芥川龍之介の『偸盗』をどう読むか① 『続・羅生門』?『前・藪の中』?
少しは大きなものにぶつかりたい
大正六年三~四月に書かれた『偸盗』は芥川龍之介にしては珍しく、長い部類の作品となる。長いとはいえ四百字詰め原稿用紙134、5枚前後なので夏目漱石作品でいえば『二百十日』より少し長く『永日小品』と同じくらいか少し長いかと言った程度だ。中編小説に届かない長めの短篇小説である。しかしとにもかくにも芥川龍之介の作品としては長い方だ。
大正七年に書かれた『邪宗門』がやはり120枚前後であろうから、『偸盗』『邪宗門』はやや長いものを書こうとしていたのであろうということは分かる。
○そうして、ゆっくり腰をすえて、自分の力の許す範囲で、少しは大きなものにぶつかりたい。計画がないでもないが、どうも失敗しそうで、逡巡したくなる。アミエルの言ったように、腕だめしに剣を揮ってみるばかりで、一度もそれを実際に使わないようなことになっては、たいへんだと思う。
○絶えず必然に、底力強く進歩していかれた夏目先生を思うと、自分のいくじないのが恥かしい。心から恥かしい。(大正五年三月―大正六年一月)
ここで言われている「少しは大きなもの」が『偸盗』『邪宗門』であり、少しは夏目漱石を見習って、「何かを隠しながら書き、だんだん設定が解るような話」→「最初は設定がよく分からない話」を書こうとしていたのではないかと推測できる。
しかし残念ながら『邪宗門』は未完となり、『偸盗』には芥川龍之介自らが失敗作の烙印を押した。
昨日大正六年九月三日の『沼地』の時点で「恐しい焦躁と不安とに虐まれている傷ましい芸術家」の気持ちを理解するのは早すぎるのではと書いたが、その『沼地』の前には既に『偸盗』の失敗があったと見るべきかもしれない。
「羅生門」と「多襄丸」
黒澤明の映画によって『羅生門』と『藪の中』がさしたる違和感なく結びついている人も少なくなかろう。その奇抜なアイデアがさして無理ではないことは『偸盗』に「羅生門」と「多襄丸」が登場することが指し示している。
沙金率いる盗賊団の集合場所は羅生門、
「されば、行ゆこう。ぬかるまいぞ、多襄丸。」
猪熊の爺は、戟をたばさみながら、隣にいる仲間をふり返った。蘇芳染の水干を着た相手は、太刀のつばを鳴らして、「ふふん」と言ったまま、答えない。そのかわりに、斧をかついだ、青ひげのさわやかな男が、横あいから、口を出した。
「おぬしこそ、また影法師なぞにおびえまいぞ。」
大正十年の『藪の中』に先んじて、『偸盗』には多襄丸が登場する。『羅生門』の下人が何人かに分裂して、「檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆」が「垢じみた檜皮色の帷子に、黄ばんだ髪の毛をたらして、尻の切れた藁草履をひきずりながら、長い蛙股の杖をついた、目の丸い、口の大きな、どこか蟇の顔を思わせる、卑しげな女」猪熊のばばに化けたかのようでさえある。少なくとも「檜皮色」を重ねたのは偶然ではなかろう。
いや、
猪熊のばばは、口達者に答えながら、杖をひいて、歩きだした。綾小路を東へ、猿のような帷子姿が、藁草履の尻にほこりをあげて、日ざしにも恐れず、歩いてゆく。
猪熊のばばは「猿のような」と形容される。『偸盗』は『羅生門』を一歩進めた太い悪者たちの話だ。
畜生が畜生を殺すのじゃ
思い返してみれば『羅生門』は盗みの話でもあった。死人の髪の毛を抜いてよいのならば、身ぐるみ剥がれても文句は言えまいという乱暴なロジックが放り出された。『偸盗』にも同じようなロジックが現れる。
「いったい、生きているのかえ。それとも、死んでいるのかえ。」
「どうだかね。」
「気らくだよ、この人は。死んだものなら、犬が食ったって、いいじゃないか。」
老婆は、こう言うと、蛙股の杖をのべて、遠くから、ぐいと女の頭を突いてみた。頭はまくらの石をはずれて、砂に髪をひきながら、たわいなく畳の上へぐたりとなる。が、病人は、依然として、目をつぶったまま、顔の筋肉一つ動かさない。
女はまだ生きているが死人扱いされ、「犬が食ったって、いいじゃないか」とまで言われる。『羅生門』の老婆よりさらにシビアだ。
そして性に関する倫理観もシビアだ。
「それが手前勝手じゃ。よいか。沙金はおばばのつれ子じゃよ。が、わしの子ではない。されば、おばばにつれそうわしが、沙金を子じゃと思わねばならぬなら、沙金につれそうおぬしも、わしを親じゃと思わねばなるまいがな。それをおぬしは、わしを親とも思わぬ。思わぬどころか、場合によっては、打ち打擲もするではないか。そのおぬしが、わしにばかり、沙金を子と思えとは、どういうわけじゃ。妻にして悪いとは、どういうわけじゃ。沙金を妻にするわしが、畜生なら、親を殺そうとするおぬしも、畜生ではないか。」
この鬼畜の論理でさえ誰彼構わず相手にする沙金という外見の美しい女にとってはどうでもいいものなのであろう。
僕等はこれから監獄の前へ、従兄妹同志結婚した不倫の男女の曝しものを見物に出かけるつもりである。……
婚姻や性を巡るタブーは単なる文化であり、絶対的なものではない。人間の生命に対する尊厳も、仲間に対する裏切りも、誰かが勝手に拵えたものだ。『偸盗』は『羅生門』からさらに一歩踏み込んだ、裸の人間たちを描こうとしている。
[続く]
[余談]
これはまったく仰るとおりです。そして、まさにそれゆえにかなり多くの倫理学が現に意味のないものになっていると考えられます。 https://t.co/AdUZRdndKJ
— 永井均 (@hitoshinagai1) June 12, 2023
まあ、そうなるのかな。
