谷崎潤一郎の『卍』をどう読むか⑬ erectile dysfunction?
「あてそんなこと聞いてるのんやあれへん。あの時はほんまに子供出来てたのんかどうか、それ知りたいねん。」「そら、出来てえへんなんだ。」「そんなら今でも出来てえへんの?」「そんなこと極まってるやないか、なんでまたそれ疑ごうてるのん?」「なんでいうことないねんけど、疑がうだけの訳あるねん。」「ああ、姉ちゃん」と、その時光子さんは「もう分ってる」いう顔しなさって、「姉ちゃんきっと、あて妊娠してるいうこと栄ちゃんにいわれたのんやろなあ? あの人きっとそんなこというねん、ほんまいうたら子供生ます能力もないくせに、――」と、そないいいなさるか思たら、一所懸命歯ア喰いしばって、眼エに一杯たまってた涙が急にポトポト頬ほべた伝つとてるのんです。
なるほど妊娠云々はふりであったか。それにしても綿貫に「子供生ます能力もない」とはどういうことかと云えば、子供の時分にお多福風にかかったのんが元で睾丸炎になったかららしい。なるほど睾丸炎はazoospermiaを引き起こすこともある。法律の知識だけではなく、医学の知識も見せて來るのが谷崎潤一郎のいやらしいところだ。
尤もお多福風の結果かどうか分りませんねんけど、とにかく子供の時分からそうやったらしいて、それがどないして探偵に知れたいうたら、光子さんとそないなる前南地で隠れ遊びしてたいうこと突き止めて、その方面調べてみたら、くろとの女でも一ぺん綿貫に引っかかったら大概なもん夢中になる、なんぼ男前ええとしたかてあんまりおかしい、何ぞ秘伝でもあるのんやないかいうて、一時はえらい評判になって、関係あった女たちに聞いてみても、誰も絶対に秘密しゃべらん、そいで噂ひろがって行って、いろいろな方法で詮索するもん出来て来て、分ったとこでは、初めごろ綿貫は自分に欠陥あるいうこと隠して遊んでましてんけど、そのうちに或る女が秘密嗅ぎつけたいうのんは、その女もやっぱり同性愛の習慣あったのんで、一人前の男やのうても女に愛されるいうこと綿貫に教おせ込んだらしい。そいから綿貫のこと「男女」やとか「女男」やとかいうようになったのんやそうですが、そないいわれる時分にはぷッつり遊び止めてしもて、何処のお茶屋いも姿見せんようになった。――私、その探偵の報告書あとで見せてもらいましたら、ずいぶん細かいとこまでも行き届いて調べられてて、そんなこと委しいに書いてありましてん。
いかんなあ、谷崎君、今時「男女」やとか「女男」やとか差別やで。性自認で困ってる人が仰山おるんやで。それにしてもここで単なるazoospermiaなのか、impotenceなのか、つまりerectile dysfunctionなのか、どうなのか気になるところ。そしてこうなると俄然最初の疑問、「肉体上の関係」とはそもそも何なのだろうかという疑問が再び浮かび上がってくる。女性同士で行われるその行為はそれを男女に置き換えれば未遂になってしまうのではなかろうか、と私は書いた。では、これがimpotenceの男と女の間でのことならばどうなのだろう。
そこでさらに「肉体上の関係なかったのんなら告白しやすい訳やから」というロジックに疑問が湧いてくる。肉体と精神のどちらに重きを置くべきなのか、と考えてしまうのだ。
実際に綿貫栄次郎と徳光光子の間でどのような行為が行われるのかは判然としない。しかしどうも単にazoospermiaであるばかりではなく、綿貫栄次郎はerectile dysfunctionであるように思われる。azoospermiaだけであれば子供が出来ないという結果をみるまでなかなか発覚することは無かろうと考えられる。erectile dysfunctionにしても、そう簡単に知られることはなかろう。
三島由紀夫の『仮面の告白』(昭和二十四年)は、粗野で無学な逞しい男に抱かれたい、しかし女性に恋をしているという観念を自らに押し付けて、戦争を言い訳にのらくら逃れようとする「私」というキャラクターを拵える。彼は戦後と共にerectile dysfunctionあるいはimpotenceという現実と向き合わなくてはならない。それでも既に人妻となった園子と会い続けることで、「私」は時間稼ぎをしている、人妻に童貞を疑われる恐怖を感じながら、自身の性自認ではなく性的嗜好の「異常さ」に苦しんでいる……そんな話だ。
そう確認してみると昭和三年から昭和五年にかけて書かれた『卍』における綿貫栄次郎の開き直りと屈託のなさが何か別の意味を持って見えてくる。『仮面の告白』のerectile dysfunctionあるいはimpotenceは精神的なもので、『卍』の綿貫栄次郎のerectile dysfunctionあるいはimpotenceは単に肉体的なものであるから綿貫栄次郎は開き直り、屈託なく女を愛することができるのではないだろうか。
