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『行人』を読む 8 やはり哲学小説だ

 ごそっとPVが減ったのはみなさん『行人』には興味がないということでしょうか。タイトルが控え目なせいですかね。

 しかしこのタイトル、実はかなり不遜なもので「あなたの読みと比べて下さい」「あなたの読みは間違っていてこちらが正解ですよ」「あなたが読んだ程度の事を書くつもりはありませんよ」くらいの気持ちで使っています。私が「読む」という時、その「読む」という言葉がどの程度のものを意味しているかというと、

 とか、

 くらいな感じですかね。

 例えば前半が切断キ〇ガイなので後半溶接キ〇ガイになるとか、テストは打撃系で本番は関節系とか、アエダヴァームはアナグラムにはならないけど「さかきばらせいと」は「せいとからさばき」のアナグラムになっているとか、「蝉の啼音」という言葉が二回使われていてバイブルとされる三島由紀夫の『金閣寺』由来だろうなとか、そういうことが立ち読み一回で書けてしまうわけです。

 例えば、

『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』は『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』という実在しないレコードに関するキレッキレの批評を二十歳の頃に音楽雑誌に掲載した「僕」がニューヨーク、イースト十四番地の中古レコード屋で『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』というレコードを見付けてしまい、35ドルという値段を見て、そのときは買わなかったが、後悔してもう一度中古レコード店を尋ね、店主からそんなレコードは存在しないと言われる話だ。(『『一人称単数』を読む・漱石と飛行機・あるいはみちょぱとゆきぽよの見分け方』村雨春陽)

 みたいなことをやはり立ち読み一回で書いてしまうわけです。私に取って「読む」ということはそういうことです。座り読みになると校正してしまいます。

 この「その他の短篇」というのは様々な形で再編集されたり、翻訳されたり、翻訳から翻訳されなおしたりということを複数の日本を代表する出版社の間で行ってきた作品群なので、仮にそこに「誤字」などが残っていたら大変なことですよね。そりゃ、私もタイプミスはしますけど、そういうことではないですからね。

 三島由紀夫全集には「コペルニスク」という誤字を見つけました。

 私が今やろうとしているのはトンデモ説を作り上げることではなくて、『行人』を人類史上初正確に読もうとする試みです。その試行錯誤の生の現場を公開しているわけです。

 ですからこんなタイトルも出てきます。「やはり哲学小説だ」って前回書いたことと矛盾するじゃないかって文句を言う人も存在しないので先に行きます。

 たとえばですね『坑夫』にはやたら哲学的な台詞や認識論、文学論まがいの言葉が出てきますね。

 その後いろいろ経験をして見たが、こんな矛盾は到る所に転がっている。けっして自分ばかりじゃあるまいと思う。近頃ではてんで性格なんてものはないものだと考えている。よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。読者もあの性格がこうだの、ああだのと分ったような事を云ってるが、ありゃ、みんな嘘をかいて楽しんだり、嘘を読んで嬉しがってるんだろう。本当の事を云うと性格なんて纏まったものはありゃしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるまい。本当の人間は妙に纏めにくいものだ。神さまでも手古ずるくらい纏まらない物体だ。しかし自分だけがどうあっても纏まらなく出来上ってるから、他人も自分同様締りのない人間に違ないと早合点をしているのかも知れない。それでは。失礼に当る。(夏目漱石『坑夫』)

 これはいかにも哲学的考察です。言葉は軽いですけどね。そして小説に書かれている人物が小説に言及していますね。自分は恰も小説の主人公にはなれないというようなことを言ってますよ。そしてなれない根拠はというと「本当の人間は妙に纏めにくいものだ」からであって、しかも、「しかし自分だけがどうあっても纏まらなく出来上ってるから、他人も自分同様締りのない人間に違ないと早合点をしているのかも知れない」となると、これ比類なき〈私〉と哲学的ゾンビみたいな話になっていませんか。これは哲学ですね。

「人間は普通の場合には世間の手前とか義理とかで、いくら云いたくっても云えない事がたくさんあるだろう」
「それはたくさんあります」
「けれどもそれが精神病になると――云うとすべての精神病を含めて云うようで、医者から笑われるかも知れないが、――しかし精神病になったら、大変気が楽になるだろうじゃないか」
「そう云う種類の患者もあるでしょう」
「ところでさ、もしその女がはたしてそういう種類の精神病患者だとすると、すべて世間並の責任はその女の頭の中から消えて無くなってしまうに違なかろう。消えて無くなれば、胸に浮かんだ事なら何でも構わず露骨に云えるだろう。そうすると、その女の三沢に云った言葉は、普通我々が口にする好い加減な挨拶よりも遥に誠の籠った純粋のものじゃなかろうか」
 自分は兄の解釈にひどく感服してしまった。「それは面白い」と思わず手を拍った。すると兄は案外不機嫌な顔をした。
面白いとか面白くないとか云う浮いた話じゃない。二郎、実際今の解釈が正確だと思うか」と問いつめるように聞いた。
「そうですね」
 自分は何となく躊躇しなければならなかった。
「噫々女も気狂いにして見なくっちゃ、本体はとうてい解らないのかな」
 兄はこう云って苦しい溜息を洩らした。(夏目漱石『行人』)

