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谷崎潤一郎の『獨探』を読む あるいは谷崎潤一郎は沼正三とどこが違うのか?

 この『獨探』はGというオーストリア人との交際を巡るよもやま話である。どこまでが事実なのかは不明ながら、どこかに実際の話、実際の感覚が
紛れ込んでいると見てよいだろう。
 例えば、

此の國の貴族として生きるよりは、まだしも彼の國で奴隷として育つ方がどのくらゐ幸福であらう。(谷崎潤一郎『獨探』)

 こんなことを書いてみる。無論これは彼の國で金髪白人女性の家畜になりたいという沼正三の願望には届かない。しかしそれに近いような、感情の目覚めはあったような気配がある。

或る時私はふと氣がつくと、十人ばかりの若々しい、金髪碧眼の白晢な婦人の一團に包圍されて、自分がまんなかにぼつりと一人立つて居るのを發見した。私の神經は何故か不思議な戰きを覺えた。むつくりと健康らしい筋肉の張り切つた、ゆたかに淨らかな乳房のあたりへぴつたり纒はつて居る派手な羅衣の夏服の下から、貴く美しい婦人たちの胸の喘ぎの迫るやうなのを聞いた時、私は遠い異境の花園に迷ひ入つて、刺戟の强い、奇しく怪しいExotic perfumeに魂が金色浸されて行くのを感じた。私は名狀しがたい、云はゞ命が吸ひ盡の死されかき消されてしまひさうな不安に襲はれて、あはてゝ婦人たちをかきのけながら包圍の外へ飛び出した。丁度一匹の野蠻な獸が人間に取り卷かれた時のやうな、又は無智な人間が神々に圍繞された時のやうな、恐ろしさと心細さが突然私を捕へたのであつた。(谷崎潤一郎『獨探』)

 ここでしっかり確認しておきたいのは谷崎が、金髪碧眼の白晢な婦人の一團を人間、自分を獣と見ているところである。あるいは金髪碧眼の白晢な婦人の一團を神、自分を無知な人間と見ているところである。それは英語ドイツ語の読み書きは上達してもオーラルコミュニケーションが上達しなかったところからくるコンプレックスの表れではあろうが、とにもかくにも西洋白人崇拝に一歩二歩近づいている。

 ところがこの後、露西亜人が経営する夜の店で、獣と人間が逆転する。

彼の女の後から、彼の女よりは美しくて若さうな二人の女が直ぐに續いてぞろぞろと闘入して來た。「ハヴ、ユウ、エニイ、ドリンク?」と一番背の高いのが威勢のいゝ聲で云つた。やがて彼等はてんでに洋酒の杯を捧げて、狹い室內の大きなソオフアに腰かけて居るわれわれ三人の膝を目がけて一齊に猿の如くに跳び上つた。彼等の一人はいきなり私を蓐の上へ乘り倒して、裸體の腕を私の首筋へ絡み着けたまゝ執拗に酒と色とを押し賣りす可く、肉感的な嬌態を演じて見せた。
「おいもう歸らうぢやないか。なんだ馬鹿々々しい。僕は不愉快金色でたまらなくなつた。」淺川が大きな聲で、夢中になつて戯れて居る私の樣子を苦々しさうに眺めて云つた。日本語を解せぬ女たちは怪訝な顏をして嘲るやうに淺川の姿を眺めた。野蠻な露骨な、僞るところなく羞づるところなき女たちの挑發的な攻擊を避けて、室の片隅に憤然として立ち竦んだ淺川の瞳の奧には、不思議な異國の情調に對して壓迫された恐怖の色が、充ち溢れて居た。柳橋や新橋邊の茶座敷に人形のやうな女を相手に遊び馴れて居る彼としては、尤もなことだと私は思つた。私は彼の狼狽した上品ぶつた態度の中に「獸」に對する「人間」のつまらなさを認めることが出來た。(谷崎潤一郎『獨探』)

 まさに『陰翳礼讃』ということか。ここでは淺川がつまらない人間、肉感的な嬌態を演じる西洋の女たちが獣たちになっている。ところがここにはまださりげなく「夢中になつて戯れて居る私」が挟み込まれている。単なる日本人と西洋人の構図にはなっていない。しかしそんな「私」もこの店にGを連れて行くと「ユウロピアン!」と大歓迎されるのを見て、茫然と傍観者の立場に立たされた。そのGはこう言う。

