石原千秋の『漱石はどう読まれてきたか』をどう読むか⑩ 「自然」と「社会」
石原千秋に拠れば『それから』を自然と社会の葛藤として読んだ嚆矢は武者小路実篤のようだ。石原千秋はこの二項対立の構図を「幼い」というが、これが一つの典型的な『それから』の読みであることは間違いなかろう。
社会道徳と愛の葛藤として読んでも、それが幼いことには変わりがない。二項対立の構図そのものが幼く、『それから』はかなり複雑な話だからだ。
阿部次郎は「我国現在の人文状態の批判」だという。これを石原千秋は滑稽とする。
また阿部は「情緒的方面の省略」を欠点だという。頭と心の葛藤が見えていない。
仕舞にアンニュイを感じ出した。何処か遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜して、芝居でも見ようと云う気を起した。
アンニュイは気分である。気分を慰めようと頭が行動を決める。この後結局寺尾の家に行くのだが……。
本郷の通りまで来たが倦怠(アンニュイ)の感は依然として故の通りである。何処をどう歩いても物足りない。
気分は変わらない。家に戻ると嫂から手紙が届いており、中に二百円の小切手が入っていた。代助はお礼の手紙を書き、平岡の家に向かう。
代助は判然り見えない三千代の姿を、常よりは美しく眺めた。
平岡は不在であった。それを聞いた時、代助は話してい易い様な、又話してい悪い様な変な気がした。けれども三千代の方は常の通り落ち付いていた。洋燈ランプも点けないで、暗い室を閉たて切ったまま二人で坐っていた。三千代は下女も留守だと云った。
ここが酷い。
夜目遠目というが暗がりの中の三千代を「常よりは美しく眺め」ている。三年落ちは余程深刻らしい。そしてこの時はまだ後ろめたさは半分くらいしか顕在化していない。
「昔と違って気が荒くなって困るわ」と云って、三千代は暗に同情を求める様子であった。代助は黙っていた。下女が帰って来て、勝手口でがたがた音をさせた。しばらくすると、胡摩竹の台の着いた洋燈を持って出た。襖を締める時、代助の顔を偸む様に見て行った。
代助は懐から例の小切手を出した。二つに折れたのをそのまま三千代の前に置いて、奥さん、と呼び掛けた。代助が三千代を奥さんと呼んだのは始めてであった。
細かい。
実に細かい。ここで微かに代助には居住まいを正されるような牽制がなされている訳だ。三千代を初めて奥さんと呼び、自分はあなたを人妻として見ていますよと、自分に言い聞かせている訳だ。「代助の顔を偸む様に見て行った」とは三人称の語り手の言葉乍ら、主人公代助の「今、下女に偸むように見られたな」という感想のようでもある。
こうした表現の中に頭と心、つまり代助の内部が書かれている訳なので、そこが読めていないと話にならない。逆にそこが読めるから面白いのではないか。そこが読めない人がなぜ漱石の作品に絡んでくるのかさっぱり分からない。
代助は鋏を持って縁に出た。そうしてその葉を折れ込んだ手前から、剪って棄てた。時に厚い切り口が、急に煮染む様に見えて、しばらく眺めているうちに、ぽたりと縁に音がした。切口に集ったのは緑色の濃い重い汁であった。代助はその香を嗅かごうと思って、乱れる葉の中に鼻を突っ込んだ。縁側の滴はそのままにして置いた。立ち上がって、袂から手帛を出して、鋏の刃を拭いている所へ、門野が平岡さんが御出ですと報せて来たのである。代助はその時平岡の事も三千代の事も、まるで頭の中に考えていなかった。只不思議な緑色の液体に支配されて、比較的世間に関係のない情調の下に動いていた。それが平岡の名を聞くや否や、すぐ消えてしまった。そうして、何だか逢いたくない様な気持がした。
嫁候補として三千代の名前が浮かび、小切手を三千代に渡しはしたものの、一旦は奥さんと呼び居住まいを正したのである。赤ではなく緑の世界に浸り、静かな情緒の中にいたかったのだ。これは心の方の働きで、やはり三年落ちの三千代にはふるいつきたいような欲望が向けられないのだ。この関係性を「愛している・いない」と句切ることにはさして意味はなかろう。つまり「愛しているのに苦悶しない」という批判も当たらない。頭では「困っている級友の妻を援助した」だけ、と整理している訳だ。そして心の方でもこれ以上の厄介事は避けたい訳だ。
平岡はとうとう自分と離れてしまった。逢うたんびに、遠くにいて応対する様な気がする。実を云うと、平岡ばかりではない。誰に逢ってもそんな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に過ぎなかった。大地は自然に続いているけれども、その上に家を建てたら、忽ち切れ切ぎれになってしまった。家の中にいる人間もまた切れ切れになってしまった。文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。
