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『三四郎』の謎について② 何故摩訶不思議を書いたのか?

 昨日、昨日? まあ先日夏目漱石の『三四郎』は謎だらけなんだという話を書きましたが、今日はその続きです。なんといいますか、みんな解ったような感想を書いていますが、そんなものはほぼでたらめですよ。作品の一割も理解できていません。恥ずかしい話です。たいていの人は漱石の仕掛けた仕掛けに気が付いていません。いいですか。兎に角『三四郎』という作品は冒頭から謎だらけなんです。

 うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。発車まぎわに頓狂な声を出して駆け込んで来て、いきなり肌をぬいだと思ったら背中にお灸のあとがいっぱいあったので、三四郎の記憶に残っている。じいさんが汗をふいて、肌を入れて、女の隣に腰をかけたまでよく注意して見ていたくらいである。
 女とは京都からの相乗りである。乗った時から三四郎の目についた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移って、だんだん京大阪へ近づいて来るうちに、女の色が次第に白くなるのでいつのまにか故郷を遠のくような哀れを感じていた。それでこの女が車室にはいって来た時は、なんとなく異性の味方を得た心持ちがした。この女の色はじっさい九州色であった。(夏目漱石『三四郎』)

 この中に謎が四つほどあります。解る人はいますか? いませんよね。今、必死に探さなくてもいいですよ。解っていなかったら、そもそも探し方を学ぶべきで、教える側を否定して、解っているふりをして強がっても何もいいことはないでしょう。

 強がるということは弱いということです。

 弱ければ強くなればいいんじゃないですか。そのためには丁寧に読めばいいんです。 

《問①》三四郎は何故寝ていて起きてすぐじいさんが乗ってから一駅過ぎたことが解るのか?

《問②》三四郎と女とじいさんの座席の位置関係はどうなっているか?

《問③》三四郎は九州の何駅から乗車したのか?

《問④》女は何故九州色なのか?

 これら四つの問いは、いわば「何故漱石はこのような書き方をしたのか?」という問いに還元され得ます。

《問①》三四郎は何故寝ていて起きてすぐじいさんが乗ってから一駅過ぎたことが解るのか?

 三四郎はじいさんが「たしかに前の前の駅から乗ったいなか者」だと認識しています。寝ていたら、この勘定が出来ません。いや、書き損じ、偶然だろうと決めつける人はこの記述をどう見ますか?

 汽車が豊橋へ着いた時、寝ていた男がむっくり起きて目をこすりながら降りて行った。よくあんなにつごうよく目をさますことができるものだと思った。ことによると寝ぼけて停車場を間違えたんだろうと気づかいながら、窓からながめていると、けっしてそうでない。無事に改札場を通過して、正気の人間のように出て行った。(夏目漱石『三四郎』)

 わざわざこういう記述を入れて、「寝ていたら駅の勘定は出来まい」と読者に訴えています。ならやはり「たしかに前の前の駅から乗った」は変じゃないでしょうか?

 で、この変なところに一応答えを考えてみるとこうなります。「このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。」は三四郎の認識ではなく、話者の補足なのではないでしょうか。つまり『三四郎』には三四郎の語りと話者の語りが混在している訳です。何故なら「それからしばらくして、三四郎は眠くなって寝てしまったのである。」とは三四郎には語り得ません。語り得るのは第三者の話者です。つまり「前の前の」と勘定したのも三四郎ではなく話者です。神ではありません。「たしか」というぐらいなので少しいい加減です。ただ三四郎の顔面を離れたところに視座を持つ話者です。三四郎の顔面と、そうでないところの二つの視座から紡がれる物語として『三四郎』は書かれているのです。

 これは感覚の話ではなくてロジックなので、どうしても認めてもらわなくてはなりません。

 

《問②》三四郎と女とじいさんの座席の位置関係はどうなっているか?

 この問題に関しては、少なくとも三四郎は四人掛けの向い合わせの席でじいさんと女と向かい合わせになっているわけではない、という程度のことが既に言われています。一つか二つ前の席にいて、後ろの席の女をちらちら眺めていたという説もありますが、三四郎の座席の背もたれの高さと、三四郎の座高の高さが解らないので正確な答えは出せません。そしてこの問題も「何故漱石はこのような書き方をしたのか?」という問いに還元され得るんですがもう一つ、「何故三四郎はそれほどこの女に執着したのか?」という問いにも変換し得ます。

 一応この問題には私は一つの答えを持っています。三四郎は一つ前の席から振り返って何度も女を見ていた。女は三四郎に見られていることに気が付いて、因縁付にわざと弁当箱に当たりに行った、と。三四郎は何度もこの女を思い出します。それほど気になるのに手を出せなかった三四郎を漱石は臆病者として描いてゐる、と。漱石は座席の位置関係をあえて曖昧にしながら、三四郎が振り返って迄女を見ていたことを読者をして気が付かせたなら、三四郎の欲望と初心のアンバランスさが強調されて面白いと考えたのではないでしょうか。

《問③》三四郎は九州の何駅から乗車したのか?

