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小宮豊隆「『行人』の材料」

『行人』の材料


 『友達』の第八から第九へかけて、二郞が岡田夫婦から案内をされて、濱寺のある料理屋で、佐野に會ふ所が書いてある。長谷川如是閑の『犬·猫·人間』によると、漱石を濱寺のこの料理屋へ連れて行つたのは、如是閑である。

 明治四十二年十月十五日の漱石の日記には、「昨夜九時三十分廣島發寢臺にて寢る。夜明方神戶着。大坂にて下車直ちに中の島のホテルに赴く。顏を洗ひ食堂に下る。ホテルの設備は大和ホテルに遠く及ばず。車を驅りて朝日社を訪ふ。素川置手紙をして東京にあり。天囚は鐵砲打に出で、社長は御影の別莊なり。天下茶屋迄車を飛ば原して遊園地の長谷川如是閑を訪ふ。遊園地の閑靜にて家々皆清楚なり。秋光澄徹頗る快意、如是閑遠藤といふ高等下宿を去つて近所に家を構ふ。去つて尋ぬるに不在待つ少らくにして歸る。二階で話をする。好い心地也。鳥居素川の留守宅で妻君に逢ふ。如是閑濱寺へ行かうといふ。行く。大きな松の濱があつて、一力の支店と云ふ馬鹿に大きな家がある。そこで飯を食ふ。マヅイ者を食はせる。其代り色々出して三圓何某といふ安い勘定なり。電車で歸る。難波の停車場から車を飛ばして大坂ホテルに人るともう六時であつた。······」と、書いてある。

 漱石は『滿韓ところどころ』の旅の歸りに、大阪に寄つたのである。「夏目君は無論濱寺は始てだが、案內のつもりの私も始めてだ。二人とも朝飯を食つた切りなのだから、好い加減腹が減つて、始めての濱寺も碌々步き廻ることはしないで、行き當りばつたりに大きな門を入つて、大きい玄關を上つて、トンネルのやうな廊下を通つて、宿屋の一間のやうな二階座敷に通された。君は廊下に出て、何んだか變な所を通つて來たと思つたらトンネルになつてゐるのだと、餘程嬉しい所でも通つて來たやうな風だつた。」と、如是閑は當時の事を追想してゐる。

 それから如是閑は、其所のうちの料理が「甚だ粗末だつた」事を言ひ、それにも拘はらず漱石が「出るものは必ず食べ」るので、丁度「修善寺で始めて今の病氣を起し、辛うじて危險から脫れて間もない」時分の事(是は如是閑の思ひ違ひで、漱石が修善寺で倒れたのは、この翌年、明治四十三年八月の事である。

 もつとも漱石は滿韓旅行に出かける前に、一度ひどく胃カタールでやられてゐる。旅行中も方方で胃痛に惱んだ。さういふ事に關する知識を、當時恐らく如是閑は持つてゐたのであらう)ではあり、そんなに食つてはいけないだらうといふので、「段々猛烈に」料材の「干渉」し出したが、漱石は「默つてクスクス笑ひながら決して箸を体めな」かつた事を言ひ、最後に、「其うちに向ふの廣間の二階の廊下に、若い商家の小僧のやうな身裝の男が來て、手摺につかまつて二三度身體を前にのめらしたと思ふと猛烈に嘔吐を初めた。すると同じやうな裝をした年上らしい若者がよろめきながら出て來て、吐いてゐる男の背を撫でゝやる。夏目君は此方の座敷からそれを見て、「見給へ、アレで介抱してゐるつもりなんだぜ」といつて、頻りに「面白いナア」「面白いナア」と繰返した。」と言つてゐる。

 是がすべて殆んどそのまま『友達』の中に使はれてゐるのである。『友達』の第十二以下に出て來る、三澤が入院してゐたといふ病院は、大阪市東區今橋三丁目の湯川胃腸病院である。明治四十四年八月、漱石は大阪朝日新聞から賴まれて、明石·和歌山·堺·大阪と講演してあるいたが、八月十六日、工合の惡いのを押して、大阪で講演をすませたあと、「宿屋で寐てゐると何も食んのに嘔吐を催ふしてとうとう胃をたゞらして夫から血が出ましたので驚ろいて湯川胃腸病院へ這入つ」(明治四十四年十月十三日森成麟造宛)た。三澤や二郞の病院での見聞は、大抵この時の漱石の病院での見聞である。

