見出し画像

石原千秋の「『こころ』大人になれなかった先生」をどう読むか19 「叔父=チフス菌」?

 叔父に裏切られることで、両親からの自立の儀式を行えなかった先生は、Kを相手にそれを行おうとしたのです。

(石原千秋「『こころ』大人になれなかった先生」みすず書房 2005年)

 おかしなことを言い出したよ。

 皆さんの中で「両親からの自立の儀式を行った」という人いますか?

 そもそもそんな儀式はありますか?

 未開民族に通過儀礼というのがありますね。

 物凄く田舎だと、今でもそういう儀式があるかも。

 ふりちんで海に飛び込むおまつりとか?

 まあ大抵の人は「成人式」くらいしか思い当たらないと思う。真面目に考えると現実的にはまあ、両親の葬式と、後はそれこそ「上京」かな。仕送りを貰わなくなったら自立だよね。先生はこうした通過儀礼のようなものを経てきている。

 しかし奥さんとお嬢さんという擬制家族のぬくもりの中にあって、「息子的存在」として少しの甘えもある。着替えを手伝って貰ったり、蕎麦湯を飲ましてもらうのは、「息子的存在」だからである。

 それでも石原千秋の言うところの「叔父に裏切られることで、両親からの自立の儀式を行えなかった先生」というのが一体どういうものを指しているのか本当に解らない。

 石原千秋は「叔父の裏切り」と「両親から人生の指針を受け取っていないこと」を無理やり結びつけようともしていたが、ここにきて何か叔父が「自立の儀式」を妨害でもしたかのような話になってしまっていて、ついていけない。叔父の裏切りとは、

①先生の父親の財産をくすねたこと
②先生の両親の信頼を裏切ったこと

 として理解できるが、このことと「自立の儀式」の妨害はどうしても繋がっては見えない。

 先生が生きたのは、青年が親を乗り越えることで「大人」になる、そういう時代だったのです。これを、象徴的な意味での「親殺し」と言います。

(石原千秋「『こころ』大人になれなかった先生」みすず書房 2005年)

 親殺しは、自分の親を殺害するという極めて重大で深刻な犯罪行為である。例えば職人の親子の力量が逆転することを「親孝行」とは言うと思う。その考え方は割と広くある。しかし明治時代「親殺し」が当たり前だったという話は聞いたことがない。

 少なくとも江戸明治~昭和期期において、親は儒教的な意味で孝行すべきものであり、必ずしも「親を乗り越えなければ大人にはなれない」などという考え方は一般的ではなかったのではなかろうか。当然親が隠居すれば長男が家長となるような代替わりというものがあるとして、それは親を乗り越えるという意味を持たなかった筈だ。

 石原は象徴的な意味での「親殺し」と言いますと書いているが、これは明治期の日本にエディプスコンプレックスというものが青年全員にあり、親を殺さないと大人になれなかったとありもしない世界を語ってはいまいか。

 それにしてももし叔父が「親父殺し」を妨害したとなると「叔父=腸チフスの病原菌」という奇妙なロジックが出来上がる。これはただただ頭の可笑しい人の妄言でしかない。チフス菌の大きさは長さ2〜3マイクロメートル(μm)、幅0.5〜0.8マイクロメートル程度の棒状(桿菌)で、肉眼では見えず顕微鏡で観察されるものだからである。そんな大きさでは人間の女房子供を持つことは出来ず、言葉も喋れない。

 それでも敢えてチフス菌の件は無視して考えてみよう。「親を乗り越えなければ大人にはなれない」という考え方の起源はどこにあるのか? これはやはりオイディプスコンプレックスということになり、明治期の日本ではほとんど知られていない。フロイトの精神分析学が日本に本格的に紹介され、学術的な研究対象となったのは、主に大正時代から昭和初期にかけてのことだからだ。現に心理研究に熱心だった夏目漱石はフロイトを知らなかった筈だ。エディプスコンプレックスを意味するエディプス錯綜の言葉が最初に確認できるのは、国立国会図書館内では1917年の本、大正六年は漱石の死の翌年である。

 つまり「先生が生きたのは、青年が親を乗り越えることで「大人」になる、そういう時代だった」というのは嘘である。

 もう少し平たい話にしてしまうと、例えば夏目漱石作品で言えば「青年が親を乗り越える」というモチーフがない。父親は割と早く死んでいたり、生きていても目標物にもなっていない。生きているケースは『それから』『行人』くらいなもので、それぞれ代替わりの手前くらいの位置で、息子の前にそびえたつ存在ですらなく、『それから』では母はとうになく、『行人』のは母親は息子の性的関心を集めてはいない。

 むしろ明確に繰り返されてきたのは兄と弟の関係である。それは常に不仲という訳でもないが、なかなかうまくいかないケースが多い。しかしそこも乗り越えるべき存在という訳ではない。兄弟はしばしば距離を取る。そういうモチーフはある。

 仮に「私」が静を得るとするならば、先生の死と併せてエディプスコンプレックス的図式にもなる訳だが、そもそも「私」と先生は親子ではなくメンター的存在なので、やはり一番違い類型としては『行人』の直を巡る一郎と二郎の関係性に近い。しかしそういう関係性についてはフロイト神話が蓋をしていて、絶対に見えないようになっている。

 ともかく漱石作品に関してフロイトを持ち出す奴は馬鹿だ。今日はそれだけ覚えて帰ってください。


いいなと思ったら応援しよう!