高浜虚子「漱石氏と私」-1-
[要点]
・漱石は子規と比べればお行儀が良かった。→したがって養父の漱石像はかなり怪しい。
・一番町の寓居に関する記述は貴重
・漱石が弓をやっていたという記録は貴重
・漱石の死因がツグミの焼き鳥であるという話は貴重
「漱石氏と私」-1-
漱石氏と私との交遊は疎きがごとくして親しく、親しきが如くして疎きものありたり。其邊を十分に描けば面白かるべきも、本篇は氏の書簡を主なる材料として唯追憶の一端をしるしたるのみ。氏が文壇に出づるに至れる當時の事情は、略々此の書によりて想察し得可し。
大正七年正月七日ほとゝぎす發行所にて高濱虛子
永き日や欠伸うつして別れ行く漱石氏筆
漱石氏と私
私は自分の座石に漱石氏の數十本の手紙を置いて居る。近年は餘り人の手紙は保存することをしないけれども、十年前頃までは先輩の手紙は大方保存して置いた。それは一纏めになつて古い行李の中に納められてある。
今度激石氏が亡くなつたのに就いて家人の手によつて遮り出されたものが卽ち座右にあるところの數丁通の子紙であるまた年月の順序を排列することもしないでゐるのであるが、寸手にとつてみたところでは大方漱石氏が「猫」を書くやうになつて以來一兩年間の手紙で、其以前の手紙は極めて少いやうである。
さうして激石民が朝日新聞に入社してその紙上以外に筆を執らぬやうになつてから後は又著しくその數を減じてゐる。私が激石氏に就いての一番舊い記憶はその大學の帽子を被つてゐる姿である。
時は明治二十四五年の頃で、場所は松山の中の川に沿うた古い家の一室である。それは或る年の春休みか夏休みかに子規居士が歸省してゐた時のことで、その席上には和服姿の居士と大學の制服の膝をキチンと折つて坐つた若い人と、居士の母堂と私とがあつた。
母堂の手によつて、松山鮮とよはれてゐるところの五目鮓が拵へられて其の大學生と居士と私との三人はそれを食ひつゝあつた。他の二人の目から見たら其頃まだ中學生であつた私はほんの子供であつたであらう。又十七八の私の目から見た二人の大學生は遙かに大人びた文學者としてながめられた。
その頃漱石氏はどうして松山に來たのであつたらうか。それはその後しばしば氏に會しながらも終に尋ねてみる機會が無かつた。矢張休みを利用して此地方へ來たついでに歸省中の居士を訪ねて來たものであつたらうか。その席上ではどんな話があつたか、全く私の記憶には殘つて居らぬ。
たゞ何事も放膽的であるやうに見えた子規居士と反對に、極めてつゝましやかに紳士的な態度をとつてゐた瀬石氏の模樣が昨日の出來事の如くはつきりと眼に殘つてゐる。漱石氏は洋服の膝を正しく折つて靜座して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさね樣に行儀正しくそれを食べるのであつた。さうして子規居士はと見ると、和服姿にあぐらをかいてぞんざいな機子て箸をとるのであつた。
それから兩君はどういふやうにして、どういふ風に別れたか、それも全く記憶に無い。たゞ其時私は一本の傘を居士の家に忘れて歸つて來たことと、其次ぎ居士を訪問してみると亦や綠や黄や靑やの詩箋に二十句ばかりの俳句が記されてあつた、それを居士が私に見せて、「これが此間來た夏目の俳句ぢや。」と言つたことを覺えて居る。
どんな句があつだか記憶しないが何でも一番最初に書いてあつた句が鶯の句であつたことだけは記憶して居る。
その後も子規居士の口から激石氏に就ての語はしばしば聞いた。極く眞面目に勉强する人で學校の成績が常にいゝといふことや、學資を得る爲に早稻田の專門學校に教へに行つてゐるといふことや、その他今記憶に殘つてはゐないけれどもいろいろの話を聞いた。
居士がその親友として私に話した人の名前は餘り澤山なく、菊池謙二郞、秋山眞之、其他二三の人であつたが、同じ文學に携はる者としては夏目とい名前がしばしば繰返された。
