芥川龍之介の『歯車』をどう読むか⑩ 歯車って何が歯車?
タイトルの意味は
芥川龍之介の『歯車』をどう読むか、と考えた時まず考えてみることは「あらすじ」であろうか。それがタイトルとうまく結びつくかどうか。結びつかなければどういう賺しがあり得るのかを考え、賺しと見る根拠があるのかないのかを考えるべきなのだろう。しかし『歯車』に関しては歯車という言葉がそのまま作中に出て來ることからその意味については余り掘られないようだ。
僕はそこを歩いているうちにふと松林を思い出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云うのは絶えずまわっている半透明の歯車だった。僕はこう云う経験を前にも何度か持ち合せていた。歯車は次第に数を殖やし、半ば僕の視野を塞いでしまう、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだった。眼科の医者はこの錯覚(?)の為に度々僕に節煙を命じた。しかしこう云う歯車は僕の煙草に親まない二十前にも見えないことはなかった。僕は又はじまったなと思い、左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。左の目は果して何ともなかった。しかし右の目の瞼の裏には歯車が幾つもまわっていた。僕は右側のビルディングの次第に消えてしまうのを見ながら、せっせと往来を歩いて行った。(芥川龍之介『歯車』)
右目だけに表れる半透明の歯車、その「錯覚(?)」が作品のタイトルである理由はどのようなものであろうか。そもそも歯車とは何なのだろうか。そう考えた時、単に「錯覚(?)」ではない別の歯車の方が象徴的意味を持って現れているように思える。
僕は丸善の二階の書棚にストリントベルグの「伝説」を見つけ、二三頁ずつ目を通した。それは僕の経験と大差のないことを書いたものだった。のみならず黄いろい表紙をしていた。僕は「伝説」を書棚へ戻し、今度は殆ど手当り次第に厚い本を一冊引きずり出した。しかしこの本も挿し画えの一枚に僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車ばかり並べていた。(それは或独逸ドイツ人の集めた精神病者の画集だった)(芥川龍之介『歯車』)
私は子供時分この「僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車」に焦点を当て、社会の歯車としての人間の悲哀を描いた作品が『歯車』だと思いこんでいた。人間が社会の歯車という発想はどこか、例えばチャップリンの諷刺映画などで植え付けられたものであるかのようで、いささか気持ち悪いものだ。ただ実際そう記憶している。
今冷静に読み直すと、ここに「社会の」という諷刺が入り込む隙はなく、ただ奇態だけがあるように思える。実はこの精神病者の画集に描かれた僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車だけが異質な歯車で、作中十一回現れる「歯車」の文字のうち十回は右目に表れる「錯覚(?)」なのだ。
この「錯覚(?)」としての歯車は最後には「銀色の翼」に変わる。歯車が銀色の翼に変わる理屈は解らない。話者はなんとも説明しないし、解釈もしない。もういちいち不思議がったりもしないので、なにか意味ありげではあるけれどし、明確に意味を捉えることが出来ないうえに、むしろ素直に読めば「そういうイメージ」として絵的に流されかねない。
しかしこの小説のタイトルが『歯車』である以上、「僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車」と「銀色の翼」の関係は整理が必要だ。「僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車」に関してはむしろ歯車が「錯覚(?)」なのではなく、むしろお前ら見ているのが「錯覚(?)」なのであって、本当は人間は歯車なのだと精神病者が教えてくれたと片付けてもいいだろう。絵の鑑賞とはその程度のものだ。寧ろ厄介なのは繰り返された翼のイメージが最終的に歯車と入れ替わりに眼に入ることだ。翼が眼に入ることそのものは、「喜雀堂に入る」と解釈した。
ただし半透明の歯車が銀色の翼に変わる理屈は解らない。そんな病気もなかろう。あるいは芥川龍之介自身もそんな病気はなかろうというのではないか。
そんな病気はない?
そう言われて「歯車病」として『歯車』を読んできた人の歯車は狂ったのではなかろうか。私は「歯車病」はないと考えている。半透明の歯車が銀色の翼に変わるなど話がかみ合わない。いや話がかみ合わないのではなく、かみ合わないものが歯車なのではないか。どう読んでも『歯車』からは後悔と反省が滲み出ている。こんな筈ではなかったのにという歯車の狂った人生の末期が描かれている。
