『三四郎』の謎について50 何故羊は二匹なのか?
さて、困ったことになりました。
どうも丁寧に読んでいくと、菊人形を見に行く直前に里見美禰子が野々宮宗八を諦めたように読めますし、そうすると迷子になった途端に里見美禰子が小川三四郎に惚れる訳もないし、小川三四郎が里見美禰子に落とされたかのように見えていた場面が、なんだか小川三四郎が横恋慕で空回りしているかのように見えてきました。
そうすると小川三四郎の主人公たる立場も怪しく思えてきました。
要するに失恋のショックで疲れていた里見美禰子につきまとって、たまたま、手を握られてのぼせ上って講義にも身が入らなくなる馬鹿学生に見えてきました。
無論里見美禰子に誤解させる要素はありましたよ。菊人形に三四郎を誘う葉書を出したのも里見美禰子ですし、その後デビルの絵葉書を出したのも里見美禰子です。
下宿へ帰って、湯にはいって、いい心持ちになって上がってみると、机の上に絵はがきがある。小川をかいて、草をもじゃもじゃはやして、その縁に羊を二匹寝かして、その向こう側に大きな男がステッキを持って立っているところを写したものである。男の顔がはなはだ獰猛にできている。まったく西洋の絵にある悪魔デビルを模したもので、念のため、わきにちゃんとデビルと仮名が振ってある。表は三四郎の宛名の下に、迷える子と小さく書いたばかりである。三四郎は迷える子の何者かをすぐ悟った。のみならず、はがきの裏に、迷える子を二匹書いて、その一匹をあんに自分に見立ててくれたのをはなはだうれしく思った。迷える子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとよりはいっていたのである。それが美禰子のおもわくであったとみえる。美禰子の使った stray sheep の意味がこれでようやくはっきりした。(夏目漱石『三四郎』)
ここなんですよね。羊が二匹、一匹が小川三四郎だという解釈は寧ろ自然なんです。これが漱石のミスディレクションなのかどうかです。何でもミスディレクションにしてしまうと、話があべこべになりかねないので、ここは慎重に考えたいところです。
何故羊は二匹ということですよね。
これは聖書を少しでも齧っている人なら寧ろ必ず引っかかる「引っかかりどころ」であり、夏目漱石はわざと羊を二匹にしたなと思うところです。
あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。(ルカ伝、15-4)
これ、
Which of you men, if you had one hundred sheep, and lost one of them, wouldn't leave the ninety-nine in the wilderness, and go after the one that was lost, until he found it?
そうlostなんです。一匹です。マタイ伝でも
What do you think? If a man has one hundred sheep, and one of them goes astray, doesn't he leave the ninety-nine, go to the mountains, and seek that which has gone astray?
gone astrayです。一匹です。
漱石が翻訳していたとされるこの小説の中でも、
And consider, sir, on my behalf, what is in the power of a woman stript of her reputation and left destitute; whether the good-natured world will suffer such a stray sheep to return to the road of virtue, even if she was never so desirous.
a stray sheepなんです。一匹です。つまり、そんなに都合よく二匹の羊とデビルが描かれた絵ハガキなんか売っている筈がないんです。
つまり漱石は敢えて羊を二匹にしたわけです。では美禰子はどうかというと、「あなたはまだこのあいだの絵はがきの返事をくださらないのね」とやはり意味深なことを云いだしますから、困ったものです。この場面、
「だって、まさか運動会の計測係りになって得意になるようなかたでもないでしょう」
三四郎はまた話頭を転じた。
「さっきあなたの所へ来て何か話していましたね」
「会場で?」
「ええ、運動会の柵の所で」と言ったが、三四郎はこの問を急に撤回したくなった。女は「ええ」と言ったまま男の顔をじっと見ている。少し下唇をそらして笑いかけている。三四郎はたまらなくなった。何か言ってまぎらそうとした時に、女は口を開いた。
「あなたはまだこのあいだの絵はがきの返事をくださらないのね」
三四郎はまごつきながら「あげます」と答えた。女はくれともなんとも言わない。(夏目漱石『三四郎』)
この場面「あなたは」の「は」ですが、一方で野々宮宗八とは話をしていました、「あなたは」と二人を対比する「は」に見えませんか。少なくとも里見美禰子は野々宮宗八との話から転じて小川三四郎に話を振り向けていますね。
それにしたって、どうですか。二匹の羊とデビルの絵に何と返しますか?