 例へば漱石は明治四十四年九月八日、イギリス·ドイツの留學から歸つて來た寺田寅彥に宛てて、「病院の三階に寐てゐる。原窓から大坂城の櫓が見える。色々な西洋館が見える。夫から山が見える。大閣の居をトした所丈ある。每日粥を食ふ。おかづは豆腐と麩丈で甚だ心細い。今日のひる刺身を四切食つた。早く東京へ歸りたい。國華の畫を繰返し繰り返し見てゐる。無事御歸京結構」と書き、終りに「蝙蝠の宵々每や薄き粥」といふ句を添へてゐるが、同時に漱石は九月十四日、東京に歸つて來てから、松根豊次郞に宛てて、蝙蝠の句とともに「灯を消せば涼しき星や窓に入る」といふ句を書き、そのあとに「右病院にて」と注記してゐるが、『友達』の第二十には、「窓は三つ共明け放つてあつた。室が三階で前に目を遮ぎるものがないから、空は近くに見えた。其中に燦めく星も遠慮なく光を增して來た。三澤は團扇を使ひながら、「蝙蝠が飛んでやしないか」と云つた。看護婦の白い服が窓の傍迄動いて行つて、其胴から上が一寸窓枠の外へ出た。」といふやうな、俳句そのままの病院の描寫さへあるのである。

 ― 漱石の入院してゐた時に、たしか何所かの藝者が入院してゐたやうに思ふ。然し是はどうもしかとした所は思ひ出せない。看護婦が「運勢早見なんとかいふ」のを持つてゐたのも、この時だつたやうな氣がするけれども、是もなんだかあやふやである。一〇七〇の第二に、二郞の母だの兄夫婦だのの泊つた宿屋が、「手摺の所へ出て、鼻の先にある高い金斯を幾隨しさうに眺めてゐたほは、「宜い室だが少し陸氣だ二郞お前のお室も斯んなかい」と聞いた。自分は母のゐる傍へ行つて、下を見た。下にには張物板の樣な細長い庭に、料材の細い竹が疎に生えて錆びた鐵燈籠が石の上に置いてあつた。其石も竹も打水で皆しつとり濡れ115てゐた。」と描き出される。是はなんとなく私に、漱石が湯川病院に入院する前に泊つてゐた、當時朝日新聞の客はたいてい其所につれて行く事になつてゐたらしい、紫雲樓を思ひ浮べさせるものを持つてゐる。

 もつとも大阪の宿屋は、みんなこんな感じを持つてゐるのかも知れない。然し少くとも紫雲樓の部屋のあるものは、此所に書かれたとそつくり同じ感じを持つてゐるのである。二郞と母と兄夫婦とは、大阪から和歌山、和歌山から和歌の浦へと、見物に出かける。出發の前夜、岡田が宿屋に訪ねて來て酒が出る所(『兄』第九)で、二郞が「自分は彼がもと書生であつた頃、ある正月の宵何處かで振舞酒を浴びて歸つて來て、父の前へ長さ三寸ばかりの赤い蟹の足を置きながら平伏して、謹んで北海の珍味を獻上しますと云つたら、父は「何だそんな朱塗りの文鎭見たいなもの。要らないから早く其方へ持つて行け」と怒つた昔を思ひ出」すー節がある。

 この蟹(無論足だけではない)を漱石の所へ送つて寄越したのは、越後の高田にゐる森成麟造である。大正二年一月十二日漱石は森成麟造に宛てて、「大分長い御手紙が參りましたかにの御自慢には恐入りました。「行人」のなかにかにの珍味なる事を一寸書きました五六日うちに出て來ますから御覽下さい。尤もかにだのあなたを惡くいふ積はありませんたゞの滑稽の御慰に過ぎませんからどうぞ其積で御笑ひ下さいましおこつちやいやですよ。」と書いてゐる。漱石は恐らく、あの見事な越後の蟹の、茹でて眞つ赤になつた脚を見て、すぐ朱塗の文鎭を聯想し、それから急に『行人』の中に、それを使つて見る氣になつたものだらうと思ふ。然もこの手紙のお蔭で我我は、漱石がこの一〇七一の第九を、凡そいつごろ書いたかといふ事を、推定する事が出來るのである。

