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『人間失格』は大いに笑って読むべし

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」(太宰治『人間失格』)

 物凄い自己肯定で涙が出そうなこの結びは、「私は、ひとから押しつけられた材料でものを書けないたちなので」とやはり物凄い冗談を言う「私」を描く作者の冗談である。兎に角太宰はまっすぐに語ることをしない。

 最後に云って置きますが、むかし、滝沢馬琴と云う人がありまして、この人の書いたものは余り面白く無かったけれど、でも、その人のライフ・ワークらしい里見八犬伝の序文に、婦女子のねむけ醒しともなれば幸なりと書いてありました。そうして、その婦女子のねむけ醒しのために、あの人は目を潰してしまいまして、それでも、口述筆記で続けたってんですから、馬鹿なもんじゃありませんか。
 余談のようになりますが、私はいつだか藤村と云う人の夜明け前と云う作品を、眠られない夜に朝までかかって全部読み尽し、そうしたら眠くなってきましたので、その部厚の本を枕元に投げ出し、うとうと眠りましたら、夢を見ました。それが、ちっとも、何にも、ぜんぜん、その作品と関係の無い夢でした。あとで聞いたら、その人が、その作品の完成のために十年間かかったと云うことでした。(太宰治『小説の面白さ』)

 そんなことを文学の糞から生まれたような太宰治が書くから面白いのだ。

 そうして、その、誰にも訴えない、自分の孤独の匂いが、多くの女性に、本能に依って嗅ぎ当てられ、後年さまざま、自分がつけ込まれる誘因の一つになったような気もするのです。
 つまり、自分は、女性にとって、恋の秘密を守れる男であったというわけなのでした。(太宰治『人間失格』)

 いや、嘘をつけ。『斜陽』は太田静子の日記を借りて書いただろう。それからさんざん女のことを書いただろう。何が「恋の秘密を守れる男」だよ。「つけ込まれる」ってどんな言い分だよ、と『人間失格』は飽くまで太宰ジョークを楽しむべき作品である。

しかし、それよりも、肉親と他人、故郷と他郷、そこには抜くべからざる演技の難易の差が、どのような天才にとっても、たとい神の子のイエスにとっても、存在しているものなのではないでしょうか。(太宰治『人間失格』)

 ……と太宰はなんと神の子のイエスも人を欺く演技者にしてしまう。このさりげない途轍もなさは「過少誇張法」という酒鬼薔薇くんが『絶歌』の冒頭でかましたレトリックと同じものと見てよいだろう。酒鬼薔薇くんは一連の事件が起きたとされる過去を「さりげない日常の一コマ一コマ」と書いてしまう。これはえげつない。

 そうかと思えば太宰は「偽クリスチャンのような「優しい」媚笑を湛え」とさらに強烈な比喩を叩き込む。イエスも人を欺く演技者ならクリスチャンにも偽がいるだろうという理屈だ。しかし隠れキリシタンならぬ偽クリスチャンとはなんだろう。最近では「偽クリスチャン」ついて書いている人もいるが、次世代デジタルライブラリーに「偽クリスチャン」の文字はない。これは殆ど太宰の発明ではなかろうか。

 太宰は「お前は、きっと、女に惚れられるよ」という竹一の言葉を「おそろしい悪魔の予言」と今度は過大誇張法で表現する。「つけ込まれる」が「惚れられる」になって「悪魔の予言」なのだから、偽クリスチャンは忙しい。

「何か面白い本が無い? 貸してよ」
 と言いました。
 自分は漱石の「吾輩は猫である」という本を、本棚から選んであげました。(太宰治『人間失格』)

 はい、この部分何が面白いのか解る人?
 これは、『小説の面白さ』の冒頭、

小説と云うものは、本来、女子供の読むもので、いわゆる利口な大人が目の色を変えて読み、しかもその読後感を卓を叩いて論じ合うと云うような性質のものではないのであります。(太宰治『小説の面白さ』)

 ……が解っていないと解らないジョークだ。

ここには、「鴎外と漱石」という題にて、鴎外の作品、なかなか正当に評価せられざるに反し、俗中の俗、夏目漱石の全集、いよいよ華やかなる世情、涙出ずるほどくやしく思い、参考のノートや本を調べたけれども、「僕輩」の気折れしてものにならず。(太宰治『もの思う葦――当りまえのことを当りまえに語る。』)