それから三四年經つて明治二十八年に私は松山に歸省した。私は明治二十五年に松山を出て京都に遊學し、それから仙臺、東京と處を替へたのであつたが、この明治二十八年に歸省した時に、漱石氏は大學を出て松山の中學校の教師になつてゐたので、それを訪問してみることを子規居士から勸められた。
三四年前一度居士の宅て遇つた大學生が夏目氏其人であることは承知してゐたが、その時は全くの子供として子規居士の陰に小さく坐ったまゝで碌に談話も交へなかつた人ことであるから、私は初對面の心持で氏の寓居を訪ねた。
氏の寓居とは一番町の裁判所の裏手になつて居る、城山の麓の少し高みのところであつた。その頃そこは或る古道具屋が住まつてゐて、その座敷を間借りして激石氏はまだ妻帯もしない書生上りの下宿生活をして居たのであつた。
そこはもと菅といふ家老の屋敷であつて、その家老時代の建物は取除けられてしまつて、小さい一棟の二階建の家が廣い敷地の中にぽつんと立つてゐるばかりであつたが、其廣い敷地の中には蓮の生えてるる池もあれば、城山の緑につづいてゐる松の林もあつた。
裁判所の橫手を一丁ばかりも這入つて行くと、そこに木の門があつて、それを這入ると不規則な何十級かの石段があつて、その石段を登りつめたところに、その古道具屋の住まつてゐる四間か五間の二階建の家があつた。
私はそこでどんな風に案內を乞うたか、それは記憶に殘つて居らん。多分古道具屋の上さんが、「夏目さんは裏にゐらつしやるから、裏の方に行つて御覽なさい。」とでも言つたものであらう、私はその家の裏庭の方に出たのであつた。
今言つた蓮池や松林がそこにあつて、その蓮池の手前の空地の所に射垜※があつて、そこに漱石氏は立つてゐた。(※弓場で、的をかけるために、土または細かい川砂を土手のように固めた盛り土。)
それは夏であつたのであらう、漱石氏の着てゐる衣物は白地の單衣であつたやうに思ふ。その單衣の片肌を脫いで、其下には薄いシヤツを着てゐた。さうして其左の手には弓を握つてゐた。漱石氏は振返つて私を見たので近づいて來意を通ずると、「あゝさうですか、一寸待つてください、今一本矢が殘つてゐるから、」とか何とか言つてその右の手にあつた矢を弓につがへて五六間先にある的をねらつて發矢と放つた。其時の姿勢から矢の當り具合など、美しく巧みなやうに私の眼に映つた。
それから漱石氏は餘り厭味のない氣取つた態度て駈足をして其的のほとりに落ち散つてゐる矢を拾ひに行つて、それを拾つてもどつてから肌を入れて、「失敬しました。」と言つて私を其居間に導いた。
私はその時どんな話をしたか記憶には殘つて居らぬ。たゞ艶々しく丸髷を結つた年增の上さんが出て來て茶を入れたことだけは記憶してる。
此古道具屋の居たといふ家は私にも緣のある家で、それから何年か後にその家や地面が久松家の所有になり、久松家の用人をしてゐた私の長兄が留守番旁々其所に住まふやうになつて、私は歸省する度にいつもそこに寐泊りをした。
卽ち漱石氏の假寓してゐた二階に私も寐泊りしたのであつた。それから私の兄が久松家の用人をやめて自分の家に戾つて後、そこには藤野古白の老父君であつた麻野滝翁が久松家の用人として住まつてゐた。
大正三年の五月に私は實生新氏(漱石氏の謠の師匠)や、河東碧梧桐君や、次兄池內信嘉やなどゝ共に松山に歸省したことがあつた。それは池內の企で松山で能を催すことになつて一同打連れだって歸省したのであつたが、その時實生氏を始め一同は藤野氏の所に集つて申合はせをした。
尤もそれは例の二階建の小さい家の方ではなくつて、久松家の所有になつてから直ぐ其家に隣つて稍や廣い座敷が二間ばなりある時々の集會などに用ふる一棟の別座敷が作られた、その方に集つて申合せをしたのであつた。その申合せをして居る時に、藤野氏の家人の聲がして、
「今一人の書生さんが見えて、夏目さんがどうとか仰しやるのですが……」と其意味を解しかねたやうに言つた。藤野翁はそれに答へて、「それは何か間違であらう、河東さんや高濱さんはおいでになつて居るが、夏目さんはおいでになつてゐない、とさう返事をおし。」と言つた。
