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谷崎潤一郎の『誕生』『象』を読む あるいは皇室批判と日韓併合に対する違和感

 私は谷崎潤一郎という作家をあまり信用していない。何か真に受けてはいけないようなところがあるような気がしてならない。このことは好きとか嫌いなどといった話には還元されない。むしろ好きである。ただその眼付が信用がならないのである。

 1910年にわざわざ藤原道長に子が生まれたことを書いた『誕生』にどんな意味があるのか、1910年が明治四十三年であるとしたらどのような意味を持ちうるのか、それが大逆事件韓国併合の年に書かれたことと無関係でありうるのか、正直私にはまだ判断ができない。

 招人(よりまし・依巫)として現れる、暗内殿女御(藤原尊子)、承香殿女御(藤原元子)、藤原顕光、藤原道隆、源髙明らの悪霊は、くちぐちに呪詛の言葉を吐き出す。

 億兆の國民の膏血をすヽり、邪曲を扶け、正義を虐げ、天下に荊棘の苦を負はす驕慢の人の子。子を持てる親、兄を持つ弟、夫持てる妻に、猜疑と、嫉妬と、瞋恚の炎を焚きつくる驕慢の人の子の命を宿す女を咀はむ。(谷崎潤一郎『誕生』「谷崎潤一郎全集 第一巻所収」、中央公論社、昭和五十六年)

 さてこの種本とされる『栄花物語』には「國民」の文字はなく、「民」が一度現れるのみである。そもそも國民は比較的新しい言葉で、『栄花物語』には現れようもない言葉なのだ。確認してみよう。『栄花物語』に「人草」があらわれるのはわずかに一度。「諸人」も一度。「あをひとくさ」「おほみたから」「くにびと」「はくせい」「百姓」もなし。「世人」が四十一回現れるので、谷崎潤一郎が選び取るべき言葉は「國民」ではなく「世人」であることは明らかなのだ。逆に言えば『誕生』における「國民」とは「一般ピープル」程度にふざけた言い回しである。

 では「億兆の國民」とはいったい何のことか? 平安時代中期から日本の人口は減少期にあり、700~600万人とも、あるいはもっと少ないとも言われている。となれば畢竟「億兆の國民」とは累計、つまり今日に至るまで長年苦しめ続けられてきた民草の総体にほかならない。これは現政府をも批判するきわめて剣呑な主張だ。これではまるで中江兆民だ。
 悪霊の呪いとはいえ、「天下に荊棘の苦を負はす驕慢の人の子」「子を持てる親、兄を持つ弟、夫持てる妻に、猜疑と、嫉妬と、瞋恚の炎を焚きつくる驕慢の人の子の命を宿す女」とは如何にも剣呑な表現ではなかろうか。「驕慢の人の子」はすなわち藤原道長であり、道長にうらみのある悪霊が道長を呪っているだけなので詮ないことだとは片付けられまい。
 万世一系の血脈を呪い、天孫を人の子の命と再定義しているのだ。「天下の國母」を呪っているのだ。大逆事件の直ぐ後で。とても真面ではない。
 何故今更谷崎潤一郎はこんなことを書こうとしたのだろうか。1910年、明治四十三年に。神仏判然令から既に四十余年、菩提寺を棄てた明治天皇の御世に、何故悪霊の障りを僧侶陰陽師が防ぐ話を書こうとしたのか。私には解らない。

 一方『象』は享保十三年、1728年、幕府に献じられた象の話である。象は廣南國から鄭大成という人が船に乗せてきた。


 この廣南國がどこにあり、どの国の属国かという議論が隠居や若旦那、手代や若侍、職人、出家、幇間の間で落語のように弄ばれる。

町家の隠居 天竺と唐土の間にあるなら、きつと暹羅國の異名だらう。
町家の若旦那 いや、暹羅國とは違ひます。鄭大成と云ふ人名が唐人らしいから、どうしても唐土の属國だ。
町家の手代 所が天竺の属國だと云ふ話ですぜ。
旗本の若侍 其の方共の無学にも困つたものだ。伴れて來た人は福建の鄭大成だが、國は天竺の属國なのだ。
職人體の男一 はてね。また知らない國が出やしたが、福建てのは邦邊にあるのでございます。
旗本の若侍 左様さ。何でも唐土の近所だらう。
職人體の男二 すると唐土の属國でございますか。
旗本の若侍 其の邊はしかと判らん。
出家 福建と云ふのは、和唐内が征伐した高砂島の對岸にある唐土の領分ぢゃ。天竺の獣を唐人が伴れて來たのぢゃ。
幇間風の男 何だか謎々の文句のやうでげすな。(谷崎潤一郎『象』「谷崎潤一郎全集 第一巻所収」、中央公論社、昭和五十六年)