 ……が解っていると大いに笑えるジョークだ。この意地の悪さが太宰治だ。無論私は漱石を「俗中の俗」などとは考えていないが、ここでは不快になることはできない。太宰がすっとぼけて「吾輩は猫である」を差し出す手際に感心するだけである。

「前から、お前に眼をつけていたんだ。それそれ、そのはにかむような微笑、それが見込みのある芸術家特有の表情なんだ。お近づきのしるしに、乾杯! キヌさん、こいつは美男子だろう? 惚れちゃいけないぜ。こいつが塾へ来たおかげで、残念ながらおれは、第二番の美男子という事になった」(太宰治『人間失格』)

 漱石と同じアバタ面で悩んでいた若かりし日の太宰を思えば、この「こいつは美男子だろう?」は笑うところだ。いや、太宰が不細工とは思わない。しかしこれは飽くまでジョークなのだ。

 自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました。みんな、哀しいくらい、実にみじんも慾というものが無いのでした。そうして、自分に、同類の親和感とでもいったようなものを覚えるのか、自分は、いつも、その淫売婦たちから、窮屈でない程度の自然の好意を示されました。何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、二度と来ないかも知れぬひとへの好意、自分には、その白痴か狂人の淫売婦たちに、マリヤの円光を現実に見た夜もあったのです。(太宰治『人間失格』)

 ここはぷっと吹き出すというより、じわじわ面白いところだ。演技者イエス・キリスト、偽クリスチャン、悪魔の予言ときて、今度はマリヤかと太宰の途轍もないところが面白い。酔っぱらって云った台詞「万人に通じた女は、これはもう、処女だ」を知っていると弐重に面白い。

堀木はそれを半分はお世辞で言ったのでしょうが、しかし、自分にも、重苦しく思い当る事があり、たとえば、喫茶店の女から稚拙な手紙をもらった覚えもあるし、桜木町の家の隣りの将軍のはたちくらいの娘が、毎朝、自分の登校の時刻には、用も無さそうなのに、ご自分の家の門を薄化粧して出たりはいったりしていたし、牛肉を食いに行くと、自分が黙っていても、そこの女中が、……また、いつも買いつけの煙草屋の娘から手渡された煙草の箱の中に、……また、歌舞伎を見に行って隣りの席のひとに、……また、深夜の市電で自分が酔って眠っていて、……また、思いがけなく故郷の親戚の娘から、思いつめたような手紙が来て、……また、誰かわからぬ娘が、自分の留守中にお手製らしい人形を、……自分が極度に消極的なので、いずれも、それっきりの話で、ただ断片、それ以上の進展は一つもありませんでしたが、何か女に夢を見させる雰囲気が、自分のどこかにつきまとっている事は、それは、のろけだの何だのといういい加減な冗談でなく、否定できないのでありました。自分は、それを堀木ごとき者に指摘せられ、屈辱に似た苦さを感ずると共に、淫売婦と遊ぶ事にも、にわかに興が覚めました。(太宰治『人間失格』)

 いやー、もてますな。もてもてですな。しかしそんなことありますかね。「牛肉を食いに行くと、自分が黙っていても、そこの女中が」って、今ではドラマの定番のもてエピソードですがな。要するに自分だけちょっと良い肉にしてくれたり、飯の盛りが多かったり、そういうほっこりした笑いの場面になるが、それをこう畳みかけるように繰り出すのは、それこそ本当にジョークなのだが、それを「いい加減な冗談でなく、否定できない」と深刻ぶるのが太宰の徹底しているところだ。

 まあこうして、『人間失格』をぜひ笑って読んで貰いたい。今日は太宰の命日だ。




[附記]

 カフカが『変身』を笑いながら読んだといった話は文庫本の解説か何かで伝わっているものだろうか。私が和式便器やクリスタル役などの文言をチョイスする瞬間も、ある種の愉快な感じがあった。どんなに暗い場面でも、そこにそれなりの力が発揮できれば、書き手は楽しいものである。これは書き手にしかわからない、書き手だと解る話だ。

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