谷崎潤一郎と夏目漱石③ 二人の天才のすれ違い。
明治四十三年の初秋、谷崎は、大貫、和辻、木村らと一緒に同人雜誌「新思潮」を發刊した。「新思潮」當時の文壇を風靡していたのはロシヤとフランスの自然主義であつた。「新思潮」のメンバーらはしばしば「偶像破壞者」という言葉を口にしたが、知らず知らずらず、漱石、藤村、荷風という偶像を拵えていた。
そして谷崎君の「刺靑」、「象」、「麒麟」が揭載されると、自然派は此等の短篇を默殺したが、一般の新聞雜誌は此の新人の作品を取りあげて、好評を與へた。殊に上田敏博士は「スバル」 や「三田文學」の同人會合の席上で谷崎君の作品を激賞したのであつた。實際、「安價な告白」や原稿生活の身邊雜事でジメジメしてゐた文壇に、以上三篇は一條の光線と一味の清風とを送つたのである。此の無名作家は古代傳說に近代人の思想と感覺とを巧みに盛り入れたのであつた。其頃、澁柿園の書いてゐた歷史小說は別問題として、短篇小說の中で江戶時代の市井雜事や支那古典の挿話を藝術化したのは、谷崎君の作品が初めてであつた。(「明治末期と『新思潮』」『科学と文学』後藤末雄 著千歳書房 1943年)
谷崎、豐島、芥川、菊池、久米、山本の諸君は初期「新思潮」の同人であつた。こうしたメンバーを眺めて、久米の「漱石先生の死(記憶)」を読み直してみると、やはり不思議の感に囚われる。
久米、松岡、赤木、芥川は夏目漱石に近づいていく。やがて門下となり、単に文学の師という以上の関係性を築いていく。松岡は漱石の娘を嫁に貰う。作品そのものにはさして感心していなかった菊池寛も久米や芥川と漱石を訪ねている。
この「新思潮」の運動を必ずしも自然主義に對する反動であるとは言へないであらう。この頃、同人の中で木村君は勿論のこと、大貫君に至つては自然派の藤村氏を崇拜して作品の名句を殘らず暗記してゐたほどであつた。併し谷崎君は漱石先生の風格を慕ひ、その作品に敬服してゐた。(「明治末期と『新思潮』」『科学と文学』後藤末雄 著千歳書房 1943年)
夏目漱石の人を慕い作品に敬服していた谷崎潤一郎は何故か漱石とは直接関係を持とうとしなかった。無論誰でも漱石と直接の関係が持てるわけではないが、その気になればやり方はいくらでもあろう。いざとなれば和辻哲郎のようなラブレターを送りつければいいのだ。しかし谷崎潤一郎はそんなことはしなかった。しかしこの「交際のなさ」にはいくつものねじれがないだろうか。
そもそも芥川は『鼻』を激賞されて門下に入ることが出来た。その作品は「材料が非常に新しいのが目に付く」点も評価されたものである。
その材料は平安末期・鎌倉前期の逸話集を元に、落ちを切り捨て、新しい角度から再構成したものだ。「江戶時代の市井雜事や支那古典の挿話を藝術化したのは、谷崎君の作品が初めてであつた」と後藤末雄は書いているが、そういう意味では、つまり古典の挿話を藝術化したという意味では、芥川の方法は二番煎じにならないだろうか。しかし夏目漱石は「材料が非常に新しいのが目に付く」点も評価したことによって、谷崎潤一郎の先進性を否定していることにはならないだろうか。
また谷崎の「刺靑」、「象」、「麒麟」は、いや初期谷崎作品のほとんどすべてが、どこかいかがわしい毒を含んだ、反道徳的な傾向をも匂わせるものである。
無論、これまで見てきたように谷崎作品には反体制的な毒も仕込まれており、そういう意味では、つまり文明批判的な意味での道徳性や善を隠し持っていないとは言い切れないが、少なくとも偽悪的であるとは言えるだろう。それは夏目漱石作品が一貫して眞・善・美を追求してきたことに対する、いささかお行儀の悪い反発に見えなくもない。
