提喩としての固有名詞
固有名詞が与えられた存在は、それ以外には存在しないし、そこからどんな属性を取り出してもそのものを示すことができないことから、作中一度しか使用されていない場合、そこに意味を見出してしまうことは、固有名詞を提喩、シネクドキとして捉えるというレトリックとして受け止めることに他なりません。
夏目漱石の『倫敦消息』に「我輩がほととぎすを読んでいるのを見て、君も天智天皇の方はやれるのかいと聴た男だ。」という文章があります。これに堂々と天智天皇≒和歌の意、俳句と和歌の取り違えを意味するという註が付くのですが、これは果たして正しいのでしょうか。
天智天皇≒和歌とする根拠は乏しく、他にこなれた使用例は見つかりません。註をつける人は百人一首の最初に天智天皇の「秋の田の…」があることから天智天皇を和歌の代表者のようにとらえたのだと見做します。恐らく実際その通りであるかとは思いますが、今一つ理屈を欠いていることは否めません。
和歌の代表者が天智天皇と言う話は他で聞いたことが有りません。むしろ天智天皇と言えば大化の改新のイメージの方が強いのではないでしょうか。『三四郎』で三四郎が入鹿じみた心持でいることを考えると、漱石が読んでいた「ホトトギス」に『趣味の遺伝』のような反政府的な作品が載っている事を知っていて「君も大化の改新みたいなことはやれるのかい?」と訊いたと考える方が面白いのではないかと私は考えています。まあ、この辺りは血相変えて主張している訳ではなく、小説世界の固有名詞の本質にかかわる基本的な考え方として、「一回だけだと曖昧だ」という程度の話です。
では固有名詞をシネクドキと見做すことは常に飛躍かと言えばそうも思いません。
あるいはある二人の作家の間で、まるで手旗信号のようにやり取りされる固有名詞があります。例えば『村上春樹の前風景』で書いたのですが、どうも村上春樹は庄司薫の固有名詞をなぞります。これが同じ社内の男女なら「あの二人できてるんじゃないの?」と給湯室で噂になるレベルです。
ここでブラームスや『亡き王女のためのパヴァーヌ』はhappy fewに向けられた間テクスト性を帯びた符号として表れていると見做してよいでしょう。そこを「こじつけ」と断固拒否してしまえば、そもそも本歌取りも何もあったものではありません。無論色々と言い訳は可能ですが、そこはそれ○×でないところ「でも」成立するのが文学で、より楽しんだ者こそがhappy fewです。このhappy fewという言葉、三島由紀夫が死の半年前のインタビューで使った言葉ですが、庄司薫も村上春樹も同じような意味のことを書いていませんでしたっけ?
