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春樹君と由紀夫君85 偶然について語る

 一方の藤尾は、自分自身の美しさを十分知ってはいるが、彼女の武器は父親から貰った「金時計」である。

(石原千秋の『漱石と日本の近代(上)』新潮社 2017年)


これまで春樹君が得意げにしゃべってきただろう。


実はあれは全部やらせなんだよ。


何でも食らいついて


いかにも訳知り顔で語るだろ


あれ全然分かってないからね


みんな受け売りなんだよ
小林十之助の


自分で考えてないからね


みんな嘘なんだよ


ほら鰻をスプーンで食うやついないだろ


キッシュは


スプーンで食うのか


フォークとナイフで食べません?


なんですか三島さん。なんかありました?


チップも少ないし、本の売り上げも厳しいのよ


まあ仕方ないじゃないですか


ソニー銀行の金利9%の米ドル一ヶ月定期預金に10万円入れたらなあ……
いくら儲かりました?


96000円になっちゃったの。


4000円も損したの。


馬鹿ねー
大損なの。


このところ急激な円高傾向でしたから時期が悪かったですね。


本題に入って下さい


「金時計」は藤尾が父親から貰ったのか。イエス、ノー。どちらですか?


わざわざ引用したのは違うということですよね。


そうです。わざわざ引用するということは違うということです。


なんですかその、無駄に格好いい感じ。


春樹君はねー、モテたいんだよ


そんなんじゃありません。僕はただの操り人形なんです。


で金時計は?


それは簡単だろう。

「約束? 約束はありません。けれども阿爺が、あの金時計を一にやると御言いのだよ」
「それが、どうしたんです」
「御前が、あの時計を玩具にして、赤い珠ばかり、いじっていた事があるもんだから……」
「それで」
「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾が欲しがって繰っ着いて行くかも知れないが、それでも好いかって、冗談半分に皆の前で一におっしゃったんだよ」

(夏目漱石『虞美人草』)


つまり金時計は甲野欽吾の父親から宗近一に譲られるべきもので、その話には藤尾と宗近の結婚がセットになっていたんだな。娘を貰ってくれと言っていたわけだ。


藤尾に金時計の所有権があるわけではなく、譲られてもいないんですね。


東大法学部卒の立場で申し上げますと、相続財産としては甲野欽吾のものではあるわけですが、「生前に一定の条件のもとに贈与の約束があった」と見なせば、条件の整わないうちは「誰のものでもない」とも言えなくもないものともいえますですね。


少なくとも「父親から貰った」というのは素朴な誤りということになりますね。


ここを「父親から貰った」と読んでしまうと藤尾の勝手さが見えてこない。石原君はなんでこんなに駄目なんだろう?


新潮社!


またか。
どこも一緒ですよ。


どこも一緒ではないと思います。


真面目に頑張っている人に失礼です。
ごめんなさーい


まあとにかく生前の父親の意向を尊重するとして、理屈を言えば、藤尾が宗近に嫁がないならば譲渡の約束は反古になり、金時計の所有権は普通に甲野欽吾に移ることにはなるな。


しかし「それでも好いかって、冗談半分に皆の前で一におっしゃったんだよ」と「冗談半分」と解釈されていること。そして「それでも好いか」に対する宗近の返事がないこと。これでは明確に契約が成立しているとは言えないんじゃないですか。
「冗談半分」自体が母親の解釈だが、宗近の返事がないことはその裏付けにもなり得るな。


そしてもう一つ。ここも分かりにくいんですが、「藤尾が欲しがって繰っ着いて行くかも知れない」と言っていて、宗近には「婿に来い」とは言っていないし、藤尾の母の面倒までを見ろとまでは言っていないということです。


なるほど。理屈で言えば父親は藤尾は宗近に嫁にやり、甲野欽吾に母親の面倒を見ろと言っているようなものなのだな。
このややこしい理屈もただ「父親から貰った」と読んでしまうと全く見えてこない仕掛けになっていますよ。


つまり石原千秋には甲野さんの父親の意向というものが理解できていないということになりますね。


そういう変なプレッシャーがあって甲野欽吾の悩みもある訳ですね。


甲野欽吾が家督相続から逃げていることは指摘していた石原千秋博士ですが、金時計の意味に関してはまるで理解できていないのではないでしょうか。


博士? 石原千秋は博士なのか?


らしいですよ。


おかし―んジャーないのかなー


そんなこと知りませんよ。みんな漱石に絡むと急に国語力が落ちるんですから。


私に絡んで頓珍漢なことを書いていた平野啓一郎は博士か?


