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小宮豊隆「『明暗』の材料」


 『明暗』の材料

 『明暗』の舞臺を大ざつぱに分けると、主人公の津田が入院する病院と、津田のうちと、津田が出かけて行く溫泉場との、三つに分かれる。

 そのうち病院は、震災前の神田錦町一丁目十番地にあつた、佐藤病院がモデルにとられてゐる。漱石は明治四十四年九月から此所に通ひ始め、翌大正元年の九月には一週間餘り此所に入院して手術を受けた。その事は當時の日記に精しい。

 溫泉場は、恐らく湯河原である。湯河原には漱石は、大正四年の十一月にも、また漱石が死んだ年の、大正五年の正月にも、中村是公と一諸に行つてゐる。當時の漱石の日記には、勿論『明暗』の津田が經驗するやうな事は、一つも書かれてはゐない。然し津田が溫泉場へ行く途中の輕便での出來事や、或は輕便を下りて夕方迎ひに來た宿屋の馬車に乘つて目的地へ行く四邊の晴風景の描寫には、恐らく漱石自身の經驗が、そのまま利用されてゐるに相違ない。

 湯河原で漱石が泊つてゐたのは天野屋である。津田が宿屋に着いて、お湯に這入り、お湯から上つて長い廊下をうろうろする所など、或は漱石が初めて天野屋に泊つた晩、浴室を出て自分の部屋に歸るまで、廊下をまごまごした事の、自分の經驗を書いたものではないかとも思はれる。

 津田が翌朝、廣いと思つた庭を案外狹苦しく感じたり、或は湯槽につかつて、頭の上の硝子越しに一庭だか土堤だかの片影を眺めたりするといふのも、當時の天野屋の庭や浴室を知つてゐる者には、是が天野屋の庭や浴室を描いたもので、外のうちの庭や浴室を描いたものではないといふ事が、すぐはつきり分かるかも知れない。

 ― さうして『明暗』では、津田がこの溫泉場へ出かけて行くのは、途中の山といふ山の多くに「植ゑ附けられた蜜柑の色」が「暖い南國の秋を、美しい空の下に累々と點綴してゐる」といふ、秋も末の季節になつてゐるのである。

 明治四十四年十二月四日の日記に、漱石は「此朝佐藤さんへ行つて又痔の中を開けて疎通をよくしたら五分の深さと思つたものがまだ一寸程ある。途中に瘢痕が瘤起してゐたのを底と間違へてゐたのださうで、其癜痕を搔き落してしまつたら一寸許りになるのださうである。しかも穴の方向が腸の方へ近寄つてゐるのだから腸へつゞいてゐるのかも知れないのが甚だ心配である。凡て此穴の肛門に寄つた側はひつかゝれたあとが痛い。反對の方は何ともない。」と書いてゐる。

 是が『明暗』第一囘の冒頭に用ひられてゐる事は、恐らく誰でも知つてゐる通りである。然し『明暗』第一囘の中の、「たゞ今迄の樣に穴の掃除ばかりしてゐては駄目なんです。それぢや何時迄經つても肉の上がりつこはないから今度は治療法を變へて根本的の手術を一思ひに遣るより外に仕方がありませんね」だの、「切開です。切開して穴と腸と一所にして仕舞ぶんです。すると天然自然割かれた面の兩側が癒着して來ますから、まあ本式に癒るやうになるんです」だの、後に津田が受けとるべき運命を仄かに示唆するやうな、醫者の言葉が、この時漱石に向かつて發せられたものかどうかは、分からない。

 然し『明暗』の津田は、翌日その「切開」の爲に入院する事になつてゐる。從つて是は恐らく漱石が、その翌年卽ち大正元年の九月に、手術を受けて入院する前に、醫者から聽いた言葉だつたのだらうと思ふ。― もつとも『明暗』の津田は、醫者のこの言葉を聽いたあとで、すぐ自分が此所で、八百五十倍の顯微鏡で覗かせてもらつた、細菌の事を思ひ出してゐる。その細菌を漱石は、「○佐藤さんの處へ行つたら原細菌とはこんなるのですと云つて八百五十倍の願微鏡を見せれいて着色のものだから丸で圖にした樣なものである。かいこの種の樣にかたまつてゐた。是は葡萄狀の細菌ださうである。原外に捍狀といふものがあるさうだ。淋病のは不染質が中央にあるため染めると二つに見えるさうである。」とあるやうに、明治四十四年十二月六日に覗かせてもらつてゐるのである。

