谷崎潤一郎の『途上』を讀む その先がある、まだやつていない、これからやるって意味なんじゃないの?
何処か空気のいい処へ一と月ほど行っているように、―――そんな勧告があったので、夫は細君にこう云いました、『お前は始終患らってばかりいるのだから、一と月や二た月転地するよりもいっそ家中でもっと空気のいい処へ引越すことにしよう。そうかと云って、あまり遠くへ越す訳にもいかないから、大森辺へ家を持ったらどうだろう。彼処なら海も近いし、己が会社へ通うのにも都合がいいから』この意見に細君はすぐ賛成しました。あなたは御存知かどうか知りませんが、大森は大そう飲み水の悪い土地だそうですな、そうしてそのせいか伝染病が絶えないそうですな、―――殊にチブスが。―――つまりその男は災難の方が駄目だったので再び病気を狙い始めたのです。で、大森へ越してからは一層猛烈に生水や生物を細君に与えました。相変らず冷水浴を励行させ喫煙をすすめてもいました。それから、彼は庭を手入れして樹木を沢山に植え込み、池を掘って水溜りを拵らえ、又便所の位置が悪いと云ってそれを西日の当るような方角に向き変えました。これは家の中に蚊と蠅とを発生させる手段だったのです。いやまだあります、彼の知人のうちにチブス患者ができると、彼は自分は免疫だからと称してしばしば其処へ見舞いに行き、たまには細君にも行かせました。こうして彼は気長に結果を待っている筈でしたが、この計略は思いのほか早く、越してからやっと一と月も立たないうちに、かつ今度こそ十分に効を奏したのです。彼が或ある友人のチブスを見舞いに行ってから間もなく、其処には又どんな陰険な手段が弄ろうされたか知れませんが、細君はその病気に罹りました。そうして遂にそのために死んだのです。―――どうですか、これはあなたの場合に、外形だけはそっくり当てはまりはしませんかね」(谷崎潤一郎『途上』)
この外形がどれほど谷崎自身の私生活に似たものか、私には判別できない。しかし書かれていることそのものは、妻を殺し、後妻を迎えようとしている男、湯河勝太郎が私立探偵安藤一郎に往来で呼び止められ、歩きながら、論理的遊戯で追い詰められる様子である。安藤の指摘は情況証拠とも言えない屁理屈に過ぎない。二人はただ散歩して居た筈が探偵事務所に行きついてしまう。
これもやはり『途上』という題名に、含みのある作品となっている。
夏目漱石の『行人』という作品について、その英語版がThe Wayfarerと訳されていることを漱石自身が知ったらどう思うだろうか。勿論圧倒的に多くの読者は「行人」の意味を「旅人」と解釈しているのだが、一部で一郎の神経質な考えを深刻に捉えて「業を行う人」と読む向きもある。The Wayfarerでは後者の意味が消える。案外使用例では「行き交う人」の意味が多いが、これはよしとしよう。しかし「お使い」の意味が消えてしまうことは残念である。『行人』のあらすじを読むためには二人の「お使い」を見なくてはならないが、The Wayfarerではそういう読みが排除されかねない。The Wayfarerには「道化師」的なニュアンスもなくはないらしいが、そこから「いい加減なお使い」に思いが至る人は、まあ、存在しないだろう。日本人でも「お使い」という意味もあるのではないかという人は一人しか知らない。従って『行人』の主人公は一郎だという出鱈目がまかり通ることになる。『行人』の主人公は二郎である。
谷崎潤一郎の『途上』についても、on the roadと訳してしまうとやはり意味が変わってくる。Still to be doneの意味に見た時、『呪はれた戯曲』の「劇中劇中劇」の外側に現れた毒が繰り返されているように見えてくる。金杉橋から日本橋蛎殻町迄は七キロ以上の距離がある。形式的には偶然に、ぶらぶら散歩していた筈が、実際には探偵事務所に誘導されている。そんな偶然が果たしてあるものだろうか。
「そうです、たった三十回自動車へ乗せただけなら、その偶然が命中する機会は少ないと云えます。けれどもいろいろな方面からいろいろな危険を捜し出して来て、その人の上へ偶然を幾つも幾つも積み重ねる、―――そうするとつまり、命中率が幾層倍にも殖えて来る訳です。無数の偶然的危険が寄り集って一個の焦点を作っている中へ、その人を引き入れるようにする。そうなった場合には、もうその人の蒙る危険は偶然でなく、必然になって来るのです」(谷崎潤一郎『途上』)
作中二十三回現れる「偶然」の文字は「偶然」現れたものではなく意図して書かれたものである。
「あはははは、そうです、今までのところでは外形だけはです。あなたは先の奥さんを愛していらしった、ともかく外形だけは愛していらしった。しかしそれと同時に、あなたはもう二、三年も前から先の奥様には内証で今の奥様を愛していらしった。外形以上に愛していらしった。すると、今までの事実にこの事実が加わって来ると、先の場合があなたに当てはまる程度は単に外形だけではなくなって来ますな。―――」(谷崎潤一郎『途上』)
とにもかくにも二人は探偵事務所に辿り着いた。事務所には何と、先の妻の父親が待っていた。偶然に。