 廣南國は半独立国とされているが、独立国だと見做す向きもある。まさについ今しがた、テレビで聞いたような話ではないか。大国の前で、小国はいつもひれ伏さないといけないのか。今世界中の人たちが感じているまさにその感覚が、1910年の谷崎潤一郎にはあり得なかったと考えることの方がむしろ不自然ではないかと考える人はVIO脱毛でつるんつるんになることを不自然と感じるだろううか。日韓併合が八月、『象』が発表されるのが十月のことである。



茶屋の女二 お武家と云ふものは勝手なものだね。下々の迷惑もかまはずに、屋臺を停めさせて見物してるなんて。
湯女の一 その位なら、平常から五月蠅く茶屋や芝居の取締をしないが好いじゃないか。
仲間風の男 しツ。あんまり大きな聲を出しなさんな。お役人に聞かれると惡い。(谷崎潤一郎『象』「谷崎潤一郎全集 第一巻所収」、中央公論社、昭和五十六年)

 江戸に舞台を移してお上の批判をする作法は、言論統制厳しき大正期にチャンバラ小説として大流行する。この作中の「取締」そのものは享保十二年の天保の改革の倹約令を指すものと思われる。確かに芝居が取り締まられている。だがまた明治三十八年には「平民新聞」が廃刊に追い込まれ、谷崎潤一郎の目の前では、実質的な言論弾圧が始まっていたのも事実である。

 象は神武天皇の花車を挽いて半蔵門で閊える。

老年の武士 小さな門へ、大きな獣を入れようとするのは、若い者の無鉄砲ぢゃ。
町家の隠居 左様でございますな。(谷崎潤一郎『象』「谷崎潤一郎全集 第一巻所収」、中央公論社、昭和五十六年)

 形式的にではあるが、天皇が江戸城に入るという図が現れる。神武天皇の花車は挿絵には見られない。いかにもベトナム人らしい編み笠を被った象使いの姿があるだけだ。そもそも神武天皇の花車が挽かれたかどうか定かではない。何故今更神武天皇が持ち出されるのかもわからない。『誕生』を読めば世継ぎの誕生が俗世の政権争いそのものであり、万世一系の血脈そのものがどろどろとした怨念を引き受けざるをえないものであることが確認できる。神武天皇は人皇と言われていた。この語もしばし用いられなくなった。三島由紀夫は人皇など認めない。今上天皇は穀物神天照大神と大嘗会で直結するからいつでも天孫なのだと主張していた。
 谷崎潤一郎の『誕生』『象』この二作は短い、戯曲のようなものである。ただ小器用で、「億兆の國民」などと不意に訳の分からない文字を選び出すほか、粗のない華麗な文章である。だから谷崎潤一郎が何なのか、私にはまだ何もわからない。ABC予想がどう決着するのか、全く分からない。ただ如何にも信用ならないものを感じるのみである。

 

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【余談】ネットではわからない

 ネットでは貝おほひとは芭蕉の俳諧発句合のタイトルとしかわからない。

貝おほひ

三百六十個の蛤殻を数人で分けて伏せて置き、その対になった両辺を多く合わせた者を勝ちとする。女児の遊び道具。(『新日本文学大系26  堤中納言物語 とりかえばや物語』岩波書店、1992年、注釈より)

これで何年かしたら、ネットでも解るようになるだろう。


 井原西鶴の『好色五人女』に「乱人」という言葉が出てくるが、ネットでは永遠に解らないだろう。「美道」は見つかるな。采体 とりなり 取成も 怜(ウツクシ)げもあるのに。流星人はでてこないぞ。よばいと、夜這い人なんだけど。ふと 風与 與風もあるな。やがて 頓而 もある。天柱 ちりけもある。

 しかし谷崎潤一郎が「美少人 びせうにん」と書いているのに、「びしょうじん」(『好色二代男』)しか見つからない。

和藤内







【余談②】近代文学って何なのかね?

 太宰治、織田作之助は西鶴に惹かれ、太宰はさらに実朝、芭蕉に惹かれ、谷崎潤一郎は源氏物語に惹かれ、三島由紀夫は古今和歌集に惹かれた。夏目漱石がその教養の元を江戸以前の漢籍と数百年前からの英文学に拠るのに対して、芥田川龍之介はあからさまに近代以前の古典に拠り、森鴎外は江戸に潜り込んだ。こうして眺めてみると近代文学が明治に始まり、終戦で終わる区切りなどほとんど何の意味もないものに思える。
 万葉歌からつらなるいとをかしきものを私は現に書いているつもりである。ドナルド・キーンも『国歌大観』を読んだ。私も眺めただけで記憶している訳ではない。しかしその眺めから、正岡子規以降の俳句の在り方に迷わされないものが現れることも事実である。夏目漱石は正岡子規の親友であり、心酔していた気配はあるが、子規以降俳句はひたすら逸脱の方向へ向かい、ひたすら賺し、奇をてらう形へと進んだのではなかろうか。その極北が散文の『さようなら、ギャングたち』だと私は考えている。



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