紫灰等の諸色が幾條かのなだれとなつて一種の美觀を呈するものである。乾隆時代には盛んに造られ、中には器皿の一定の部分のみに限つて局部的に之を現はす如き技術も成功するに至つた(第00圖參照)。1鮮紅、郞窯、桃花紅、綠郞窯、火焰靑圖版解說第十四圖宣德窯寶石紅〓魚文把杯高三·六吋此美しい把杯は外側に三匹の魚が鮮紅色で現はされてゐる。地は微綠色の白釉であつて、見込の中央に大明宣德年製の六字款が染付で双圈內に書かれてある。此鮮紅色の魚は只筆で描いたのではなくて胎から釉の上へ盛上つてゐるので所謂寶石紅であるが、單に其色の艶美なるのみならず魚の形もよく便化表現されてゐて、此種把杯の白眉であることは定評がある。十三、鮮紅、郞窯、桃花紅、綠郞窯、火焰靑云云高三·六吋火焰靑云云
十三、鮮紅、郞窯、桃花紅、綠郎窯、火焰靑美百第十五圖靑花釉裏紅漏空花卉文壺高一三吋此異常なる壺は胴に香狭間を四個開いて之に透し彫を以て梅蓮。牡丹、菊と岩とを現はし、之に染付と釉裏紅が塗つてある。肩には大小の如意頭を交互に四つ染付で描き、其大なる方に石榴、寶相華等を、又小如意頭の中には双魚其他の吉祥文樣が染付で晝いてある。其他頸に七寶文、腰に唐草、脚に便化せる花瓣が染付で畫いてある。底はベタ底で掛釉してないが赤く變色してゐる。染付は黑いむらのある明代初期の手である。「ホブソン」氏は之を正德頃に考定してゐるが、「デヴヰツド」卿は少し時代を上げて十五世紀と云うてゐる。後者の方が合理的で、恐らく宣德か然らざれば正統頃と認むべきであらう。何れにするも兎に角他に類例のない珍らしい優秀品である。第95圖釉裏紅花卉文等瓶高一九吋此瓶は縱にくびれた線で十二に分れてゐるが、其各に釉裏紅で花枝、如意頭等が畫いてある。其他の文樣も皆釉裏紅であるが、少し朦朧としてゐて鮮明で無い。「ホブソン」氏は之も正德頃に考定してゐるが恐らくもつと溯るものであらう。第96圖釉裏紅蓮花文等波斯風水注此形は支那の器物には無い。恐らく「ペルシア」か「アラビア」風のものであらう。近年南海から將來せる我伊萬里の燒物に此形のものを見た。當時の輸出品であることは疑ないが、果して水注か酒注かは判然しない。此圖に示す水注の畫はすべて釉裏紅で描いてあるが、ホブソン氏は之も正德に考定してゐる。然し恐らく之ももう少し溯るものであると思ふ。第97圖郞窯瓶高一七·五吋深紅色の玻璃釉がかけてあつて之に開片が現はれてゐる。口邊及底際に燈草邊文がある。には鈍黃白色の開片のある釉がかけてある。所謂米湯底で康熙郞窯の初期のものであるが、薄くなつてゐるから最も初期と云ふことは出來ぬかも知れん。内部及口邊竝に底口の下が少し色が、第98圖第98圖蘋果綠瓶高五·五分ノ二吋灰白色の開片ある磁器に靑綠色の釉をかけた所謂蘋果綠の瓶であつて康熙時代の產と考定されてゐる。高五·五分ノ二吋第99圖桃花紅水丞直徑四·六吋外側は艶美なる桃花紅で口邊と底際とが特に紅く、中邊は淡紅に淡綠色がボカシになつてゐる。內側と底とは白釉がかけてあり、底に染付で大〓康熙年製の六字款がある。十三、鮮紅、郞窯、桃花紅、綠郞窯、必要は三六五三六五
十三、鮮紅、郞窯、桃花紅、綠郞窯、火焰靑要大善國善國火焰靑竹の節形花瓶高一四·五吋所謂火焰靑で紅、藍、紫色の釉が多數の線條を爲してなだれかゝつてゐる。口邊及內側は鈍黃白色の開片のある釉で、底は掛釉してない。乾隆時代の典型的な火焰靑である。胴に窓のガラス戶が映つてゐるのは釉面が光澤があるからである。高一四·五吋102練上手陶枕(リュツケル·エムデン氏著支那古陶による) 101唐黑褐釉龍頭把手水注十四、磁州窯三七日
十四類三燃かぶく103 104、磁州窯搔取手牡丹文瓶搔取手唐草文綠黃彩瓶(ホブソン氏等著支那の窯藝による) (ホブソン氏等著私人所有の支那陶瓷による) 105磁州窯墨流文梅瓶106磁州窯黑花熊繪陶枕(ホブソン氏著支那古陶磁による) (ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による)十四、復手線川大夫
十四、磁州窯三七〇十四、磁州窯磁州窯と稱する一群の燒物がある。これは我邦で繪高麗と稱するものであるが、其產地は河北省磁縣彭城鎭であつて、六朝の初の晋代から引續き今日に至るまで燒造して居り、其沿革は古く其規模は大で、從つて其產額の多量なることは恐らく江西の景德鎭と並稱せらるべき支那の一大窯地であるが、其產土の性質上官窯の如き上手の器皿を燒造することを得ず、只だ民間用の雜器のみを燒いたから自然其沿革を知るに足るべき文獻に乏吾人は實物の器皿を見ること以外には此窯に關する歷代の事情については殆ど何等知る處が無い。加ふるに磁州窯類似の器皿が北支那の諸地方卽ち河北、山東、山西、河南、陝西等一帶に亘つて多くの窯から產出し、其沿革も亦た恐らく六朝から唐宋に溯るものが少くないと考へられ、而して此等多數の窯に關する吾人の知見が今尙ほ甚だ限られてゐる狀況であるから、磁州窯と此等諸窯との鑑別は事實甚だ困難で信賴し難き場合を少しとしない。故に今日吾人が磁州窯と考へるものでも、將來〓究の進むにつれて或は他窯の產なることが判明するかも知れないのである。磁州窯の胎土は原則として灰色又は鈍黃灰色であるが、時としては紅褐色を帶び、其質は粗鬆な磁器質乃至〓器質である而して之に直ちに掛釉して燒くと胎土の色が釉の上から見えて鼠色になるから、之を隱す爲に白色の土を以て胎土に化粧掛けを行ひたる後釉をかけて燒くのである。然るときは透明な釉は此白土の色のみを反映するから美しく見えるのである。此白土は磁州から遠からざる處に多量に存在し古來其供給極めて潤澤であつたことが磁州窯の發達繁榮に役立つたことの大なりしことは疑ふべからざる事實である。白土は所謂カオリンと稱する硅石質の多い礬土であつて、硅石質は普通磁器の燒成溫度では融解しないから、之を塗ることによつてよく胎土の色を隱すことを得るのである。白土は純白色で、之に殆んど無色の釉がかけてあると、化粧掛の白色と釉の光澤と相俟ちて美觀を呈するが、此磁州素白磁の美しさは他に類例が無く、定窯の白色とは異り鮮新な牛乳の如き色である。而して磁州窯には素白磁もあるが多くは種々の技法を以て之に文樣が施してある。其技法は模樣の項にも一寸述べて置いたから重複する點もあるが此に一括して述べることとする。蓋し磁州窯に在りては其胎土の灰色と化粧掛の白色とを利用して文樣を施す種々の技法が發達した。而して此等の技法は獨り磁州窯のみならず北支那地方に於て此等の技法を行ひたる窯も少くないのであるが、然し磁州窯に於て最も發達し且最も藝術的價値に富める器皿を產出した。卽ち此等の技法は磁州窯の特色であつて、景德鎭其他の諸窯に於て見られないものであるから、次に之を說明する。1、描繪法一は釉裏着畫であつて化粧掛けの上に鐵砂で文樣を畫き、州窯これに三種ある。十四、磁之に掛釉して燒くのであつて恰품
