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『行人』を読む 2 事務所とは何か?

二十六
 その日自分が事務所から帰ってお重に「兄さんは」と聞くと、「まだよ」という返事を得た。
「今日はどこかへ廻る日なのかね」と重ねて尋ねた時、お重は「どうだか知らないわ。書斎へ行って壁に貼りつけてある時間表を見て来て上げましょうか」と云った。(夏目漱石『行人』)

 夏目漱石という人が文学の第二の目的に「幻惑」を持ってきていることは広く知られて、……いないようですね。『文学論』に書かれています。

文學の大目的の那邊に存するかは暫く措く。其大目的を生ずるに必要なる第二の目的は幻惑の二字に歸着す。(夏目漱石『文学論』)

 これが今ではネットで閲覧出来て、二文字以上からテキスト検索できるから便利です。

  たしかにデビュー当時の夏目漱石は幻惑小説家です。

 現在法(Prosopopaeia)とは、過去または未來の事實を現在働詞を以つて發表し、まざまざと目前に出來て居ることであるかの樣に見せることだ。幻像(Vision)ともいふ。修辭小說家では、夏目漱石がよく之を用ゐる。(『新体詩の作法』岩野泡鳴 (美衛) 著修文館 1907年)

 このような岩野泡鳴の見立ても、『倫敦塔』を読めば成る程そういうものかと感じられるはずです。しかし後の漱石作品では次第に露骨な現在法は控える傾向があり、その上『倫敦塔』は相当に解り難いうえに漱石作品の中では人気が高い方ではないので、平均的な夏目漱石の読者の立場からすれば、むしろ岩野泡鳴何言っちゃってんのと感じる人の方が多いのではないでしょうか。

 しかし漱石は現在法などにこだわらずとも、一貫して幻惑させようとします。「ああかとおもえばこうだ」ということをやってきます。かなり大胆に。かなりの文字数を使って。

 この事務所なんですが、一読して解る人はちょっといないんじゃないかなと思います。漱石はちょっと相当に意地が悪くて、この一つ前の章ではこんなことをやっているのです。

二十五
 父は長い手紙を裾の方から巻き返しながら、「何か用かね、また金じゃないか。金ならないよ」と云って、封筒に上書を認めた。
 自分はきわめて簡略に自分の決意を述べた上、「永々御厄介になりましたが……」というような形式の言葉をちょっと後へ付け加えた。父はただ「うんそうか」と答えた。やがて切手を状袋の角へ貼り付けて、「ちょっとそのベルを押してくれ」と自分に頼んだ。自分は「僕が出させましょう」と云って手紙を受け取った。父は「お前の下宿の番地を書いて、御母さんに渡しておきな」と注意した。それから床の幅についていろいろな説明をした。(夏目漱石『行人』)

 つくづく夏目漱石って凄いなあと思うのはこうしたところです。今全部説明していくと話が散らかりすぎるので止めておきますが、二つだけ拾いますね。「何か用かね、また金じゃないか。金ならないよ」と「床の幅」です。「長い手紙」と「御母さんに」は別の機会にやります。いろんなことが仕掛けられていて、一遍には説明できないのです。

 兎に角「何か用かね、また金じゃないか。金ならないよ」と「床の幅」、これが「事務所」の一つ前の章にあるのです。これだけでも凄いなあと思いませんか。「何か用かね、また金じゃないか。金ならないよ」は二郎がお金に困っている、しばしば親に金をせびっている、そういう「ふり」ですよね。「床の幅」は二郎が建築物に関する知識を持たないという「ふり」ですよね。なら「事務所」って何ですか?

 自分は下宿へ移ってから有楽町の事務所へ例の通り毎日通っていた。自分をそこへ周旋してくれたものは、例の三沢であった。事務所の持主は、昔三沢の保証人をしていた(兄の同僚の)Hの叔父に当あたる人であった。この人は永らく外国にいて、内地でも相応に経験を積んだ大家であった。胡麻塩頭の中へ指を突っ込んで、むやみに頭垢を掻き落す癖があるので、差し向いの間に火鉢でも置くと、時々火の中から妙な臭いを立てさせて、ひどく相手を弱らせる事があった。
「君の兄さんは近来何を研究しているか」などとたびたび自分に聞いた。自分は仕方なしに、「何だか一人で書斎に籠ってやってるようです」と極めて大体な答えをするのを例のようにしていた
 梧桐が坊主になったある朝、彼は突然自分を捕えて、「君の兄さんは近頃どうだね」とまた聞いた。こう云う彼の質問に慣れ切っていた自分も、その時ばかりは余りの不意打にちょっと返事を忘れた。
「健康はどうだね」と彼はまた聞いた。
「健康はあまり好い方じゃないです」と自分は答えた。
「少し気をつけないといけないよ。あまり勉強ばかりしていると」と彼は云った。
 自分は彼の顔を打ち守って、そこに一種の真面目な眉と眼の光とを認めた。(夏目漱石『行人』)

 ここなんですが、どうも二郎は家を出る前から「事務所」で働いていますね。これが何の事務所なのか、ここでは明瞭ではありません。ただ、ああ、働いていたのかと驚かされるだけです。暇そうな旅行をしているので大学生なのか(酒も飲んでいますから高等学校では不味いでしょうし)と思ったら働いていた、しかし勤め人にそう長い休みがあるわけもなく、どういうことなのかと幻惑されます。

