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谷崎潤一郎の『卍』をどう読むか35 楽園の甘き木の実を何かせん

  版違いの問題に関しては作品ごとに考えて行く必要があるだろう。とは言え、それを言い出せばまた宮沢賢治の「ヒドリノトキハ」とか「プラトン的ソクラテス」の問題を論じなくてはならない。

 とにもかくにも作者が存命中の決定稿に基づく最終版を完成された作品として見做さなければ、あちこちの版から任意に好きなところが切り取られてフォーカスされるという、少々乱暴な解釈の可能性も出て來る。「本来はこうだった」という主張は可能かもしれないが、それはやはりほどほどにすべきことなのだろう。

 ……そうかて死んでしもた人恨んだとこで仕方あれしませんし、今でも光子さんのこと考えたら「憎い」「口惜しい」思うより恋しいて恋しいて、……ああ、どうぞ、どうぞ、こない泣いたりしまして堪忍して下さい。……

(谷崎潤一郎『卍』)

 これが作者の望んだ結びなら、やはり谷崎は光子の園子への思いを曖昧にし、なおかつ柿内孝太郎の怪しさを抑えることにしたようだ。なぜなら『改造』版の『卍』には光子が死に際に詠んだこのような歌が添えられ、「綿のやうなもん相手にしたかて×××××××××××××」という伏字があったという。

知るや君地獄の国の園にこそ
神もうらやむ木の実ありとは
楽園の甘き木の実を何かせん
世の常ならぬ恋をする身に

三つの『卍』 : 発禁・検閲を中心にして 塚田 高史 同志社大学国文学会 

 この歌の意はさしていじくる必要もなかろう。光子は死ぬ間際に園子こそが本命であり、園子を睡眠薬で眠らせ、その間に柿内孝太郎とセックスをするようなことはしていなかったと白状してしまったかのようである。ここもさらに疑えば本当に切りがない。ただし作者はこれでは分かりやすすぎると考えたのだろう。それに園子に言い訳も与えたかった。この歌を残すと、

ひょッとしたら、生き残ったん偶然やないかも分れへん、死ぬまで二人に欺されてたのんやないやろかいう気イしましたら、あの手紙の束預けなさったことにしたかて疑がわしいになって来て、折角死んでも彼あの世で邪魔にしられるのんやないかと、ああ、……先生、

(谷崎潤一郎『卍』)

 ここが「疑いすぎ」になってしまう。光子の園子への思いが真摯であり、二人で地獄の園へ行く覚悟をしていたとしたら、結果として園子が生き残ってしまったのは光子の考えではなく、柿内孝太郎のしわざではないかという疑惑が湧いてくる。そういう女々しい柿内孝太郎には敢えてしなかったのは、やはり英語の避妊法の本であったり、一ヶ月以上もの間醜聞が新聞連載され続けるという仕掛けから考えて、柿内孝太郎犯人説には無理があると考えたからだろう。

 結果として『卍』において綿貫栄次郎と柿内孝太郎は添え物になり、二人のいかがわしい女の騙し合いに巻き込まれる役割を与えられることになった。やはり園子を生き残らせたのが柿内孝太郎では駄目なのだ。光子観音を完成させるのは園子の役目だ。「知るや君地獄の国の園にこそ」の「園」は園子の「園」にかかっているだろう。

 そもそもこれは女二人が大股を開き絡み着く絵面だ。そう思えばこそ卍が吉祥なのも理解できる。

※何だこの記事、「東京リベンジャーズ」の話じゃないのかと怒っている人も存在するのかな?

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