石原千秋の『漱石はどう読まれてきたか』をどう読むか68 今帯を解いているところです
藤澤るり「『行人』論・言葉の変容」は……石原千秋の説明を読んでもさっぱり解らない。「二郎の言葉を信じない」?
長野二郎が家族と兄からはじき出されていくことは理解できる。しかしそれを藤澤は「属性からはじき出される」と見做している。
だから、一郎の「直は御前に惚れてるんじゃないか」(「兄」十八)という言葉は、二郎にとっては「突然」でも、他の家族には公然の秘密だったのではないか。
これは二郎を「信頼できない語り手」として見做す態度だが、これは石原千秋の文なのだ。属性が弾き飛ばされる話とはどうつながるのかが解らない。
こういうことか。直の態度の中には明らかに二郎に惚れているそぶりがあるのに、二郎は家族や兄や読者にまで、そのことに気が付かないように語り続けていたという意味なのか?
直と二郎の間に演じられたのは、事柄のドラマではなかったのだ。そこに在ったのは、ただ何かを語った言葉たち―それ丈なのだ。和歌山で演じられたのはまさにこの言葉たちについてのドラマに他ならない。すなわち〈長野家〉の言葉の圏内に生きてきた二郎と彼の言葉とが、初めてその圏外の言葉、つまり他者の言葉に出会い、それによって解体へと進行する腐食に見舞われるのである。
これがパソコンであればシャーシャー言うほど、つまりハイカカオチョコレートを三枚食べて相当に考えたが、どうも意味が解らない。
それでも敢えて解釈すると、
❶長野家では事の本質を明確にしない家族的共有言語が用いられていた。
❷和歌山の夜において直は圏外の言葉を使って二郎に本心を明かした。
➌二郎の言葉が解体へ進行した。つまり圏外の言葉が使われるようになった?
しかしそもそも、
「いったい直は愛嬌のある質じゃないが、御父さんや妾にはいつだって同じ調子だがね。二郎、御前にだってそうだろう」
これは全く母の云う通りであった。自分は元来性急な性分で、よく大きな声を出したり、怒鳴りつけたりするが、不思議にまだ嫂と喧嘩をした例はなかったのみならず、場合によると、兄よりもかえって心おきなく話をした。
「僕にもそうですがね。なるほどそう云われれば少々変には違ない」
「だからさ妾には直が一郎に対してだけ、わざわざ、あんな風をつらあてがましくやっているように思われて仕方がないんだよ」
「まさか」
自白すると自分はこの問題を母ほど細く考えていなかった。
そもそも長野家で直が二郎にだけ態度を変えていたという認識は母にはなく、むしろ直は一郎にだけ「あんな風をつらあてがましくやっている」と見做されていた。つまり、「だから、一郎の「直は御前に惚れてるんじゃないか」(「兄」十八)という言葉は、二郎にとっては「突然」でも、他の家族には公然の秘密だったのではないか」という解釈は誤りである。
つまり公然の秘密を抱える長野家が、けして触れなかったことを、和歌山で直が口にしたのではなく、和歌山以降、二郎が兄に言えない言葉を抱えてしまったのである。従って和歌山の夜が言葉の劇だというあたり、そして(言い回しは兎も角として)「解体へと進行する腐食に見舞われる」という流れそのものは決しておかしな指摘ではない。
しかし直の言葉が「他者の言葉」?
二郎は興奮した言葉だと捉えた。直は落ち着いていると答えた。持ち掛けられたのは心中である。
AI による概要
「他者の言葉」とは、自分以外の他人から発せられる、独自の視点や感情を持った言葉のことです。単なる情報の伝達ではなく、自分とは異なる経験や論理を持つ相手の「生身」の感覚が反映された言葉を指し、理解する際には自分の都合で解釈せず、相手の言葉として受け止める姿勢が重要です。
この概念は、特に以下の文脈で深く考察されています。
文学・批評の文脈: 自分の読みの都合で解釈するのではなく、文学作品を一つの「他者」として認め、その作品独自の意味を読み解く姿勢を指します。
コミュニケーションの文脈: 相手の魂に触れるような、生身から紡ぎ出される言葉を指します。一方的に伝えるだけでなく、贈り物のように大切に手渡される、受け手に寄り添う言葉として評価されます。
自分とは違う視点や思考を提示されることで、新たな発見をもたらす言葉と言えます。
文芸批評における「他者」とは何か?
