佐々木英昭の『夏目漱石――人間は電車ぢやありませんから』をどう読むか⑭ 電車でなきゃなんだとおっしゃるんですか?
粉瘤という病気をご存じだろうか。
一度粉瘤で手術を受けると、二度と同じ目には合いたくないと思うくらい痛い。部分麻酔でザクザク切られるので、殺してくれと言いたくなる。二度目の粉瘤の手術跡がケロイドになり、その下に粉瘤ができて切開した。この激痛に耐えてなお生きていかねばならないのが人間であろうと思う。このくらいの痛みを味わった野生動物はたいてい既に食われている。
佐々木の本のタイトルは、おそらく漱石の言葉を借りたものではあろう。しかし人間が電車でないとして、だからどうだというところはまだ見えてこない。しかしもう話は『明暗』のところまで来ていて、残りのページ数も少ない。「第九章 「描いた功徳」が罪悪を清める 7 語りだす女たち――絶筆『明暗』」は湯河原に当時に行く漱石が何か間違いがあってはいけないと看護婦を連れて行かないという話から始まった。看護婦さん、いや、看護師さんというのは、そういう色眼鏡で見てはならない存在だ。見ていて全く頭が下がる。恐れ入る。医者は医者で立派なものだが、看護師さんというのはさらに大変立派だ。行動が機敏で、そつがない。それを「男一人女一人なんてのは」などと、五十になろうとする爺さんがよく言ったものだ。
しかし佐々木は年を取った漱石が美女に「目が早かった」ことを再確認する。湯河原へは中村是公が何人か女性を連れて来たらしいが何もなかったようだ。二月半ばに帰郷した漱石は芥川の『鼻』を読み、十七日激賞の手紙を送る。まだ『明暗』に取り掛かる前にここで日本近代文学史上の、一つの大事件が生まれた。
あれやこれや、それやどれやと考えてみて、やはり漱石の手紙は歴史を動かしている。漱石の激賞がなければやはり芥川龍之介という作家は生まれていなかったのではないかと冷静に思う。実力はあるのに芽が出なかった人、消えていった人は山ほどいる。芥川ももしかしたらそんな一人になっていたかもしれない。
すでに過去に起きた事実をなかったかもしれないと疑って何になるという話だが、この偶然は実に際どいもので、矢張り奇跡的としか言いようのないものだ。
漱石は四月に入っても胃が痛むので病院で検査してもらったところ糖尿病が発覚し服薬や食事療法を始めることになる。漱石は日増しに痩せていく。しかし創作意欲は衰えず、五月二十六日から始まった『明暗』の連載原稿はきちんと一回分ずつ午前中に書き上げて自分でポストに出しに行った。
そしてこれはすでに過去になかったことではあるが、漱石には「漸く此頃になつて自分の文学観といつたものができた」として「新・文学論」的な講壇の意気込みもあったようだ。なかったものをもしあったらというのもやはり意味のないようなことながら、この頃出来上がった文学観というものはやはり『明暗』から少しでもくみ取れないものかと考えてしまう。それは勿論ポアンカレを持ち出すことにより、「F+f」という認識論に、決定論と非決定論という哲学的議論に発展しそうな気配は見せていたものだが、自由意志の完全否定には至らず、まだその正体の見えないものである。
その成算が『明暗』執筆と並行して形を取っていったところに、この作品の偉大さを透視することも可能なのであって、その進展のスリルには漱石自らも驚いていたのではないか。
佐々木の言う方向性はその通りながら現実的に「新・文学論」の全体像は明らかではないので、まだ偉大さを確認できない「新・文学論」と並行して執筆されているから、その並列進行がスリルがあるという話にはならないと思う。まさにそのようなことが行われていたと考えたいが、それは一種のファン心理の欲目であり、そこまで言うためにはやはり『明暗』から少しでも「新・文学論」を組み立ててみないことには話にならない。ただ佐々木にはその透視がない。
佐々木は主題の一つは視点のリレーだという。しかしどうもそれを夫婦間のものにとどめ、もっと細かいスイッチングが行われていることに気が付いていない。