十四、磁州窯かも染付と同じ方法である。第二は釉上着畫卽ち赤繪の技法で加彩又は宋赤繪と稱するものの內此地で燒かれた器皿が少くない。第三は黑釉をかけて其上に淡き褐色で文樣を描くものである(第86圖參照)。ロ、搔取り手旣に模樣の項にも一寸述べた通り、り手又は搔落し手と稱する方法で、旣に模樣の項にも一寸述べた通り、胎土と化粧掛との色の相違を利用する技法であるが、之に數種ある。1胎に化粧掛を行ひたる後、文様の處だけ化粧掛けを殘して他の部分卽ち文樣の無い餘白に當る地の處の化粧掛を搔き落す法。此法によると地は胎土の色卽ち灰色に、文樣の處は白色に現はれる。又之を逆にすれば地は白く文樣は灰色に現はれる。2、白色の化粧掛の代りに黑色又は褐色を全體に塗つて1と同じ方法を行へば、灰色と黑色又は褐色との二色で文樣と地とが現はれる。3、白色の化粧掛を行ひたる後、黑色で文樣を畫き輪郭を錐樣の尖つたもので引搔くときは其處だけ黑色が搔き落されて下の化粧掛の白色を銳き線で現はすから、只筆にて晝いたものとは異つた爽快な一種の藝術的風趣を生ずる(第卅一圖等參照)。4胎に化粧掛をする前に黑又は赭色を胎に塗り、其上に化粧掛を施す。而して之に文樣を錐刻して上の化粧だけを搔き取ると線は化粧の下に塗つてある黑又は赭色を現はすであらう。第141圖の瓶の文樣は此技法によ胎土と化粧掛との色の相違を利用する技灰色と黑色又は褐色との二つたものと考へる。圖に見ゆる花文の地に無數の小環の見ゆるは、先端の環狀になつてゐる棒の尖で突いたのである。或は又初め化粧掛を施し、次に刻線を加へ、其後に黑釉を塗る方法も考へられるが、此方法だと最後に表面を薄く削らねばならぬ。5、4の如くにして文樣の外卽地の處を更に搔取つて胎土の灰色を現はしたのがある。此場合には灰色の地と黑又は〓色の輪郭と、白色の文樣とが現はれる。6,イ、胎に黑色を塗り、ロ、其上に白色の化粧を行ひ、ハ、其上に黄色を塗り、ニ、其上にまた綠色を塗る。次に錐の尖端で唐草文の輪郭を彫りて最下の黑色を現はし、黄色のバンドの部分は綠色を削り落して黃色を現はし、白色の唐草は上の綠と黃とを削り落して白色の化粧を現はす。此可なり面倒な搔落し法が恐らく第103圖に示す瓶に用ひられた技法であらうと考へる。此瓶は唐代に考定せられてゐるが、果して磁州窯であるか否か判らない。どうも磁州では無ささうだが技法の最も複雜な一例である。之は或は白色の化粧の後線刻を行ひ、綠と黃とを各其部分に塗り白色の處ヘハミ出したのを削つたのかも知れないが、これだけ手ぎわよくゆくことが問題だ。尙ほ右何れも最後に無色の亮釉をかけるのである。此場合には灰色の地ハ、綠宋瓷綠宋瓷と稱せらるゝものは普通の釉の代りに綠色又は靑綠色の釉をかけたものであつて、前記イの描繪法第一種卽ち鐵砂で繪を描いたもの、ロの搔取手の内1及3のものに見かけられる(第卅四圖は3のものである)。十四、磁州窯로14
十四、磁州窯三日間而して綠宋瓷の釉には綠色の强い鉛釉酸化銅呈色のものと、靑色の强い卽ち翠綠色の曹達釉酸化銅呈色のものと二種あつて、就中翠靑色のものが少く從つて珍重されるが、此色の釉は頗る剝落し易く完全なのは少い。二、練上手練上手は又木理文、鶉手等の名があるが、要するに異色の土を練合せて木理の如き面白い文樣を現はし之に掛釉せるもので、技法から見て凡そ三種ある(掛釉せざるものも間々あるが光澤が無くて汚ない)。1.本來の練上手卽ち異色の土を練合せて胎土を造つたもので、多くは赭色と白色との土を用ひてある第卅圖參照)。2異色の土を練合せて棒狀と爲し、之を小口から薄く切ると同じ文樣の薄片が幾個もできる。恰かも金時飴の如くである。此薄片を幾個も別に造つてある普通の胎に貼り付けると同じ文樣が幾つか「シンメトリカリー」に現はれて面白い效果を擧げる(第100圖參照、之は唐代の產で磁州窯では無いが參考の爲に揭げる)。3,これは色のみで墨流しの樣な文樣を現はすものであるが、此等技法につきては模樣の項に詳しく說いたから參照のこと。(第105圖參照磁州窯は北宋代に最も優秀な作を產出したが、南宋以降益〓品質が劣惡となり、殊に明代以後は殆んど見るべきものが無い。第南宋以降益〓品質が劣惡となり、殊に明代以後は殆んど見る磁州窯圖版解說第三十圖練上手碗直徑四寸二分本來の練上手であつて口邊の處だけ普通の胎であるが、他は內側から外側まで異色の土が拔けてゐる。而して無色透明性の釉がかけてある。此碗は朝鮮から出土したのであるが時代は宋代、產地は未詳であるが、磁州窯或は磁州窯系の窯に考定されてゐる。第三十一圖磁州窯搔取手黑花牡丹文瓶高一二吋此技法については本文に說明したから再說しない。鈍黄灰色の炻器質の胎で釉は略ぼ無色透明であるが、全體の肌合が恰かも大理石の如き感じがあり、之に黃赭色の裂文がある。此瓶の文樣は此手の內の最優秀のもので極めて鑑賞價値が饒いと思ふ。宋代の磁州窯に考定されてゐるが恐らく北宋中期の產であらう。第三十二圖磁州窯黑花牡丹文梅瓶高一七吋此梅瓶は白色の化粧掛の上に黑色の鐵砂で牡丹の文樣を描き之に透明な釉がかけてある。此手の最優秀品で「ルーヴル」の藏品である。繪が丁寧に晝いてあつて而かも筆勢流麗に圖案も巧妙である。北宋の最盛期の產な十四、磁州窯로터直徑四寸二分而し磁州
十四、ること疑ない。磁州窯三八第三十三圖第三十三圖磁州窯黑花丸紋等梅瓶高二二吋半灰色の炻器質の胎に化粧掛を爲し、黑色で便化せる花卉の丸紋が互違に配置してある。此瓶は姿及文様から見て恐らく北宋末期の產かと思ふ。撫で肩の姿、和かい纎細な筆行、瀟酒な文樣等から前の二圖の瓶とは別樣の感興を催すのが當然である。高二二吋半第三十四圖磁州黑花花卉折枝文綠釉瓶高一二吋所謂梅瓶よりは寧ろ瓶子と云ふ姿で、鈍黄灰色の胎に化粧掛を行ひ、之に黑色で花卉折枝を繪がき、綠釉がかけてある。此黑花は黑色で描いた上を花瓣の輪郭及葉脈を刻線で搔き取つてある。黑花の圖案が巧妙で筆行も流麗であつて且よく瓶の姿と調和してゐる。此手の逸品であり他に類品が無い。時代は北宋中期の末か末期の初と考へる。第三十五圖第三十五圖磁州窯黒線文獸口葫蘆水注此水注の形は甚だ特異であつて、瓢形の體に化粧掛を施して黑褐色の模樣を幾本も重ねて描き、注口は化粧がけのまゝ白色で狸の如き形を爲し、目だけ黑くしてある。注口の反對側に耳形の白色の把手がつけてある。見るからに愉快なものである。大きさは書いたものが見當らないから詳で無いが、數年前筆者の拜見した記憶によると五六寸位で餘り大きくなかつた。第102圖練上手陶枕一〇三× 五五c.長方形の胎に練上手の美しき渦狀紋の薄片を貼付し、之に掛釉せるもので、本文練上手說明の2に該當するものである。胎は淡紅黄色の餘り堅くない土で、釉は褐黄色を呈してゐる。唐三彩の手であつて磁州窯では無いが技法の說明として此に揭げるのである。第103圖搔取手唐草文綠黃彩瓶高八吋半灰色の陶胎で高臺があつて、べた底ではない。此瓶は一寸見ると文樣も簡單であつて何でも無いやうに見えるが、今之を造つた技法を考へると最も複雜であつて、本文搔取手說明の5に該當するものである。尤も頸の下部の二つのバンド中、上の方は綠色、次が黃色、唐草の周圍の地は綠色、最下のバンドは黄色に塗つてある。頸から上は化粧掛の上に掛釉してあるのみであるが、此釉は美しい眞珠色で大なる深さと緻密さとを有してゐると云ふ。此瓶は唐三彩の變つた手であつて、其胎から見ても磁州窯では無い樣だが、技法から見れば寧ろ磁州窯に近いものであるから、參考の爲に此に揭げて置く。數年前筆者の拜見した記憶第103圖十四、磁·州窯三七
