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『行人』を読む 11  岡田は浮き駒

「お重また怒ったな。――佐野さんはね、この間云った通り金縁眼鏡をかけたお凸額さんだよ。それで好いじゃないか。何遍聞いたって同じ事だ」
「お凸額や眼鏡は写真で充分だわ。何も兄さんから聞かないだって妾知っててよ。眼があるじゃありませんか」
 彼女はまだ打ち解けそうな口の利き方をしなかった。自分は静かに端書と筆を机の上へ置いた。
「全体何を聞こうと云うのだい」
全体あなたは何を研究していらしったんです。佐野さんについて」
 お重という女は議論でもやり出すとまるで自分を同輩のように見る、癖だか、親しみだか、猛烈な気性だか、稚気だかがあった。
「佐野さんについてって……」と自分は聞いた。
「佐野さんの人となりについてです」
 自分は固よりお重を馬鹿にしていたが、こういう真面目な質問になると、腹の中でどっしりした何物も貯えていなかった。自分はすまして巻煙草を吹かし出した。お重は口惜しそうな顔をした。
だって余りじゃありませんか、お貞さんがあんなに心配しているのに
「だって岡田がたしかだって保証するんだから、好いじゃないか」
「兄さんは岡田さんをどのくらい信用していらっしゃるんです。岡田さんはたかが将棋の駒じゃありませんか」
顔は将棋の駒だって何だって……」
「顔じゃありません。心が浮いてるんです」
 自分は面倒と癇癪でお重を相手にするのが厭になった。(夏目漱石『行人』)

 『坊っちゃん』の「おれ」はきゃしゃで小作りの五分刈り、無論目鼻立ちをうんぬんされる機会を持ちません。『三四郎』にはやたらと坊主頭が出てきますが、三四郎の髪の長さは解りません。

 「自分」が語る『行人』でも二郎の容姿は云々されません。「岡田の髪の毛は想像した通り薄くなっていたが」「昨日廂に束ねてあったお兼さんの髪は、いつの間にか大きな丸髷に変っていた」「佐野は写真で見たよりも一層御凸額であった。けれども額の広いところへ、夏だから髪を短く刈っているので、ことにそう見えたのかも知れない」「その傍には洗髪を櫛巻きにした背の高い中年の女が立っていた」と自然自分に見えるものは語られています。

 兄は自分にはまるで無頓着に見えた。両手の指を、少し長くなった髪の間に、櫛の歯のように深く差し込んで下を向いていた。彼は大変色沢の好い髪の所有者であった。自分は彼の前を横切るたびに、その漆黒の髪とその間から見える関節の細い、華奢な指に眼を惹かれた。その指は平生から自分の眼には彼の神経質を代表するごとく優しくかつ骨張って映った。(夏目漱石『行人』)

 一郎はこのように描写されます。こう、気が付いてみて「あっ」と思いました。自分には自分が見えない、こんな当たり前のことにいまさら思いが至ったのです。

 つまり二郎は「好い奥さんになったね。あれなら僕が貰やよかった」というくらい人妻好きなのです。そうなると「全嫁=スポイル理論」がたちまち「嫁に行って後六年でいい女になったお兼さん」で反証されるというロジックが怪しくなります。なにしろ「嫁に行って後六年でいい女になったお兼さん」という事実を保証しているのは二郎だけなのです。ライバルのお重にしてみれば岡田は将棋の駒です。

※ちょっと細かい話をしますとお重は確かに岡田の顔を将棋の駒に例えた過去があったわけです。

 岡田は自分の妹のお重を大変口の悪い女だと思っている。それも彼がお重から、あなたの顔は将棋の駒見たいよと云われてからの事である。(夏目漱石『行人』)

 これが「友達」の七章。

 岡田はまたお重へ宛てたのに、「あなたの口の悪いところを聞けないのが残念だ」と細かく謹つつしんで書いたので、兄から「将棋の駒がまだ祟ってると見えるね」と笑われていた。(夏目漱石『行人』)

 これが「兄」の二章。「顔じゃありません。心が浮いてるんです」は女性らしく口げんかの強さ、言葉の器用さが現れたところではないでしょうか。つまりそもそも顔のことだったんですが捻った、ということでしょう。 

将棋の駒  歩歩が先立つ  なり出すと怖い 私とお前さんは将棋の駒でねひしやひしやあふてきよふまでも何のけいまもふあしらひ私しや女房のかくぢやもの金銀つかうて下さるなばんのうへなら王手さす  

 いえいえ、将棋の駒の例えはいろいろありますが、ここは「心が浮いてる」というところを拾っていい加減に片付けましょう。大体ですがこれは浮き駒、離れ駒の意味でしょう。よくよく考えてみれば岡田はお貞とは何の縁もなく、長野家を離れた赤の他人です。母の親戚と雖もお貞とは心が離れていると見做されても仕方ないでしょう。何の責任もありません。

 だからといってHさんの手紙を読んでいる二郎の中では「全嫁=スポイル理論」がたちまち「嫁に行って後六年でいい女になったお兼さん」で反証されるだろうという見込みには変化はないわけですが、二郎の見立てが正確なものではあると限らず、「全嫁=スポイル理論」が一郎の決めつけ、極端すぎる早すぎる一般化であるのと同じ意味で、

「旨く行くでしょうか」
「そりゃ行くだろうじゃありませんか。僕とお兼を見たって解るでしょう。結婚してからまだ一度も大喧嘩をした事なんかありゃしませんぜ」
「あなた方がたは特別だけれども……」
「なにどこの夫婦だって、大概似たものでさあ」
 岡田と自分はそれでこの話を切り上げた。(夏目漱石『行人』)

 ……この岡田の「どこの夫婦だって、大概似たもの理論」もまた自分一人の経験を宇宙の原理と見做す早すぎる一般化に過ぎません。こちらも結構適当なものです。

 つまり二郎は「何々」な「あるもの」になつていますよね。

 この「何々」な「あるもの」が肝ですよ。

 「何々」なの「何々」は本文に一度だけ登場しますね。このページにも一回使っておきました。


[余談]

 将棋の駒で調べていたら『不思議の国のアリス』でトランプが将棋と訳されていることが解った。

 しかもイラストはチェスになっている。これじゃあ、意味が……。いや、これでいいのか。元々訳の分からん話だ。











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