見出し画像

小森陽一の『漱石を読みなおす』をどう読むか② 柄谷よりはまし

割引あり

銀行の利子ではなく債権の配当?


 親から相続した不動産資産を売却し、金銭に変換して銀行に預けると、それが相当な額であれば、預金から生み出される「利子」で「十分以上」の「生活」をすることが可能になるわけです。先生がこういう状態で東京に出てくるのは、下宿する先の「奥さん」が日清戦争未亡人であることから判断すると、日清戦争後だということがわかります。

(小森陽一『漱石を読みなおす』岩波書店 2016年)

 これは作品そのものをよく読めているかという話ではなく、時代背景なり風俗なりが正確に捉えられているかという話になりますが、当時の銀行の利子だけで生活ができるものなのでしょうか。「明治、利子」で検索するとこんな情報が出てきます。

 しかしこれはちょっと訳あり商品なので、

日本銀行百年史

 ざっくり預金金利5パーセントで考えてみたいと思います。当時の大学生で余裕のある生活費として考えると250万円もあればいいでしょうか。金利5パーセントということは100万円の預金で利子が5万円。1000万円で50万円。つまり5000万円も預金があれば250万円の利子という計算になります。一億円も貯金があれば余裕ですね。

 これが現在では100万円の預金で利子が2000円から3000円程度なので、5000万円預金しても利子は10万円から15万円。え? すくない? つまり5億円で100万円から150万円?
 まあ5億円の銀行預金というのは現実的な話ではありませんね。

 ただ金利が金利5パーセントということはその分物価も上がりますから、果たしてこの計算が成り立つかどうかはわかりません。私は漱石が「利子」という表現に丸めた中身に公債などの配当も入っていたと考えています。

 その後の先生の生活を考えても、奥さんの家を売却した資金で新しい家を建てたとして、その後も働かないで安定して生活が出来て自家製のアイスクリームまで出てくるわけですから銀行の金利だけというわけにはいかないと思います。これは金利と世の中の仕組みを考えるとそうなります。

 銀行預金が間違いないというのはどの時代でも素朴な嘘ですからね。銀行預金では財産は目減りしていくように経済の仕組みは出来ています。


回想には気がついている


 他者としての女は排除されているのですが、『坑夫』では主人公である語り手自身が、回想をしている現在の自分と、回想をされている過去の自分との間に他者性を感じています。

(小森陽一『漱石を読みなおす』岩波書店 2016年)

 これから少し難しい話をします。

 まず小森陽一は柄谷行人とは違って『坑夫』が回想の形式であるという事実には気がついていた、というところまではいいですよね。

 しかし言っていることは正確ですか。

 まず「回想をしている現在の自分」というのは「主人公である語り手自身」であり、そこに乖離は生じませんよね。現在から過去を照射することのみが可能なのであった、語り手は常に語られる自分に対して未来にいるわけです。

 しかしこれはあとから考えた心理状態の解剖である。その当時はただ暗い所へ出ればいい。何でも暗い所へ行かなければならないと、ひたすら暗い所を目的に歩き出したばかりである。今考えると馬鹿馬鹿しいが、ある場合になると吾々は死を目的にして進むのを責めてもの慰藉と心得るようになって来る。ただし目指す死は必ず遠方になければならないと云う事も事実だろうと思う。少くとも自分はそう考える。あまり近過ぎると慰藉になりかねるのは死と云う因果である。

(夏目漱石『坑夫』)

 基本全部「あとから考えた心理状態の解剖」なのです。この作品では直前のことが解剖されたり、語り手の現在(台湾沖で遭難した後)から解剖されたりとしてなかなか複雑なのですが、とくに際どいのは「のっぺりとした過去の記憶の再生」ではなく、刻々と信仰する時間の中で常に自分の心理状態の解剖が続けられていた過去の一時期の回想なので、小森が言うように何か「他者性」といいたくなるようなものが感じられてしまうということです。

 これは自分で試してみればいいのですが実際には『坑夫』のような回想というのは無理なのです。

 過去というのはふつうのっぺりとした一塊になっていて、刻々と進行したりはしないものなんですよね。『坑夫』だけが特別に嘘というわけではなくて、大抵の小説がそういう現実にはあり得ない記憶のかたちを表現しているわけです。普通は忘れていることを覚えているように書いてしまう。これが回想です。そこで色んな自意識が独立しているように見えるので、小森は「他者性」と書いていますが、語り手というのはどうしても他者になれないんですよ。自者なので。

 つまり「あとから考えた心理状態の解剖」によって直前の自分も解剖の対象になるので、解剖した自分もすぐに解剖されかねないという自意識の怪しさというものが「ばらばらな魂がふらふら不規則に活動する」ように見えるとして、そう見ている自分は自分ですからね。意識は外に出てゆけないということです。

 しかしまあ言語化することが難しい方法論が使われているということです。

 漱石の意識の中では枠小説にしてしまってはつまらないな、というところがまずあったのではないかと思います。

 書き始めは明らかに回想であることを隠しています。

 柄谷はそれにすっかり騙されました。

 そしてそのことに気がつかないまま……

ここから先は

42字

Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?