十四、磁州窯第104圖磁州窯搔取手牡丹文瓶高一〇·八分ノ三吋本文搔取手の4に說明せる技法が用ひてある。原書の說明によると只線刻と小環狀文を刻して胎に達せることのみを說いて、其上に色を線と環とに塗つて更に薄く削り取ることは說いて無いが、それでは線等が黑又は赭色で現はれない。又たゞ色を塗つたゞけでは色の線が流麗に現はれない。磁州窯搔取手牡丹文瓶第105圖磁州窯墨流文梅瓶高一六吋所謂墨流しと稱する面白い文樣が胴の中央から稍下方へかけて廣い帶狀に現はされてゐる。此文樣の技法につきては模樣の項參照。此瓶の肩にある黑花牡丹文は線が搔取手になつてゐる。時代は北宋末期であらう。第106圖磁州窯黑花熊繪陶枕長一二吋半白色の化粧掛の上に黑色で熊の繪を描き更に搔取手の線刻を加へてあるが熊が寫生風に巧に畫いてある。周圍の黑色の幅廣きバンド中の白色の二重線も搔取手だが、これは二本の錐樣を併せたもので同時に刻したものである。尙ほ此枕の繪は熊も周圍の文樣も筆意流麗であつて鑑賞價値が大である。繪付をした陶工は藝術的天分が豐で且恐るべき熱練の持主であつて實に無名の名畫家と稱すべきである。恐く北宋中期の作であらう。107アンフオラ型菱形土器(アシュトン及グレー氏著支那美術による) 108〓形土器(ヘザリントン氏著支那古陶磁による)十五、上代より唐迄の窯器三十五
十五、上代より唐迄の窯器증상109漢御龍磚(オスワルド·シーレン氏著支那古美術史による) (ホブソン氏等著支那の窯藝による)長方形瓦器井桁110. (ユーモルフオプロス翁蒐集圖錄による)陶製家屋模型111 112唐男女俑(ホプソン氏等著支那の窯藝による)十五、上代より唐迄の窯器三八、
十五、上代より唐迄の窯器三八(ホブソン氏等著支那の窯藝による)龍泉窯靑磁袴腰香爐114 113白磁水注(鉅鹿) (ホブソン氏等著支那の窯藝による)十五、上代より唐迄の窯器今まで主として唐以後の燒物のことを述べたから、最後に少し其以前の燒物のことを說かうと思ふ。素より之を詳論することは本稿の能はざる所であるから極めて大略に過ぎない。又靑磁及び唐三彩のことは既に述べたから之を省略する。歷史の溯り得る最古の時代は、今からざつと三千七八百年位前、殷商の初め頃で、それも初めの方は朦朧として傳說の世に融け込んでゐる。然し燒物の方から云ふと、近年支那各地就中北及び北西、北東及び東部から種々の燒物が發見されて、歷史よりも更に古く石器時代に溯るものであることが判つて來たる而して此等の燒物の種類如何と云ふと、大體左の如くである。1最古の灰色土器支那民族固有の形式を有すると認められるもので其最古のものは、土が粗く小石を含むものがあり、手捏ねで繩蓆文すら無いものが多いが、時に或は簡單なる繩蓆文の認められるものもある。其器種は、鼎、〓等を以て代表せられ、山東、河南、河北、山西、陝西、甘肅、熱河、關東州及び「シラムレン一流域等北支那全部に亘つて廣く分布してゐる。而して河南後崗からは最下層の彩色陶と混じて出土し、又山東省の或る地方では新石器時代遺跡の内でも古式に屬する貝塚から出土してゐる。2、彩色陶瑞典の學者「アンダーソン」氏が初めて河南省で發見し、其後支那に於ける其分布が廣く山西、十五、上代より唐迄の窯器三五
十五、上代より唐迄の窯器三八重陝西、甘肅諸省から蒙古、熱河、錦州、關東州等に及んでゐることが分つた。而して彩色陶の分布は他方尙ほ遠く中央「アジア」、小「アジア」、南方「ロシア」等に亘り、「エヂプト」に淵源を發してゐるものであるが、支那に於ける彩色陶文化を「アンダーソン」氏は新石器時代三期、金石併用時代三期合計六期に分ちて其絕對年代の上限を西紀前約三千五百年に、其下限を西紀前約千七百年に考定してゐる。勿論此絕對年代につきては異說もあつて未だ普ねく承認されてはゐない。3、黑色陶支那民族固有のもので、1の灰色陶の進化せるものであると考へられ、山東、河南、山西等から發見される。4、白色陶これも支那民族固有のもので、主として河南山東兩省から出土し、黑色陶に次ぐ時代で殷商卽ち有史時代の初期のものと考へられてゐる。5.第二の灰色土器これ亦た支那民族固有のもので、殷商以後戰國頃迄の有史時代のものと考へられてゐる。6.アンフオラ型土器甘肅省の一部から最古の彩色陶と認められるものと同時に發見せられたもので、歐の香が甚だ高いものである。7、櫛目文土器支那の北邊卽ち甘肅から家古邊に發見せられるもので、其分布は「シベリア」を經て北歐に達するものである。此外江南及び南支那方面から多少形式の異つた燒物が發見せられるが、山東、河南、山西等か主として河南山東兩省から出土し、黑色陶に次ぐ時代で殷商卽殷商以後戰國頃迄の有史時代のものと考へられてゐ西其分布は「シベリア」を經て北歐に大體黑色陶及び第二の灰色陶と類型のものである。さて此等多種の窯器の時代の前後及び之を作つた民族又は文化如何の問題は尙ほ詳ならざるものが多く、從つて學者の說も多岐であつて、今後新資料の發見に待つべきものが多いのであるが、彩色陶、アンフオラ型土器、櫛目文土器等が支那固有民族の作つたものでなくて外來民族又は外來文化の產であることは大體異論の無い處である。然し以上諸種の窯器の時代の前後については斯く簡單に決定することは出來ない。何となれば、例へば彩色陶の如きは、多くの人は前記アンダーソン氏に從つて支那の彩色陶を六つの時代と型式とに分類してゐるが、他の種類についても恐らく時代によつて之を更に細分すべきが至當であらう。加之同一型式の器皿でも地方によつて其時代に遲速のあるのは當然である。例へば山東で發見される第一灰色土器と滿洲地方の同種のものとは、其時代が必ずしも同一でないと云ふ如きである。從つて例へば河南省後崗に於ける著名の例に於て、最下層から彩色陶と第一灰色土器とが混淆して發見され、其上に黑色陶、白色土器、第二灰色土器の順序で各層次を爲してゐることが判明し、之によつて各時代の前後を說くのが通說であるが、此一例のみによつて全體を測るのは常に確かだとは云へない。然し此後崗の發見によつて從來混沌として殆んど着手の處を知らなかつた此等上代器皿の時代推定に一大標準を得たには相違たい。而して近年はまた彩色陶の或る文樣と白色土器の文樣とに類似を立證して、此兩者に連繫を求めんとする說もある。今此等上代器皿につきて詳說する餘白が無いから之を專門の書に讓ることゝするが、要するに支那民族固有の窯器は廣く黃河の流域全面に發見される鼎〓等を含む第一種の灰色土器を最古とし、之が發達して黑色陶となり、河南地方では其次に白色陶を產十五、上代より唐迄の窯器三八五