 同じ日の日記に、「○眞山靑果が佐藤さんと同級であつたといふ事を聞いた。學校に泥棒があつて眞山ださうであると人から聞いた通りを云つたら眞山が誣告の訴をすると云ひ出したのださうである。順天堂に自分の弟子を入れて死んだとき醫者の云付を聞違へて看護婦がアトロヒンを注射器に入れたから死んだと云ひ張つて、あの看護婦をなぐらせれば我慢すると云つて懸合つたさうである。」と書いてある。

 是を漱石は『明暗』第百十五囘で、醫者が津田の所へ診察に來た序にする、閑談の一つとして用ひた。勿論その際漱石は、一切の固有名詞を省いてしまつた。のみならず漱石は、それを「如何にも滑稽」な話として聽き流した津田に就いて、「斯ういふ性質の人として正反對に生み附けられた彼は其所に馬鹿らしさ以外の何物をも見出だす事が出來なかつた。平たく云ひ直すと、彼は向うの短所ばかりに氣を奪られた。さうして其裏側へ暗に自分の長所を點綴して喜んだ。だから自分の短所には決して思ひ及ばなかつたと同一の結果に歸着した。」と書き加へた。

 大正元年九月二十六日の日記に、漱石は「正午痔瘡の切開。前の日はパンと玉子紅茶。晝は日本橋仲通りから八丁堀茅場町須田町から今川小路迄步いて風月堂で紅茶と生菓子。晩は麥飯一一七、四時にリチ子を飮んで七時に晩食を食ふたが一向下痢する景色なし、翌日あさ普通の如く便通あり。十時頃錦町一丁目十佐藤醫院に來て浣腸。矢張り大した便通なし十二時消毒して手術にかゝる。コカイン丈にてやる。二十分ばかりかゝる。瘢痕が存外かたいから出血の恐れがあるといふので二階に寢てゐる。括約筋を三分一切る。夫がちゞむ時妙に痛む。神經作用と思ふ。縮むといふideaが頭に萠すとどう我慢しても縮む。まぎれてゐれば何でもなし」と書いてゐる。

 手術の前日は、津田も是と同じ用意をして、同じ結果を得てゐる。手術そのものも、津田は是と同じ方法で手術を受け、あとで同じ事を經驗してゐる。津田が手術を受けつつ、「自分の腰から下に、何んな大事件が起つてゐるか」分らなかつたが、ただ「時々自分の肉體の一部に、遠い所で誰かが壓迫を加へてゐるやうな」「鈍い抵抗」を「其處に感」じ、從つて「痛かあ」ないが、何か「重い感じ」-何と言ひ現せば可いのか、例へば「無神經な地面が人間の手で掘り割られる時、ひよつとしたら斯んな感じを起しはしまいかと」思はれるやうな、特殊な、感じを受ける所が第四十二囘に描き出されてゐるが、是も恐らく手術當時漱石自身が感じた事を、此所にそのまま使つたものに相違ない。