三四郎は二匹の羊を自分と美禰子だと見做しましたが、ここにきて美禰子がデビルで、三四郎と野々宮宗八が羊に思えて来たんですが気のせいでしょうか。
羊が一匹ならなんということもなかったんです。二匹だからややこしいわけです。三四郎は絵ハガキが嬉しくて仕方ありません。
与次郎に約束した「偉大なる暗闇」を読もうと思うが、ちょっと読む気にならない。しきりに絵はがきをながめて考えた。イソップにもないような滑稽趣味がある。無邪気にもみえる。洒落でもある。そうしてすべての下に、三四郎の心を動かすあるものがある。
手ぎわからいっても敬服の至りである。諸事明瞭にでき上がっている。よし子のかいた柿の木の比ではない。――と三四郎には思われた。(夏目漱石『三四郎』)
たまたま手を握らせたところまでは美禰子は無意識だったとして、やはりこの絵ハガキを描き、返事を求めるくだりは、到底無意識とは言えませんし、美禰子があえてlostではなく strayと言い、羊を二匹描いたのなら、全部三四郎の勘違いで横恋慕とは言えませんね。
やはりどういう意味でか美禰子は三四郎を誘っていますよね。羊を二匹にして三四郎を巻き込んでいます。そのどういう意味でかの、意味というところがやはり謎ではあります。無邪気……ではないように思えます。少なくとも漱石は羊にlostではなくstrayとして「決めかねている」という意味をあえて選んでいますね。三四郎はこの場面でついつい美禰子の絵とよし子の絵を比較して決めちゃっているみたいなんですが。
何故羊が二匹なのか、羊を二匹にしたところが美禰子の愆、行き過ぎたふるまいなのではないでしょうか。
[付記]
読み飛ばしていました。この絵ハガキってどうもお手製なんですね。そりゃ都合よく二匹の羊の絵葉書なんて売っていませんからね。だから三四郎も返事を手書きで書こうとしたわけなんですね。今では絵はがきと言うと、印刷されたものにちょいちょいとメッセージを足して出すものと言うイメージもありますが、昔は絵の具のまま出しても良かったんでしょうね。他の郵便物が汚れそうです。
Every single one of us should be at least as lean as these guys throughout the year. There is no good reason to go above 15% body fat. pic.twitter.com/mcO675bRhz
— Masaki (@MasakiJinzaburo) September 3, 2022
【衝撃の事実】
— 数学探究所<数学サイト> (@sugakutankyujo) September 3, 2022
わずか23人の集団において,「誕生日が同じ2人組が存在する確率」は50%を上回る。 pic.twitter.com/45pUJsTdoj
あ、23人だ。
bad cat, germany, 15th century pic.twitter.com/hEAVOTjMtR
— weird medieval guys (@WeirdMedieval) September 3, 2022
これも有名な話ですが、『構造と力』の帯には、おそらく浅田彰氏の当時の現住所が記載されていて、「はげまし又は批判のお便り」が募集されています。 pic.twitter.com/opTthWatjs
— 小林卓也@ソトのガクエン (@dehors_org) September 3, 2022
「羊のやうな二つ角のある人間」生まれたときから頭の前後に二つの角があるという中国人(72)と契約した写真師が彼を下関へ連れ帰り、大阪を皮切りに巡回興行するという記事が昭和5年7月15日付『豊州新報』朝刊に出ていた。恐らくあのおじいさんだろう。 pic.twitter.com/dHkAMWZTjH
— 松崎貴之 (@gelcyz) September 3, 2022
