谷崎潤一郎のどこが近代文学なのか⑥ 尖りに尖って
舞台設定が古いから何が何でも近代文学としては認められないというわけではない。例えば芥川龍之介は、『鼻』『羅生門』『地獄変』などの作品に於いて、元ネタの「物語構成上の古さ」に鋭い逆説を当てて行くという手法を選んでいるように見える。椿説といえばまた戯作的ではあるが、芥川には三島由紀夫以上に日本文学史に連なる意識があり、ドナルド・キーンの言うところの「このひとすじにつらなりて」という感覚で本歌のない根無し草でないところを選び、なお新しいものを書いているという自負があったのではなかろうか。例えばその自負は『戯作三昧』という題で、曲亭馬琴を書くという意地の中に見える。
それに対して谷崎潤一郎という作家が『お艶殺し』について、
「お艶殺し」と「お才と己之介」とは、執筆中に知らず識らず人情本的興味に引き擦られ、予が濃厚なる主觀の色を自由に純粹に盛り上ぐる能はざりき。殊に「お才と己之介」に於いて、脫稿の後予は我ながら其の舊臭の堪へ難きか感じたりと記憶す。

(『金色の死』序)
……と自信なさげにしているところは見ておかねばならないだろう。谷崎潤一郎に限らず作家の言い訳はどれも眉唾物ではあるが、やはり『お艶殺し』はどうも今一つ、新しいものに出来なかったというのは本音だろう。
しかしこの『創造』あたりから雰囲気が少し変わってくる。
谷崎はレッシングの『ラオコーン』の原文を二度も長尺で引用する。
Achilles ergrimmt, und ohne ein Wort zu versetzen, schlägt er ihn so unsanft zwischen Back' und Ohr, daß ihm Zähne, und Blut und Seele mit eins aus dem Halse stürzen. Zu grausam! Der jachzornige mörderische Achilles wird mir verhaßter, als der tückische knurrende Thersites; das Freudengeschrei, welches die Griechen über diese Tat erheben, beleidiget mich; ich trete auf die Seite des Diomedes, der schon das Schwert zucket, seinen Anverwandten an dem Mörder zu rächen: denn ich empfinde es, daß Thersites auch mein Anverwandter ist, ein Mensch.
そんなことはまず日本人は誰もやらない。外国文学だと外国語やラテン語を長文で挟み込むことはさほど珍しくない。しかし日本語では、例えば『1Q84』でも古文と独逸語が出て來るが、ともに現代日本語訳が併記される。(少し間違えているが)。谷崎のこの引用には、日本語訳がついていない。
尖っている。一体誰に読ませるつもりだったのだろうか。
たとえばロダンの作物の中に一人の人間が一人の人間の死骸を抱いて居る彫刻があって、其れに『サッフォの死』と云う題が付けられて居たとするね。ところで其の作品から美感を味わう為には、是非共サッフォの伝記を知らなければならないのだろうか。其瞬間の前後の経過を了解しなければならないのだろうか………。(谷崎潤一郎『金色の死』)
そして噛みついてくる。噛みつかせようともする。『サッフォの死』はオーギュスト・ロダンの作ではなく、ギュスターブ・モローの作ではないのか? と言わせようとしている。一体誰に?
こんな作法は江戸戯作文にはなく、井原西鶴も使っていない。何故か谷崎潤一郎だけが繰り返し使っているのだ。
え?
単なるミスじゃないかって?
あなた誰に対してそんなこと言っているのか解っているの?
相手は神童・谷崎潤一郎なんだよ。
はい、証拠。
作中、「二宮尊徳は十六の歳に自分の家を再興した」…とあるが、実際は二十歳である。また「源頼朝は十三歳の歳に平治の乱で武勇の誉れを擧げた」… とあるがそれはない。源頼朝は十三歳で右兵衛権佐へ任ぜられるも武功はない。むしろ逃げて翌年、捕えられ、死刑になりかったところ、清盛の継母の池禅尼の嘆願などによりなんとか生き延びたというわけで、活躍するのは三十三歳ごろからのこと。
一体何をやっているのかと言えば、『お艶殺し』を大喝采する読者を振るい落としている。読者を選んでいる。
そして永井荷風に「子はわが現代の文學に未曾有の恍惚と戰慄との二大感激を創造したり」とまで書かせる。
いや、解る。この『法成寺物語』は面白い。設定が絶妙で、明治政府批判の毒気が半端ない。そして神童の博識が溢れている。これはまさに谷崎潤一郎にしか書けない作品であろう。
これが近代文学1.0が定義する近代文学なのかどうかは解らない。ただ私にはこの『法成寺物語』は実に、実に、面白い。よくこんな設定を思いついたなと感心する。注ではないが、彼のチョイスした言葉の数々を味わってほしい。藤原道長が自分の女の顔に似せて菩薩を掘らせ、それを天皇にも拝ませようとする「機智」が面白い。
それに比べると、
この『お才と巳之介』はいかにも古い。しかし本作では一本筋の通ったマゾヒズム精神、マゾヒズムの骨法をうまうま獲得した。うん。らしくなってきた。
近代を封建時代と対比するなら、個人が現れたことも近代であり、文明批評的であることも近代であろう。明治天皇とともに始まった近代において明治天皇制を批判することも近代文学の要素の一つではあるまいか。