 一方、芝居に行きたくてうづうづしてゐるお延は、手術に要する時間を氣にして、時計ばかりを眺め、手術が結局二十八分かかつた事を、津田に報告する。さうして「手術後局部に起る變な感じ」に就いては、第九十三回で漱石が、委曲を悉して述べるのである。同じ日の日記には、次いで「〇部屋から柳が一本見える風に搖られて枝のさきが動いてゐる。前の家で謠をしきりに謠ふ。赤煉瓦の倉の壁が見える。……」といふ記事があり、九月二十八日の日記には、「隣は洗濯屋……。へ行くなら着て行かしやんせ。シツシツシ。無暗にうたふ。少しうるさくなつてきたぜといふ。隣が洗濯屋でなければいゝといふ。さう馬鹿に見えるかねといふ。洗濯屋は人間かいといふ。」とあり、九月二十九日の日記には、「夕方洗濯屋の物干にある一列の洗ひ物がまだ乾かないと見えて物干から突き出した儘それなりになつてゐる。それが暮色を受けて薄藍に見える。たつぷり日が暮れて空の色が沈むといつの間にか白い色が浮き出して風に搖られてゐた。」とあり、十月一日の日記には、「○隣りの洗濯やは自分の橡側から三尺許りの所の穴から屋根へ出るやうになつてゐる夫から階子段を上つて物干へ洗濯物をかついで出る。小僧が白いものを擔いで物干臺の所迄上つて行つて其所へ。放り出すと上にゐた大僧が白いものをぢかにそんな所へ置く馬鹿があるかいと云つて、いきなり頭を張りつける。小僧は默つて白いものを一つ一つ拾つて籃の中へ入れてゐる」とあり、又同じ日の日記の別な原原所には、「○寐てゐて見てゐると前にある鍊瓦の倉が見える。其所に打釘の大きな樣なものが一列に三本と山形の下に一本見える。是は裝飾だらうか實用だらうかと考へる。裝飾ならつまないものである。實用なら何になるんだらう。あの折釘に繩をかけて上つて來てそれで仕舞に其釘の股に足を掛けて家根に上れるだらうかと色々考へる。とうとう上れさうもないと思つてあきらめる。鍊瓦の前に電線が三本ばかり風にふらふらして見える。」とある。

 『明暗』第百十四囘の初めに、津田が「隣の洗濯屋で例の通りごしごし云はす音」を聽いて、「何處となしに秋の情趣を唆」られる所が、描かれる。然もその津田には、その「此處へ來てから、日每に繰り返される彼等の所作」の、單調ではあるが「しかし勤勉で」あるといふ事の意味が、少しも分からない所が、描かれる。

 同じ囘の終りには、「表は何時か風が立つ」て、「洗濯屋の前にある一本の柳の枝が白い干し物と一所になつて輕く搖れ」、「それを掠めるやうに懸け渡された三本の電線も、餘所と調子を合はせるやうにふらふらと動」く所が、描かれる。

 第百十六囘では、お延の來るのを待ち、お延以上に吉川夫人の來るのを、もどかしく待ちあぐんでゐる津田の耳に、津田の「最も嫌ひな謠の聲が」聽こえて來る所と、「赤い煉瓦造りの倉に、山形の下に一を引いた屋號の紋が附いてゐて、其左右に何の爲とも解らない、大な折釘に似たものが壁の中から突き出してゐる」のを、津田が「見るとも見ないとも片の附かない眼で、ぼんやり眺めてゐる」所とが、書かれる。

 日記では一つの心持で眺められた風景が、『明暗』ではいろんな心持で眺められるのである。

 明治四十四年六月十三日の日記に、漱石は「〇昨夕、鈴木が醉ばらつて來る。白縮緬の半襟に薩摩絣、茶の千筋の袴へ透綾の羽織をきて丸で傘屋の主人が町內の葬式に立つて懷に强飯の折でも入れてゐさうである。是は此間泥棒に洋服をすつかり取られた爲である。森田が氣の毒がつて自分の質に入れてあるのをやるから、出せと云ふが、出すには利を入れて五圓許り要る。其金がないから結婚祝の十圓許の品物を五圓に負けるから現金で吳れといふ。夫は羽織が可笑しいのだからおれの紹の古いのをやるから夫を着て間に合せろと云つたら、どうも紋が違ふから四五日はいいが長くは困ると云ふ。とうとう五圓取られる。」と書いてゐる。

 『明暗』第二十六囘で、ある時津田の前に現はれたといふ小林のいでたちは正にこの三重吉そのままのいでたちであつた。さうして小林は津田から、その質に入つてゐる友人の洋服を受け出す目的で、金を七圓借りて行く。