そんなことがあるのか、そういう理屈がどれだけリアルなものでありうるのか、正直掴みかねるところもあるが、少なくとも三島由紀夫の『仮面の告白』では「粗野で無学な逞しい男に抱かれたい、しかし女性に恋をしているという観念を自らに押し付ける」ことから苦悩が発していて、それが『卍』から二十年近く後で書かれた小説なのだ。
自分は今まで、自分の体の秘密知れたら、どない愛してくれてる人でもきっと自分を捨てるやろ思て隠してた、自分に欠陥あるいうこと承知して愛してくれるのんやったら、自分かて何で隠すもんか、自分はこんな体になったのん不仕合わせやとは思うけど、そない重大な欠点やとは思てえへん、それで男子の資格ないいうたら、男子いうもんのほんまの価値何処にあるのんや、男子ちゅうたら外に現われた恰好ばっかりできめるのんか、そんなんやったら男子でのうてもちょっともかめへん、深草の元政上人は男子の男子たる印あったら邪魔になるのんで、灸すえたいうやないか、男子の中で一番えらい精神的な仕事した人は、お釈迦さんでもキリストでも中性に近かった人やないか、そやさかい自分みたいなんは理想的人間や、そないいうたらギリシャの彫刻かて男性でも女性でもない中性の美現わしてあるのんやし、観音さんや勢至菩薩の姿かてそうやし、それ考えても人間の中で一番気高いのん中性やいうこと分ってる、自分はただ愛する人に逃げられるのん心配して隠してたんや、ほんまいうたら、恋愛にしたかて子供生んだりするのん動物の愛で、精神的恋愛楽しむ人にはそないなことやかい問題やあれへん。……
これが綿貫栄次郎の開き直りである。この綿貫の理屈、精神的恋愛はまた芥川龍之介の『一夕話』で言うところの「猛烈な恋愛」とも違う。おそらく芥川龍之介の「猛烈な恋愛」はもっと生々しいものだ。どうしたことだろう、変態マゾヒスト作家谷崎潤一郎にしてはいかにも高尚な理屈ではなかろうか。都合のええ理窟ならべて、つべこべつべこべ果てしない。そもそも問題がないかどうかは相手が決めることではなかろうか。
この堂々たる屁理屈にはまたどこかで見たような言葉が出て來る。
そいでいいますのんに、光子さん死にやはるのんやったら、自分かて一緒に死ぬのん躊躇せえへんねんけど、自分は死ぬだけの理由見つかれへん、ここで死んだら、ふん、あの男、不具者やいうこと悲観して死によったいわれるのん口惜くやしい。自分はこれぐらいのことで死ぬような意気地なしやあれへん、なんぼでも生きてて、立派な仕事して、普通の人間よりずっと偉大な超人やいうこと見せてやりたい、光子さんかて死ぬぐらいな決心するのんやったら、自分と結婚してくれたらええやないか
谷崎は「超人」という概念をこの位気安く使う。谷崎はかつて『神と人との間』において「何しろ君は超人だからね」と穂積(モデル:佐藤春夫)に言わせ、「超人は少し分からないな」と添田(モデル:谷崎潤一郎)に答えさせている。ただの肉塊でしかないものを神と人間の間に置こうと、佐藤春夫が皮肉の意味でしかけして言わないだろうという台詞を拵える。
この『神と人との間』は自身の細君譲渡事件をネタに関東大震災を挟んで連載されたなんとも不思議な作品だ。ニーチェは大正期になって熱狂的に受け入れられた哲学者だ。その超人思想をここまで素朴に捉えているのが谷崎潤一郎であるというところがなんともおかしいのだが、谷崎はけして悪ふざけを書いているのではなかろう。
綿貫や佐藤春夫にはその位素朴な超人しか見えないのだろうと揶揄っているわけではないのではないか。普通の人間よりずっと偉大な超人になりたい、精神的恋愛を楽しんで、なんぼでも生きてて、立派な仕事して……。そけれが超人だろうかというニーチェ哲学に関する議論はさておくとして、谷崎はどうも超人の概念を観音さん同様気軽に持ち出す。この「超人」には人間が動物であること証である下半身を離れた存在であるという意味も添えられていよう。
(※「お釈迦さんでもキリストでも中性に近かった人やないか」という台詞を谷崎がどういう意図で書いているのかは分からない。釈迦は女性と結婚しており息子もいる。キリストが中世的というイメージも独特のものではないか。観音菩薩は性別を超えた存在だと考えられている。)
さてではその下半身を離れた存在、綿貫栄次郎がおよそこの地球を荘厳にすべき、猛烈な何かをみいだすかどうかは、まだ誰にも解らない。何故なら私がまだこの続きを読んでいないからだ。
