『彼岸過迄』を読む 3 通俗作家・夏目漱石?
夏目漱石という人はとにかく食えない人です。「二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が轟々と百年の不平を限りなき碧空に吐き出している」と締められるのが『二百十日』です。一日はみ出しています。「摩訶不思議は書けない」と予告して書かれた『三四郎』がどうにも摩訶不思議です。
この件に関しては最初私は「まさかなあ、自分の勘違いじゃないかなあ。そんなことは誰も言っていないんだから、きっと間違っているのは自分に違いないよな」と思い、かなり長い時間をかけて何度も確認しましたが、確認すればするほど、読み返す都度、どんどん摩訶不思議が増えていきます。まだ書いていないことがいくつもあります。後でよく考えてみると、まあそれくらい食えない人でないと、乃木静子の殺害に文句は言えないわけです。
で、どうですか、この言い分。
「彼岸過迄」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空しい標題である。(夏目漱石『彼岸過迄』)
これ、嘘ですよね。その前にこうありますよ。
自分はすべて文壇に濫用される空疎な流行語を藉かりて自分の作物の商標としたくない。ただ自分らしいものが書きたいだけである。手腕が足りなくて自分以下のものができたり、衒気があって自分以上を装うようなものができたりして、読者にすまない結果を齎らすのを恐れるだけである。
東京大阪を通じて計算すると、吾が朝日新聞の購読者は実に何十万という多数に上っている。その内で自分の作物を読んでくれる人は何人あるか知らないが、その何人かの大部分はおそらく文壇の裏通りも露路も覗いた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつつ穏当に生息しているだけだろうと思う。自分はこれらの教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じている。(夏目漱石『彼岸過迄』)
漱石は息をするように容易く嘘をつきます。この呼吸分かりますよね。ここでぐっと意識が高ぶった感じになってきて、いかんいかんとなって落としているわけでしょう。だから敢て「空しい標題」と言ってみたわけで、一度死にかけた人間として、まだ治りかけてもいないところで書くこの作品には、涅槃へ向かう日々を生きる覚悟というものが込められていた筈です。なんとか「生きよう」「書こう」という覚悟ですよね。維新の志士のように、やれるとこまでやろうと。実際に連載は四月二十九日まで続きましたので当初の予定より一ヶ月以上延びたことになります。これなら「皐月迄」ですよね。
そして改めて「全くただの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつつ穏当に生息しているだけだろうと思う。自分はこれらの教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じている」って何ですか。「だけ」というのは見下して馬鹿にしているようで、なんだか真面目です。通好みの格好いいものを書きますよとは言っていません。
まあ、太宰治が夏目漱石を評して「俗中の俗」といった理由も少しは解ります。(安吾が「漱石が軽薄な知性のイミテーションにすぎない」なんて書いているのは認めませんよ。)芥川龍之介も三島由紀夫も村上春樹もhappy fewのために書きました。おそらくは太宰治も私もそうです。みんながみんな理解できるわけはないし、普通の人の文章読解力が恐ろしいほど低く、夏目漱石の『こころ』でさえ百何年間も誤読され続けてきたことを知っているからです。しかし夏目漱石は全くただの人間として生息しているだけの尋常なる士人のために書きますよと書いています。
何を馬鹿な、と思いませんか。
芥川賞の審査員が『こころ』のKは幸徳秋水、あるいはキング、天皇だって書いて堂々と商業出版され、ファンミィーテイングかなんかやっているわけです。その程度のグループ(作家、出版関係者、ファン)に『彼岸過迄』の三層目の意識に潜る仕掛けなんか理解できるはずもありません。なのに漱石はそんなものを書いてしまいます。