 何故これが謎かと言うと福岡なのか、熊本なのか、曖昧だからです。「国を立つまぎわまでは、お光さんは、うるさい女であった」とあるので当然福岡なのだろうと考えられるのですが、何故か漱石はこれを「九州」と書いています。座席同様、わざと曖昧にしています。何故なのでしょうか?

 そもそも九州と云っても南と北ではまるで別の気候でしょう。北九州、福岡は雪が降りますよ。

 三四郎の通っていた高校は熊本五高のようです。福岡に関しては宿帳の「福岡県京都郡真崎村小川三四郎二十三年学生」と「さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび豊津まで出かけたことがある」という記述から、福岡は福岡でもかなり北九州寄りの場所が里だったと考えられます。

 しかし「京都郡真崎村」にしても「豊津」にしても、それから「三輪田のお光さん」にしても、かなり暈した表現にしたものですね。

 問題は「さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび豊津まで出かけたことがある」という記述ですが、熊本から豊津までは徒歩で片道二十八時間かかりますので、たびたび出かけるのは無理なんです。では、これは熊本五高に入学前の話かという話になりますが、子供が銀行で手続き出来ますかね?

 私はこの問題には一応、三四郎は卒業時点で二十三歳なので、福岡で生活していた時点で子供ではなかった。銀行にも相手にして貰えた。という答えを用意しています。それでなくてはベーコンの二十三ページがやたらと強調されることもなかったと思います。

 だから高校は熊本、里は福岡、でいいわけなんですが、わざわざ漱石が九州と書いて、又ずつと後で豊津と書いて摩訶不思議を拵えているのが謎ではあります。

《問④》女は何故九州色なのか?

 実はこの九州色の女のモデルは存在していて、小宮豊隆によれば、このエピソードそのものが松根東洋城の友人の実話らしいので、実際その女が色黒だったというだけのことでもあろうかと思います。

 その一方でここでわざわざ九州色の女の里を三重県の四日市の方とするところにはどんな狙いがあるのでしょうか。美禰子も色黒なので、これは単に九州出身でなくても色黒の女はいるという説明かとも思いましたし、京都出身ながらどうみても「九州顔」の明治天皇に対する皮肉かとも考えましたが、そもそも三四郎は何故色黒好みなのかという別の謎が持ち上がってきて、一向に要領を得ません。

 それにしても冒頭でここまで謎を仕掛ける漱石の魂胆はなんなのでしょうか。それこそ予告に反して摩訶不思議を仕掛けていると考えるのが筋でしょう。

 前回、『三四郎』から急にギアチェンジしたかのように小説が上手くなっていると書きましたが、こういう書き方をしているということは、要するに何となく書いているということではないということですからね。『虞美人草』の藤尾はクレオパトラに擬せられながら、色黒ではありませんでした。その藤尾の仇を討つかのような美禰子を色黒にして、色の解らない着物を着せるためにこの冒頭があるとすれば、私が言うギアチェンジの意味が解ってもらえると思います。


【余談】

 お金がある人は本を買う、お金がない人は優良記事を推薦する、もし驚いたならそれくらいしてくれてもいいと思うんですがどうなんでしょう。なんだかこのnoteを一記事読むのが精いっぱいの人がいらっしゃるようですが、人生なんてあっという間に終わりますよ。夏目漱石の『こころ』でさえ、訳が分からないまま死んでもいいんですかね、本当に。

 いや、真面目な話。『三四郎』に三四郎の顔面を離れたところに視座を持つ話者がいるって気が付いていました?

 つまり本物か偽物かの判断はもうできていますよね。

 それとも出来ていませんか?

 昔の私は『三四郎』に三四郎の顔面を離れたところに視座を持つ話者がいるって気が付いていませんでした。気が付いて驚きました。この自分に感謝します。

 気が付かないまま死んでいたらみっともないなと思いました。私は文学博士ではありませんし大学教授でもないのでまだみっともないくらいで済みますが、もし夏目漱石研究者として大学教授でもやっていて、それで気が付かないまま死んだらと思うとぞっとします。論文なんか回収できないでしょうしね。

 そういうことですよ。



 松山とは書いていないんだな、これが。

 できてませんね。



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