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石原千秋の『漱石はどう読まれてきたか』をどう読むか⑭ 主人公は誰なのか?

 石原千秋は「漱石論的転回」といい、長野二郎を主人公と見立てる批評を切り捨てる。

 それは漱石を日本のメレジスと見立てる評でもあった。

「御前メレジスという人を知ってるか」と兄が聞いた。
「名前だけは聞いています」
「あの人の書翰集を読んだ事があるか」
「読むどころか表紙を見た事もありません」
「そうか」
 彼はこう云って再び自分の傍へ腰をかけた。自分はこの時始めて懐中に敷島の袋と燐寸のある事に気がついた。それを取り出して、自分からまず火を点けて兄に渡した。兄は器械的にそれを吸った。
「その人の書翰の一つのうちに彼はこんな事を云っている。――自分は女の容貌に満足する人を見ると羨ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分はどうあっても女の霊というか魂というか、いわゆるスピリットを攫まなければ満足ができない。それだからどうしても自分には恋愛事件が起らない」
「御前メレジスという人を知ってるか」と兄が聞いた。
「名前だけは聞いています」
「あの人の書翰集を読んだ事があるか」
「読むどころか表紙を見た事もありません」
「そうか」
 彼はこう云って再び自分の傍へ腰をかけた。自分はこの時始めて懐中に敷島の袋と燐寸のある事に気がついた。それを取り出して、自分からまず火を点つけて兄に渡した。兄は器械的にそれを吸った。
「その人の書翰の一つのうちに彼はこんな事を云っている。――自分は女の容貌に満足する人を見ると羨ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分はどうあっても女の霊というか魂というか、いわゆるスピリットを攫まなければ満足ができない。それだからどうしても自分には恋愛事件が起らない」
「メレジスって男は生涯独身で暮したんですかね」
「そんな事は知らない。またそんな事はどうでも構わないじゃないか。しかし二郎、おれが霊も魂もいわゆるスピリットも攫まない女と結婚している事だけはたしかだ」

(夏目漱石『行人』)

 メレジスは軽妙な作風なので、漱石はメレジスではないというのが石原千秋の考えであるようだ。しかし長野一郎の語りの中では「メレジスって男は生涯独身で暮したんですかね」と二郎に問われる程メレジスは偏屈な男であるようだ。石原千秋は須永市蔵、長野一郎、先生という「現代知識人の苦悩を書いた漱石」というイメージを守りたいために、漱石をメレジスから遠ざけたいようだが、「自分はどうあっても女の霊というか魂というか、いわゆるスピリットを攫まなければ満足ができない」という偏屈さにおいては、漱石とメレジスには共通点がありはすまいか。

 考えてもみれば「漱石は女を憎んでいる」と言われ続けてきた。言い換えると漱石は女を信用していない。『趣味の遺伝』はさておくとして、『吾輩は猫である』の静岡の人売りや『坊っちゃん』のマドンナ、『虞美人草』の藤尾や『三四郎』の里見美禰子、『それから』の平岡三千代、『門』の御米など、かなり信用できない女を書いてきた。マドンナから御米で括ると「身を翻す女」であり、それは『明暗』の関清子にも当てはまる。 

 漱石にとって女はスピリットを攫まえきれないものなのではなかったか。辛うじて捕まえてみれば、もう新しい半襟を買ってやらない程草臥れた関係になっている。そのたった一例を除いては、女は攫まえきれないものなのである。

 長野一郎は死んだ、と私は読んでいる。

 償うことが出来ないなら死んだのだろう。そして明らかにHさんの手紙の後にある筈の現在において、長野一郎の息遣いがまるでない。勿論Hさんの手紙を物語の最後において、「これからどうなるのだろう?」と考えてみてもいい。

 寂光院を例外として全てのヒロインが身を翻したことに鑑みれば、田口千代子は須永市蔵とは結ばれないだろう。しかし私は兄に対する尊敬を取り戻した二郎は直と結ばれることはないと考えてきた。しかし『こころ』の行く先を考えてみると、つまり静と「私」が結ばれるのであれば、『行人』の書かれていない結末には、直と二郎が結ばれる未来が十分にあり得るのではないか。元々は実子かどうか怪しい一朗よりも、父に似た二郎が長野家を継ぐことが相応しいのだから。長井家も「直」の系譜ではなく「誠」の系譜に切り替わった。家の論理では長野二郎が余所で好きに結婚する訳にはいかない。そういう意味ではやはり身を翻すヒロインに対して、長野二郎はやはり主人公なのだ。

 石原千秋は深刻がる男たちを有難がるが、そんなものは面倒くさいお子様なのではないか。たまに牛丼が半額になるが、碌なものではない。漱石自身は田川敬太郎や長野二郎や「私」を深刻がらない男にしてバランスを取っていた。そのバランス感覚において田川敬太郎や長野二郎や「私」は負荷を開放する役割を負っている。負荷を開放するのが主人公である。


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