見出し画像

『行人』を読む 12 対について

 夏目漱石作品ではあれとこれとが「対」になる事が少なくありません。それを対句と呼ぶか対照法と呼ぶのかはある意味どうでもいいのですが、兎に角「対」があります。

 『行人』の構成で言えば、Hさんの長すぎる手紙は、二郎が殆ど報告をしないことと「対」を為します。つまり『行人』は「塵労」がバランスを欠いて長いのではなく、「対」なので長いのです。内容的にも最初は一郎が二郎に頼んで直の観察を求めたのに対して、今度は二郎がHさんに頼んで一郎の観察を求めるので「対」ですね。

 小宮豊隆、江藤淳、柄谷行人はそんなことは書いていないと思います。だから出鱈目ということにはならないと思います。自分の目で確かめてください。彼らの見落としは山のようにありますよ。

 梅田と番町も「対」ですね。昔からの高級住宅地と新興住宅地。お重と直の性格は火と水。三勝半七とパオロとフランチェスカ、梅と鶯も「対」ですね。この「対」というものが見えないと『行人』のあらすじはつかめないと思います。

 三沢が話す精神病の娘さんは二郎の連想の中で直と結びつけられて「対」になります。この精神病の娘さんのふるまいから一郎は「精神病正直説」を導き、やはり精神病の娘さんと直を「対」にしてしまいます。

 無頼漢と人格者、子供のいる直と子供のいないお兼、勿論夫婦仲の良い岡田夫婦と夫婦仲の良くない長野夫婦も「対」ですね。景清と盲目の女の話も「対」。病院の「あの女」と美しい看護婦も「対」。「その時呑み込んだ麺麭の一片が、いかにも水気がないように、ぱさぱさと感ぜられた」「兄さんはそういうや否や、茶碗を取り上げて、むしゃむしゃてこ盛の飯を平げました」も「対」でしょう。

 「対」には明示的なものもありますがそうではないものもあります。例えば一郎と二郎の性格は対照的です。しかし、体格はどうでしょう?

 これは明確には書かれていませんが、夏目漱石の体格と性格に対する考え方というか、一種の癖のようなものを見て行くと一郎は案外小柄なのではないかと思えてきます。

 『行人』には他にも明示的ではない「対」がいくつもあります。その「対」になっているところが見つからなければ『行人』のあらすじはわからないでしょう。


[余談]

 スーパーのレジで前の人がお弁当を買ったのか「お箸は何膳つけますか?」と訊かれていた。

 その人は

「二膳ぐらい

 ……と答えた。

 いや、一膳なら一膳、二膳なら二膳とはっきり言えばいいのに「ぐらい」って何の遠慮だろうと思った。

 この曖昧さは「~の方」「~になります」と同じ、「言い切らないやらわか言葉」なのだろうか。

こちらお箸の方二膳ぐらいになります

 うーん。なんかあれだな。

 あれだ。














いいなと思ったら応援しよう!