 大阪を立つた二郞と母と兄夫婦とは、和歌山を素通りして、電車で、ひとまづ和歌の浦に落つく。「拔目のない岡田はかねてから注意して土地で一流の宿屋へ室の注文をしたのだが、生憎避暑の客が込み合つて、眺めの好い座敷が塞がつてゐるとかで、自分達は直に俥を命じて濱手の角を曲つた。さうして海を眞前に控へた高い三階の上層の一室に入つた。」と『兄』の第十一に書いてある。

 漱石が講演旅行をしてあるいた、明治四十四年八月十四日の日記に、漱石は「九時五十二分の汽車で和歌山に行く事にする。和歌山からすぐ電車で和歌の浦に着。あしべやの別莊には菊池總長がゐるので、望海樓といふのにとまる。と書いてゐる。それにすぐ引き續いて、漱石はまた、「晩がた裏のエレベーターに上る。東洋第一海拔二百尺とある。岩山のいたゞきに茶店あり猿が二匹ゐる。キリといふ宿の仲居が一所にくる。裏へ下り玉津島明神人行』の傍から電車に乘つて紀三井寺に參詣。牧氏と余は石段に降參す、薄暮の景色を見る。晩に白料材のい蚊帳を釣り明け放して寐る夫でも寐苦しい。朝起/涼しさや蚊帳の中より和歌の浦」と書い117てゐる。然も「白い蚊帳を釣り明け放して寐る」事(『兄』第十五)も、それでもなほ「寐苦しい」
一夜を過ごす事(同上)も、「東洋第一海拔二百尺」のエレヱーターに乘る事(第十六及第二十三) 118も、「岩山のいたゞきに茶店」があつて、其所に猿が飼つてある(但し『行人』では猿は「二匹」ではなく「一匹」である)事(第十六及第二十三)も、宿の女中が一諸について來る事(第二十三)も、紀三井寺に參詣して「石段に降參す」る事(第二十二及第二十三)も.紀三井寺から「薄暮の景色」を眺める事(第二十三)も、すべて『行人』の中に、適宜に利用されてゐるのである。

 『兄』の第十七から第二十一までの間には、一郞が二郞に、お直の貞操を試してくれといふ事を、賴まうとして賴みかねる所が、描き出される。その場所は「權現樣」の境內である。その「權現樣」に漱石が參詣したのは、漱石の紀三井寺に參詣した翌日、卽ち八月十五日の事であつた。『行人』では一郞と二郞とは、まづエレヱーターで岩の上へ上がり、茶店で「此處いらで靜な話をするに都合の好い場所はないか」と訊いたあとで、「權現樣」の境內へ行く事になつてゐるのである。然し一郞は「權現樣」へ來ても、なほぐづぐづしてゐる。そのうち「遊覽人めいた男女が三四人」上がつて來たので、一郞は到頭その話を一時斷念する。「東洋第一海抜二百尺」のエレヱーターは、『行人』では二度使はれる。二度目は『兄』の第二十三で、二郞が其所へ母と嫂とを案内して來るのである。

 其所には「今度は猿に馴染のある宿の女中が一所に隨いて來たので、猿を抱いたり鳴かしたり前の日よりは大分賑やかだつた。」と書かれてゐる。是が恐らく漱石の「キリといふ宿の仲居が一所にくる。」と書いてゐる時の、ほんとの光景だつたのだらうと思ふ。― 同じやうに『行人』では、紀三井寺も二度利用される。是はエレヱーターの場合とは反對に、母と嫂とだけが先に見物に行つて、母がその「石段に降參」し、あとで一郞と二郞とが、その昨日「母の見た丈で恐れたといふ高い石段を一直線に上つ」行く事になつてゐる。さうして其所で二郞は兄から、お直を試してくれ(第二十四)と賴まれるのである。勿論二郞はそんな馬鹿馬鹿しい事に同意する筈がなかつた。然し一郞の態度が餘りに眞創で、一郞の賴み方が餘りに執拗なので、二郞は到頭、嫂を和歌山まで連れ出し、其所で嫂の了簡をよく聽いて見ようといふやうな事で、兄と妥協せざるを得なくなつた。

