藤代素人「夏目君の片鱗」
失敬
「オイ夏目!」これが僕の夏目君に懸けた最後の言葉となつた。それは昨年一月十八日に兩國國技館の春場所で偶然君を見懸けた利那、思はず僕の口を迸り出た不用意の一語である。
時も時、折も折、此思懸けない場所で、此思懸けない無違慮の呼聲に、君も少々驚いた風であつたが、僕を見ると帽を脫いで、「失敬」と云つた限り、二の句を續がずに志す席へと足を運ばれた。
君の方では案外であつたに相違ないが、僕は此日に此場所で君を見ることを幾分期待して居つた。それは君が國技舘の相撲をよく見物に出掛けると云ふ記事が新聞に出てもゐたし、前日雜司ケ谷のK君を訪問したら、「昨日大塚が夏目を誘つて一所に來る積りで來懸に寄つたら、相撲見物に行つて留守であつた相だ」と云ふ話を聞いて居るから、今日君を見懸けたのも別段不思議とは思はなかつた。
何時も東京へ出る度に一度君を訪問したいと思つて居ながら、生來の無性が祟をなして終に其志を果さなかつた、唯一度君の近所に親類があつて其家を宿として居る時、訪問したら生憎君は不在だつた。其頃君は散歩の序か何か僕が車で其家を出懸る時偶然通り合はせたことがある。其時も話をする暇もなく別れた。君は妙な所から僕が出たと思つたらしく、其家の標札を眺めた。
それから一度九段の能樂堂で御前能があつた時、食堂で君に出合ひ、君の謠を聽きに行かうと思つてると言たら、君のを聞かせて呉れと云はれたことがある。
最近數年間に於て君と顏を合はせたのは此位のもので、其都度頗る本意ない別れをしたと思つてる。特に殘念に思ふのは去年の八月、鎌倉でS君に逢つた時、京大文科から兼て夏目君に講演を賴んだのであるが、一度も實行して吳れないと云つたら、今度君が行つて懇望して見給へ、多分承知するだらうと云ふ話しで、此次に上京したら是非其話を切出して見ようと思ひ込んで居たのに、こんな事になつて仕まうたのは、實に終生の恨事である。
夏目君の話は大分新聞雜誌にも出たから、更に珍らしい種子を追加することも出來ぬが、唯僕が友人として君に交際した方面に就いて、少しく話して見たいと思ふ。
啼かぬ螢が身を焦がす
君が英文學科に入學したのは明治廿三年であつた。帝國大學に英文學科を設けられてから、第一期の學生は我々と同年の立花君であつた。其翌年には志望者がなくて、一年置いて君が來られた。
今度英文科の新入者は大分英語に堪能で、○○先生とは英語でばかり話してる相だと云ふ評判てあつた。其評判を裏書すると思ふ事實がある。それは其頃歷史の先生でリースと云ふ獨逸人があつた。此先生の英語には大抵の學生が參つて仕舞つたので、一同分り惡い下手な英語と極めたのであるが夏目君はリースの英語は獨逸人としては餘程宜い方だと云つた。
君から此話を聞く前に僕は或る獨逸人にリースの英語は分り惡くて困ると訴へたら、そんな筈は無い。あの人は日本へ來る前二度も英國へ研學に行てるから、英語は確かだと言はれた事がある。それでも半信半疑で居たが、夏目君の話を聞いてから、すると矢張り我々の耳が至らないのだと悟つた。
學生時代には君が寄宿舍の食堂へ來る都度我々の部屋へも立寄られたが、其頃君は制服の上へ兄さんから讓られたとか云ふ、スコツチの脊廣を着て居たことを覺えて居る。
一度遊びに來ないかと誘はれて、牛込喜久井町まで同行したことがある。君の部屋でどんな話をしたか思出せないが、君が淨瑠理にも中々名文句がある。「啼く蟬よりは中々に啼かぬ螢が身を焦がす」などは面白いぢやないかと語つたのを記憶して居る。
豐頰細腰の人も亦行く
其頃でも君は學生としては藏書家の方で、英文學の書物が可成り書架に並んで居た樣だ。君が三年生の時、哲學會雜誌が哲學雜誌と改題して少し世間向の材料を加へようと云ふ方針になつた。君も編輯員の一人として雜錄の原稿を擔當して居たが、或時英國の催眠術師の記事を寄せた時、中に「豐頰細腰の人も亦行く」と云ふ文句があつて同人間の注目を惹いた。それから君は英文雜誌の受賣を屑とせずして「天地山川に對する英國詩人の感想」とか云ふ題で自家の研究を發表した。
君が文藻に豐かなることは、此頃旣に同學間の推賞する所と成つた。君は其後寄宿舍に入舍した相であるが、其頃僕は神經衰弱に罹つた一人の從弟が、親戚の別莊で美術學校の入學試驗準備中であるのを、監督がてら退舍して、其方に行つて居たから、寄宿舍時代の夏目君を全く知らない所が君が東京を去つて松山中學へ赴任する際、早稻田の英文科に後任として出て吳れと賴まれた。
僕の英語素養は餘程覺東ないもので一應は斷はつたが、「何に君なら屹度遣れる」と云ふ君の一言に浮かと乘つて引受けた。
君も僕の英語を買被つて居たのだが、僕が君の跡釜に据わらうと云ふむら氣を出したのは一期の不覺で、僕の英書講讀は散々の不成績で一學期の終りにソコソコに逃出して仕舞つた。後に此事を君に話したら「左樣だつた相だなあ」と云つて君は苦笑して居た。
獨逸國歌と英吉利國歌とは全然同一の曲?
