芥川龍之介の『温泉だより』が解らない③ 「わたし」が誰だか解らない
解らない、って言ったって『温泉だより』って題名なんだから、そりゃ芥川龍之介が逗留先の修善寺で聞いた話を書いて送ってきたってだけだろ、と思っている人はいないだろうか。
それは、
レポーター「今日の勝因はずばり何でしょう?」
解説者「今日に限らずいつも勝った原因ですよ」
……という思考停止だ。それでは『温泉だより』という題名だけしか眺めていないのと同じだ。
……わたしはこの温泉宿にもう一月ばかり滞在しています。が、肝腎の「風景」はまだ一枚も仕上げません。まず湯にはいったり、講談本を読んだり、狭い町を散歩したり、――そんなことを繰り返して暮らしているのです。我ながらだらしのないのには呆れますが。(作者註。この間に桜の散っていること、鶺鴒の屋根へ来ること、射的に七円五十銭使ったこと、田舎芸者のこと、安来節芝居に驚いたこと、蕨狩りに行ったこと、消防の演習を見たこと、蟇口を落したことなどを記せる十数行あり。)
この「わたし」と「作者」の関係は何なのだろう。これではまるで「わたし」と「作者」が別々の人格でもあるかのようだ。これが何年前かの記録を読み起こし、意識がつながらないまま書いているとすればまあ解らないでもない。ところが芥川龍之介が新井旅館に宿泊したのが大正14年4月16日から5月6日、この『温泉だより』は大正14年4月に発表されている。つまりこれは回顧の形式の小説ではないのだ。
これまでにも芥川龍之介の話者、語り手が、作者を客観視したことがなかったわけではない。そのことは有名な『羅生門』のこの一節を思い出してみれば事足りるだろう。
作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。
これは話者が「前にも書いたように」と言える書き手であり、作者と同一人物であるしかないのに、作者を客観視しているというわけの解らない場面だ。今、新人作家がこうした書き方をしたら、ベテラン編集者からは、「ここは一旦整理して書き直したら?」と言われかねないのではなかろうか。同じことが『温泉だより』の冒頭にも言える。何故そこに二つの人格が存在するかのような書き方がされているのか、そのことにどのような意味があるのか、そのあたりのことがまるで分からないのだ。
それから次手に小説じみた事実談を一つ報告しましょう。もっともわたしは素人ですから、小説になるかどうかはわかりません。ただこの話を聞いた時にちょうど小説か何か読んだような心もちになったと言うだけのことです。どうかそのつもりで読んで下さい。
初見では何が何だか解らなかったが、こうして太字にしてみるとやっと整理ができる。つまり『温泉だより』という小説は新井旅館に逗留した芥川龍之介という作家が逗留先の修善寺で聞いた話を書いた小説などではなく、温泉宿にもう一月ばかり滞在している素人、恐らくは画家らしき人物から受け取った手紙の一部を、作者が註を付けながら読んでいるという、実にややこしい構造を持った小説なのだ。それは岩波書店の『定本 漱石全集』の注解に勝手にあれこれ書き加えたり、訂正したりする程度にややこしい行為だ。何しろ「定本」というくらいだから、本来は間違いなどある筈もないのに、間違っているとする。一言で言えば真面ではない。
ところが『温泉だより』の作者は冷静だ。作者が顔を出したのは冒頭の作者註ともう一か所だけで、後は「わたし」の語りがあるだけだ。「わたし」は以下の話を小説じみた事実談と規定する。そしてあたかも作者に報告している体である。この「わたし」について「恐らくは画家らしき人物」としたのは、肝腎の「風景」はまだ一枚も仕上げません、とあるからで、手紙を読んでいると考えたのはこの小説の題が『温泉だより』だからだ。
何だ解って来たじゃないかと思われる人もいるかもしれないが、本当に分からないのはこれからなのだ。
何でも明治三十年代に萩野半之丞と言う大工が一人、この町の山寄りに住んでいました。萩野半之丞と言う名前だけ聞けば、いかなる優男かと思うかも知れません。しかし身の丈六尺五寸、体重三十七貫と言うのですから、太刀山にも負けない大男だったのです。いや、恐らくは太刀山も一籌を輸するくらいだったのでしょう。現に同じ宿やどの客の一人、――「な」の字さんと言う(これは国木田独歩の使った国粋的省略法に従ったのです。)薬種問屋の若主人は子供心にも大砲よりは大きいと思ったと言うことです。同時にまた顔は稲川にそっくりだと思ったと言うことです。
さあ、解らない。「わたし」は大正十四年に、新井旅館で同宿の苗字が「な」の薬種問屋の若主人から、子供時分の話として、相撲取りの大砲よりは大きく、顔は稲川に似た、萩野半之丞と言う大工の十五年から二十九年くらい前の話を聞かされていることになる。


大砲萬右衛門は身長六尺四寸五分というから、ざっとジャイアント馬場くらいの大きさである。