十五、上代より唐迄の窯器三六し、次で第二の灰色陶の時代になつたと云はれてゐる。而して彩色陶は恐らく第一の灰色陶と同じ頃に甘肅、陝西方面から支那の中原に進出し來り、山西、河南等では此兩者が接觸したものと認められてゐる。彩色陶を作つた民族は何であつたか未だ定說が無いが、一說にイラン系の民族であつて漢代頃尙ほ祁連山北に居つた月氏の先祖ではなからうかと云ふ人もある。黑色陶の鼎、〓等が是等の形をした銅器の祖型であることは容易に考へられることであるが、更に溯つて黑色陶の此種の形は第一灰色陶に多くの例があり、而して其内の〓につきては河南、山西地方から發見される底尖土器が其祖型であつて、其底尖土器を三個合せて緊縛したのが卽ち〓であると考へられてゐる。然し乍ら底尖土器は今尙ほ其使用が北支地方に認められるから(アンダーソン氏による)河南、山西發見の底尖土器が必ずしも〓よりも古いとは云はれない。殷墟から主に出る白色土器には、祭祀用と認められる作行鄭重にして複雜なる文樣の刻してあるものと、作行の粗笨にして日用雜器と認められるものとある。其時代については從來戰國時代まで下げて見る說と、殷商頃のものだと云ふ說とあるが、大體に於て殷商時代のものなることは彩色陶との關係竝に銅器との比較〓究によつて動かし難いと思ふ。前に第二種の灰色土器が有史時代の初め頃から戰國時代まで行はれたことを述べたが、此種の器皿は鼎、〓以外に鉢、皿、壺、豆其他を包含し、其初期のものは繩蓆文、打叩文が器の全面を掩うてゐるものがあるが後期には此等の文樣は簡單と爲るか、又は樣式化して其漸次裝飾化せることを物語つてゐる樣である。而して戰國時代の壺の例を取つてみると、其形は胴が略ぼ卵形を爲し、之に短かい頸と少し開いた口とが着いてゐる。而して其殷商時代と認められるものは殆んど同じ形であるが、肩から下殆んど全面に打叩文が認められる。然るに戰國時代のものは肩から胴にかけて簡單な樣式化せる繩蓆文に層次を爲せる環條帶の摩擦痕を裝飾として着け、時としては篆體の刻銘の存する者があつて其時代を物語つてゐる。而して鼎は唐代頃に至るまで實用に供せられた如くであるが、〓は早くも戰國上代の氣分を脫しきらないものが少くない。六朝時代になると形は和らかくなつて殆んど上代の氣分は失はれて見られない。而して文樣も竝行せる條文又は波條文の如きものが主であつて、繩蓆文の如きは時に見られるも純然たる裝飾文樣と化し去つてゐる。以上は主として實用器皿につきて述べたのであるが、此外に漢代には綠色の釉をかけた所謂綠陶なるものがある。此釉は曹達鉛釉であつて恐らく西域傳來の技法であらうと云はれてゐるが、容易に風水の爲に侵されて持續性がない事實から考へて、恐らく明器卽ち副葬品のみに使用されたもので、實用品には用ひられなかつたと考へられる。漢代の明器は既に述べた通り(歴代形狀の特色の項參照)多種多樣であるが、其内に綠釉をかけたものと之をかけないものとある。而して綠釉をかけたものは久しく土中せる間に釉が侵されて大抵銀色を呈せるものが多いが、無釉の瓦器就中壺の如きものに在つては、之に白土又は胡粉を塗つて二三の色で彩つたものがある。綠釉は六朝に至つても恐らく使用せられ、遂に唐三彩に發展するものであらう。唐代に於ても綠釉のみをかけた明器らしき器皿が發見せられるが、宋になると所謂綠宋瓷となつて現はれる。瓦製の明器もまた六朝を經て唐十五、上代より唐迄の窯器元 4
十五、上代より唐迄の窯器代に至るまで造られたと思はれる。上代より唐迄の窯器圖版解說テ·ハ第四十四圖官女立像俑(正面及側面)高四四吋半和かい鈍黄白色の胎に恐らく胡粉を塗つてあると思ふ。其上に黑、紅、緣藍等の色で彩つてある。上衣の前に長く晝いてある唐草文は紅色で、下衣は紅及び綠色の縱縞である。頭髪は黑い。唐又は其以前に考定してある。此種価の時代考定には風貌、服裝、調度品、頭髪等につきて各時代の特色及び流行の變遷を詳かにせねば不可である。然るに我輩は其方のことは殆んど知る處が無いから、此俑の時代が果して右西洋磁學家の云ふが如くであるか否か判らない。只此倆の顏は未だ楊貴妃以後の所謂お多福美人の影響を受けてゐないから、盛唐卽ち開元天寶以前なることは明かである。而して胡蝶の如き頭髪は恐らく帽子又はかつらの類であらう。他に大きな島の形をしたものを頭に戴いてゐる俑の例もある。又之と同じ樣な蝶形のものを頭に戴いて舞つてゐる俑があつて、之を左右から挾んで共に一群を爲すと認められる他の二つの俑は、玄宗の頃流行した雙鐶望仙髻と稱する髮に結つてゐるから、此価の時代の考證はずつと狭くなつて盛唐の初期、楊貴妃未だ入內以前と云ふことになるかと思ふ。何れにせよ此倆の容貌は人によつて好き嫌ひがあらうが、其優美なる姿が十分に鑑賞價値のあることに至つては恐らく誰も異存あるまい。第107圖アンフオラ型菱形土器高一〇吋此異樣なる瓶は出土地不明であるが、之と類型で菱形でない、圓形の、文樣のない瓶が甘肅省の齊家坪から最も古い時期の彩色陶と共に出土してゐる。如何なる民族又は文化の所產であるか全然不明であるが、西方の香りが高いことだけは確かである。之は形に於て希臘「アデン」の國立美術館に在る「ミケネ」出土の金瓶に酷似してゐる。此瓶は無釉の灰色土器で西紀前三千年乃至二千年に考定されてゐる。高一〇吋第108圖〓形土器高六吋暗灰色の土器で周代に考定されてゐる。周圍にある文樣を西洋磁學家はノミか斧で削つた痕と誤認してゐるが、之は成形の時に之に當てゝ押すか、又は叩いた繩蓆の痕で所謂繩蓆文なるものである。土器第109圖漢御龍磚長五八m龍は靈物であるが太古支那では禹が龍に騎つて天下を周行したとか、董父が龍を畜つて舜に事へたとか、或は又龍を畜ふこと恰も馬を畜ふがごとく、必要あれば之に乘つたと云ふ樣な傳說があつた。之は無釉の磚で漢代の古墳內にある義道の兩開きの扉の上部に相對して嵌めてあつたものである。姿が燒物とは思へない銅器の如き感覺と銳さとを有つてゐる。十五、上代より唐迄の窯器三八九三八九