従って女の技巧と男女間の反発性、異性間の牽引力と分析しているところにはさほどの新鮮味もない。そして谷崎潤一郎が退屈といった部分にはこんな当たり障りのないフォローを入れてくる。
このお延とお秀の論争の場面を筆頭に、藤井の叔母、吉川夫人、清子など、女たちの吐き出す言葉に思想的な実質が多く与えられ、それが男たちに決して劣らない厚みを形成していることも、この遺作の特質をなす結果となった。
見るべきところはそこではない。退屈な多弁や、どこから借りて来たとも曖昧な思想性が特異的なのではない。むしろこれまで以上に自然にリアルに、互いの言葉が反発と牽引を繰り返していること、自由意志によって発せられるはずの言葉が、かほども場に寄りかかり、相手に言わされていることに注目すべきなのであろう。あなたがあんなことを言わなければ、私もこんなことは言わなかったという当たり前の理屈が、当たり前に展開されて言葉数が増えている。
その関係性はフェアなものだが、どういう訳か佐々木は作品とは別のフェアではない関係性に言及していく。
漱石の「ヒプノタイズ[催眠状態にする]」するかのごとき「人格的マグネティズム[磁力]」を恐れてもいた(「あの頃の自分の事」、大正八年)芥川は、やがて来る「センセイキトク」の報に「歓びに近い苦しみ」を感じた(「或阿呆の一生」、昭和四年)と微妙な物言いさえすることになる。
芥川をどうしようもないモラトリアムから引っ張り出したのは間違いなく漱石の磁力であった。年寄りが孫にするような優しい態度も見せつつ、漱石と芥川の関係性は一方的だった。
芥川は生涯漱石の磁力を恐れ続けていたところがあるまいか。しかしこの物語は何ら展開を見せない。
話はなし崩しに「則天去私」に移る。森田の「神」と同じ心持になることという解釈を持ち出すが、独自の解釈も批判もなく、このまま漱石は死んでしまう。
電車でなきゃなんだとおっしゃるんですか?
その答えはどこにも見当たらない。
つまり?
もしかしたら本当は人間は電車なのではあるまいか。人間と電車の違いとは、果たして科学的に証明できるものであろうか?
少なくとも佐々木英昭の『夏目漱石――人間は電車ぢやありませんから』の中にはその証明はなかった。それに「から」ということはこれは前提なのだ。曖昧な前提に基づく、結論のなさ。
あとがきを読んで、佐々木が江藤淳の助手であり、蓮實重彦を先生と呼んでいることに気が付いた。そして小林秀雄の『本居宣長』が『君の名は』みたいだという話になる。
それは、
読者を惹き込むべく創案された吸引力の強い物語が、事実的データを正確に伝達する努力に優先してしまう書法
という意味なのだそうだ。
しかし佐々木は本当に気が付いていないのだろうか。これほど漱石論があふれているにもかかわらず、漱石論ならば何でもいいという雑食性の人々が一定数存在していて、漱石論が上梓されれば、その内容にかかわらず一定の部数が図書館に買われるものだという事実に。「読者を惹き込むべく創案された吸引力の強い物語」とはこの場合「夏目漱石」の四文字で事足りてしまう。ついこの間、『明暗』に関するかなりでたらめな本を読んだが、そんなものでも確かに流通しているのだ。
さて私はここから先に進みたい。
人間と電車はどう違うのか……。
そうではなくて……。
[余談]
弟子となると登世と漱石はセックスしていませんよとは書けないものらしい。それで遠慮して日根野れんや前田卓子の方に無理やり話を持って行っている感じもある。
しがらみというやつか。
政治家じゃないんだから、そういうのはいい加減にした方がいいと思う。
私は小説家や詩人がXでいばっているのや、社会に、貧乏で本を買うお金やゆとりがない人がいっぱいいるのに、ぜんぜん空気を読まないで、「文学は大切なものなので、あなたたちが私たちの本を買うべきだし、私たちを尊敬して、ちやほやしてください」というストローク(心に対する働きかけ)をこっち→
— Minami (@hebonia16) October 18, 2024
