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芥川龍之介のヒーロー 芸術的気質を持った青年の「人間の悪」を発見するのは誰よりも遅い

 芥川龍之介がヒーローとして、自分にはないものを持ったキャラクターとして『羅生門』の下人を描き得た事を得意としていたことはほぼ間違いなかろう。かなう事なら芥川は下人の太さが欲しかった。

彼は革命の鼓舞者にあらず、革命の先動者也。彼の粟津に敗死するや、年僅に三十一歳。而して其天下に馳鶩したるは木曾の挙兵より粟津の亡滅に至る、誠に四年の短日月のみ。彼の社会的生命はかくの如く短少也。しかも彼は其炎々たる革命的精神と不屈不絆の野快とを以て、個性の自由を求め、新時代の光明を求め、人生に与ふるに新なる意義と新なる光栄とを以てしたり。彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也。
彼の一生は短かけれども彼の教訓は長かりき。彼の燃したる革命の聖壇の霊火は煌々として消ゆることなけむ。彼の鳴らしたる革命の角笛の響は嚠々として止むことなけむ。彼逝くと雖も彼逝かず。彼が革命の健児たるの真骨頭は、千載の後猶残れる也。かくして粟津原頭の窮死、何の憾む所ぞ。春風秋雨七百歳、今や、聖朝の徳沢一代に光被し、新興の気運隆々として虹霓の如く、昇平の気象将に天地に満ちむとす。蒼生鼓腹して治を楽む、また一の義仲をして革命の暁鐘をならさしむるの機なきは、昭代の幸也。(芥川龍之介『木曽義仲論』)

 この『木曽義仲論』にも「男らしき生涯」という芥川の理想が現れていると見て良いだろうか。しかし木曽義仲を論じるにも芥川の弱さが現れていようか。「蒼生鼓腹して治を楽む」とはなんたる阿りか。無論学生の作文である。平場で議論されるべきものではない。それは夏目漱石の楠木正成論と比較すべきものでもないが、「蒼生鼓腹して治を楽む」時代ではなかっただろうに。「蒼生鼓腹して治を楽む」では『羅生門』の下人は存在しなかっただろう。

 最も漱石の漢詩にも

幸生天子国 未逢当代師

 あるいは、

生住天子国 未許称人師

 また、

幸生天子国 願作太平民

 また

 元是太平子 寧居忘乱離 忽然兵燹起 一死始医飢

(元々太平の世の人間であったので、安らかな生活で戦乱の憂いを忘れていた。ところが忽然として兵乱による火災が起り、死んで見てやっと飢えから解放されるありさまだ。訳・小林十之助)

 …というものがある。明治後期から芥川の死まで「蒼生鼓腹して治を楽む」なんて時代はなかった筈だ。そうでなければ大正デモクラシーなど起きない。日清日露戦争を経て、日本は貧しくなっていった。台湾や朝鮮にも多額の投資をしていた。「蒼生鼓腹して治を楽む」とは戦争のない今の時代だろう。

 これは朝鮮に伝えられる小西行長の最期である。行長は勿論征韓の役の陣中には命を落さなかった。しかし歴史を粉飾するのは必ずしも朝鮮ばかりではない。日本もまた小児に教える歴史は、――あるいはまた小児と大差のない日本男児に教える歴史はこう云う伝説に充ち満ちている。たとえば日本の歴史教科書は一度もこう云う敗戦の記事を掲げたことはないではないか?
「大唐の軍将、戦艦一百七十艘を率いて白村江(朝鮮忠清道舒川県)に陣列なれり。戊申(天智天皇の二年秋八月二十七日)日本の船師、始めて至り、大唐の船師と合戦う。日本利あらずして退く。己酉(二十八日)……さらに日本の乱伍、中軍の卒を率いて進みて大唐の軍を伐つ。大唐、便ち左右より船を夾みて繞り戦う。須臾の際まに官軍敗績れぬ。水に赴きて溺死ぬる者衆し。艫舳へとも、廻旋らすることを得ず。」(日本書紀)
 いかなる国の歴史もその国民には必ず栄光ある歴史である。何も金将軍の伝説ばかり一粲に価する次第ではない。(芥川龍之介『金将軍』)

  後に芥川は日本の歴史に批判のまなざしを向ける。

 この土蜘蛛と云うのは、昔神武天皇様が御征伐になった事のある、一寸法師の悪者なのです。(芥川龍之介『犬と笛』)

 これは皮肉である。あるいは逆説である。これが太宰の厭味と罵倒に引き継がれ、三島由紀夫の「大真面目」と重なる。「蒼生鼓腹して治を楽む」は皮肉になり切れていない。

「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」
 桃太郎は桃の旗を片手に、日の丸の扇を打ち振り打ち振り、犬猿雉の三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の好い家来ではなかったかも知れない。が、饑えた動物ほど、忠勇無双の兵卒の資格を具えているものはないはずである。彼等は皆あらしのように、逃げまわる鬼を追いまわした。犬はただ一噛みに鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭い嘴に鬼の子供を突き殺した。猿も――猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺す前に、必ず凌辱を恣にした。……(芥川龍之介『桃太郎』)

 これは時代としてはなかなか男らしい書きっぷりではなかろうか。『趣味の遺伝』に負けていない。問題はどうもこの太い男、桃太郎がヒーローではなくなっていることではなかろうか。

 しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。あの大きい八咫鴉は今度はいつこの木の梢へもう一度姿を露すであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。……(芥川龍之介『桃太郎』)

 これが『桃太郎』の結びである。ヒーローは太い桃太郎ではなく未来の天才であろう。ヒーローは眠っており、現れるかどうか定かではない。ここにおいて下人が、多襄丸が、桃太郎が捨てられたような気がするのは私だけだろうか? もしもヒーローが極悪人として切り捨てられたら、太いことに何の値打ちもないと解ってしまったら、どうなるのだろう。

 長州の血を引いているという芥川の自負が福島県民の憎悪に晒されたらどうなるのだろう?

 悪

 芸術的気質を持った青年の「人間の悪」を発見するのは誰よりも遅いのを常としている。(芥川龍之介『侏儒の言葉』)

 冒頭に断り書きがある通り『侏儒の言葉』は芥川龍之介の「思想の変化を時々窺うかがわせるのに過ぎぬもの」である。『羅生門』の下人を肯定するためには追いはぎを肯定しなくてはならない。確かに『侏儒の言葉』には「国民の九割強は一生良心を持たぬものである。」とある。日露戦争が始まった当時、五歳であった芥川文によれば、品川の下高輪の東禅寺のそばの坂では追いはぎが出没したそうだ。(『追想 芥川龍之介』)芸術的気質を持った青年はまだ身体性を持たなかった。











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