 翌日二郞は嫂を連れて、和歌山見物に出かける。然も彼等は其所で暴風雨に遭ひ、和歌の浦へ歸つて來る事が出來ず、不得已二人で和歌山の宿に一泊する事になるのである。この事は一七七の第二十六から第三十原九へかけて描き出される。然るに激石の明治四十四年八月十五日の日記には、「早車で新和歌『人行』浦に行く長者議員某氏の招く所といふ。トンネル二つ。運動場といふのは砲台の出來損の如し。料材の歸りに權現樣に上る。橋の所に乞食が二人ゐる。石段は一直線で三にしきる。夫から片男波を見る。稀らしく大きな波が堤を越えてくる。電車で和歌山へ行く途中から降る。縣會議事堂は蒸し熱い事夥し。宴會を開くといふから固辭しても聞かず、巳を得ず風月といふのに赴き離れで待つてゐる。宴開くる頃から風雨となる。隣席の綿子ル商望海樓は危險だといふ。藝妓の踴と和歌山雲右衞門の話を聞いて外へ出ると吹降りである。西岡君は三度も電話をかけて大丈夫かと聞いたら大丈夫と云ふ。牧君にどうしませうかと云ふと牧君は夏目さんどうしませうと云よ。北尾君がこちらが宜しいでせうと云ふ。後醍院君は是非和歌の浦迄行くと主張する。余等原原三人はあとの西岡、後醍院、早記の○○君と和歌の浦に向ふ。余等は富士屋といふのに入る。原電燈が消える。ランプを着ける。其ランブが又消える。慘澹たる所へ和歌の浦の連中が徒步で引き返す、車で紀伊每日の所迄行つて電車を待つてゐると電車は來るには來るが向へ行くのは何とかの松原迄で其先は松が倒れて行けないといふ。何時〔迄〕待つても埒が明かないので歸つ原て來たといふ西岡君は今望海權が今夜中持つか持たぬかが疑問だといふ。是は電話をかけても通じないからだといふ。所が富士屋から電話をかければ望海樓へよく通じる。風雨鳴動のうちに愈十六日となる」とあり、翌八月十六日の日記には、「今朝十時の汽車で大阪へ歸らなければならない、西岡君は早朝荷物を和歌の浦迄取に行く。つな引でなければ行けぬといふので二人の車夫を雇ふ(後で壹圓八十錢平生の三倍とられる)歸つて、向ふは何でもない、三階の客は皆よく寐たといふ。」とある所をもつて見ると、『行人』の和歌山の暴風の一夜は、漱石自身躬ら經驗した事を巧みにモンタージュしたものに外ならなかつたといふ事が、分かる。和歌の浦が水に浸かるやうな事があつても、「高々水の中で家がぐるぐる囘る位なもので、海迄持つて行かれる心配は先づあるまい」(第三十三)といふ下女の言葉なぞ、恐らく當時の會話の寫生だつたのに違ひない。

 『歸つてから』に用ひられてゐる材料に就いては、私は殆んど知る所がない。ただ第三十四で、芳江がお貞さんの信玄袋をひつぱり出して來て、二郞にお貞さんの指環だの櫛だの笄だのを見せ、「是卵甲よ。本當の鼈甲ぢやないんだつて。本當の竈甲は高過ぎるから御巳めにしたんですつて」といつたり、「是一番安いのよ。四方張よか安いのよ。玉子の白味で貼り付けるんだから」といつたり、いろいろ生意氣をいふ所が、或は寫生かも知れないし、或は漱石が夫人から聽いた事を、此所に芳江と二郞との會話の形に翻譯したのかも知れないと思ふのみである。

 明治四十四年五月二十五日の日記に、漱石は、自分の所で世話をしてゐた、西村濤蔭の妹の結婚に關して、「荷物は今夜出す筈である。櫛に中ざしは御房さんと同じ卵甲だけれども大變安い、原兼安で買つたのは十圓積であつたが、今度のは三圓五十錢である、さうして見た所は同じであ原料材のる。平打の後ろざしは金卷繪に靑貝の蝶を出したものであつた。」と書いてゐる。さうして此所のお房さんが、『行人』のお貞さんに一番似た感じを持つてゐるやうに、私は思つてゐるのである。もつともさう思ふのは、私だけかも知れない。

 『塵勞』の第八で、二郞が父に連れられて上野の表慶館を見に行く。彼等は其所で、利休の手紙を見たり、王義之の書を見たり、應擧の繪を見たり、その他のんかうだの柿右衞門だのを見た上で外に出て、精養軒の前を通ると、精養軒は結婚披露の宴會があるので、「五色の旗で隙間なく飾られた綱を、何時の間にか縱橫に渡して、絹帽の客を華やかに迎へてゐ」る。