十五、上代より唐迄の窯器중 80第11圖0長方形瓦器井桁長八·七五吋無釉の灰色瓦胎で蓋も底もない。原書には何の用途か分らぬとあるが、恐らく井桁と考へる。外に類型で流し場の付いたのがある。四方に型押しの浮出文樣があつて、これが中々精巧である。長い方の一面には鳥首の翼龍が二匹相對せる圖に雲形を現はし、他面には翼龍と虎を現はしてある。而して短かい方の一面には闇魔を他面には四天王を現はしてあると云ふ。時代は三國時代から東晋頃迄に考定してある。第111圖陶製家屋模型長二一·二五吋灰色の瓦胎に白土の化粧掛がしてある。瓦葺の家の模型だが恐らく明器であらう。中に引出のある卓子があり、一脚の椅子が外に出してある。時代は北魏に擬定してあるが尙ほ考ふべきであらう。2第百唐男女俑一二吋及一一·二吋女の方は和かい白色の胎に化粧掛を施し、縞に彩つてある。男の方は紅色の胎に白い化粧掛を行つてあるだけである。女は恐らく宮女であらう。男は俳優であると云はれてゐる。紅及び黑色で彩つてある。頭巾は黑く、衣服は腰から下を紅で縱兩方共唐代に考定せられてゐるが寫生の妙を極めてゐる。第101圖唐黑褐釉龍頭把手水注高一〇吋半堅緻な灰色の胎にチヨコレート色の褐色釉がかけてある。最も特色のあるのは龍が口緣を咬んでゐる形の把手で、短かい注口の上に小さな耳が一つ付けてある。底はベタ底である。典型的な堂々たる唐代の姿と樣式を持つてゐてギリシア藝術の影響が此にも見られるものであるが、これは明器にあらずして恐らく實用品であら50或は宋代河南天目の祖かも知れない。唐黑褐釉龍頭把手水注高一〇吋半十五、上代より唐迄の窯器1/4
十六、朱泥茶壺12ml十六、朱泥茶壺朱泥の茶壺は江蘇省蘇常道宜興縣城を去ること約三十里に在る蜀山鎭の產であるが、普通之を宜興窯と呼んでゐる。朱泥茶壺の由來及主要作家の名は銘款の項に說いたから再說しない。茶壺の原料である泥には數種あつて、之を亦た色々に調合するので、從つて壺色も種類が多く必しも朱色に限らない。卽ち先づ土の種類を擧げると軟黃泥、石黃泥、天靑泥、老泥、白泥等があり、此等を用ひて造つた壺に朱泥.烏泥.白泥、梨皮泥等があるのは周知であるが、此他尙ほ紺紫、蒼黃、嫩綠、積翠、金黃等の諸色があると云はれてゐる。壺式は初めは極めて簡素であつたらしいが早くも時大彬あたりから色々複雜な形を造り出したものゝ如く、時大彬に旣に菱花八角形のものあり、徐友泉に漢方區解.小雲雷提梁卣等銅器の姿や文樣を摸したもの等がある。其後益〓複雜多岐の形式に亘つたものである。宜興の茶壺が有名になつたのは名手が多く出たからでもあるが、亦た明末以後歴代文人墨客が此壺を愛する者少からず、之に多大の庇護を與へたからである。而して此等の人士は或は壺制を創案し、或は壺に詩句、書畫を刻し、又實地に就きて陶匠を指導したから、其作品が自然と雅馴であるべき道理である。今此等文人墨客中著名の者を擧げて置く。孫明叔道明、姚潜坤咨、柳大中僉、項子京元汴、趙凡夫宦光、楊耑木中訥、彭孔嘉年、顧大有元慶、馬寒中思賛.孫隱谷宗濂、蔣惠堂叔瀛、項不損眞、汪碧巢森、汪柯庭文柏、陳仲魚鹽、宋茗香大樽、尤水村蔭、屠琴塢倬、喬鷺洲重禧、陳曼生鴻壽、郭頻伽磨、朱石梅堅、瞿子冶應紹、蔡少峰錫恭、鄧符生奎、吳〓卿大澂、張香濤之洞、端午橋方等で項不損は明末〓初の人、其前は明末、又其後は〓代の人である。以上を以て疎略ながら宜興窯の茶壺のことを了る。尙ほ詳しきことは拙著明代の陶磁を見られたい。只旣に銘款の項に觸れて置いた倶輪玉の作行のことを一寸補つて置きたい。倶輪玉と稱する朱泥の茶壺は、ある友人煎茶家の話によると現今海內に在るもの恐らく五六點に過ぎないであらうと云ふことであるが、余幸に先年眼福を獲た其一について聊か述べて置きたいと思ふ。壺の高さ凡そ二寸位であつた。所謂朱泥で、胴はまん丸では無く少しでこぼこでさへある。注口は所謂鐵砲口で少し左右どちらかへ曲つて着いてゐる。又其口が少し曲つて切つてある。把手は正しく着けてあるが、凡て手揑であるから、普通見る後世の壺の樣に型にはめた如く整齊で無く又表面が美しく無い。而して最も驚くべきはヘラの冴えである。卽ち、高臺の內側の如きギユツ、ギユツ、ギユツ、ギユツと凡そ四度位に恐らく左手で壺を握つて廻し乍ら右の手にヘラを持つて削り取つてあるが其痕が歷然と殘つてゐる。後世の壺の樣に美しく磨き立てゝなど決して無い。高臺の外側は內側ほどでは無かつたであらうが然し此も決して後世の樣にヌルヌルにはしてなかつた樣だ。只だ惜しいことに何百年間大事に使用したとは云へ、煎茶家が布巾で尻を撫で〓した爲に高臺の外側が大分疲れてゐて、製作當時のキビキビした作行が見られなかつた。然るに一度葢を取つて壺の口邊を見ると實に痛快にへラで刳つた痕が殘つてゐ十六、朱泥茶壺三五
十六、朱泥茶壺云〓酒る。而かも其ヘラの使ひ方が大まかであつてグイグイと二つか三つで仕上げてある。葢の內側も同じ作行で、ツマミの作りと共に大膽極まるヘラの使ひ方である。其結果として刳り取つた面は幾分イビツであり、處々土がヘラの痕の緣にマクレて着いてゐるのさへある。然し夫れでゐて壺が生き生きとして作者の血が之に通ひ其精神が之に滿ちてゐることがヒシヒシと感ぜられるのである。此點は獨り燒物のみに限らず、總て名人とか天才とか云ふ者の作は皆かういふザングリしたものであると思ふ。先年某家秘藏の有名な光悅作の毘沙門堂と云ふ名品に接したときも同じ感じを經驗した。尤も此方は大きな茶碗であるから形も壺と違ふし、へらの使ひ方も數倍大きいが其精神は同じことである。十七、鉅鹿陶鉅鹿につきては支那古陶磁學の現狀を述ぶる際にも述べたが、此地は河北省にある地方の小都會である。宋代縣であつて河北路信德府に屬してゐたが、北宋末の大觀二年の秋黃河の大洪水によつて地下一丈八尺に埋沒した。此事は城內に三明寺と云ふ寺があつて、其妙嚴殿の碑文に記してある。此寺は小高い丘の上に在るから洪水の難を免かれたので、此碑は洪水後間もなく同じく北宋末に建てられたものであるから間違ひはない。其後此地下に埋沒せる都會のあることは殆んど忘れられてゐたのであるが、民國九年に偶然此地を掘ることがあつて地下から種々の器物が出て來た。其內で燒物を支那骨董商が買集めたのが動機となつて、此地方の人民が競つて發掘を行ひ、多數の器皿が出土して世上に流布するに至つたのである。上述の如き事情であるから、此所から出た器皿は大體北宋末期の實用品と考へて差支ない譯である。只其產窯に至つては必ずしも詳で無いものが少くない。中には均窯、磁州窯、定窯と認めらるゝものもあるが、亦此等の諸窯に非るものも少なからずある。而して此等產地不明の器皿は一括して鉅鹿陶と呼んでゐるが、此等は恐らく此地を去ること遠からざる地に種々の窯があつて燒いたもので、其內の若干或は多くは同じ時の洪水で埋3沒したのかも知れない。今第11圖に鉅鹿陶の一例を示して置く。十七、鉅鹿陶量量