それから君が熊本の高等學校時代に僕を熊本へ呼ばうとして、S君を以て交涉して來たが、其頃の僕は東京を離れる氣にどうしても成れぬので、應じなかつた。
明治卅三年に今の東大文科學長が專門學務局長をして居られる時、始めて高等學校教授を外國に留學せしむる一新例を開かれた。
其時君と僕とが外國語研究の爲め派遣せられる事になつた。
君は熊本から東京へ出で、當時貴族院書記官長の職に在られた岳父の官舍に足を留めた。僕は其官舍に君を訪問したが、今度留學生となるに就いて腑に落ちない廉を、專門學務局長に話して來たと云つた。
其話の内容は何であつたか聞洩したが、僕は唯西洋に行かれると云ふことが一圖に嬉しくて、腑に落ちない事も何も無かつた。君が斯う云ふ際にも內に省みて深く慮る所があるのは、流石だと感じた。
此時の一行は文科の芳賀君と農科の稻垣君と陸軍軍醫の戶塚君と都合五名であつた。高山樗牛君も同行の筈であつたが、出發間際に咯血して見合はせることになつた。仕度萬端に就いて僕は或獨逸人を顧問としたが、服などは向ふへ渡つてから新調した方が宜いと云ふので、寄せ集め物で間に合はせたが、君は森村組の仕立てなら、何處へ出しても恥かしくない相だと云つて、其通り實行した。
實際君の服裝が一番整うて居た。
汽船だけは僕の主張が容れられて、獨逸船で行くことに極まつたが、普魯士軍隊式の給仕頭の橫暴には、一番多く折衝の局に當つた僕が少からず惱まされた。
神戶碇泊中諏訪山の中常盤で午餐を認めた。
其時大阪から告別に出向いた僕の妹夫婦が三歲の甥を連れて來た。一同風呂に這入つた時、君がよく甥の面倒を見て吳れたことを今でも妹は感謝して居る。
其晩當時湊川神社の宮司であつた芳賀君の嚴父に晩餐に招かれ、灘酒の風味に上戶連は羽目を外したが、酒を嗜まぬ君には多少迷惑であつたらう。
一行中馬鹿に飯の好きな人があつて、愈長崎が日本料理の食納めだと云ふて、向陽亭に上つて風呂上りの浴衣姿と云ふ日本獨特の快味を飽くまで貪ぼつた。
長崎灣口を出る時、丁度上海から入港して來たハムブルク號から、夕暗の空を破つて「君が代」の曲が聞える。我プロイセン號の音藥隊は獨逸國歌を以て之に酬ゐた。獨逸國歌と英吉利國歌とは全然同一の曲であるから、英文學專攻の夏目君も會心の笑を湛へたに相違ない。横濱埠頭を離れる際には、恰も入込み來つた佛國汽船に敬意を表する爲め、我プロイセン號は馬耳塞の曲を奏した。かう云ふ風に日英佛獨の四國は音樂の微妙なる力により、握手交歡してる體で、我々は世界が一家になつた樣な氣分になれた。
器械体操の名人
上海の見物を濟ませて本船に歸つた頃、勵風襲來に遭ひ、船を吳淞河口に留めて風伯の本隊を遣り過したが、發船後も餘波は中々强かつた。一行中芳賀君一人は剛の者で毫も船に醉はない。其他は皆似たり寄たりの弱虫連であつたが、中で夏目君が一番弱かつた。
其頃から胃弱症に罹つて居たのではあるまいか。
颱風後の航海では芳賀君が面の憎い程船に强くて、今日は食堂に出る人が少ないから、ウント食つて遣つたと云ふ樣に、自慢話をする。我々は枕も上らぬ病人の樣に床上に呻吟して、部屋ボーイに一品二品を枕頭に運ばせ命を繫いでるのである。ドンナに威張られても一言も無い。海の上では迚も敵はないから陸て讎を取つて遣れと心窃かに思ひ定めた。香港でピークに登つた時此機逸すべからずと、トウトウ頂上まで引張り上げた。
夏目君は學生時代に文科には珍らしい機械體操の名人であつたから、此位の山を登るのは朝飯前だ。他の二人は揃ひも揃つた靑瓢簞ではあるが、目方が輕いだけに何の事はなかつた。