つまり萩野半之丞は二メートルを超える大男でありながら、顎が出るでもなく、可愛らしい丸顔なのだ。これが解らない。いや、そこではない。
半之丞は誰に聞いて見ても、極く人の好いい男だった上に腕も相当にあったと言うことです。けれども半之丞に関する話はどれも多少可笑しいところを見ると、あるいはあらゆる大男並に総身に智慧が廻り兼ねと言う趣きがあったのかも知れません。ちょっと本筋へはいる前にその一例を挙げておきましょう。わたしの宿の主人の話によれば、……
あれ、何か可笑しなことになってきた。「わたし」はたまたま同宿の苗字が「な」の薬種問屋の若主人から、子供時分の話として、相撲取りの大砲よりは大きく、顔は稲川に似た、萩野半之丞と言う大工の十五年から二十九年くらい前の話を聞かされている、と思いきや、「誰に聞いて見ても」「どれも」「わたしの宿の主人の話によれば」と、「わたし」はまるで萩野半之丞と言う大工の十五年から二十九年くらい前の話を色んな人に取材しているみたいではななかろうか。一体どういう因縁があればそういうことをするのだろうか。ここで俄然「わたし」の正体が怪しくなる。萩野半之丞の子孫か小説家でもなければ、そんな取材のようなことはしないと考えられるからだ。
……いつか凩の烈しい午後にこの温泉町を五十戸ばかり焼いた地方的大火のあった時のことです。半之丞はちょうど一里ばかり離れた「か」の字村のある家へ建前か何かに行っていました。が、この町が火事だと聞くが早いか、尻を端折る間も惜しいように「お」の字街道へ飛び出したそうです。するとある農家の前に栗毛の馬が一匹繋いである。それを見た半之丞は後で断れば好いとでも思ったのでしょう。いきなりその馬に跨がって遮二無二に街道を走り出しました。そこまでは勇ましかったのに違いありません。しかし馬は走り出したと思うと、たちまち麦畑へ飛びこみました。それから麦畑をぐるぐる廻る、鍵の手に大根畑を走り抜ける、蜜柑山をまっ直ぐに駈け下りる、――とうとうしまいには芋の穴の中へ大男の半之丞を振り落したまま、どこかへ行ってしまいました。こう言う災難に遇ったのですから、勿論火事などには間に合いません。のみならず半之丞は傷だらけになり、這うようにこの町へ帰って来ました。何でも後で聞いて見れば、それは誰も手のつけられぬ盲馬だったと言うことです。
栗毛の馬にまたがり、麦畑をぐるぐる廻り、大根畑を走り抜け、蜜柑山をまっ直ぐに駈け下り、しまいには芋の穴の中へ落ちる半之丞の目撃者は誰であろうか。あるいはこれは半之丞自身が語った話が伝えられたものだろうか。それにしても建前に行ったのに、大工道具はどうなったのか、芋の穴は竪穴なのか、五十戸ばかり焼いた地方的大火のあった時の話なのに、なぜどうでもよい半之丞の失敗談が伝わり、誰が焼け死んだという話が伝わらないのか、さっぱり解らない。普通は大火事があれば、そちらに関心が向くものだ。しかしここでは五十戸ばかり焼いた地方的大火が半之丞の落し噺の枕になってしまっている。
ちょうどこの大火のあった時から二三年後になるでしょう、「お」の字町の「た」の字病院へ半之丞の体を売ったのは。しかし体を売ったと云っても、何も昔風に一生奉公の約束をした訣ではありません。ただ何年かたって死んだ後、死体の解剖を許す代りに五百円の金を貰ったのです。いや、五百円の金を貰ったのではない、二百円は死後に受けとることにし、差し当りは契約書と引き換えに三百円だけ貰ったのです。ではその死後に受けとる二百円は一体誰の手へ渡るのかと言うと、何んでも契約書の文面によれば、「遺族または本人の指定したるもの」に支払うことになっていました。実際またそうでもしなければ、残金二百円云々は空文に了るほかはなかったのでしょう、何しろ半之丞は妻子は勿論、親戚さえ一人もなかったのですから。
この過去における時間の経過、現時点がもう解らない。何故なら、「わたし」が大正十四年に、新井旅館で同宿の苗字が「な」の薬種問屋の若主人から、子供時分の話として、相撲取りの大砲よりは大きく、顔は稲川に似た、萩野半之丞と言う大工の十五年から二十九年くらい前の話を聞かされているとして、明治三十年代という過去の時点を仮に想定したとして、話はもう苗字が「な」の薬種問屋の若主人から宿の主人の記憶に変わっているので、大火のあった時から二三年後が明治何年なのか解らないのだ。
修善寺の大火の記録も見つからない。これではお手上げだ。しかもスペイン戦を観ていた所為で、なんだか頭がぼんやりしてきた。それにしても何故「た」の字病院と萩野半之丞の間で解剖の話がまとまったのか。半之丞は当時何歳で、兵役に取られるリスクはなかったのか。何故半之丞は金が必要だったのか……全然解らない。
ここまででは「わたし」と萩野半之丞との関係性が解らない。「わたし」とはそもそも誰なのだ。萩野半之丞とはまるで武士のような名前だ。この「わたし」という画家は萩野半之丞の子孫なのか? 違うのか?
全然解らない。
もう、駄目だ。……仕方がないので、この続きは明日考えよう。