十八、燒物の取扱方三六七十八、燒物の取扱方燒物はこはれものである、少し亂暴に取扱へばぢきにこはれる。こんなことは小兒でも知つてゐることであるから特に此に說くまでもないことの樣であるが、改めて之を說かねばならぬ心要があると思ふから說くのである。近頃ある町の鑑定家が他人の祕藏する燒物を取扱ふのを見たが、恰も夜店でバナナの叩き賣をしてゐる樣な格好で、鷲摑みにして何か口早に喋りながら目よりも高く差上げたり急に下へおろしたり、今にもテープルを燒物でコツ〓〓叩きはしないかと、見てゐる我々をハラ〓〓させた。それから汚い手の平で散々表面を撫で廻したり、高臺をコスツたりするのを見ると實に嫌な氣持になつて我慢が出來なくなるのは果して筆者のみであらうか。又人によると拳固でコツンと鳴らしてみたり、指で彈いてみたりする人がある。これは傷があれば濁音を發するから、時と場合によつては必要なる檢査法ではあるが、所有者の承諾なしに猥りに行ふべきでないことは云ふ迄もない。もう十年も前のことであるが、ある友人が自稱硯の大家某を筆者の宅へ連れて來て硯を見せろと云ふから祕藏の硯を二三見せたところが、其大家は談笑の間に爪で硯に傷をつけてこの石は軟い、これが私の檢査法だと事もなげにいと得意氣に語つたのには怒るよりも寧ろ呆れ果てたことがある。斯う云ふ人が居るから祕藏の物はつい見せなくなるのは自衞上萬不得己事であるが、然し之に反して美術品を見るのに相當の心得があつたならば右の大家の如く人に嫌はれる樣なこともなく主家共に滿足して和氣靄々裡に法悅境に遊ぶことを得るであらう。尙ほ筆者の見聞せるところから、粗相の爲に名器に取り返しのつかぬ傷をつけた例を一二述べて置く。七八年前今の東京美術倶樂部が新築中一時本〓湯島天神の傍の某料亭や、日本橋の白木屋の傍の其角等で賣立を行つた頃のことであるが、ある時大阪の某氏の賣立があつて東京でも二三日美術倶樂部で下見を行ひ、次で大阪で下見を行つて彼地で入札したことがあつた。其時の賣立に祥瑞の〓形德利が一對出た。其內の一本は所謂瑠璃祥瑞であつて其釉色の艶美なること實に目も覺むるばかりであつた。今覺束ない乍らも記憶を辿つてもう少し詳細に說述すると、此德利は兩方共所謂捻じの祥瑞模樣が染付で晝いてあつて、捻じの細長い區劃には一間置きに詩の文句が書いてある。而して一本は染付のまゝであるが、彼の一本は染付の上に一面に美しい「コバルト」の釉がかけてあるのだ。作行は薄作であつて、ロクロの技法は實に冴えてゐて、所謂祥瑞の作行が普通鈍重なるとは格段の相違がある。又小生の記憶にして誤らざれば、たしか五郞大甫吳祥瑞の銘は兩方共無かつた樣だ。管見によれば此種薄作の成形技術の勝れた祥瑞は、ロクロは專門の支那陶工に引かせて繪付だけを祥瑞自ら行つたものであらうと考へてゐるが、何れにせよ瑠璃祥瑞といふものは比較的稀であり、而も稀にあつても大抵香合等の小器であつて此樣な大物(高約六七寸位と記憶してゐる)は甚少い。加之瑠璃の發色の鮮艶なる實に譬へやうもない名品であつたが、惜しいかな取扱の不注意から首がもげてしまつた。東京の下見で十八、燒物の取扱方三七七
十八、燒物の取扱方三六我々が見たときは無事であつたが、聞くとこによるとそれから大阪へ持歸り同地で下見をしてゐる時、誰であるか之を手に取つて見て下に置いたとき橫に倒れた。其時他の一方の德利が橫に倒してねかしてあつた。之に倒れた方の首が當つて其首がもげたのださうな。そして其もげたのは瑠璃の方であつたとのことだ。而して何故に倒れたかと云ふと、賣立下見の時に臺の上に朱色の毛氈を敷いて其上に品物を陳列する例であるが、運の惡いことは丁度此毛氈の境で合せ目の處に此德利が列べてあつた。其合せ目が少し高くなつた處へ置いた爲に倒れたのださうな。そこで抑も何萬圓もする貴重品、而かもこはれ易い燒物をこの樣な危い處へ列べるのが心なき仕方であると云ふのも誠に一理あると思ふが、又此粗相を仕出かした者の不注意も爭はれない事實である。其時の噂によれば此人は書畫屋であつて燒物の取扱方を知らないから此樣な大事を仕出かしたのだと云ふことであつた。要するに列べた者にも、直接粗相を仕出かした當人にも共に責任がある譯だが、事柄が出來てから責任爭ひをしても始まらぬ。されば燒物の取扱方と云ふものは日頃が大切であつて、日頃取扱方を〓究して大切に取扱ふ習慣を付けて置くことが肝要である。彼の人は書畫屋であるから自然燒物の取扱方を知らなかつたが爲にかゝる大事を仕出かしたのであるから、小兒でも知つてゐるからとて決して油斷してあなどることは不可である。次にもう一つ筆者の聞いた處を述べて置く。これは二十年前だか三十年前だか分らないが、嘗て我邦で最高權威ある某館に於て或種類の古美術品の展觀を行ふ計劃があつて、其種の逸品を所藏すると聞こえた西國の某大大名に出陳方を所望した。處が其大名の三太夫氏は膠もなく言下に之を拒絕して、當家では一切出陳はお斷りする內規ですと答へた。そこで某館の係員は大に憤慨して、それは何故ですか、餘り無理解ではないかと詰寄つた處が、三太夫君の日く、實は先年御所望によつて出陳したことがありましたが、其時こはして返却されましたから、以來一切お斷りすることにしたのでありますとの挨拶であつた。之を聞た某係員は大に憤慨して、自分が某館に入つてから未だ嘗て三太夫氏の言の如く品物をこはして返したなど云ふ例は無いし、又其前にも左樣なことが當館であつたことは聞いたことも無い。これは恐らく左樣な口實を設けて斷るのであらう、怪しからぬことであるとは思つたが、何分出さぬと云ふのだから致方なく其まゝになつてゐた。處が其後古老から聞いた處によると、確かに其大名の名器をこはして返したことがあつたと云ふことが分つた。然しそれは東京に在る某館ではなくて京都に在る某館での出來事であつて、其大名から何とか云ふ茶碗の名品を出陳して貰つたことがある。其時不幸にして京都の某館の掛員に茶人が居つた。此茶人は此茶碗を見て私かに思へらく、自今も余道熱心である以上、一生に一度此茶碗で茶を飮んでみたいと。そこで展觀がすんで返却する前にそうと內しよで此茶碗で茶を點てゝ飮まうとしたのである。處が茶を茶碗に入れて釜から柄杓で熱湯を之に注いだら其瞬間ビツと茶、碗にヒヾが入つて仕まつたのである。茶人先生靑くなつたが、もう取返しがつかない。仕方がないから其まゝそうと包んで何喰はぬ顏でお大名へ返した。横着極ると云へばそれに相違ないが、あやまるにもあやまり樣が無い失策であるから、萬一を僥倖して若しお大名で中を改めずに三太キが其まゝお庫に仕まひ込んだら何年か何十年後に出す機會があつて、其時ヒヾの入つたことが發覺されても何時入つたヒヾやら、誰がどうして損じたものやら詮議の方法も無いから罪も發覺せずに濟むであらうことを神佛に念じてゐたことで十八、燒物の取扱方三九
