長谷川徹の『哲学する漱石』をどう読むか① 則天去私は内在的超越?
口やかましそうな人は必ず『坊つちやん』と書くが、『坊っちやん』が正しいように急に思えてきた。
一体何故なのだろう?
一体何故『哲学する漱石』などという本が書かれねばならなかったのであろうか。
これも〈勧誘〉の結果なのであろうか。
大抵あとがきにまとめられる書く理由に関しては、
近代日本の超越をめぐる思想の系譜において、宗教哲学者・清沢満之と、哲学者・西田幾多郎、そして倫理学者・和辻哲郎をつなぐあいだには、思想家・夏目漱石と「則天去私」の存在があった――というのが、「はじめに」後半でもふれた、本書のもうひとつの出発点となる見とおしであった。
少なくとも和辻哲郎と漱石の関係で言えば、和辻がエゴイズムの問題をとことん掘り下げ和辻倫理学なるものを構築していったのはあからさまな話で、まさに『こころ』を当事者として引き受け、エゴイズム問題でさえ独り占めにしてしまったような、そんな漱石偏愛が見える、ということは私も既に述べていた。
この本は「近代自己」の「超越」を「思想」の中に見ていくという。何故自我ではなく自己なのかとはまだ問うまい。
とりわけ漱石が「則天去私」という「超越」ないし「去私(無私)」を語ろうとするその道理が、いわゆる「天」(あるいは自然や神仏)という「超越(存在)」そのものに素朴にみちびかれるような前近代的な信仰・形態にあるのではなく、むしろどこまでも「自己」あるいは「主観」といった個人主体に立脚するしかたでとらえられたものであること、有限存在によって自己内的(自分本位)に観じられる「内在的超越」であることを描出するのが主たるねらいである。

眞の自由は單なる超越でなく、內在的超越、超越的内在である。眞に權力的な理性は單に狡智的でなく、技術的でなければならぬ。技術は媒介的なものとして單に客觀的なものでなく、主觀的·客觀的なものである。
この超越性を認めないところにいはゆる技術的知性の思想の誤謬がある。しかしこの超越は單なる超越でなく內在的超越であり、理性は技術の中にあつて同時に技術を超えてゐるのである。
三木清 著岩波書店 1942年
カントは、客觀的な道德法の權威なきを慨して、これを所謂主觀客觀の相對性を超越した內在的超越主觀の所產として基礎づけた。詰り道德的法則を、先驗的な實踐理性の命令として、これを基礎づけたのである。
故に、內在的超越と呼ばるゝのである。かやうに見て來ると、宗教と云ふものは、學問、道德、藝術を超越してをるもので、固よりその何れでもない。がまたそれらを全く離れては存在し得ないもの。と云ふことにもなる。
かゝる價値は、現實的·經驗的個人より言ふときは、內在的超越的のものである。形而下的價値と形而上的價値、形而下と言ふ語は、經驗とか存在とかと同義、形而上的と云ふことは超經驗的と云ふこと。
渡部政盛 著太陽堂書店 1925年
フツサールはかゝる純粹意識には、無限の本質性が內在的超越の意味に於て內包されてをると言つてをるが、そのことも吾人には了解される。
渡部政盛 著郁文書院 1928年
卽ち國民の根底に於ける內在的超越性として無限に皇謨翼賛顯揚して行くもの惟神道であり皇道である。
和歌山県女子師範学校附属小学校 編四海書房 1935年
カント、フッサール、三木清と「内在的超越」の概念は少しずつ異なるように思える。長谷川君はこれを自己滅却による超越ではないことの意味として使いたいようだ。
つまりこれは「則天去私論」ということになる。これは長谷川君自身が述べているように論及不可能なものとみなされてきた。しかし長谷川君は「ありえた可能性」をも拾い集めてたどりかえすという。さらに思想し得なかったところも見ていくという。
また「則天去私」は晩年突如として言い出されたことではないと考えているようだ。これは「寺田の鮨の食い方」で考えてもありうる話だ。では「則天去私」は側転する高浜虚子のことではないのか?
それはまだ誰にも解らない。
何故ならここまでしか読んでいないからだ。
[余談]
シーソーしている家族って絶対幸せだよね。