おそらく私は全くただの人間として生息しているだけの尋常なる士人とも呼べない人間もどき、ぎりぎり人間のようではあるがいくつかその要件が怪しい存在です。客観的には知識人とは呼べない、いわゆる凡人です。しかしこの緒言、いわゆる前書きと作品に「ずれ」というか「ひねり」があることは分かります。それはただ奢らず繰り返し叮嚀に作品を読んできたからであって、ここに何か特別な仕掛けやインチキがないことはこれまで具体的に示してきたとおりです。
女中に笑われていた これは 四代目市川染五郎が → 八代目市川高麗蔵を襲名したことを知らないとことを笑われたのか。四代目市川染五郎の『勧進帳』は絶品とされている。
歌舞伎に特別な知識がなくとも、調べればこうしたことは解ります。谷崎全集は註が一切付いていないので、こうしたところは案外読み飛ばされてしまうのではないでしょうか。そこを調べるか調べないか。つまり何故女中が笑ったのか考えるか考えないか。「俺様に理解できないことはそもそも無意味」なんて片付けていたらどんな本を読んだって一ミリも進歩はないわけで、そこはどこまで謙虚になれるかという勝負じゃないですかね。
五段目の勘平が切腹して 勘平の切腹は六段目
その私が感じるずれとは「ただ自分らしいものが書きたいだけの作家」と「全くただの人間として生息しているだけの尋常なる士人」の間に永遠に立ちはだかる矛盾というか壁のようなものがまるで存在しないかのように書かれている点にあります。
大抵の読者は『それから』の門野のようなもので、複雑な構造の作品では迷子になってしまいます。『彼岸過迄』はこれまでに類のない究極の実験小説でもあります。推理小説のテイストを取り入れ、三層目の意識に潜らせます。こんなものを朝の数分で、細切れに読んで到底解るものではありません。これが通俗小説なんでしょうか。
無論一応東京の朝日新聞の読者に向けて書いたという言い訳としては、これまでの漱石作品同様山の手を舞台に、日々複雑化する路面電車という時代の風俗を取り入れているという要素はあります。しかし、この細工は少し時間と距離を置いた読者からは何のことやらわからぬもので、大阪の読者はちんぷんかんぷんの話だったと思います。
先刻のと同じような、小川町停留所という文字が白く書いてあった。彼は念のためこの角に立って、二三台の電車を待ち合わせた。すると最初には青山というのが来た。次には九段新宿というのが来た。が、いずれも万世橋の方から真直に進んで来るので彼はようやく安心した。これでよもやの懸念もなくなったから、そろそろ元の位地に帰ろうというつもりで、彼は足の向きを更えにかかった途端に、南から来た一台がぐるりと美土代町の角を回転して、また敬太郎の立っている傍でとまった。彼はその電車の運転手の頭の上に黒く掲げられた巣鴨の二字を読んだ時、始めて自分の不注意に気がついた。三田方面から丸の内を抜けて小川町で降りるには、神田橋の大通りを真直に突き当って、左へ曲っても今敬太郎の立っている停留所で降りられるし、また右へ曲っても先刻彼の検分しておいた瀬戸物屋の前で降りられるのである。そうして両方とも同じ小川町停留所と白いペンキで書いてある以上は、自分がこれから後を跟けようという黒い中折の男は、どっちへ降りるのだか、彼にはまるで見当がつかない事になるのである。(夏目漱石『彼岸過迄』)
今、小川町に行ってもそもそも路面電車が走っていないので、この位置関係や感覚はつかめません。神田橋は二度架け替えられているので、当時の神田橋はもうありません。何なら東京中で今、道路の位置がずらされまくっていますので「彼は足の向きを更えにかかった途端に」で田川敬太郎が右回転したのか左回転したのか全く分かりません。解る人がいますか? 図面を書かないと何とも言えませんね。まさに右も左も分からないわけです。
美土代町も、
連雀町もわかりません。
これが今だと「原宿駅で降りて改札を出た」が解らないという理屈になります。少し前まで大晦日くらいしか開放していなかった明治神宮側の改札が常時開いているので、「原宿駅で降りて改札を出た」と云っても竹下通り側に出るとは限らないわけです。「歩道橋を渡り」と書いても今は歩道橋がありません。