 自分は家を出てから、まだ一遍しか家へ行かなかった。その折そっと母を小蔭に呼んで、兄の様子を聞いて見たら「近頃は少し好いようだよ。時々裏へ出て芳江をブランコに載せて、押してやったりしているからね。……」
 自分はそれで少しは安心した。それぎり宅の誰とも顔を合わせる機会を拵えずに今日まで過ぎたのである。
 昼の時間に一品料理を取寄せて食っていると、B先生(事務所の持主)がまた突然「君はたしか下宿したんだったね」と聞いた。自分はただ簡単に「ええ」と答えておいた。
「なぜ。家の方が広くって便利だろうじゃないか。それとも何か面倒な事でもあるのかい」
 自分はぐずついてすこぶる曖昧な挨拶をした。その時呑み込んだ麺麭の一片が、いかにも水気がないように、ぱさぱさと感ぜられた。
「しかし一人の方がかえって気楽かも知れないね。大勢ごたごたしているよりも。――時に君はまだ独身だろう、どうだ早く細君でももっちゃ」(夏目漱石『行人』)

 確かにそうなのです。二郎は家を出る前から働いています。その期間、何時から働き始めて何か月目かというところがどうもはっきりわかりません。どこかに二郎が卒業したり就職したりという説明があると良いのですが、それに近いものは「塵労」の冒頭のこの場面にしか認められません。

 陰刻な冬が彼岸の風に吹き払われた時自分は寒い窖ぐらから顔を出した人のように明るい世界を眺めた。自分の心のどこかにはこの明るい世界もまた今やり過ごした冬と同様に平凡だという感じがあった。けれども呼息をするたびに春の匂が脈の中に流れ込む快さを忘れるほど自分は老いていなかった。
 自分は天気の好い折々室の障子を明け放って往来を眺めた。また廂の先に横たわる蒼空を下から透すかすように望んだ。そうしてどこか遠くへ行きたいと願った。学校にいた時分ならもう春休みを利用して旅へ出る支度をするはずなのだけれども、事務所へ通うようになった今の自分には、そんな自由はとても望めなかった。偶の日曜ですら寝起きの悪い顔を一日下宿に持ち扱って、散歩にさえ出ない事があった。(夏目漱石『行人』)

 事務所には学生のような長期休みはないというロジックだけから、

①京都・大阪・和歌山の旅行の期間は学生の長期休みの期間

②「帰ってから」以降、三沢の周旋によって今の事務所に就職した

 と一応は推測できるものの、どうもタイミングがはっきりしません。「何か用かね、また金じゃないか。金ならないよ」などとふられているものですから、少々混乱してしまいます。

 さらには、

 それから三四日の間というもの自分の頭は絶えず嫂の幽霊に追い廻された。事務所の机の前に立って肝心の図を引く時ですら、自分はこの祟りを払い退ける手段を知らなかった。ある日には始終他人の手を借りて仕事を運んで行くようなはがゆい思さえ加わった。こうして自分で自分を離れた気分を持ちながら、上部だけを人並にやって行くのに傍の者はなぜ不審がらないのだろうと疑ぐって見たりした。自分はよほど前から事務所ではもう快活な男として通用しないようになっていた。ことに近来は口数さえ碌に利かなかった。それでこの三四日間に起った変化もまた他の注意に上らずに済んでいるのだろうと考えた。そうして自己と周囲と全く遮断された人の淋しさを独り感じた。(夏目漱石『行人』)

 七番目の「事務所」でようやく正体が見えてきました。どうやら二郎は設計事務所で設計士として働いているようです。「机の前に立って肝心の図を引く」というのは設計士の仕事でしょう。しかも口数少なく仕事が回るのであれば、補助的な仕事ではなくかなりの上流工程をまかされているように思われます。ということは自然、二郎の出た学校は建築学の専門で、二郎は有資格者であると考えられます。

 下積みの様子が描かれないことで、まるで何年も働いているようでもありますが、事務所には学生のような長期休みはないというロジックだけから、やはり「何年も働いていた」ということではないのではないかと考えられます。それならば余計に「二郎は即戦力でなおかつ超優秀」ということになろうかと思います。ところがその二郎に父親は「床の幅についていろいろな説明をした」わけですから、やはり漱石は意地が悪すぎますよね。

 ませんか?

 専門家が何でも知っている訳はありませんが、設計士に「床の幅についていろいろな説明をした」らやはり可笑しいですよね。

 さて、この事務所「有楽町」にあるのですが、

 茶の間には嫂が雑誌の口絵を見ていた。
「今朝ほどは失礼」
「おや吃驚りしたわ、誰かと思ったら、二郎さん。今京橋から御帰り?」
「ええ、暑くなりましたね」
 自分は手帛を出して顔を拭いた。それから上着を脱いで畳の上へ放り出した。嫂は団扇を取ってくれた。(夏目漱石『行人』)

 このように「京橋」とも呼ばれてしまいます。有楽町は日比谷公園に近いことから「日比谷あたり」と呼ばれることもありますが、何しろ町名の有楽町が織田有楽斎由来なので、京橋まで動かすことはできません。

 東京十五区の時代の区分けでも有楽町は麴町区であり、京橋区には入りません。有楽町も京橋も一度きりしか現れないので、確かなことは解りませんが、実家の番町が千鳥ヶ淵の西側にあり、有楽町、京橋が丁度皇居を巡った反対側に位置することから、「大体そのあたり」を指すも、銀座一丁目ではないという謎の位置を指定したものと考えられます。

 漱石は「ああかとおもえばこうだ」ということをやってきます。かなり大胆に。


[余談]

 『こころ』ではあたかもKの生まれ変わりのように仄めかされる「私」ですが、先生の遺書を読む限り、先生はそのことに全く感づいていませんでしたね。それでも遺書を「私」に託すので、先生をエゴイストだなんていう人もいますけど、それは違うと思います。

 漱石全集の編纂を任された小宮豊隆は本当に大変だったと思います。逆にこんなに幸せなこともないでしょう。問題は受け止め方の問題ですよ。














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