よく知りませんが多分違うと思います。ただ三島さんの場合作品より行動が解りにくくてみんな変なことを書くんですけど、漱石論の場合は大抵「テキトーな読み飛ばし」で破綻していますね。


それにしても理解できてないはないわよ。何やってんのよ。


死よりも悲惨な運命ですね。

こうした藤尾のあり方が、最後に彼女自らの意志で死を選ぶ結末までも規定していると言って過言ではない。

(石原千秋の『漱石と日本の近代(上)』新潮社 2017年)


過言よね。


過言だな。
過言です。


彼女自らの意志で死を選ぶ結末?


そんなものないですよね。


あれ自殺ですか?


違いますね。

我の女は虚栄の毒を仰いで斃れた。

(夏目漱石『虞美人草』)
こういう想像をしてしまったんでしょう。


抽象的表現というものは理解できないかね。


らしいんです。他の人も全滅です。


みんな「虚栄の毒」が「虚栄の市」と対になる抽象表現だと気がついたらどうなるんでしょう?


どうもなりません。受け入れないだけです。


「ふーん」以前に読めない?


本当に理解したらショックだと思いますよ。話が変わってきますから。だから理解できないと思います。小森陽一もずっと「なぜ藤尾は自殺してしまったんだろう」と考え続けるわけです。


自殺ではないと言われても聞き入れられない?


そうなんだと思います。坊っちゃんは五分刈りでしょ。しかし髪を長く描いちゃうんですよ。


それはあそれはあれよね。一度自分の作り上げたイメージが変えられないというか。


第一印象が八割とか言うじゃないですか。「藤尾が自殺」の印象は消せないみたいです。


もし私が「藤尾が自殺」と思い込んでいて、違うと解ったらまずびっくりして何か反応しますよね。チップを送るとか。そういう反応はないんですか?


「虚栄の毒」が「虚栄の市」と対になる抽象表現だと理解できた人はこの宇宙に小林十之助と村雨春陽しかいません。


まさか?


この本を何人か読んでいるんですがリアクションが取れません。noteの記事も同じです。


わけが分からない?


何も入ってこないんでしょ。実は何人かに絡んでみたら怒られましたよ。好きに読ませろみたいな感じで。そりゃ好きに読めばいいんですけど、国語の問題として「具体的な記述」と「抽象的な表現」の区別は必要ですねという当たり前の話をしているつもりなんですが。

小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗って馳け出そうとする。

(夏目漱石『虞美人草』)

 

これ「具体的な記述」と「抽象的な表現」のどちらだと思います?


これだけだと「具体的な記述」に見えますが文脈からして「抽象的な表現」ですよね。


しかしこれしきのことが理解できない人が殆どなんです。


青空文庫


小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗って馳け出そうとする。魚は淵に躍る、鳶は空に舞う。小野さんは詩の郷に住む人である。
 

(夏目漱石『虞美人草』)
まさか本当に六畳の座敷に魚がはねて自転車が走ると読むのか?


どうなんですかね。
これが現実!


これが現実!


これが現実!


デモナンデダヨー


ナゼミンナワカラナイノカ?


ナンデヤロー


ご自身ではどうお考え?


以前職場で女性のおしりを触ったことがあるんです。二度とも偶然で。


急に何言い出すんですか。
一人はたまたまだと理解してくれましたが
もう一人は「ほんとにもう!」と完全に故意を疑ってました。


「ほんとにもう!」ってその後に来るのが「ど助平」しかないじゃないですか。


そう思いますって。


本当はわざとだろ。


いや本当にわざとではなくて、僕は結構傷つきましたよ。


でも事実として触ったんでしょ。


故意かどうかは結構重要だと思うわ。
それが本当に違うんですよ。そしてその時思ったのが「こっちはやわらかい」ということです。


何の話?


偶然だと理解してくれた方のおしりは硬かったんです。「硬いよ」というと「ガードルはいてるの」と言われました。理解してくれなかった方は年齢も若くて生パンだったんですね。


だから何の話なのよー


理解するにはガードルが必要なのかなということです。


結局みんな傷つくのが怖いんです。株価が暴落すると正常な判断ができなくて塩漬けになっちゃう人いるでしょ。同じことですよ。漱石論者はこの本を読めません。


でもその絶望を超えてこないと本当に理解することなんてできないですよ。
4000円も損して絶望したの。


そう言える三島さんは生パンでお尻触られても怒らない人ですよ。


何か少し違うような気もしますが。


結局僕が言いたいのは、


あれはわざとではないということです。


ドヒャー!


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