言ってみれば漱石はそのくらいきわどいことをやっていたのです。猛烈な勢いで変化しつつある時代の風俗のど真ん中に『彼岸過迄』を置きました。これ、全くただの人間として生息しているだけの尋常なる士人に向けて書かれたと言っても、実際にはやっていることは『なんとなく、クリスタル』みたいなことではありませんか。
特に「停留所」の章にだけ限って言えば、探偵小説のテイストで、筋という筋や事件という事件もないのに小説として成立してしまっていますよね。このやり方は新しいのではないでしょうか。むしろ「風呂の後」よりもストーリー感はあります。このやり方は『こころ』で「私」が先生の過去を探ろうとする部分や、『明暗』で津田が清子に別れた理由を追求する部分より、説得力があります。
しかし読者にはこの時点では殆ど何も分かりません。解らないことで関心を惹こうという通俗的な仕掛けです。解らないものがだんだん解ってくるという仕掛けです。この手法は『三四郎』でも使われました。しかし「停留所」で田川敬太郎がやらされたことは不真面目で理にかなわない振舞です。
ただそれだけではありません。「人間の経験としては滑稽の意味以外に通用しない、ただ自分にだけ真面目な、行動に過ぎなかった」という言葉は、やはり通俗を越えています。夏目漱石が通俗作家であるかないかなどと云う議論そのものが無意味なのは、漱石作品に於いては滑稽が常に真面目、真面目が常に滑稽に変わるからです。
さてこの滑稽にして真面目な物語は果して滑稽なブルシットジョブに堪える真率で穏当な士人、蛸狩に成功しなかったただの大人たちに対するレクイエムとなり得たのでしょうか。
[余談]
正宗白鳥のペンネーム、影法師名義で『吾輩は鼠である』という小説があることは広く知られていよう。
松浦政泰訳で『吾輩は猿である』という本があるようだが、存在のみ確認できて中身は見つからない。

これは宮武骸骨なので冗談かと思えば

どうも実在しそうだ。

翻訳ものはこうして無理やり寄せられているみたいだ。
またまたすっごいサイトを教えていただいた。
— 平田 智基 (@t_10_a) September 12, 2022
「社会実情データ図録」というサイトで、内容はタイトル通り。社会の実情を統計データをもとに視覚化。
本川裕さんという方が個人で運営。統計学者をされいて、プレジデントで連載も持たれてるぽいです。https://t.co/k0FjWpUvYZ https://t.co/oxoxZWeHZz pic.twitter.com/Mb95SZQjVS
万月塔?(で合ってます?)
— 🦥 (@tsukimachi_low) September 11, 2022
何でしょね pic.twitter.com/8rmYjM7Afh
残念な結果に終わりました... pic.twitter.com/obXJ94spU6
— 猪戸バレット (@GUYtpj9nV7d9pa2) September 12, 2022
かわいすぎて
— ︎山本 正義 (Masayoshi Yamamoto) 立ち猫® (@nekoiroiro) September 12, 2022
センスがいい。#ねこ #猫 #cat pic.twitter.com/5ign0oUD7y
古文書を解読できるスマホアプリ 凸版印刷が開発 くずし字対応AI-OCRを活用https://t.co/BPJlc4rew6 pic.twitter.com/OYBRsKw7DG
— ITmedia NEWS (@itmedia_news) September 13, 2022
岩波書店の栞に書かれた言葉。
— 本ノ猪 (@honnoinosisi555) September 13, 2022
「偏見を捨てるのに, もう遅すぎるなんてことは決してない.」(ヘンリー・デーヴィッド・ソロー) pic.twitter.com/79NjkFIjgF
iOS 16、写真内の日本語テキストをコピペ可能にhttps://t.co/u89CU10bD0 pic.twitter.com/RDmXs8KsZ2
— ITmedia NEWS (@itmedia_news) September 13, 2022
