『三四郎』における「敗者」の不在――石原千秋『教科書の中の夏目漱石』をめぐって
はじめに
石原千秋は『教科書の中の夏目漱石』において、『三四郎』を論じる際、「里見美禰子をめぐって小川三四郎と野々宮宗八がそれとなく意識し合うが、美禰子が兄の友人の法学士を選ぶことで、これはどちらも敗者と言えそうだ」と述べている。
一見穏当な要約のように見える。しかし細部を検討すると、この記述には少なくとも二つの問題が存在する。
第一に、『三四郎』という作品が実際に描いている人物関係の把握として適切なのかという問題である。
第二に、作品が明示していない情報を補完しながら物語を単純な恋愛競争へと還元してしまう読解態度の問題である。
本稿ではこの二点を検討しながら、『三四郎』が実際にはどのような構造を持つ作品であるのかを再考したい。
一 野々宮と三四郎は本当に「意識し合う」のか
石原の整理では、三四郎と野々宮は美禰子をめぐる競争関係に置かれている。
しかし作品を丁寧に追うならば、この関係は著しく非対称的である。
確かに三四郎は野々宮を意識している。
池の女の白い花の場面に始まり、リボンへの執着、「ストレイシープ」の経験、さらには「入鹿じみた心持」と形容される自己意識に至るまで、三四郎の側には一貫して美禰子への感情の深化が描かれている。
しかし、その感情は常に野々宮の存在によって媒介されている。
三四郎は美禰子を直接見る以前に、まず野々宮と美禰子の関係を観察しているのである。
一方、野々宮の側はどうか。
作品中に野々宮が三四郎を恋敵として認識していることを示す描写はほとんど存在しない。
むしろ野々宮は研究や将来設計の方に意識を向けている。
三四郎の恋心に気付いている人物として確認できるのは与次郎くらいであり、広田先生についても判断は保留されるべきだろう。
したがって、「三四郎が野々宮を意識している」ことは事実としても、「野々宮が三四郎を意識している」という根拠は希薄である。
少なくとも両者が対等な恋愛競争を展開しているという理解は、作品の描写を越えた解釈である。
二 美禰子と野々宮の物語
さらに重要なのは、美禰子自身の物語である。
『三四郎』には明らかに二本のストーリーラインが存在している。
一つは三四郎の恋愛成長譚である。
もう一つは、美禰子と野々宮の関係をめぐる物語である。
作品中には、
野々宮と美禰子が親しい関係にあること
飛行機をめぐる会話で両者の価値観の相違が露呈すること
菊人形の場面で美禰子が大きな失望を経験すること
などが配置されている。
これらを連続して読めば、美禰子が野々宮との可能性を検討し、そして断念していく過程として理解することができる。
もちろん漱石は決定的な説明を避けている。
しかし少なくとも「美禰子が野々宮との結婚可能性を考えていた」という読解は作品内部から十分導き出せる。
その意味では、三四郎と野々宮の競争というよりも、美禰子と野々宮の関係の変化の方が作品構造上は重要である。
三 「法学士」はどこから来たのか
さらに奇妙なのは、「兄の友人の法学士」という表現である。
『三四郎』に登場する美禰子の結婚相手について、作品が確実に伝えている情報は驚くほど少ない。
その人物は兄の友人であり、眼鏡をかけている。
しかし職業についても学歴についても明示されていない。
にもかかわらず、批評史ではしばしばこの人物に属性が付与されてきた。
大岡昇平は銀行員とした。
小森陽一は実業家とした。
石原千秋は法学士とした。
しかしこれらはいずれも作品本文の記述ではない。
推測である。
たとえば美禰子の兄は法学士である。
しかしその友人が法学士である保証はどこにもない。
『それから』の田川敬太郎は文科出身であり、須永市蔵は法科出身である。
友人関係が学歴によって限定されるわけではない。
したがって厳密に言えば、この人物について確定できるのは「兄の友人で眼鏡をかけている人物」という程度なのである。
それ以上は推測でしかない。
四 近代文学2.0の方法
ここで問題となるのは単なる事実誤認ではない。
批評家が物語の空白をどのように扱うかという方法論の問題である。
従来の近代文学研究は、しばしば作品の空白を補完しながら物語を完成形へと導いてきた。
しかしその補完の多くは、作品の内部ではなく読者側の常識によって支えられている。
『三四郎』の場合も同様である。
結婚相手に職業を与える。
学歴を与える。
社会的地位を与える。
そして恋愛三角関係を完成させる。
しかし本文はそこまで語っていない。
近代文学2.0が目指すのは、この補完作業を停止することである。
作品が語っていないことは語っていないまま残す。
不明なものを不明なまま扱う。
確定できないことを確定しない。
その結果として、
