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『三四郎』をどう読むか4725  紳士X氏の生活と意見

 長生きはしてみるものである。

 昨日気がつかなかったことに今日気がつく。

 そんな日々が続いていく。

 里見美禰子の結婚が見合い結婚ではなく恋愛結婚なのではないかと気がついたのは昨日のこと。そこから色んなものが見えて来た。

 そしてやはり三四郎が演芸会で見た「男」は里見恭助の可能性は低く、里見恭助から切符を譲り受けたか、あるいは佐々木与次郎を呼びつけて切符を買うかしたX氏、つまり里見美禰子の結婚相手である可能性が高いように思えて来た。佐々木与次郎の言に「野々宮兄妹と里見兄妹には上等の切符を買わせた」とあるので里見恭助は佐々木与次郎から切符を二枚売りつけられた筈なのに、野々宮よし子は「(里見恭助は)御用があるんですって」と野々宮宗八の美禰子に対するエスコートを要求している。

 里見恭助にはその直後変な噂が聞こえて来た。妹から三十円借りたと聞いていた「小川三四郎」という男の名前が新聞に載っている。広田先生を担いでだいぶ活動しているらしい。「偉大なる暗闇」などという論文を小雑誌に草せしめたのは広田先生の指図とは思えない。野々宮よし子に聞いてみるとどうも小川三四郎という学生は美禰子に気があるらしい。これは早めに手を打った方がいいと考えもしたのではなかろうか。

「美禰子さんがね、兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行ってちょうだいって」
「里見さんといっしょに行ったらよかろう」
「御用があるんですって」
「お前も行くのか」
「むろんだわ」

(夏目漱石『三四郎』)

 この会話の裏で野々宮よし子には縁談の話が来ていて、両親も異存はないと返事をしている。

 さてX氏、つまり里見美禰子の結婚相手、班目勝昭はどう考えていることやら。

「つまり僕の写真と身上書が野々宮に渡ってるんですね」
「そりゃそうでしょう」
「だが、姉さん、僕はどうしても嫁を貰わなければならないのかね。僕はこんな青白いのっぽじゃなくて、色黒で反っ歯なのがいいなあ」
 嫂の方では呆れてしまう。
「妙なのね、そんなに厭がるのは。――厭なんじゃないって、口では仰しゃるけれども、貰わなければ、厭なのと同しじゃありませんか。それじゃ誰か好きなのがあるんでしょう。その方の名を仰しゃい」
 班目勝昭は今まで嫁の候補者としては、ただの一人も好いた女を頭の中に指名していた覚がなかった。が、今こう云われた時、どう云う訳か、不意に美禰子という名が心に浮かんだ。――けれども班目勝昭はただ苦笑して嫂の前に坐っていた。

 なんて具合に班目勝昭……別に班目勝昭でなくてもいいのだが、X氏、つまり里見美禰子の結婚相手にしてみても、縁談を勝手に勧める家族からの刺激はあったに違いない。そして残酷なようだが、班目家にとって確かに野々宮よし子は相応しい相手とも思えない。班目勝昭の父は銀行頭取で、班目勝昭は既に取締役に名を連ねている。班目家としては是非浅黒く健康的なアグネス・ラムのような嫁が欲しい。顔なんてついていればいい。健康が第一。

 班目勝昭は黙って美禰子の様子を窺った。美禰子は始めから、眼を伏せていた。勝昭にはその長い睫毛の顫える様が能く見えた。
「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴方に話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです」
 勝昭の言葉には、普通の愛人の用いる様な甘い文彩を含んでいなかった。彼の調子はその言葉と共に簡単で素朴であった。寧ろ厳粛の域に逼っていた。但、それだけの事を語る為に、急用として、わざわざ美禰子を呼んだ所が、玩具の詩歌に類していた。けれども、美禰子は固より、こう云う意味での俗を離れた急用を理解し得る女であった。その上世間の小説に出て来る青春時代の修辞には、多くの興味を持っていなかった。勝昭の言葉は、美禰子の官能に華やかなものを与えたのは、事実であった。美禰子がそれに渇いていたのも事実であった。勝昭の言葉は官能を通り越して、すぐ美禰子の下半身に達した。
「僕はそれを貴方に承知して貰いたいのです。承知して下さい」
「えー、マジ? ちょーラッキー」三千代は大爆笑した。「いまから、する?」

 いやいやいや、いくらなんでも「いまから、する?」はないだろう。しかしお古の写真と身上書が野々宮家から仲人に戻されるや否や里見家に渡ったと考えるのはさすがにいかにも不自然である。班目勝昭には班目勝昭なりの自己の存在と解剖がある。確かに班目勝昭は明確に愛を言語化しないまでも里見美禰子のことを昔から知っていて、理科大学の野々宮と交際しているらしき噂を耳にもし、そのことをけして快くは思っていなかった。その心理を解剖すると存在に必要というロジックがどこからか湧いてきた。

 ……芥川龍之介の性体験は、男同士で片方が腰の上に乗り互いに勃起しないochiopokoをこすりつけるという独特の行為であったがために、後に勃起したochiopokoもこすり合わせる向かい合わせの姿勢の行為が続いた。
 そんな文学とは無関係な性癖の話を喜ぶ人がいる。むしろそこにしか興味のない人がいる。
 しかし班目勝昭の告白の方が面白くないかな?

「この間の事を野々宮君に話したんですか」
 美禰子は低い声で、
「いいえ」と答えた。
「じゃ、未だ知らないんですか」と班目勝昭は聞き返した。
「だってあの方はずっと高い所にいて、大きな事を考えていらっしゃるんだから」美禰子は答えた。
「大学の小川君というのは……」
「あれは広田先生によるとochiopokoが三島由紀夫より小さいんですって」
「ならどうでもいいか……」

 確かに小川三四郎のochiopokoを見たのは汽車の女と広田だけである。だとしてもochiopokoが小さいとはけして言ってはならないことである。それを美禰子に話すとは……。それだから広田は大学教授になれないのである。


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