江藤淳の漱石論について⑯ 結局『こころ』の読みに関して
江藤淳は『心』を繰り返し読み、何が良いのか解らなくなり、結局文体が良いのだと結論する。そして『心』は極めて私的な作品であると見做す。
この問題について私は既に乃木大将夫妻の殉死の意味を考えれば、先生の自死と静を生かすことは明らかな文明批判であると指摘してきた。乃木大将が軍旗を奪われたことを悔いて自害するのは勝手と言えば勝手だが、妻を残すことを前提に遺書を書き、その妻が一緒に殉死させられるのは尋常なことではない。仮に乃木大将が静子を殺したのだとすれば、その「心」はいささか真面ではない。
江藤淳は冒頭のすがすがしさの意味も読み取れず、寝たきりの義母に先生が力の及ぶ限り懇切に看護する意味にも辿り着けなかった。初見で気が付かないのは仕方ないとして二回も読めばこの程度のことは理解できてしかるべきだ。三度も読めば、静の頭の上でとぐろを巻く黒い蛇や、Kの「小刀細工」や「お祝い」が見えてしかるべきだろう。
しかし江藤淳には「小刀細工」すらも見えていなかった可能性がなくはない。何故なら江藤淳自身が最後に小刀細工を選んだからだ。敢えて選んだかどうかは解らない。ただその「心」はいささか真面ではない、と言えるだけだ。江藤淳の死は極めて私的な死であろう。先生の死はそうではない。先生の死は、今日も明日も高校生が蒸し返す問いである。今の高校生が今更江藤淳の死について語ることはなかろうという思いから、私はこんな記事を書いた。
漱石は結局「私的」な人で公には興味がなかった、町人だったと江藤淳は書いている。これは通俗的な話にしてしまえば森鴎外との比較においてまずは妥当な見立てであろう。猪瀬直樹の『公 日本国・意思決定のマネジメントを問う』にも沿った見立てであろう。猪瀬直樹という人は、鞄に発泡スチロールを入れるのが苦手なだけで、書いていることは至極真面である。天皇、太宰、三島、そして『公 日本国・意思決定のマネジメントを問う』における森鴎外の捉え方は、私とは同じものを観ながら全く異なる結論を導いてはいるものの、目の付け所はやはり鋭い。鴎外が長男として家の維持を大切にしたとするなら、漱石は長男ではない。この差は決定的なもので、漱石は「日本は滅びるね」と嘯いて悪びれない。何しろ漱石は夏目家から遺産を貰わなかった。最初から捨子で、家を持たなかった。大きな家としての国家への帰属意識も希薄だろう。そもそも国家公務員でなくなれば、公の意識などは持てるものではなかろう。民間の新聞社に属して、天下国家を論じても幸徳秋水の二の舞になるだけだ。精々床屋の政治談議ができるだけだ。だから夏目漱石作品は森鴎外作品とは違う。
しかし『心』が明治の大嘘を問う、文明批判の側面を持っていたことは忽せにできない事実であり、江藤淳の漱石論が、この読み落としの為に殆ど意味を失っていることもまた確かなことである。仮に夏目漱石が聖人君子ではないとして、則天去私が現実逃避であるとして、あるいは夏目漱石が明治の一知識人であるとして、夏目漱石の『心』が乃木大将夫妻の殉死に異議を唱えたのであれば、そしてそのことに百余年間誰も気が付かなかったのであれば、近代文学史という一つのテーブルにおいて、夏目漱石はとんでもないパフォーマンスを演じたことになり、そこに参加していた数多の人々は愚かな道化師に堕ちてしまうことになる。夏目漱石はすべての読者をぶん回して振りほどき、私という最後、あるいは唯一の読者を待っていたことになる。これは「私」を「〇〇」に置き換えても成立する文章である。では「〇〇」に当てはまる人物は私のほかに誰がいただろうか?
しかしこの途轍もない冗談のような本当の近代文学史は、誰一人近寄ることのできない恐ろしいものであるらしい。Kは苗字ではない、という誰にでも今すぐにでも確認できる事実から、乃木大将夫妻の殉死の意味まで、順序立てて一から説明してきた。忍び足でこのnoteに近づいた人も、足がすくんでそこから先に進めないらしい。そしてここで書かれていることが尋常なことではないと気が付いた人から腰が引けて、順に逃げ出してしまったのではなかろうか。何しろ江藤淳から柄谷行人まで、あるいは島田雅彦、高橋源一郎、奥泉光が吹き飛ぶのである。彼らが無意味な漱石論者として消し飛ぶのである。これまでの漱石論者がすべて無意味になるのである。例外は一つもない。漱石論者全員が無意味になるのだ。このことの意味を正確に、虚心に受け取ることのできる覚悟のある人が果たしてあるだろうか。当人たちにとってはまさに地獄だろう。私は鬼だろう。しかしそれは錯覚だ。自らの傲慢さに気が付かず、饒舌に空論を履き散らした報いが訪れただけだ。私はただ夏目漱石作品を虚心に読んでいるだけだ。そのことで傷つく人がいるとすれば、そんな人は単なる「当たり屋」である。
#警察に伝えたいこと
— ミルネッティ🐎🍀 (@no_matter_me) April 23, 2022
国民が不安を覚えるのは、事件性があるかもしれないのに、きちんと捜査せずにすぐ自死と片付けてしまうことです。「事件性がある」こと自体ではないです。
三浦春馬さんも遺書がなく、54分後にマスコミに大々的に自死・遺書ありと報道された。
芸能人連続不審死事件を調べて下さい pic.twitter.com/oJaEYchcvW
集団ストーカーを許すな!https://t.co/23LrubKRAepic.twitter.com/30Zk3Drtpb
— 速報:集団ストーカー通信局Ⅱ (@opnhds0065ki11) April 24, 2022
えっなにそれ行こ……。 pic.twitter.com/2Yh8Xoblsy
— 💉キュアリュータ💉💉 (@cureryuta) April 24, 2022
はぁ、そうきたかー
— かなた🦀 5/5:水滸図I・さ4 (@Yko4nRyanV6GUBu) April 24, 2022
びっくりした
🦀 pic.twitter.com/4dCtTYbnhd