十八、燒物の取扱方80°あらう。然し天は斯る不埒を容赦しない。某大名の三太夫氏は返却されるとすぐ其場で中身を改める。發覺したから忽ち嚴重なる掛合となり、某館は膝を七重八重に折つて平謝りに謝つて內濟になつた。昔なら切腹でも濟むまい。打首獄門は免かれぬ大罪であらう。小人罪なし玉を抱いて罪ありとは此樣の事を云ふのであらう。東京に在る某館の係員某氏は筆者の先輩であるが、古老から右の話を聞いて成るほど其樣の事があつたのか、それでは某大名の內規と云ふのも無理はないと合點が行つたと筆者に話された。古い茶碗で長年使用しなかつたものは殊に餘ほど注意しないとヒヾが入る。熱湯を注ぐなど禁物である。嘗て谷松屋の展觀で一つの木の葉天目を見た。所謂吉安天目で木の葉の形が見込に一つある手のもので、少いが時に見るものではあるが、此木の葉天目の如く優秀な作は見たことが無い。直徑五寸位もあらうか、大振りで高臺は小さく締り、其處から口邊にかけて一直線に美事に開いてゐる北宋特有の强い形であるが、而かも紙の樣な薄胎で見込に木葉が美しいコバルト色と黃綠色とで出てゐる。釉は光澤のある柿釉であつたと記憶してゐる。此の如く實に名品ではあるが、惜しい哉中央に一本ヒヾが橫貫してゐる。此碗を見たとき不圖前述某先輩の話を憶ひ出し、此木の葉天目も恐らく心なき茶人の熱湯注入の犠牲となつたのであらうかと思つた。右二例の如き實例はまだ他にもあると思ふが要するに燒物の取扱は愼重にも愼重にせねばならぬ譯である。而して右茶人の失策の如きは言語同斷であるが、古來茶人の功罪を論ずるとすれば、其唯一にあらざるまでも最も大なる功として擧ぐべきものに燒物の取扱方に關する規則がある。尤もこれは燒物のみに限らず何品にも通ずるものかも知なないが、燒物を見るときに決して疊から三寸以上上げてはいけない。帛紗を敷いて其上に置て見るとか、兩手を以て持ち決して片手で持つなとか云ふ小蒼蠅い規則があるが、此位鄭重にせねば過失が起り易いから斯る規則を作つたのであつて、數百年の經驗から出來た規則であるから決して輕視することは出來ない。若し輕視すれば何時かは前に述べた樣な飛んでもない失策を引起すことになるから、燒物の取扱に關しては茶人の規則を尊重すべきである。然し又前記の如き不埒な茶人も居ることを記憶せねばならぬ。數年前歐洲戰爭の始まる二三年前であつた。英國の愛陶家「ユーモルフオプロス」。「デヴヰツド」。「ホブソン」等一行が支那及日本へ來訪した時、東京の某大家で燒物を見せたことがある。其時彼等洋人は洋館の絨緞の上にあぐらをかいて、絨緞の上に品物を置きいと鄭重に見たとて主人公を大に喜ばしたと傳聞してゐる。今囘の日支事變の起る前東京の某館新築落成の記念展覽會に懇望されて祕藏の天下第一と稱せられる志野の茶碗を出陳された某大家の主人M氏は、自から之を持參して陳列棚の中に手づから之を安置陳列して、自から陳列棚の戶に鍵をかけて、掛員に向つて決して此戶を開けるな品物に手を觸れるなと、固く念を押して、歸られたが、展覧の日限が完了した最終日の時限一時間前に再び來館されて時間の來るを待つて、自から陳列棚の戶を開いて手づから茶碗を箱に納めて持ち歸られたと云ふことである。又右M氏と竝稱せらたる大家にI氏と云ふのがある。嘗て右某館に於て催された展覧會に懇望されて屏風を出陳されたことがある。會期が終つて屏風を引取る爲にI氏の邸から掛の人が自家用の荷物自動車を以て某館に引取りに來た。其時某館の掛員が御世辭の積りで、當方から持參して御返しせぬばならぬのにわざ〓〓御引取下さるのは誠に濟みきせぬと云ふと、I氏の使者はどう致しまして大切な品をあなた方に運搬を御任かせ出十八、燒物の取扱方50
後記附參考書目80°來るものですかと返答されて、某館の掛員は徵苦笑を禁じ得なかつたと傳聞する。某館は由來最も保守的な公館であり長年同館に勤務せられる某氏の如きは斯道の大先輩の長老であつて、品物の取扱は殊に日頃嚴しくやかましい方であるから粗末な取扱などあるべき筈ではないが、然し運搬の途中のことまでは如何に心配しても所詮手の及ばないことであるから、矢張り某家の使者の如き返答が正當かも知れない。何れにせよ品物を大切にすることは昔之を作つた作者に對し、又現在吾人が直接間接に大恩を受けてゐる國家及社會に對して所藏者が負ふ處の重大なる義務であるから、力の及ぶ限り大切にすることが肝要である。後記附參考書目以上本書に於て說くべきことは略ぼ其大要を盡くした。今之を綜合結集して其締め括りをつけて置くのが便利と思ふ。先づ第一に鑑賞、第二に鑑定の意義を明確にして其異同を辨じ、濫りに感情を縱まにして鑑賞に陶醉耽溺するに先だちて理智に訴へて冷靜に鑑定を行ふことの重要なる所以を說き、第三に鑑定の種々相と題して技術家、學者、商人、素人各其鑑識に特異の利害得失あることを陳べ、第四に蒐集奇談と題して思慮なき蒐集を戒め、第五に支那古陶磁の現狀と題して現在斯學の輪廓を明かにし、第六に鑑定の方法と題して胎土、釉藥、形狀、模樣、銘款の五項に分ちて鑑定の要點を說明した。以上は本書の總說とも云ふべき部分であつて、支那古陶磁の鑑賞及び鑑定に不可缺の基礎的要點であるが、また獨り支那古陶磁のみならず一般古美術に亘りて通用する根本原理を包含して極めて重要性に富むものである。第七染付、第八赤繪以下第十七鉅鹿陶に至る十項目に於て、支那古陶磁を大づかみに類別して之を略說したが、此部分は各說とも稱すべき部分である。然るに元來此等の類別は通俗の名稱によつたものであるから、各の輪郭が曖昧で判然としない場合もあり、又甲にも屬し乙にも屬する場合もある。例へば唐三彩の如きは一方三彩の項にも屬するが、同時にまた上代から唐迄の窯器にも屬する。其他鉅鹿陶の內に磁州窯が存在し.磁州窯の内に宋赤繪を包含するが如きであるが、甚しきに至りては白磁の內に紫定を說かねば說くべき場所が見當らぬ樣な結果と相成つた。これ通俗の類別法を採つた本書に於ては萬不得止ところである。圖版の排置と解說に於ても整然たる順序を履むことを得なかつた。原色版及び別刷寫眞版は兎に角として、挿入寫眞は大抵各項目に關する寫眞は其項の前に一括して置いたのであるが、中には此規則に合はぬものもあ)る。例へば赤繪の挿圖の内に48康熙窯彫花靑花釉裏紅靑磁釉等花卉文尊式瓶、46明〓代年款銘を揭げ、上代より唐迄の窯器の挿圖である唐黑褐釉龍頭把手水注を101として鮮紅、郞窯等の挿圖と並べ、龍泉窯靑磁袴腰香爐を1111として最後に揭ぐるが如き甚だ其體裁を失せるものである。從つて其解說も亦た圖版の順序を追はざる場合を生ずるに至つたが、挿圖の數の關係上空處と剩溢せる圖とを生じ萬止むを得ず斯かる排置となつた。本書の圖版は大部分既刊の書物から借用轉載した。而して其多くは西洋の書である。これ專ぱら便宜の爲であつて、勿論此等の器皿が本邦に無いと云ふ次第ではないが、何分多數の人士が一二點又は數點づつ所藏せる後記附參考書目一〇三