AI による概要
文芸批評における「他者(The Other)」とは、単に「自分以外の他人」を指すのではなく、自己(主体)の認識枠組みや社会的な規範、論理の枠に収まりきらず、それを脅かす「未知の存在」「理解不可能な存在」「排除された存在」を指す概念です。
構造主義、ポスト構造主義、ポストコロニアリズムなどの批評理論において、「他者」は自己のアイデンティティや、作品における意味構造を定義するために不可欠な、対立概念として論じられます。
以下に、文芸批評における他者の主な側面を整理します。
「他者」の基本的な意味
主体に理解されない存在: 自己(主人公、あるいは読者)の持っている認識、言語、倫理の秩序(「自己」)によって理解したり、取り込んだりすることができない存在。
境界の存在: 文学作品の中と外、日常と非日常、正常と異常といった、安定した枠組みを越境する存在。
他者性の保持: 他者は、固定化・概念化されることを拒み続け、常に動的な変化の中にあります。固定された描写(例えば「悪人」など)に当てはめると、その「他者性」は失われてしまいます。文芸批評における主なアプローチ
文芸批評では、「他者」を単なる登場人物の属性としてではなく、作品の構造や、作者と作品の関係を読み解く鍵として扱います。
自己と他者の構造(構造主義): 自己定義の源泉として他者が存在します。「私」は「私ではないもの(他者)」との関係性の中でしか自己を定義できません。この視点では、物語の中での「自己―他者」の対立構造を分析します。
周縁化された存在(ポストコロニアリズム・ジェンダー論): 社会の主流派(中心)が、自分たちの地位や正当性を維持するために、マイノリティや異文化(他者)を周辺に押しやり、異なる存在として描写する構造を批判的に分析します。
言葉の不可能性(ポスト構造主義): 言葉(言語)は、本来他者性、つまり「語り尽くせない何か」を含んでいますが、言語はそれを「私」の文脈に投影し、他者性を失わせる危険性があります。文学は、そうした「言語が捉えきれない他者」を表現する事件として認識されます。具体的な文学的文脈での「他者」
日本文学の批評における事例では、以下のようなものが「他者」として挙げられます。
夏目漱石作品における「平面的な他者」: 江藤淳は『行人』などにおける、知識人が抱く自己中心的な物語からはみ出していく、独立した存在としての「平面的な他者」を指摘しました。
「私」の解体: 小林秀雄の『私小説論』などでは、自己の内部に潜む「他者(別の自己)」との対峙が議論され、単純な自己表現としての文学ではなく、他者との遭遇という視点が重視されます。まとめ
文芸批評において「他者」を考えることは、「その作品が、社会の既存の価値観や、語り手の理解の範囲をいかに超え、異質なものと対峙しているか」、または「いかに自己のロジックで他者を異物として処理(排除)しているか」を見極める作業と言えます。
他者とは、作品の中に存在する「異質な謎」であり、読者や批評家に対して、自分自身の内面や認識を問い直す(変容させる)よう強いる存在です。
まあ、「他者の言葉」か。しかし「他人の言葉」も同じではないのか。「仮面の告白」と「お面の告白」のような話ではないのか。
AI による概要
夏目漱石の作品における「平面的な他者」とは、主に自我を肥大させた主人公(知識人)から見て、内面や深みを持たない、紋切り型で機能的な存在として描かれる人物を指します。江藤淳の漱石論などで特に『行人』以降、社会の座標を失った知識人が等しく「我執」をもった他者を意識する過程で顕在化する概念とされています。
具体的な側面は以下の通りです。
「平面的な他者」の特徴と背景
深みの欠如: 主人公から見て、個人の葛藤や内面的な成長を持たない「機能」や「肩書き」だけの人物として描かれる。
我執(がしゅう)の認識: 漱石は中期以降、自身も「我執」から逃れられないことを自覚し、周囲の人々もまた同様の平面的な我執に縛られた存在であることを認識する。