 同じ年の五月九日以後五月十四日以前に書かれたらしい漱石の日記の中に、「早稻〔田〕座を東へ突き當つて江戶川の終點に出やうとするところは新開町のごたごたした所であるが、丁度其突き當りの往來の向側が少し凹んで柳の枝が一本ある所に、小肥りに肥つた双子木綿の羽織原着物に角帶の〆た男、帽子を被らずに、爼下駄を穿いてゐる。綿フラネルの裏のついた大きな袋を兩手で持つて見物人を見廻してゐる(見物人は彼の周圍に澤山群がつてゐる。)諸君僕がこの袋の中から玉子を出す此からつぽの袋の中から屹度出して見せる。驚ろいちやいけない、種は懷中にあるんだからと云ひながら片手を胸の所で握つてそれをさつと開ける眞似をして、袋の中に手を入れると玉子が底から出た彼はそれを土の上へならべた。諸君もう一つ出すから原見てゐたまへと云つて袋を片手〔で〕ぐつとしごくさうして又何か放げ込んだ眞似をして、中へ手を入れると玉子が出て來る。今度はひつくり返して出して見せると云ひながら、袋を裏返しにして置いて、さうして同樣の手眞似をして第三番目の卵を出す。彼はそれを丁寧に地面の上に竝べて、どうだ諸君かうやつて出さうとすれば何個でも出せる。然しさう玉子ばかり出してもつまらないから、今度は一つ生きた鳥を出さう·····/或日朝九時頃江戶川の電車に乘る必要があつて矢來の交番の所から一直線に例の柳の所迄來て、ふと氣がつくと例の男が依然として立つてゐた。朝ばらだから見物人は一人もゐない、彼も亦諸君玉子を出して見せるとも何とも云はない、彼は退屈の餘りか、小石を空中に打ち上げて其落ちて來る所を手に持つたステッキで叩いてゐた。さうしてさも大事業でもしてゐるかの如き樣子を見せてゐた。」といふのがある。

 是が『明暗』第二十一囘、第二十二囘に亙つて、津田が「輕蔑に嘆賞を交へた樣な顏をして」それを眺めてゐる所を、うしろから藤井の叔父の子の眞事が、學校歸りに見つけて、腰のあたりを突つつく場面に利用されてゐる。勿論此所で利用されてゐるのは、前半の手品をして見せる所だけである。その男が所在なささうに、小石を擲り上げては、その落ちて來る所をステッキで叩いてゐるといふ後半は、惜氣もなく截り捨てられた。是はこの場合、使ひたくても『暗明』使ひやうがなかつたに違ひない。

 往來の眞中に料材の藤井の子の眞事が、岡本の子の一から、「土木工事のために深く掘り返されて、出來上がつた」穴の上に、掛け渡してある一本の杉丸太の上を、うまく渡つたら百圓やると言はれて、無鐵砲に靴履きのままで渡る話は、『明暗』第七十四囘に出て來るが、是は多分大正四年の『斷片』の六の終りの方にある、「子供、井戶側、丸木橋千圓やル。髪結床。アイツ。」と、密接な關係があるのだらうと思はれる。

 岡本の子の一が「何かに拗ねて緣の下へ這入つたなり容易に出て來なかつた」といふ話や、「一さんは犬見たいよ」と百合子が言つて、その緣の下の一つに百合子が餅菓子をさし出してやると、一がぱくりと口をあいてそれに喰ひついたといふ話は、同じく『明暗』の第七十四囘に出て來る。是は大正四年五月十六日前後に書かれたらしい『斷片』三の中の、「〇伸六が八十五錢〔の〕喇叭を買へと云ふのを排斥されたので怒つて緣の下へ這入つてしまつた。どうしても出て來ない。あい子が海苔卷を緣の下へ出すと、怒つてゐる伸六も食ひたいと見えて、パクリと食ふのださうである。其代り口は決して利かない。/純一が怒つた時は裸で緣の下へ寢てゐて是亦どうしても出て來ない。さうして人が近寄ると泥をつかんで抛げる」とあるのから來たものに違ひない。同じ囘に一が父の岡本と一諸に食事をしながら、箒星の話だの、地面の下は水だらうといふ話だの、このうちが軍艦だと可いなといふ話だのを、する所が書いてある。

