単純な他者と複雑な自己
単純な他者と複雑な自己
どのような相手を前にしても、どのような状況にあっても、私はしばしば「単純な他者と複雑な自己」という錯覚に陥る。
参加者全員が一般社会において私より知的レベルにおいて高級とみなされるだろうなというパーティに参加した時のこと、私はやはりこの幻覚に陥った。
K大学の名誉教授が古代文学と習俗について講演していた。この漢字にはこういう意味があるのだという話をしていた。
懇親会になって、漢字の話をしても、古代文学の話をしても、「ん?」という感じになった。
大陸との関係、残された文献の取捨選択などについて話したが、手ごたえなしだ。
また俳句の先生がいて、子規の話をしていた。
虚子の娘さんと苗字が同じだった。
しかもひ孫と雰囲気が似ている。
周囲の人に聞いてみると、どうも血縁はないようだったが、歌合せ、点取り俳諧、ドドイツの話をしてみた。
俳句の先生はドドイツが何文字なのか知らなかった。
それでどうして子規の革命を理解できるのか?
… K大学の名誉教授からは数年間年賀状が届いたが、返事を出さず、付き合いはしまいになった。
しかしこれは病である。
ある日、誰かがぼくのブログを訪問してくれるとしよう。
そして「しんじられないくらいまぬけ」というレトリックを駆使した記事を読んでくれたとしよう。
そして「ふっ、こいつ馬鹿ちゃうか」と呆れてしまう。
はい。
ある意味、馬鹿です。
なんというか、全部の全部きちんとはしていないので、すきだらけです。
そういうぼく自身が、「サルトルは…だな」とエラソーに語ることがおかしいといえばおかしい。
でも、そういうことってあるよね。
前にも書いたけれど、夜の公園で酔っ払った自由な人々の一人が「あのな、オレの中には弱い自分と強い自分の二人の自分がいるんだよ。お前らにはわからないだろうな。つまりオレの中に二人の自分がいるんだよ」と話していて、「まっそういうことは誰でも思うよな」と冷やかすような感情になったことがある。
道端で暮らしている人が真剣な顔で日経新聞を読んでいるのを笑ったことがある。
人と人とが接する以上、こういうことはいつでも起こりうる。
単純な他者と複雑な自己。
それは自分の歌声は低音が全身で共鳴して豊かに聞こえ、実際にテープに録音してみるとなんだか妙な声に聞こえて自己嫌悪に陥るという程度の錯覚であろう。
未