「美禰子が兄の友人のメガネを選んだことで、三四郎も野々宮も敗者になった」
という程度までしか言えない場面が現れる。
それは一見すると退屈な読解に見えるかもしれない。
しかし実際には逆である。
推測による補完を排除したとき、初めて作品が持つ複数の可能性が見えてくるのである。
結論
『三四郎』は恋愛三角関係の勝敗を描いた小説ではない。
むしろ恋愛関係そのものが最後まで確定しない小説である。
三四郎は野々宮を意識する。
しかし野々宮が三四郎を意識しているとは限らない。
美禰子は野々宮との可能性を考えていたように見える。
しかし決定的な説明は与えられない。
結婚相手もまた最後まで曖昧なまま残される。
漱石は意図的に空白を配置している。
その空白を読者が勝手に埋めるのではなく、空白として保持すること。
それこそが作品の複雑性を保つための読解倫理である。
『三四郎』に敗者がいるとすれば、それは三四郎でも野々宮でもない。
作品の曖昧さに耐えられず、物語を完成させてしまう読者自身なのである。『三四郎』を例にすると、美禰子の結婚相手について我々が知っている情報は、
美禰子の兄の友人
眼鏡をかけている
結婚相手になる
という程度しかない。
ネットワーク図で表せば、
美禰子 ── 結婚 ── A
│
└─兄─B
│
└─友人─A程度の接続しか存在しない。
ところが従来の研究者は、
A = 法学士
A = 銀行員
A = 実業家
A = 将来有望な紳士という属性を次々に追加する。
しかしそれらはどこから来たのか。
本文から来たものではない。
読者の常識から来たものである。
つまり研究者はテクストを読んでいるのではなく、自分自身の想像力を読んでいる。
ここに近代文学研究の根本的な問題がある。
「解釈」と「生成」を混同する学問
従来の漱石研究を見ていると、
Kはこう考えていた
先生はこう思った
美禰子はこう判断した
という議論が大量に出てくる。
しかしその多くはテクストの解釈ではない。
物語の生成である。
研究者自身が小説の続きを書いている。
たとえば『こころ』において、
「先生はKに嫉妬した」
という命題はテクストに根拠がある。
しかし、
「先生はホモソーシャルな欲望を持っていた」
となるとかなり事情が変わる。
さらに、
「先生はKを愛していた」
まで行けばほとんど二次創作になる。
もちろん面白い二次創作はあり得る。
しかし二次創作と学術的解釈は区別されなければならない。
OSネットワーク文学論が要求するのはこの区別である。
情報量保存則
近代文学2.0の基本原理の一つは、
テクストに存在しない情報を増やしてはならない
という情報量保存則である。
たとえば『三四郎』の結婚相手について、
本文情報量は10しかないとする。
ところが研究者はそこへ、
学歴
職業
年収
社会的地位
人格
恋愛感情
を付与して100にしてしまう。
これは解釈ではない。
情報の捏造である。
もちろん読者は自由に想像してよい。
しかし研究者は想像と本文を区別しなければならない。
ここで重要なのは、
「法学士ではない」
と言っているのではないことである。
法学士かもしれない。
銀行員かもしれない。
実業家かもしれない。
しかし本文だけからは決定できない。
だから決定しない。
これが近代文学2.0の態度である。
『三四郎』の真の構造
すると『三四郎』は恋愛小説ではなくなる。
従来の理解では、
三四郎
↓
美禰子
↑
野々宮という三角関係になる。
しかし実際には、
三四郎 → 美禰子
野々宮 → 研究
美禰子 → 不明
兄の友人 → 不明に近い。
つまり漱石は恋愛関係を描いているのではなく、
接続の不確定性を描いている。
誰が誰を好きなのか。
誰が何を考えているのか。
最後まで完全には分からない。
近代文学研究はその不確定性を嫌う。
だから恋愛小説に変換する。
しかし漱石が書いたものは恋愛小説ではなく、不確定な接続のネットワークなのである。
石原千秋の終焉
ここで石原千秋の問題に戻ろう。
石原の誤りは、
「法学士」と書いたことではない。
本質的な問題は、
テクストに存在しない情報を自然に補完してしまったことである。
しかも本人は補完したことに気づいていない。
これは石原個人の問題ではない。
戦後漱石研究全体の問題である。
大岡昇平も同じ。
小森陽一も同じ。
みな空白を埋める。
しかしOSネットワーク文学論は空白を埋めない。
むしろ空白そのものを分析対象にする。
なぜ漱石はそこを書かなかったのか。
なぜ情報を欠落させたのか。
なぜ読者に推測させる構造を作ったのか。
これを問う。
そこから見えてくるのは、
近代文学とは人物心理の学問ではなく、
情報制御の技術であるという事実である。
そして『三四郎』とは、恋愛小説ではなく、情報の欠落によって成立するネットワーク小説なのである。