この出鱈目な評論の中でも、夏目漱石という人が古い時代の道徳観を持ち、善の理想を求めていたという指摘は正しい。とてもではないが夏目漱石が女の洟をかんだハンカチをしゃぶるような小説を認めるわけはないのだ。しかしそれを森鴎外のように「汚い」とストレートに批判した記録もない。
そして芥川龍之介にも後に『好色』という惚れた女のウ〇チを盗んで食べる小説があることをもう一つのねじれと見ても良いであろうか。
このように「小說家としての夏目さんは實はそんなにえらくはない」と嘯きながら、実は「漱石先生の風格を慕ひ、その作品に敬服してゐた」という点が一つのねじれ。(のちに漱石観が変わったというだけではこのねじれは説明できないように思う。)
実は「漱石先生の風格を慕ひ、その作品に敬服してゐた」のに、久米、芥川に混ざって漱石に会わなかったというねじれ。
そして善の理想を求める漱石作品に敬服しながら、偽悪的、あるいは悪魔的な作風で売り出そうとしたというねじれ。あるいは早くから(反夏目漱石派の小山内薫にすり寄るためでもなかろうが)夏目漱石が書かなかった戯曲に走ったというねじれ。
これらは谷崎潤一郎の本質的な信用できなさで片付けられそうでもあるが、夏目漱石側にも芥川龍之介に関する評価を巡っては、拒絶なのか無視なのか、なにかそういうねじれがあるように思える。何しろ、「自然派は此等の短篇を默殺したが、一般の新聞雜誌は此の新人の作品を取りあげて、好評を與へた」のだから、結果としては谷崎作品に関しては漱石は自然派と同じ態度を選んだことになる。
つまりこの二人の天才の間の「交際のなさ」は単なる「なにもない」ではなく、そもそも付き合いのない時点での絶交のようなものではない、なんとも曖昧なものが隠れているように思えるのである。お互いに「ちょっと話をしてみたい」くらいの興味があってしかるべきところ、しかるべきところにならなかったのにはまだ何かある。
掘ればまだ何か出て來るのではなかろうか。
(参)
明治末期と「新思潮」
谷崎、大貫、和辻、木村君と一緒に同人雜誌「新思潮」を發刊したのは實にであつた。(中略)當時、赤門派の新人として最も文壇に活動してゐたのは小山內薰氏であつた。そして小山內氏は暫く柳橋に近い瓦町に住んでゐて、近所の新片町に小居を構へてゐた藤村氏に師事してゐた。また第一次「新思潮」に「靑い花」といふ短篇を出して好評を博した私の舊友、木村君は藤村氏に私淑し、更に小山內氏とも親交があつた。かういふ機緣で私は谷崎、大貫、和辻君を木村君に紹介し、いよいよ小山內氏を盟主と仰いで「新思潮」の誌名を借用し、藤村氏を顧問として我が同人雜誌は發刊の運びに就いたのであつた。
木村君は當時、有名であつた芝浦館、芝濱館の若旦那であつたから、「新思潮」金主として會計の方面を擔當した。そして「芝濱館事務所」といふ看板のかゝつた門柱の片方には、「新思潮社」と書いた小さい看板が揭げられた。この看板は蒲鉾の板を明治末期と利用したものだと木村君は言つてゐた。(中略)そして私達はよく「偶像破壞者」といふ言葉を口にした。併し偶像破壞を以つて自任してゐた新人が知らず識らず、漱石、藤村、荷風といふ偶像を拵へてゐたことは、何んたる矛盾であつたらう。「新思潮」當時の文壇を風靡してゐたのは前に述べた通り、ロシヤとフランスの自然主義であつた。ロシヤの自然主義に就いては、私の專門外であるから議論を差し控へたい。(中略)そして文部省は美術展覽會に好評と成功とを博したことに味をしめて文藝院を設立して、文學の保護と奬勵に任じた。併し其の眞意は自然主義の跋扈に辟易して、文學者の自重を促すと同時に、その作品を取締ることにあつたと聞く。併し文藝院は唯、鷗外漁史の「フアースト」の完譯を殘し、また春の舍主人の文藝上の功勞に對して賞金五百圓を呈したばかりで、行政整理の爲に豫算を削られ、敢なく頓死したのであつた。