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石原千秋『教科書の中の夏目漱石』を読む⑤ 夏目漱石論のために17 嘘ソーシャル

 石原千秋は「Ⅱ男同士の争い——『こころ』②」において「ホモソーシャルな二人」と題し、平岡と代助、そして先生とKの関係を説明しようとする。三千代と静はともにやりとりされる女と見做されることになる。ここは解釈の問題で正解不正解の話ではないようだが、既に「静策士説」があることから比較検討が必要なところであろう。

蓮實 そう。漱石だってフェミニストじゃないけれども、およそ父権的な世界とは遠い領域で男を巧みに操作する女性を描いている。 

(『近代日本の批評 明治・大正篇』柄谷行人編 福武書店 1992年)

 これがどの作品のどの場面の事と指摘されてはいない。「父親のいない女たちが男を巧みに操作する」と言い換えてみると何個かの作品が思い当たる。

浅田 漱石でも、『こゝろ』はまだかなり男性優位なんじゃないか。少なくとも表層的レベルでは女性は男性間のジラール的モデル/ライヴァル関係のターゲットとしてあるにすぎないわけだから。

(『近代日本の批評 明治・大正篇』柄谷行人編 福武書店 1992年)

 このルネ・ジラールの欲望の三角形というのが前世紀末支配的な三角関係の捉え方だった。

 ここで用いられる「他者の欲望を模倣する」という発想から多くの読み誤りが生じて現在に至る。

柄谷 『こゝろ』は、男たちが母系の女たちに騙されたという小説だと思う(笑)。実は、二葉亭四迷の『浮雲』もそうなんですよ。
三浦 二階の下宿というのはまさに母系制の問題だね。
柄谷 『浮雲』では母娘で品定めしている。しかし、『こゝろ』ではそれが書かれていない。
三浦 そこが微妙だ(笑)。
柄谷 あるんですよ、実は(笑)。あの母娘は共謀しているんです。だから、先生もひそかに女房をうらんでいる。その証拠に、彼は勝手に自殺する。
三浦 なぜ先生が自殺するかというと、母系制に敗れた(笑)。

(『近代日本の批評 明治・大正篇』柄谷行人編 福武書店 1992年)

 先生の部屋は二階でしたっけ?

 一階ですよね。

 それにしても「あるんですよ、実は(笑)。あの母娘は共謀しているんです。」はいかにも酷い知ったかぶりではなかろうか。だからこんな話は無視ていい?

浅田 それは表から読むか、裏から読むかでしょう。『こゝろ』はもつとも男性的にも見えるし、だけど全体が女性的な掌のなかにあるとも言えるし。 

(『近代日本の批評 明治・大正篇』柄谷行人編 福武書店 1992年)

 こういいだすとくそみその話になってしまう。

 柄谷が言うような共謀の明確な証拠というものはない。しかし柄谷が言うように「先生もひそかに女房をうらんでいる」と言われかねない事実はある。先生は真砂町事件の嫉妬を死ぬまで消せないのだ。「女房をうらんでいる」かどうかは別にして、何故笑ってごまかして本当のことを言わないのだと怒ってはいる。普通そんなことは結婚すればチャラになる話の筈だがそうはなっていない。

 しかし石原を含めた彼ら全員が真砂町事件を理解できていないことは確かではないか。
 ここに何もなければ共謀説も策士説も引っ込んでもらうよりない。

 ただし石原のホモソーシャル論議で見落とされている点がある。それはKが基本的に嘘つきだという点である。

 ここ解っている人?

 います?

 いない?

 嘘つき相手に密接な関係というものは成り立ちますかね?

 ここなんですが嘘つきとの関係というのは基本的に嘘関係になると思います。つまりホモソーシャルではなくて嘘ソーシャルな関係ですよね。

 Kは、

①養子に行ったことを先生に言わない
②医科を止めたことを養家に言わない

 そして先生のお嬢さんへの気持ちに気がついていながら、あえてお嬢さんが好きだと先生に告白していますね。

 何故わかるか?

 私はそこに坐って、よく書物をひろげました。Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。私にはそれが考えに耽っているのか、景色に見惚れているのか、もしくは好きな想像を描いているのか、全く解わからなかったのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしているのだと聞きました。Kは何もしていないと一口答えるだけでした。私は自分の傍にこうじっとして坐っているものが、Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事がよくありました。それだけならまだいいのですが、時にはKの方でも私と同じような希望を抱いだいて岩の上に坐っているのではないかしらと忽然こつぜん疑い出すのです。すると落ち付いてそこに書物をひろげているのが急に厭になります。私は不意に立ち上あがります。そうして遠慮のない大きな声を出して怒鳴ります。纏った詩だの歌だのを面白そうに吟ずるような手緩るい事はできないのです。ただ野蛮人のごとくにわめくのです。ある時私は突然彼の襟頸を後ろからぐいと攫みました。こうして海の中へ突き落したらどうするといってKに聞きました。Kは動きませんでした。後ろ向きのまま、ちょうど好い、やってくれと答えました。私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。

(夏目漱石『こころ』)

 それは「ちょうど好い、やってくれ」だからです。ここはなにもなければ「やめろ、あぶないだろ」になる筈です。その前まで先生は野蛮人のごとくにわめていたわけです。そこで何も思い当たらなければ「おい、どうした?」と訊くでしょう。訊かないということは解っていた訳ですよ。

 お前の気持ちは解っている。殺されても仕方ないな。

 そういうことですよね。

 それからついでに言っておきますが、しつこい「先生ホモ説」は「Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事がよくありました」を見逃している誤読ですからね。

 そもそもお嬢さんは男の間でやり取りされることはなく、奥さんと先生の間で財産の連携キーとしてやり取りされている。

 ホモソーシャルという言葉を使うために関係を敢えて読み違えているとしか思えない。

 奥さんが先生を下着にする行為はセクハラではなく、相続財産を得るためにお嬢さんを嫁に貰うことはホモソーシャルではない。先生がKを飼育していたこと、これはかなりホモソーシャルな関係である。

[余談]

 Kの嘘と裏切りに気がつかないまま先生が死んだ、というのが『こゝろ』の味噌のところでもある。さて「私」はそこに気づけたかどうか?


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