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「小説を読む」とはどういうことか

 たまに、いや、しばしば知的な議論の場ではついついマウントの取り合いになり、そもそも知的ですらなくなるのを目にする。根拠のない「上から目線」というものは確かに気持ちが悪いし、何故か論破したがる人というのはなかなか面倒なものだが、そうしたスタイルに近づかねば語れぬこともあるのだろうとは思う。

 例えば関川夏央という人が『「小説を読む」とはどういうことか ━━ 夏目漱石「坊っちゃん」に即して』と題した文章を書いている。(『言葉の見本帖』岩波書店、2009年所収)『「小説を読む」とはどういうことか ━━ 夏目漱石「坊っちゃん」に即して』という題も『言葉の見本帖』という題も尖り過ぎてはいまいかと思う。だが何故尖らなくてはならないのかという理由は、書かれている文章そのものからはっきり見えてくる。

 関川氏はまず、

 みなさんが「本を読む」という作業を、ちゃんとはしてこなかったという前提のもとに、「読者」とはどういうことか、について、夏目漱石の『坊っちゃん』を材料にお話してみたいと思います。 最近の若い人たちは、あまり読書経験はなさそうですね。でも、それはそれで結構だと思います。読書経験の豊富さを自慢する人に立派な人はいませんから。読書は量ではありません。「読み方」とそのセンスです。

 と語る。お前は読書界の王様かと突っ込みたくなるような文章だ。「本を読む」なのか「小説を読む」なのか曖昧、「読書経験の豊富さを自慢する人に立派な人はいません」は根拠のない決めつけ、「読書は量ではありません」は一つのスタイルに思える。

 しかしこの人はなかなかしっかり『坊っちゃん』を読んでいる。具体的には、

・『坊っちゃん』は痛快な話ではないと断じている。(そのイメージは刷り込みによるものだと推測している。)

・「おれ」の親が無鉄砲でないことに気が付いている。

・兄の赴任先を門司だと推測している。

・「おれ」を物理学校をストレートで卒業したエリートだと認めている。

・「いか銀」という名は時刻表を見て「いか權」という老舗旅館から採ったのではないかと推測している。

・(三四郎は福岡の行橋から上京したと推断している。)

・「おれ」が常に監視されているという強迫観念に駆られていることを理解している。

・清を旗本の家の出と推測している。

・江藤淳の説、漱石と嫂との関係について「どうでしょう」と疑問視している。

 ……なかなかどうして、よく調べてもいる。しかし逆に気が付いていない点も多い。

・新橋の停車場がどこか

・おやじの依怙贔屓

・四人の清の存在

・物理学校出身者の存在

・延岡の場所

・×天麩羅四杯也 〇天麩羅四杯なり

・おしゃれとしての赤シャツの流行

 ……などである。関川氏は確かによく調べている。そして「よく調べているでしょう。よく調べるとこんなことも解るのです」と言わんばかりに書いている。それでも、当然ながら読み落としはある。例えば清が鏡子夫人の本名由来の名だとして、残りの三人の下女・清の扱いがぞんざいすぎるのではなかろうか。

 新橋の停車場が今の新橋駅ではないことはいつも念押ししなくてはならないだろう。

 しかし一番の読み落としは『坊っちゃん』は痛快な話ではないと断じながら、そのあらすじを摑めていないことだ。それでは小説を読んだことにはならないのではなかろうか。つまり街鉄の技手としての生活まで読めていなくてはならない。

 物語の結末が最後の一文にないことを知らなければ、漱石作品を読んだとは到底言えまい。関川氏の義憤というものには十分な根拠がある。しかし偶然に辿り着く情報もあり、調べれば分かることもある。それこそ情報量だけでは辿り着けないこともあるのだ。

 しかしこれがすべての小説に当てはまる理屈だとも思わない。関川氏のような読みの努力を受け止められる作家はごく限られている。


[付記]

 蒸し暑いですね。あんまり蒸し暑いので、少し休憩してこんな軽いものを書いてみました。私も基本関川氏的なやり方で読んでいますが、「センス」とは書けません。「センス」とか言ってこれだけ見逃していたらかっこ悪いじゃないですか。

 まだ見落としがあると思うんですよね。

 今集中的に『三四郎』を読んでいて思うのは、夏目漱石という作家が途轍もないということです。

 なんというか切りがない感じさえします。「から」方言の一件に関しても、他の作品やほかの資料と比較していけば、結論が揺らぐ可能性もあります。だからまだ「センス」とは言いません。

 選んでいる暇がありません。


 一人か。















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