HOH到底短日月の間に不可能のことでHOH後記附參考書目ものを、一々其處在を突止めて、其了解を得て撮影して廻ると云ふことは、到底短日月の間に不可能のことである。要はたゞ器皿の圖であつて、其所藏者の誰たるかは問題ではない。本書は元と通俗を旨としたものであるから、たゞ大要を說くに止め、且むつかしい議論は一切れれことにした。然し進んで廣く深く且詳細に斯學の〓究を志す讀者の爲に左に參考書目を揭げて置く。Hobson, R. L. Chinese Pottery and Porcelain, in 2 vols. London, 1915.支那古陶瓷大谷光瑞著昭和七年Zimmermann, E Chinesisches Porzellan. 1. Band Text. 2. Band Taffeln. Leipzig. 1923.支那の陶磁久志卓眞著昭和十七年(1)部分的解說の書Laufer, B.: Chinese Pottery of the Han Dy- nasty. Leiden, 1909. R〓cker=Embden. O.: Chinesische Fr〓hkeramik. 1923. Leipzig, and Porcelain, 1全般に關する書團說六卷朱琰撰乾隆卅九年古今中外陶磁彙編葉麟趾編著一九三四年Bushell. S. W: Description of Chinese Pottery and Porcelain. Oxford, 1910. Do.: Orienta 1 Ceramic Art, illustrated by Examples from the Collection of W. T. Walters. In 5 portfolios. New York. 1897. Do.: Porcelain of Different Dynasties. Oxford, 1908.景德鎮陶錄十卷藍浦著嘉慶廿年刊Do.: of the Han Dy- Do.: Fr〓hkeramik.十卷藍浦著嘉慶廿年刊Hetherington, A. L.: The Early Ceramie Wares of China. London, 1922. Dy- R. L.: The W of the Hobsen, ares Ming nasty. London, 1925. Reidemeister, L.: Ming Prozellane. Berlin. 1935. Blankston, A. D.: Early Ming Wares of Chin- techen. Peking 1938.明代の陶磁拙稿昭和十七年Hobson. R. L.: The Later Ceramic Wares of China. London, 1925.毎雅三卷寂園叟著光〓卅二年飮流齋說瓷二卷許之衡著支那靑磁史稿小山富士夫著昭和十八年古月軒瓷考楊献谷著民國廿二年継瑞拙稿(茶道全集第十五卷)吳州赤繪回(回ダントルコル支那陶瓷見聞錄小林太市郞著後記附參考書目Ceramie Wares中圖明器鄭德坤沈維釣合著民國中二年中國明器圖譜鄭德坤著民國中四年(1)主として技術及成分に關する書〓國窯業調査報告書北村彌一部明治四十一年Julien, S.: Histoire et Fabrication de la Porc- elaine Chinoise. Paris, 1856. Vogt, M. G.: Recherches sur les Procelaines Chinoises. Etudes faites sur les mati〓res recucillies a King-te-tehen et envoy〓s a la Manufacture nationale de Sevres. par M. F. Scherzer. Paris. 1900. Hetherington, A. L.: Chinese Ceramic Glazes. Cambridge, 1937. Burton, W.: Porcelain. its Art and Manufac- ture. London, 1906. Dy- the Ming Vogt, Wares of Ceramic Glazes. Art and Manufac-小林太市郞著HOM
HOK Prehistoric 1938.後記附參考書目G.D. (吳金鼎China. London. Pottery 1n Wu, (四二史前及上代の陶器に關する書Culture. Anlerson. J.G.: An Early Chinese (Bulletin of the Geological Survey of China, No. 5, 1923 Do.: Preliminarv Report on Archaeological R esearch in Kansu. (Memoirs of the Geological Survey of China, Series A. No. 5, 1925). Arne, T. J.: Painted Stone Age Pottery from the Province of Honan, China. Palaeon tologia Senica. Series D, Vol. I. fasc. 2. Peking, 1925).半山及馬廠隨葬陶巴爾姆倫著民國二十年安陽發掘報告李濟等民國十八年殷墟出土白色土器の研究梅原末治昭和七年河南安陽遺物の研究回昭和十七年(1)圖錄を主とする書Hobson, R. L.: Chinese Pottery and Porcelain in the David Collection. London, 1934. De.: The George Eumorfopoulos Collection of the Chinese, Corean and Persian Pottery and Porcelain. 6 Vols. London, 1925.吳須赤繪圖鑑東洋陶磁〓究所支那明初陶磁圖鑑久志卓眞寶雲社Hobson. R. L., and Hetherington, A. L.: The Art of the Chinese Potter. London. 1923.國務國講第七卷及第八卷支那篇雄山閣陶器大觀正木直彥等監修アトリエ社宋權小山富士夫著昭和十八年唐三彩圖譜東洋陶瓷〓究所昭和三年圖錄を主とする書Do.: on Archaeological (Memoirs of the China, Series A. De.:昭和十九年九月十七日品屋第一刷昭和十九年九月二十日發行11000號定價〓十圓五十錢要特別行爲稅組幕九十五錢合計十一圓四十五錢、** 17どう〓作者尾蜜洵齡東東都講田 国神保町一ノ六五發行者北原議雜東京都牛込區西五毎日月11品是者·Ⅱ井程十二東京都神田區淡近日二八六記無元日本出版配給株式會社發行所北原出版株式會社會員番號三四〇一六八電話神田一八六六*郵÷田會試験工程(電視)財源廣進出租出租所丈夫野望の所である。日本田信会社1330343〓作者發行者品是者記發無行元所