 是は大正五年六月二日の漱石の日記に、「子供と話」といふ見出しで書きとめられてゐる會話を、そつくりそのまま、嵌め込んだものである。ただ此所で日記と違ふ所があるとすれば、その一の言葉に對する岡本の返事が、或は「胡魔化すより外に仕方がないらしかつた」とか、或は「頗るしどろもどろ」だつたとか、一一作者から批評を受けてゐるといふ點である。是は恐らく漱石自身「子供と話」をしながら、その通りの事を感じたものであらう。

 『明暗』第七十五囘から第七十六囘へかけて、その岡本が是は藤井の說であると言つて、陰陽は必然的に相牽引すると同時に、必然的に相反撥するものであるといふ意味の事を、お延に話して聞かせる所が書いてある。

 是は漱石の大正五年の日記の、恐らく三月中旬以後四月上旬以前に書かれた、「〇男は女、女は男を要求す。さうしてそれを見出した時御互に不滿足を感ず。/自分に必要でさうして自分の有つてゐないものを他に於て見出すが故に要求する也。同時に自分になくして他にあるものは元來自分と性質を異にしてゐる故に衝突を感ずるなり。コンプレメンタリとして他を抱擁せんとするものはアイデンチカルならざる故に又他を排斥するなり。/故に陰陽は相引き又は相彈く。相引く事に快を取らんとすれば相彈く苦痛をも忍ばざるべからず」から來てゐる。ただ此所では、眞面目な事を冗談の衣に包んで言ふ癖のある岡本が、全體の上に輕い、いつも冗談相手にしてゐるお延に、からかひ半分に述べ立てる所であるから、をどけた空氣が漂つてゐるのは、言ふまでもない。

 從つてお延もこの叔父の言葉を、あまり眞面目には聽いてゐない。然もこの叔父の言葉は、その後、何かしら考へて見なければならぬ大問題のやうなものとして、屢お延の頭の中に蘇返つて來るのである。然しお延は、どうあつてもその說を、認める事を欲しないのである。

 『明暗』第三十一囘で、藤井が醉つて、小林だの津田だの相手に、「昔は女の方で男に惚れたけれども、男の方では決して女に惚れなかつた」その理由が何所にあるかを說明する。

 是は恐らく大正五年三月中旬に書かれた、「ポセッション」と題する、漱石の日記の中の一節から來てゐる。「私はいくら女を戀しても一直線に其方へ進む譯には行かないのです」/「何故」「女が自分で自分を所有してゐないと思ふからです」/「ぢや女は誰が所有してゐます」/「旣婚の女は無論夫の所有でせう。少くとも夫はさう認めてゐるでせう」/「さうです」/「未婚の處女は兩親の所有でせう。少くとも父母はさう認めてゐるでせう。父母〔の〕許諾がなくて嫁に行く女はまあないからです」といふのが、それである。

 ― もつとも藤井の言ふ意味の「所有」と此所の「所有」とでは、可也意味が違つてゐる。「女が自分で自分を所有してゐない」といふ言葉は、女といふもの一般の根本的な本質に關聯した、極めて重要な言葉である。して是は、漱石の女性觀の重要な一面をなすとともに、漱石の『明暗』のお延に、對する根本的な批評の一部をなすものと、見做す事の出來る言葉である。

 然るに藤井はこの言葉を寧ろ通俗化した意味で、一場の笑ひの種子として、使つてゐる。是は或は、藤井が醉ひに任せて饒舌る言葉であるといふので、漱石によつて、わざとその重要の意味の方は、ぼかされてしまつたものかも知れない。