これは頭による文明批評ではなく、心の感覚かも知れない。そしてこの「現代の社会」とは代助が一度きりの人生で通過した学生時代と三十路になろうとする今の、周囲との関係性のことだと読み替えるべきかもしれない。学生が社会人になるとぐっと付き合いが減る。家庭を持つとなお減る。その仕組みはこの当時から現在まで続いているように思う。この間テニス帰りのおばさんが話していた。土曜でも日曜日でも誘われたら必ず行く。三回断わると、もう誘われなくなる、と。人間関係とはそんなものかも知れない。
これが文明だとして、それ以前はどうだったのかはよく分からない。そこに孤立があったのかなかったのか。恐らくそれ以前にも別の形での孤立はあったのだろうがそこはまた別の機会に考えよう。とにかく代助は、現代として通貫されそうな中年の孤立の中にいた。ここも苦悩や煩悶ではない。ただしみじみリアルな孤独感ではある。
平岡に接近していた時分の代助は、人の為に泣く事の好きな男であった。それが次第々々に泣けなくなった。泣かない方が現代的だからと云うのではなかった。事実は寧ろこれを逆にして、泣かないから現代的だと言いたかった。泰西の文明の圧迫を受けて、その重荷の下に唸る、劇烈な生存競争場裏に立つ人で、真によく人の為に泣き得るものに、代助は未だ曾て出逢わなかった。
石原千秋は安易に『満韓ところどころ』を批判していたが、奴隷貿易やアヘン戦争のことを思うと、そんな呑気な話ではないと思えるのではないか。泰西の文明の圧迫とはそういうことだろう。日本人も奴隷として売られていた。
はい、歴史的に日本人が奴隷として売買されていたという事実は存在します。特に戦国時代から安土桃山時代にかけて、ポルトガル商人や一部のキリシタン大名によって、多くの日本人が海外へ奴隷として連行・売買されました。
詳細は以下の通りです。
時期と背景: 大航海時代、ヨーロッパの商人(主にポルトガル人)が日本に来航し、南蛮貿易を行っていました。当時の日本では戦乱による人身売買が横行しており、戦場で捕虜となった人々や、貧しさから売られた人々が奴隷となっていました。
奴隷取引の主体: ポルトガル商人が主要な買い手であり、一部のキリシタン大名が領民や敵対勢力から得た捕虜を奴隷として売却していました。
行先: 連行された日本人の奴隷は、主にマカオやゴアなどのポルトガルの植民地、東南アジア、さらにはブラジルを含む新大陸やヨーロッパ本国にまで送られ、家内奴隷や労働力として働かされました。
規模と影響: この奴隷貿易の規模は、数万人から数十万人に及んだとする説もあります。この問題は非常に深刻であり、豊臣秀吉が1587年に「バテレン追放令」を発布した主な理由の一つとなりました。秀吉は、キリスト教の布教活動に伴う日本人奴隷の海外流出を問題視し、これを禁じるための措置を講じました。
劇烈な生存競争とは、文字通りのもので、明治時代には多くの日本人が海外へ移民として旅立った。
明治時代は、日本における組織的な海外移民(移民・移住)が本格化した時代です。1868年(明治元年)のハワイへの「元年者」を皮切りに、多くの人々が貧困からの脱却やより良い生活を求めて海を渡りました。
明治期の海外移民に関する主なポイントは以下の通りです。
移民が始まった背景と目的
初期の経緯: 1866年の海外渡航禁止令(鎖国令)解除を受け、1868年に約150人の日本人がハワイへ渡ったのが最初(元年者)。
主な理由: 経済的背景が大きく、国内の貧困や職不足を解消する手段として、出稼ぎ移民が選ばれました。
国の政策: 明治政府は、過剰人口の抑制、社会問題対策、そして外貨獲得を通じた近代化の一環として移民事業を推進・推進しました。
開国の後、日本は海外に抗する為帝国主義にならざるを得なかった。日露戦争のけりはまだついていない。そんな日本の、日本人の一人として、のらくらしている代助もまた孤立しながら劇烈な生存競争をしているつもりなのだ。大いに矛盾しているようでありながら、それが偽らざる感覚なのだろう。これも苦悩や煩悶ではなく、頭で考える危機感と言うところか。
代助は今の平岡に対して、隔離の感よりも寧ろ嫌悪の念を催うした。そうして向うにも自己同様の念が萌していると判じた。昔しの代助も、時々わが胸のうちに、こう云う影を認めて驚ろいた事があった。その時は非常に悲しかった。今はその悲しみも殆んど薄く剥れてしまった。だから自分で黒い影を凝っと見詰めてみる。そうして、これが真だと思う。已を得ないと思う。ただそれだけになった。
こう云う意味の孤独の底に陥って煩悶するには、代助の頭はあまりに判然し過ぎていた。
頭が煩悶させない訳だ。この長井代助の頭の特殊性を無視して煩悶しないのが詰まらないと言ってみても仕方ない。つまり自分と同じような当たり前の人間でないと認めないという人には、確かに長井代助が不自然に見えるのかもしれない。しかし変な人というのはいる。みんな自分とは同じではない。そう呑み込めば「情緒的方面の省略」などとは言わない筈だ。何も奇天烈な話ではなく俗流アドラー心理学的な意味で、「他人の不幸は背負い込まない」という考え方は心を楽にする。そういう割り切りをしたいがなかなかできないで困るのが現実だとして、代助もその程度に楽になりたいのではなかっただろうか。少なくともマイナスの「情緒的方面の省略」は代助の頭の意図である。