 これも哲学ですね。纏まり難い本当の人間、本体を理解しようとその方法を思考実験しています。責任の消えた精神病患者の告白にむしろ誠があるのではないかと考えています。

 前回哲学って何だか解らないとも書きました。色んなレベルで表現できると思うんですが、「香厳撃竹」は考えないことで反哲学とするなら、逆に哲学は「深く考えること」「対象の本質・存在・仕組みを見極めようとすること」だと仮に言ってみることもできるんじゃないでしょうか。四元素説などから言語ゲームまでみな深く考えていますよね。責任の消えた精神病患者の告白にむしろ誠があるのではないか、と言われて「それは面白い」と手を打つのが哲学です。無の感情で通り過ぎるのが反哲学です。

 三島由紀夫の『金閣寺』最終章で溝口はカルモチンと小刀を買い、死の用意をします。ついでに菓子パンと最中を買います。

 いずれ菓子パンは、私の犯罪を人々が無理にも理解しようと試みるとき、恰好な手がかりを提供するだろう。人々は言うだろう。
「あいつは腹が減っていたのだ。何と人間的なことだろう!」
 (三島由紀夫『金閣寺』)

 この菓子パンはいわば南泉斬猫と同じ公案です。私は『金閣寺』を読んだ、理解した、解説するという人にいつもこの菓子パンの事を質問したくなります。多くの人はこの菓子パンに触れてさえいません。この菓子パンが解らないで『金閣寺』を読んだとは言えないでしょう。無の感情で通り過ぎるのではなく、「それは面白い」と手を打てるかどうか、考えられるかどうかなんですが、どうですか?

 哲学者って洗濯機が振動しているのを見て機械の中でも生き物に近い、というようなことを考えたりします。(千葉雅也)

 哲学者って時計と心が似ていると考えたりします。

 これが面白いと思えるかどうかが考えるか考えないかの差で、二郎はどうも考えていますね。なかなか説明をしませんが、どうも考えています。

 それに対して直はどう出るかというと、

「だってそりゃ無理よ二郎さん。妾馬鹿で気がつかないから、みんなから冷淡と思われているかも知れないけれど、これで全くできるだけの事を兄さんに対してしている気なんですもの。――妾ゃ本当に腑抜なのよ。ことに近頃は魂の抜殻になっちまったんだから」
「そう気を腐らせないで、もう少し積極的にしたらどうです」
「積極的ってどうするの。御世辞を使うの。妾御世辞は大嫌いよ。兄さんも御嫌いよ」(夏目漱石『行人』)

 自分はゾンビだと言わんばかりです。矢張り考えています。

「だから先刻から云ってるじゃありませんか。私が冷淡に見えるのは、全く私が腑抜のせいだって」
「そう腑抜をことさらに振り舞わされちゃ困るね。誰も宅のものでそんな悪口を云うものは一人もないんですから」
「云わなくっても腑抜よ。よく知ってるわ、自分だって。けど、これでも時々は他から親切だって賞められる事もあってよ。そう馬鹿にしたものでもないわ」(夏目漱石『行人』)

 なるほど、一郎が絶対者であり独我論的立場に立つならば、どうしても直は哲学的ゾンビである可能性を否定できないのです。「塵労」だけ読むと解らないことが、何だか解ってきましたよ。

 兄さんは親しい私に対して疑念を持っている以上に、その家庭の誰彼を疑うたぐっているようでした。兄さんの眼には御父さんも御母さんも偽りの器なのです。細君はことにそう見えるらしいのです。兄さんはその細君の頭にこの間手を加えたと云いました。
「一度打っても落ちついている。二度打っても落ちついている。三度目には抵抗するだろうと思ったが、やっぱり逆らわない。僕が打てば打つほど向むこうはレデーらしくなる。そのために僕はますます無頼漢扱いにされなくてはすまなくなる。僕は自分の人格の堕落を証明するために、怒りを小羊の上に洩らすと同じ事だ。夫の怒りを利用して、自分の優越に誇ろうとする相手は残酷じゃないか。君、女は腕力に訴える男より遥かに残酷なものだよ。僕はなぜ女が僕に打たれた時、起って抵抗してくれなかったと思う。抵抗しないでも好いから、なぜ一言でも云い争ってくれなかったと思う」(夏目漱石『行人』)

 一郎の見立てに関わらず、直が偽りの器ではなく腑抜けなのだとしたら、比類なき〈私〉が哲学的ゾンビに手を上げ、哲学的ゾンビがゾンビのようにふるまうというなかなか凝った絵が見えてきます。

 仮に直が絶対者としての一郎の存在を見抜いていたとしたら、その比類のなさに応じて腑抜けとしてふるまい、哲学的ゾンビ如きを比類なき〈私〉に打擲させる直の方が一枚上手です。これは凄い反証です。

 直はロジックで絶対者を無頼漢(ごろつき)に堕とします。体を張った哲学です。「塵労」にフォーカスすると全然哲学小説ではないのですが、「ふり」の方が哲学ですね。

 永井均さんの面白いところは比類なき〈私〉なのに新刊が出ると、その本を哲学的ゾンビに読んで貰いたそうな雰囲気がツイッターに滲み出る感じです。金が欲しいわけではないと思うんですが、本は読まれたいんでしょうね。比類ないのに。

 この点、一郎は數すら通俗に括る漱石の分身なので、本当に絶対者なんだと思います。それを手玉に取るから、直は凄いです。

 

[余談]

 ところで菓子パンって、クリームパンですか? ジャムパンですか?

 最中と一緒に買ったらあんぱんではないですよね。

 そんなこと考えていなかった?

 昔はカスタードの最中なんかなかったんですよ。

 砂糖をまぶした揚げパンなんかが菓子パンです。カレーパンの起源ははっきりしません。焼きそばパンは戦後です。

 スパゲッティパンは……総菜パンですね。












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