 同じやうな戀愛問題に關する會話が、大正五年の三月中旬以後四月上旬以前に書かれたらしい、漱石の日記の中にある。「我一人の爲の愛か」と題して「私はそんな氣の多い人は嫌です。自分一人を愛して吳れる人でなくつては」/「外の人は全く愛せずに自分丈に愛の量を集めやうといふのですね」/「さうです」/「すると其男に取つて貴女以外の女は丸でなくなるので原原すな」/「えゝ」/「何うしてそれが出來ます」/「完全の愛はそんなさうでせう。其所迄行かなくつちや本當の愛を感ずる譯には行かないぢやありませんか」/「然し考へて御覽なさい。あなた以外の女を女と思はないで、あなた丈を女と思ふといふ事は理性でも悟性でもに訴へて出來る事でせうか」/「感情の上では出來る筈ぢやありませんか」/「然しあなた丈を女と思ふといふと解し得られる樣ですが外の女を女と思ふなといふと想像出來なくなるやうです。何故といふと若し外の女を女と思はないで濟むなら肝心の貴女をさへ女と思へる筈がないからです。自分の家の花丈が花で外の家の花は花ぢやない枯草だといふのと同じだから」/「枯草でいゝぢやありませんか」/「枯草つて譯がないんですから。夫よりか好きな女も嫌な女もあり、其好きな女にも嫌な所があつて、其興味を有つてゐる凡ての女の中で一番あなたが好きだと云はれてこそ貴女は本當に愛されてゐるんぢやありませんか。絕對ぢやない比較的で澤山だ」とあるが、それである。

 さうして是は、もし私の記憶に誤がないならば、當時の津田靑楓の妻君、今の山脇敏子と漱石との對話の要點を記錄したものであつた。漱石は是を『明暗』第百三十囘の、お秀とお延との對話に用ひる。

 勿論その場合漱石は、お秀の側に立つてゐるのである。其所でお延は最後に、「あたしは何うしても絕對に愛されて見たいの。比較なんか始めから嫌ひなんだから」と宣言するのであるが、漱石はお延のこの要求の飽く事なき追求にこそ、お延の結婚生活を不幸なものにする、一つの重大な原因が潛んでゐるのだと考へてゐるのである。

 その他『明暗』第四十六囘に出て來る繼子祕藏の御神籤箱は、たしかに漱石がフオン·ケーベルに餞別として送つたおもちやであつたやうな氣がするが、どうもはつきりした事は思ひ出せない。

 第五十四囘の劇場の食堂で、岡本と吉川とがする話の中に、エドワード七世の戴冠の行列を見る爲に、一諸に行つた下宿の亭主に賴んで肩車に乘せてもらつたといふ事が出て來るが、この肩車に乘せてもらつたといふのは、實は漱石自身だつたのである。

 明治三十四年二月二日の日記に、漱石は「Queenノ葬儀ヲ見ントテ朝九時Mr. Brettト共ニ出ヅ/······Hyde Parkニ入ルサスガノ大公園モ人間ニテ波ヲ打チツヽアリ園內ノ樹木皆人ノ實ヲ結ブ漸ク〔ニ〕シテ通路ニ至ルニ到底見ルベカラズ宿ノ主人余ヲ肩車ニ乘セテ吳レタリ漸クニシテ行列の胸以上ヲ見ル、柩ハ白ニ赤ヲ以テ掩ハレタリKing, German Emperor等隨フ」と書いてゐる。(一二·三·七)

[付記]

 小宮豊隆の見立てに文句を言ってもしょうがないが、「女が自分で自分を所有してゐない」とはそのまま男にも当てはまる理屈である。吉川夫人に操られるようにふらふらと温泉旅館にやってくる津田自身が、何故お延と結婚したのか、自分でもよく解っていない。自己本位にさえなれていない。津田も自分を所有していない。この非決定論的世界観と自由意志の問題は『明暗』を貫くテーマでもあろう。

 して既に書かれてある部分の通俗性は、漢詩で慰められつつ書かれていたものであり、その先には深遠な書かれていない結末があったであろうことだけが確かである。南京豆を食べて死ねば落ちが付くということでもあるまい。

[出典]『漱石・寅彦・三重吉』小宮豊隆著、岩波書店、昭和十七年



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