獨り芳賀君は一橋時代に豚と異名を授けられた程だから、途中で弱音を出して幾度か下山を主張したが、僕は委細構はずビークの絕顚まで漕ぎ付けた併し頂上からの眺めは亦一段の絕景で、芳賀君も淋漓たる流汗を十分憤うて餘りあつたことゝ僕は確信して居る。
古倫母でうるさく附纏ふ乞丐の子供に、君が態々兩換した小錢を振撒いても、猶執念く附いて來るので、辛抱强い君がステツキを振揚げた姿は、今も目に殘つてる樣だ。
船中では書生時代の氣分に立戾つて、お互に揶撿したり、惡口を言合つたりしたこともあるが、總體君は求めずして自から上品な紳士の態度を得て居た。
※
「夏目君は學問の方も優秀であつたが、機械體操を身輕に遣つて除ける巧妙さには皆感服した。」(『子供の研究と教育叢書 第6』刀江書院 1936年)
神の存在・超然主義
上海からは英米の宣教師が妻子眷屬を引連れ二十名餘り乘船した。
何れも風采から見ると、迚も人を感化する力は無さ相に思はれたが、中には可なり職務に忠實な向もあつて、熱心に傳道を試みる。
夏目君は其一人に見込まれて、神の存在と云ふ樣な問題で、哲學的見地から對手を手古擦らしたこともある。或時僕は君と文學の話をした中に、君は今迄和漢洋の文學を研究して居るが、何一つ是れが分つたと思ふものは無い。唯俳句のみは其趣味を解し得た樣に思ふと云つたことがある。
君が漱石と云ふ號で日本新聞やら、雜誌ホトヽギスに俳句を寄せると云ふ噂は其前から聞いて居たが、其方面の注意を全然怠つて居た僕は、君がそれ程造詣の深いことは知らなかつた。
船中からも君は東京の根岸で病を養つて居る子規氏へ折々句を贈つた樣である。古倫母から亞丁までの航海が一番長いので、一行は渡歐後の準備として獨逸語やら佛蘭西語やらの俄勉强に取懸つたが、君は英文小說の耽讀一點張りであつた。
伊太利に着く前に一行間の問題となつたのは、當時巴里に萬國博覽會があつて、ヂエノアから巴里へ行けば間に合ふ、それとも博覽會を斷念してナポリで上陸しポムペイを見て羅馬に行かうかと云ふのであつた。
出發前東京で坪井先生に旅行中の心得を承はつた時、巴里の博覽會などは、赤毛布の奧山見物と同然だ。それよりはナポリで上陸して、ポムペイ、ペスツムを見物し、羅馬で一週間位滯在した方が、遙かに氣が利いてると云はれた。
所が一行中の多數は伊太利は留學中でも行かれるが博覽會は今度でなければ見られないと云ふので、巴里行に決した。留學期中以太利へ行き損つた僕は、あの時坪井先生の忠告に從へば宜かつたと後悔してる。
併し夏目君は以太利觀光に熱心と云ふ譯でもなし、博覽會も强いて見たいと云ふ風でも無かつたらしい。
唯目的地の倫敦へ行くには巴里を經由するが一番便利である。そこで初めから其積りで巴里でも二三の人に面會する豫定だつたらしい。けれども若し一行の多數意見が以太利見物に傾いたら、夫れにも反對を唱へなかつたらうと思はれる。
兎に角君は航海中始終超然主義とでも云ふ樣な態度を執つて居た。
僕は一人ポツチで淋しい
ナポリ碇泊中にも敏捷な船客はボンペイの見物を濟ました人もあるが、我々は不慣れの事ではあり.以太利案内者の乞食根性に就いては隨分警戒を加へられて居るから、市内の見物だけで船に還つた。
ヂエノアで船を乘捨てゝモン·セニーの隧道を夜間に通過して巴里に着いた。大博覽會は二日程見物したら厭氣がさして、ルウブルも見ず、グランドオペラも覗かず倫敦へ渡る夏目君と袂を分つて他の四人は伯林へと志したのである。
