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夏目漱石論の必要条件とは何か⑨ 没入感だよ


主人公は二郎だよ

 今回は一番厄介なところに突っ込んでいきたい。

 AIも勘違いするように特に後期作品における「手紙を読む主人公」という役割の定義づけが近代文学1.0では曖昧で、しばしば二郎は「副人物」に格下げされ、先生が主人公、須永市蔵が実質的主人公などと言われてきた。主人公が手紙を読むのは、読者が主人公に感情移入してくれなくても、形式的に主人公と読者の位置が重ねられるので主人公が嫌いになれないからである。主人公も手紙の書き手も手紙に書かれている人物も嫌いだと本は途中で閉じられる。あるいはむしろ閉じられるべきなのである。

 手紙を読むという立場に追いやられることで『こころ』の「私」や田川敬太郎、長野二郎などはいったん身体性を放棄して、あたかも一般読者と同じ位置に置かれてしまうように感じられもする。

 一般読者は物語には参与できないことから、「手紙を読んでいる様子そのもの」が描かれない限り、その時空において『こころ』の「私」や田川敬太郎、長野二郎などは一般読者同様物語には参与できていない傍観者ということになる。

 したがって先生や須永市蔵、長野一郎が主人公であるとみなす吉本隆明らの考え方が完全に間違いとは言えない。つまりここは主人公をどう定義するかという問題でもあるかのようだ。ただしこの問題こそ夏目漱石が『明暗』で問うた「小説の書き方としての則天去私」であるかもしれないのだ。
 主役の交代、カメラの受け渡しは『野分』『二百十日』『三四郎』『道草』にもあった。短編の組み合わせというアイデア以前にそれはあった。そして明らかに短編の組み合わせでない『明暗』では繰り返し主役が交代した。これはかなりあからさまなので『三四郎』でカメラが美禰子についていったのに気がつかない人でもお延の目線には気がついた。苦情の手紙まで書いた人がいた。『明暗』については弟子たちがあれこれ批判した中、漱石は最後まで読めとだけ反論していたようだ。そしてこの時期漱石はどうも「小説の書き方としての則天去私」について語っていた。


 この『明暗』の未完成な理屈を新技巧と操作主義でやすやすと乗り越えたのが芥川龍之介の『お律と子等と』である。洋一と慎太郎のカメラの受け渡しこそ見事な則天去私ではあるまいか。


 漱石は短編をつなぎ合わせて一つの長編をなすというアイデア以前から、主人公の顔面に固定したカメラという「一元描写」的な縛りから自由ではあったが、まだアングルの自律性にまでは達していなかった。芥川は最初から「一元描写」を平面的と批判して立体的なアングルにこだわり、語り手や「私」を比較的自由にさせ、ついには洋一と慎太郎のカメラの受け渡しという極めてアクロバティックなやり方に進んだ。

 誤解なきように。カメラの受け渡しはすでに『二百十日』にある。つまり奇妙な三人称はすでに夏目漱石にあるのだ。しかし『奇怪な再開』のような「私」の隠蔽はほぼ芥川の独創で、『羅生門』の前に出てくる語り手や、『葱』のメタフィクションなどと合わせて考えると、芥川は単に「則天去私」ではない新操作主義に進んだとみなすべきなのである。

 ここでなかなか伝わらないかもしれない難しい話をしてしまおう。好き・嫌い、良い・悪いという感じの話である。何を低次元の話をしているのかと思われるかもしれないが、このことこそが肝なのである。篠崎美生子の『弱い「内面」の陥穽 芥川龍之介から見た日本近代文学』を読みながら私はずっとこの「好き・嫌い、良い・悪いという感じの話」を考えていた。つまり一度きりの人生、限られた時間の中で、情熱が注がれるべきは何か良いもの、美しいもの、価値あるもの、正しいものであるべきではないかと。世界を滅ぼしたいと願うのでなければ、やはり真善美に向かうべきではないかと。つまり篠崎美生子のように芥川を「石を投げる的」にすべきではない。

 ここまではなんとか通じると思う。「好き・嫌い、良い・悪いという感じ」は何よりも大切で、ここがないと「あ、虚栄の毒は虚栄の市と対なのね」と気がついた瞬間に脳の中に「うれぱみん」のような報酬物質が流れてこない。

 で「小説の書き方としての則天去私」と「手紙を読む主人公」に話を戻すと後期漱石作品は読者をして主人公に感情移入させ主人公の目で手紙を読ませるというやり方で主人公の身体性は放棄させた。眺められる存在であることをやめるのだが、やはりどこかに主人公の意識は漂っているのである。それが則天かどうかは別として去私ではあろうとは思う。そして立ち戻ったのは場面で会話する『虞美人草』のスタイルに近いように思えなくもないが、むしろ主人公を見られる位置においてみる『野分』の発展形だと私は思うのである。
 そして「好き・嫌い、良い・悪いという感じ」でいえば『野分』の中野君目線の中の白井道也や『明暗』のお延目線での京都の津田由雄が好きで良いと思うのである。良い、好き。この感じが出るにはやはり分量的には対等以上の白井道也目線と津田由雄がなくてはならない。それがあってくるりと主客が交代したとき良い、好きの感じが出る。

 いまいち伝わらないみたいなのでもう少し説明すると、漱石は『坊っちゃん』の「おれ」のようなものからでも「何か良いもの」を見つけてほしいと思って書いていたわけだ。これが不思議なことに日本人には本当によく伝わり、外国人には伝わりにくい。「おれ」が「いらいらした乱暴者」に見えてしまうらしい。一人称なのに客観視してしまうようなのだ。言い方を変えると感情移入がされにくい。しかし漱石自身は珍しくも『坊っちゃん』を読み返してこれは面白いと感心している。だから「私が語る物語」がダメというわけでは決してないのだ。

 その証拠に『こころ』では「私が語る物語」に立ち返っている。しかし外側から見られ続けていた先生が内面を語るという奇抜な方法がとられた。そのことで「主人公は先生である」という無意味な解釈がされた。これは本当に無意味な解釈である。「私」の語りの位置は『行人』よりは明確に手紙の後に置かれ、「私」は先生を完全肯定する。このことで読者は書かれていない「私」の成長物語を意識せざるを得なくなる。やはり読者は先生を見つめる「私」を再び見つめることになるのである。

 この形式に至らなかった点で『行人』はまだ未完成だったかもしれない。その試行錯誤の段階の『彼岸過迄』はやはり短編の組み合わせのようで、『それから』や『門』より完成度が低く見えるかもしれない。しかし場面で会話する物語ではなく、複数視点でのドラマの構成に向かっていったことは確かだ。『道草』と『明暗』では夫婦視点にたどり着いていた。それが何か格別にすごいことかといえばそれは力説できない。

 ただパースペクティブ実在論ともいうべき『明暗』の描写が、芥川に発展的継承されたと思えばやはり良い、好きの感じが出るのでこんなことを書いているわけである。そしておそらくかなり身勝手な津田や下人を好きや良いという感情で迎えられなければ夏目漱石や芥川龍之介に近づいてくるべきではないのである。パズドラで遊んでいればいいのだ。ここは絶対の基本線だ。

 でここからが解らないかもしれない話。中野君目線の中の白井道也や『明暗』のお延目線での京都の津田由雄が好きで良いと思うこの感じ、これはつまり自分の飼い猫が外で会うと案外知らんぷりする時の好きで良いと思う感じに似ていないかということ。

 その感じが「小説の書き方としての則天去私」の進むべき方向性かどうかは永遠の謎である。次に則天去私が現れるのは君の町かもしれない。


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