対象となる人物: 主人公に都合の良い(または悪い)記号として機能する、紋切り型の社会人、大衆、あるいは理解し合えない家族や知人がこれに当てはまる。代表的な作品における描写
『行人』(特に二郎の視点): 江藤淳の分析では、啓蒙主義的な社会像が崩壊した後、『行人』では「平面的な他者」が同じ日常空間上に存在することに気づく(=等しく「我執」をもった存在として認識する)。
『坊っちゃん』: 主人公(坊っちゃん)から見た「赤シャツ(教頭)」や「野だいこ」は、人間の内面が描かれない、ステレオタイプな悪や薄っぺらい人間として配置されている。
『それから』: 代助の周辺人物は、代助の理想や欲望の文脈に沿って、平板な存在として描かれる。主人公との関係性
支配的な視点: 初期から中期にかけては、「余」や主人公が一段高い位置から、周囲の人間を滑稽または「醜い我執」の塊として評価・観察する構造がみられる。
相互不全: 主人公は、他者を理解できない(理解したくない)ため、他者は「自分を脅かす存在」または「軽蔑すべき存在」として平面的に描写される。漱石の態度の変化
この「平面的な他者」の認識は、執筆態度に変化をもたらした。晩年に近づくにつれて、漱石は作中人物一般によりフェア(fair)な態度をとろうとするようになり、単なる「平面的な他者」として処理しきれない人物像を描くようになる。
なお、この概念は、他者との絶対的な乖離を表現したものでもあり、孤独な近代知識人の内面を描く上での重要な手法であったと言えます。
しかしそれを自我と呼ぶかどうかは別として、直は平面ではなく、二郎を脅かしはするものの、それは明らかに「植え替えられたい」という内面の願望を持っているからである。つまり二郎に惚れているかどうかは別として、里見美禰子程度には危険な訳である。(子持ちなのに!)「たいていの男は意気地なしね、いざとなると」と言ったのは、『三四郎』の「汽車の女」と同じ態度である。
「何をしているんですか」と再び聞いた。
「先刻さっき下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いているところです」と嫂が答えた。
自分が暗闇で帯の音を聞いているうちに、下女は古風な蝋燭を点けて縁側伝いに持って来た。そうしてそれを座敷の床の横にある机の上に立てた。蝋燭の焔がちらちら右左へ揺れるので、黒い柱や煤けた天井はもちろん、灯の勢の及ぶ限りは、穏かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心を淋しく焦立たせた。ことさら床に掛けた軸と、その前に活けてある花とが、気味の悪いほど目立って蝋燭の灯の影響を受けた。自分は手拭いを持って、また汗を流しに風呂へ行った。風呂は怪しげなカンテラで照らされていた。
この場面二郎は、
・床の間に置かれた蝋燭
・柱
・天井
・床の間の軸
・床の間の花
と視線をさまよわせている。その視界の端には、帯を解き終わり、浴衣に着替えている嫂の姿があり、二郎はそちらが見られないのだ。二郎は「また汗を流しに風呂へ行った」。風呂場から逃げ出す三四郎の逆だ。汗をかいている。直が平気なのも「汽車の女」と同じだ。二人とも子持ちなので少々のことは平気なのだろう。実際この場面は少しは「汽車の女」を意識したかのような、しかしドタバタではなくエロチックに、直を大胆な女にしてしまっている。
しかし義弟の前で裸になるのは家族ではない。他者と言えば他者である。そしてこの振舞は言葉ではなく、事柄のドラマなのだ。なまじっか直の振舞に隙があるので、「和歌の浦まで伴れて行ってちょうだい。きっと浪の中へ飛込んで死んで見せるから」という言葉のドラマに脅かされるのである。
石原は「言葉」のドラマを論じたところが新鮮というが、どうも腑に落ちない。当然の権利のように三沢を無視しているし、お貞さんのことも取り扱いかねている。やはり粗筋が摑めていないからこんなずらし論文になってしまうのではないかと思う。まずはきちんと読むことから始めよう。