程經て伯林の或る料理店から數名の日本人連署の繪葉書を夏目君に贈つたら、「君達は賑かで羨ましいね。僕は一人ポツチで淋しい」と云ふ意味の返事が來た。
其後「巴里で懷邪病の講釋を谷本君から聽かされたが、此頃になつて成程と思當ることがある」と云ふ樣な手紙もあつた。「一度賑かな我々の方へ遣て來ないか」と言送つたら、「大陸へ渡る氣分にはなれない」と云ふ挨拶だつた。
立花の銑さんが病氣で歸朝するとき、君は常陸丸へ尋ねて行つて、「銑さんは可哀相だ、實に氣の毒だ」と云ふ文通があつた。
其の頃既に「緣起の惡い船」と云ふ評判を立てられた常陸丸が香港を離れると間もなく銑さんは船中で瞑目したのである。銑さんは歸朝の航海中芳賀君へ宛てた書信の都度、俳句めいたものを書送つたが、倫敦碇泊中の端書に「戰爭で日本負けよと夏目云ひ」と云ふ一句があつた。
憂國の士を以つて自ら任じ、人からも許された同君と常陸丸の船室で夏目君が會見した折り、倫敦邊に迂路付いて居る、片々たる日本の輕薄才子の言動に嘔吐を催ほして居た君が、此奇矯の言を吐いた光景が目に見える樣である。
夏目ヲ保護シテ歸朝セラルベシ
我々の留學は滿二年の期限であつた。
其期の滿つる一ヶ月程前に「夏目ヲ保護シテ歸朝セラルベシ」と云ふ電命が僕に傳へられた。これは君の精神に異狀があると云ふことが大袈装に當局者の耳に響いた爲めである。
それでなくても儀は無論同船して歸朝する積りで、其前に君と打合せを仕て置いた。所が倫敦へ着くなり郵船會社の支店へ行くと、事務員が「夏目さんは一度乘船を申込んで置きながらお斷りになりました」とさも不平らしく訴へる。「若し同船して歸ると云たら船室の都合は附きますか」と聞いたら、「それはどうにかなりませう」と云ふ返答だ。
そこで夏目君に端書を出したら翌朝僕の下宿へ來て呉れた。君より前に來て居たO君は例の電報を取次いだ關係で、是非一所に連れて歸れ、荷物の始末は跡でどうにでも付ける。あゝいふ電報のあつた以上若しもの事があつたら君は申譯があるまいと熱心に同行を主張する。兎に角同行を勸めて見ようと答へて置いて、其日は夏目君とナシヨナル、ギアレリーを一所に見て、午餐を共にし、それから君の下宿に一泊した。君が歸朝を後らせることになつたのは、蘇格蘭へ旅行して、豫定よりも長逗留をし、荷物が出來ない爲めだ。そこで荷造りは人に賴んで體だけ僕と一所に歸つたらどうかと再三勸めて見たが、どうしても應じない。
成る程君の部屋には留學生としてはよくもこんなに買集めたと思ふ程書籍が多い。これを見捨てゝ他人に後始末を任せると云ふことは僕にしても出來相もない。それに今日一日見た樣子では別段心配する程の事もないらしい。此上無益な勸告を試みるでもないと僕は斷念した。
其翌日君にサウスケンシントン博物館を案内して貰ひ、其附屬圖書館のグリル、ルームで一片の燒肉でエールを飮んだ。「モウ船までは送つて行かないよ」と云ふ言葉を最後に別れた。
君は僕より二タ船後れて明治卅六年の正月歸朝した。それから後の消息は新聞やら雜誌やらに、委敷出て居るから一切省略する。
思へば我々一行五人の内戶塚君は數年前物故した。
芳賀君と稻垣君とは目下再度外遊中である。すると今日本に殘つて居る者は僕一人である。君が人物を評し君が作物を論ずる適任者は世上其人に乏しくあるまい。
唯あの長途の旅行を共にした一人として、僕は適不適を顧みる遑なく此一篇を綴つて見たのである。
[出典] 『文化境と自然境』(藤代素人 著文献書院 1922年)