 是は明治四十四年五月以降の『斷片』の一の終りに、「〇結婚-表慶館、上野精養-自働車、馬原原車、/白石の詩、澤菴和尙、/王、賀の書、/明晝、六祖の畫/吳州、なんかうの茶碗/柿右衞門、仁清/乾山、」とあるあの覺え書きが、此所で活かされたものだらうと思ふ。同じ『斷片』の中に、「〇子供ノ死freethinker superstitiousニナル」と書いたのがある。是は漱石がさういふ事を小說の材料にする積で此所に書いたものか、それとも自分がさういふ氣持になつた事實を後日の爲に此所に書きつけたものかは分からないが、その五女雛子を失つて以來、superstitiousとは言へないまでも、少くとも不思議な事、神祕的な事に對する漱石の神經が銳敏になり、さういふ方面の著書を讀む事に、深切な興味を持ち出した事は、事實であつた。

 『塵勞』第十一で、お重が二郞に、一郞の樣子がこのごろ少し變だと言ひ、一郞がテレパシーか何かを眞面目に研究してゐるらしい話をする所がある。第十五ではHさんが二郞に、一郎が近頃死といふものに就いて頭を悩まし「英吉利や亜米利加で流行る死後の研究といふ題目に興味を有つて、大分其方面を調べたさうで」、「メーテルリンクの論文も讀んで見たが、矢張り普通のスピリチュアリズムと同じ様に詰らんものだと嘆息した」といふ話をする。

 漱石は、一郞の心持が何所からどう動いて行つたかを具體的に描き出すために、自分の修善寺大患以來の、特に自分の子供の死以來の、スピリテュアリズムに對する自分の心の動きを、此所に嵌め込んだものではないかと思はれる。メーテルリンクの論文といふのは、おそらく千九百十三年(大正二年)二月發行の neue Rundschauに載つた"Ueber das Leben nach dem Tode"である。漱石はこの雜誌の表紙に刷り込んだ「メーテルリンク、死後の生に就いて」の下にアンダラインして、「英米に於ケルSpiritualismノ紹介ノ樣ナモノナリ」と書いてゐる。同じ雜誌の同じ年の八月號には、Aldert HaasのPariser Bohemezeitsehriftenといふ、さうして「千八百九十六年の思ひ出」といふ小見出しをつけた、隨筆が載つてゐる。『塵勞』第三十八のマラルメの話は、此所から出たものである。

   Hさんの手紙には、「東京を立つ前に、料材の取りつけの外國雜誌の封を切つて、一寸眼を通したら、其うちにこの詩人の逸話があつたのを、面白いと思つて覺えてゐたので、私はついそれを擧げて、兄さんの反省を促」さうとしたのだと書いてある。

 ただ此所でハースの書いてゐるマラルメと、Hさんの話したマラルメと、少し違ふ所がある。Hさんは、マラルメの所の面會日に「如何に多くの人が押し懸けても、彼の坐ゆりいするべき場所は必ず暖爐の傍で、彼の腰を卸すのは必ず一箇の搖椅と極つてゐました。」と言つてゐるが、この搖椅子はマラルメの椅子ときまつてゐたには違ひないが、實はマラルメは決してそれに掛けた事がなかつたのださうである。

 マラルメはいつでもその椅子の傍に立つて、パイプを啣へながら、それからそれへと一人で話し續けてゐたのだといふ。それだから自然、シモンズだか誰だかの珍客も、空いてゐるその椅子に、マラルメの傍に掛ける氣になつたのだらうと思ふ。― 是はHさんの思ひ違ひである。もつともHさんは、そんな細かな事を書くのが面倒だつたので、其所はいい加減ぼかしてしまつたのかも知れない。『塵勞』第三十九から第四十へかけて、Hさんが一郞にする、モハメッド山を呼ぶといふ話は、旣に明治三十一年の『不言之言』の中で、漱石によつて書かれてゐる。