かやうに政府の文藝に對する取締が最も過酷を極めてゐた頃、第二次「新思潮」の初號が發行された。そして此の初號がまだ書店に廻るか廻らないうちに發賣禁止を命ぜられたのである。私は木村君から「やられた」といふ言葉を電話で聞いたとき、ハツと思つた。そして發禁の理由は全然解らず、發行所へ警官がきて、雜誌の殘部を押收していつたといふ話であつた。木村君は妙に落ちついて、セセラ笑つてゐた。このセセヲ笑ひは、政府の嚴罰に對する一種の嗤笑であつたらう。今でも此の笑ひ聲が私の耳に殘つてゐる併し誰の作品でやられたのか、同人の作品には發禁の責任を負ふべき箇所はなかつた。私自身の作品は西洋婦人との情趣を取扱つたものであるが、これとても風俗を壞亂しようとは考へられなかつた。併し私の心は重苦しかつた。殊に警官が發行所へきて雜誌の殘部を、すつかり押收していつたといふ話が妙に氣味惡かつた。その後、小山内氏が當局から目をつけられてゐたから、「新思潮」同人はその傍杖を食つたのだと「新思潮」も言はれてゐた。「新思潮」は學生の手習草紙であり、此の同人雜誌に發禁の鐵槌を下すとは餘りに殘酷であつた。政府は文學を社會の毒草と認めて、嫩葉の中から芽生を明治末期と苅り取らうとしたのか。かの「雨聲會」を開いて一流の文人を雅莚に招待した西園寺侯の內閣は社會主義に對する取締を緩漫にしたので、軍閥の巨頭、政黨嫌ひの含雪老公が此の内閣を毒殺したといふ噂さがあつた。桂公の官僚內閣は自由主義の發展に戰々兢々として彈壓を加へてゐたから、哀れや我が「新思潮」の初號も此の政策の犠牲學になつたのであらう。科我が「新思潮」の初號は發禁になつて闇から闇に葬られたが、發禁の命令は却つて此の眇たる同人雜誌の存在を社會に廣告する勞を取つたのであつた。「新思潮」は政府の彈壓に屈せず、二號、三號と毎月、發行を續けた。そして谷崎君の「刺靑」、「象」、「麒麟」が揭載されると、自然派は此等の短篇を默殺したが、一般の新聞雜誌は此の新人の作品を取りあげて、好評を與へた。殊に上田敏博士は「スバル」 や「三田文學」の同人會合の席上で谷崎君の作品を激賞したのであつた。實際、「安價な告白」や原稿生活の身邊雜事でジメジメしてゐた文壇に、以上三篇は一條の光線と一味の清風とを送つたのである。此の無名作家は古代傳說に近代人の思想と感覺とを巧みに盛り入れたのであつた。其頃、澁柿園の書いてゐた歷史小說は別問題として、短篇小說の中で江戶時代の市井雜事や支那古典の挿話を藝術化したのは、谷崎君の作品が初めてであつた。荷風氏の試みた江戶傳說の藝術化もその以後のことだと記憶してゐる。そして谷崎君の態度は純藝術派に屬してゐるにせよ、今日の大衆文藝と谷崎君の初期作品とに一脈の連絡があるやうな氣がしてならない。此等の作品によつて新進作家、谷崎君の地步は文壇に堅められ、同人雜誌の「スバル」は「信西」を揭載して、作者に稿料を拂つた。實際谷崎君の創作は一作毎に好評を博した。遂に新進作家の登龍門であつた「中央公論」は「惡魔」を揭載するに至つた。この作品は頗る不評であつた。或日、鷗外漁史は「惡魔は誠に汚い小說である。そして「惡魔」に現はれた感情も感覺も皆、「新思潮」拵へ物である。併し汚い描寫を以つて日本文學の分野を擴げたことに多少の功績を認める」と私に言はれたことを今だにハツキリ覺えてゐる。明治末期と我々の「新思潮」は谷崎潤一郞を華々しく文壇に送りだすと同時に、此の新進作家を目ざましく文壇に送りだした。併し其後の「新思潮」は「拔け殻」とり、六號、發行したばかりで種々の派生事情から廢刊しなければならなかった。この同人雜誌は完全に職能を果したのである。