一座の人は皆默々として思ひもよらぬその話に餘り意をとめなかつたやうであつたが、私は二十年前のことが忽ち頭に閃いて、「それは夏目君が以前此家に居たことがあつた、といふことに就いて何か訊きに來たのであらう。」と言つた。「夏目君がこゝにゐたとは?」と藤野翁は私の顔をいぶかしさうに見その··か社た。其他の人も皆不思議さうに私の顏を見た。そこで私は、「兎に角その書生さんに會つて見ませう。」と藤野氏の家人に言つて、下駄を突つかけて表に出て見た。
そこには大學の制帽を被つた一人の書生さんが突つ立つてゐた。「どういふ御用ですか。」と訊いてみたら、「私は夏目先生の著作を愛讀してゐるものですが、か、神經衰弱に罹つて一年ばかり學校を休んである間に所々を旅行して今度此地に來たのです。先生のお書きになつた何かの記事のうちに此家に下宿してゐられたといふことがあつだやうに記憶してるたので、どんな所かその跡が見たくて來たのです。」といふことであつた。
そこで私はその書生さんを案內して、また形の殘つてゐる射垜の邊から例の大さくない二階建などを見せた。その書生さんは餘り多く語りもせずに歸つて行つた。其時名刺を貰つたけれどもその名前は格別記憶にも殘つてゐなかつた。
その翌年發行所の電話のベルが鳴つて、「我は渡邊と言つていつか松山で斯くことをしてもらつた者であるが、一度夏目先生にお目にかゝり度いと思ふ。お紹介が願へないでせうか。」といふことであつた。
私は承知の旨を答へた。私の書いた紹介狀を進滲君自身が取りに來だのは其日か其翌日であつた。其後波邊君のことは又考へる機會もなかったのであるが激石氏の葬式の時、靑山の齋場に丁度私の傍に立つてゐた一人の靑年がその渡邊君であつて久し振りに挨拶をした。
それから最近一月十日の日附の郵便が鎌倉の私の案頭に落ちた。それは斯ういふ手紙であつた。
拜呈
私は大正三年の春先生に松山で御目にかゝり、四年の十二月に夏目先生に紹介していただいたもので御座います。先生の御蔭で夏日先生に御目にかゝる事が出來て大變悅んて居りました處、夏日先生は死なれまして又寂寞を感ずる樣になりました。遠慮であつたのと御邪魔してはならぬと云ふ考へから度々は參りませんでしたが、比較的に親しく御話を承り少しは串戯(じょうだん)も申しましたが、死なれて急に何となく物足らない樣な心地になり、東京に居つてもつまらない樣な心になりました。
それと同時に、今迄運命とか云ふ樣な事は全く考へた事もなかつたのですが少しは運命と云ふ事を考へる樣になりました。私が松山へ行つたのは數年前「坊ちやん」を讀んだ事がありましたため、その跡を尋ねに松山へ行きたいと云ふ心が自然にその年の春浮んで來たのです。同時に先生が御郷里の松山へ歸つて御出てだとは思ひもそめなかつた事であります。
それに夏目先生の下宿の跡を尋ねて廻つて居つた時先年に御目にかかるを得たのは如何に考へても不思議な運命だと思はれます。それのみならず紹介していただいて一ヶ年の後夏目先生が死なれたと云ふ事が又奇しく思はれます。昨年十二月九日に死なれるのが天命であつたとすれば、御生前に御日にかゝるために松山へ行きたいと云ふ心が三年の春に浮んだのであるかも知れぬと思ひます。考へれば如何にも妙です。
どんな力が働いてこんな事が出來るのか一寸知れませぬ。しかし何はともあれ先生に紹介していただいた事は常に深く感謝して居ります。この冬休暇に歸つて獵をして居るうち今日山鳥が一羽とれましたから御禮の印に御送り致します。ツグミではないから安心して食つて下さいませ。
一月十日 義雄
高濱先生
私から言つても丁度松山に歸つてゐて、然も以前漱石氏の寓居であつた所に行つてゐた時に、渡邊君が漱石氏の寓居の跡を訪ねて來たといふことは奇緣といはねばならぬ。山鳥は早速調理して食つた。旨かつた。ツグミ云々とあるのは漱石氏が胃潰瘍を再發して死を早めたのはツグミの燒鳥を食つた爲めだとかいふ話があつたのによるのであらう。
[出典] 『漱石氏と私』高浜虚子、大正七年、書店アルス