 Hさんは、「私がまだ學校に居た時分、モハメッドに就いて傳へられた下のやうな物語を、何かの書物で讀んだ事があります。」と言つてゐるが、『不言之言』の「糸瓜先生」は、ベーコンの論文の中にあつた筈であるが、話の「眞僞の程覺束なし、」と言つてゐる。恐らく漱石はそれを「學校に居た時分」に讀んだものであらう。然もHさんによれば、Hさんの先輩でその話を聽いた一人が、みんなが笑ふにも拘はらず、「あゝ結構な話だ。宗教の本義は其處にある。それで盡してゐる」と言つたとある。

 その「先輩」といふのも亦、實は漱石自身だつたのに違ひないのである。『塵勞』第二十九のHさんの手紙には、「我々は二三日前から此紅が谷の奥に來て、疲れた身體を谷と谷の間に放り出しました。」と書いてある。さうしてHさんと一郞とは、暫くこの紅ヶ谷の別莊に滯在する。

 是は漱石が、明治四十五年七月二十一日から借りて、家族の者を避暑にやつてゐた、紅ヶ谷の貸別莊が、材料になつてゐるやうである。漱石は日記に、「〇二十一日小供を鎌倉へ遺る。一滊車先に行つて菅の家に入る。二階から海を見る。涼し。主人と書を論原ず。何紹堂の書を見る。午後小供のゐる所へ行く。材木座紅ヶ谷といふ。思つたより汚なき家也。夏二月にて四十圓の家なれば尤もなり庭に面して畠あり、畠の先に山あり大きな松を寐ながら見る。其所は甚だ可。たゞ家の建方に至つては如何とも賞めがたし。東京の新開地の尤も下等な借屋の如し。」と書いてゐる。

 ※明治四十五年七月三十一日、明治天皇崩御す。(小林)

 また漱石は、「〇八月二日鎌倉に行き二日三日とまつて四日の夜歸る。」と書き、その終りに、「松の枝に御櫃が干してある。蟹が松の下を這ふ。/ま原さきの桓。ひかんの黄な花(婆さんが西洋の芭蕉といふ)桔梗。百合。月見草。唐茄子。、、料材のギ。玉蜀黍。芋。茄子。仁參(丸い仁參)。靑いトマト。/珊瑚樹の垣。珊瑚樹の花。遠くから125望むと綺麗なり。/光明寺の裏の松山の松が軒を壓して見える。」と書いてゐる。然もHさんの手紙には、「別莊といふと大變人聞が好いやうですが、其實は甚だ見苦しい手狭なもので、構からいふと、丁度東京の場末にある四五十圓の安官吏の住居です。然し田舍丈に邸內の地面に126は多少の餘裕があります。庭だか菜園だか分らないものが、軒から爪下りに向ふの垣根迄續いてゐます。其の垣には珊瑚樹の實が一面に結つてゐて、葉越に隣の藁屋根が四半分程見えます。/同じ軒の下から谷を隔てゝ向ふの山も手に取るやうに見えます。此山全體がある伯爵の別莊地で、時には浴衣の色が樹の間から見えたり、女の聲が崖の上で響いたりします。其崖の頂には高い松が空を突くやうに聳えてゐます。我々は低い軒の下から朝夕此松を見上るのを、.高尙な課業のやうに心得て暮してゐます。」とある。この小さな別莊にHさんは一郞と一緒に、二人きりで、三度の食事は近所の宿屋から運ばせて、暢氣に、長い間逗留するのであるさうして一郞は、「谷一つ隔てゝ向ふの崖の高い松」を見上げて、「好いな」と言つたり(第四十七)、「勝手口の井戶の傍に」植ゑてあるトマトを、朝.顏を洗ふ序にもいで食つて見たり(同上)、「薄の根に」這つてゐたり「薄の葉を渡」つたりする「親指の爪位の大きさ」の蟹に見惚れたり(同上)、「細い道を通つて、一旦街道へ出て、また夫を横切」つて、「約三丁」ばかり隔つてゐる海邊をあるいたり(第四十九)しつつ、自分の沸きたぎつた腦漿が、次第に沈靜して來るのを覺えるのである。

 最後に、『塵勞』第十七から第二十へかけて、二郞が三澤から誘はれて、宮内省の雅樂演奏を拜觀に赴く所が書かれてゐる。

 是は明治四十四年六月三日、當時式部官であつた松根豊次郞の斡旋で、漱石自身拜觀に出かけた時の印象が、具さに利用されてゐるのである。是は漱石のその日の日記を見れば分かる。漱石は此所で、自分が休憩室で小耳に挾んだ、岩倉掌典長と九條公爵と萬里小路子爵との、東儀鐵笛の噂までも利用して、なんとなく雅樂の拜觀らしい氣分を出さうとしてゐるのである。