私が獨逸は嫌ひだと云ふと、彼は忽ち流暢な英語を使ひ出して、露西亞や佛蘭西や英吉利の惡口をつゞけさまにまくし立てた。露西亞人は野蠻で無學で不道徳で、佛蘭西人は贅澤で惰弱で意氣地なしで、英吉利人は慾張りで嘘つきで全くの商人根性である。兵力は勿論、文學でも美術でも工業でも、獨逸に及ぶものはない。英吉利の手先に使はれて居る日本なんか、今に馬鹿を見るだらうと罵しつたりした。私は彼のやうな如才ない、狡猾な人間の心の底にも、やつぱり一片の愛國心が潜んで居ることを發見した。「ドイツは勿論、イギリスでもフランスでもロシアでも、眞實日本を尊敬し、愛慕して居る國は歐羅巴に一つもない。腹の中では誰でも日本を嘲笑し卑しんで居る。と云ふやうな意味をG氏は語つた。私は其の晩のG氏が比較的正直に見えただけ、彼の言葉を眞面目に受け取らずには居られなかつた。「日本人は歐羅巴探人に相手にされない。自分と『西洋』との間には到底永久に超えることの出來ない、高い厚い牆壁があるのだ」-さう思ふと私は再び遣る瀨ない寂しさを覺えるのであつた。(谷崎潤一郎『獨探』)

 沼正三ならばここで劣等民族、いや家畜人としてのよろこびに身悶えするところだが「私」はそうはならない。遣る瀨ない寂しさを覺えるのである。これでは到底マゾヒストにはなれない。あるいは、淋しさを覚えるだけでは人種差別を乗り越えることはできない。「私」はその程度に普通の良識人なのだ。

「はあさうですか、いろいろの知識を覺えましたか。」と云つてG氏は感服したやうにうなづいて見せる。「えゝ、大變利益を受けました。教育館はわれわれ學生の爲めによい所です。」問答は此れで終つた。問答は此れで終つた。たつた此れきりの問答であるが、私は其の女學生の憶面もない、づうづうしい態度と、尤もらしく知ら知らしい言葉つきにひどく呆れ返つた。馬鹿なのか眞面目なのか擦れ枯らしなのか分らぬけれど、いづれにしても妙齡の女が電車の中で見知らぬ男から話し掛けられて、顏も赧らめずにこんな會話を交はせるものではないのである。(谷崎潤一郎『獨探』)

 今、電車の中で西洋人に話しかけられ、普通に応対する女学生に対して、馬鹿なのか眞面目なのか擦れ枯らしなのか分らぬけれどなどと感じる感覚そのものが解り難くなっているのではあるまいか。当時は電車の中で男女が話すことさえ憚られる時代であった。谷崎はまだまた沼正三には辿り着かない。


晦澁 不明瞭、難解、困難
圍繞 右回りに回りを巡って敬礼すること。 転じて、法会において、衆僧が尊像の周囲を回って行道すること。
Contempt 軽蔑
原色版 黄・シアン・マゼンタの三原色インキ、またはこれに墨を加えて、原画と同じ色彩を出す網目凸版印刷。 また、その印刷物。
コロタイプ

磅礴 ほうはく 混じり合って一つになること。  広がり満ちること。 満ちふさがること。
退嬰的 たいえいてき 何かにつけてしりごみするようなさま。 新しいことなどになかなか手を出したがらないさま。
澎湃 水がみなぎって逆巻くさま。転じて、盛んな勢いで盛り上がるさま。
豪宕 気性が雄大で、小事にこだわらず思うままにすること。
汪洋 水が豊かで、水面が広々としているさま。
瑰麗 すぐれて美しいさま。あまり例がないほど、きれいなさま。
係累 面倒を見なければならない家族たち。
桎梏 手かせ足かせ。自由を束縛するもの。
HerrTanizaki … 彼は有名な小説家だ。
八反の座布団

権兵衛

Bureau ビューロー 別宅、事務室的なニュアンスか
有福 ゆうふく
洋妾 らしゃめん 羅紗緬 綿羊のことで、日本においてもっぱら外国人を相手に取っていた遊女、あるいは外国人の妾となった女性のことを指す蔑称。
西伯利亞鐵道の三等へ乗れば、伯林まで六七十圓で行かれます。 …地続きなんだよな。
維納 ウインナ
トレビゾンド地方

La France est Paris.   フランスといえばパリ。フランスはパリで持つ?
優長 ゆうちょう 悠長
日本は不景気ですから …ロシア戦争の戦費捻出、その後の債権の支払い等により、日本は不景気だった。米騒動は大正七年。
Moderately 適度に
愛蘭自治問題
ホーフマンスタール

ヨセフ・カインツ

Shrugging shoulders    首を縮め, 肩をすくめるポーズ 
正金銀行

liebenswürdig  愛らしい
c/o   〜様方
declares    宣言する
青島攻撃

retreat  退却
傲岸 いばっていて人に頭をさげないこと。
舒景文  じょけいぶん おそらく風景を描写した文。

ガリシア

錦輝館

文殻 読み終えて、もう不要になった手紙。
環視 ぐるりをとりまいて、まわりで見ること。
切り口上 一語ずつ区切るように、はっきりという言い方。 改まって堅苦しい調子の言葉つきなどにいう。 切声(きりごえ)。
六区の白首 下等な売春婦。しらくび。
小さんの「らくだ」


變梃 へんてこ






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