 明治四十四年の『斷片』の二には、恐らく漱石が『彼岸過迄』を書き出す前、出來れば其所で使ひたいと思つたらしい材料が、箇條書きのやうにして、書き並べられる。「〇鎌倉、蛸取、原小坪/○樂樂/○婚禮太神宮、五軒町、西片町/〇明石、和歌山/○大阪病院/○痔括約筋/○能樂堂左陣松風/○有樂座名人會呂昇堀川/○帝國劇場、ノラ/〇子供ノ死。/葬、火葬場、骨拾/○關口と早稻田の變りやう。/〇小川町停留所」といふのが、それである。

 このうち「〇鎌倉、蛸取、小坪」と「〇明石、和歌山」の「明石」と「〇子供ノ死」と原「〇小川町停留所」とは、『彼岸過迄』の中に用ひられた。殘りの「○樂樂」と「〇明石、和歌「有樂座名人料材の山」の「和歌山」と「〇大阪病院」と「○有樂座名人會、呂昇、堀川」のうちの「是は名前だけにしか過ぎないが」は、『行人』の中に用ひられる。雅樂の印象、和歌山
での暴風雨の經驗、大阪の病院の三階の生活、さういふ漱石にとつて、使はずに置くには餘りに惜しい材料を漱石は、一度『彼岸過迄』で使はうとして使へなかつた爲に、次の機會の來るまで、じつと抱いてゐたものに相違ないのである。

 「〇痔括約筋」といふのは、翌大正元年九月、漱石が神田の病院で受けた痔瘻の手術と一諸にして、大正五年の『明暗』の中に用ひられる。是を漱石は、四年間抱いてゐた譯である。(一一·一二·二二)

〔附記〕大正二年十二月の『新潮』に載つた漱石の談話筆記の中に、『行人』の三澤を送り迎へしたといふ、靜かな氣の違つた女は、實は自分が若い時分に經驗した事で、「何でも遠緣の婦人で、私の家にあづかつてゐたんだが、私に對してあの通りに出懸けには早く歸つて頂戴と、ちやんと送り迎へをするのです」といふ一節がある。是がどういふ人であつたか、精しい事は分からない。ただ私の放恣な空想は、是は或は漱石の書簡に出て來る、惡阻で死んだといふ、漱石の嫂ではなかつたのかと、とかく思ひ込ませたがる。漱石の嫂は、漱石の兄から嫌はれ、嫂が病氣でねてゐるにも拘はらず、漱石の兄はうちを外に出あるいてばかりゐたさうである。

[余談]

 小宮豊隆という人は実に魅力的だ。漱石の目線に立てば実に甲斐甲斐しい一番弟子にして、最も信頼できる子分、その実ドイツ文学者なのだから、独逸語では随分頼りになっていたのではないか。

 漱石山脈の末端からはまさに神主、三重吉、草平の三銃士の兄貴分という風情があったのではなかろうか。漱石信者らしからぬ冷静さがあり、理屈に無理がない。それは漱石を愛し、十分に愛されもしたという自負からくる余裕がもたらす態度であろうか。なんとかして自分の論で漱石を我が物に引き寄せたいという無理がない。漱石を漱石と呼ぶ潔さも心地よい。

 それはまた、どんな角度から、どんな頓珍漢な批判を受けようとも、御本尊たる漱石作品の価値がいささかも削り取られることがあり得ないという、確信があったからではなかろうか。

 正直私は『ねじまき鳥クロニクル』を読むまで『趣味の遺伝』の良さを認められなかったし、『騎士団長殺し』を読むまで『三四郎』に出てる「知らん人」の意味が解らなかった。小宮豊隆が初見からそこまで届いているかどうかは疑問ながら、彼には恐らく「漱石の一番弟子である自分に解らないことは他の誰にも解るわけはない」という程度の自負はあっただろう。その自負はある意味羨ましい。

 小宮豊隆には愛猫の後頭部のような慕わしさと愛猫であるプライドがある。しかし猫には鋭い爪があり、油断すればだれでもいつでも血みどろにされかねない。小宮豊隆をよしよしと撫でられるのは漱石だけなのだ。




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