表情を読む 石原千秋の『近代という教養』をどう読むか⑧
着物の色はなんという名かわからない。大学の池の水へ、曇った常磐木の影が映る時のようである。それはあざやかな縞が、上から下へ貫いている。そうしてその縞が貫きながら波を打って、互いに寄ったり離れたり、重なって太くなったり、割れて二筋になったりする。不規則だけれども乱れない。上から三分一のところを、広い帯で横に仕切った。帯の感じには暖かみがある。黄を含んでいるためだろう。
うしろを振り向いた時、右の肩が、あとへ引けて、左の手が腰に添ったまま前へ出た。ハンケチを持っている。そのハンケチの指に余ったところが、さらりと開いている。絹のためだろう。――腰から下は正しい姿勢にある。
女はやがてもとのとおりに向き直った。目を伏せて二足ばかり三四郎に近づいた時、突然首を少しうしろに引いて、まともに男を見た。二重瞼の切長のおちついた恰好である。目立って黒い眉毛の下に生きている。同時にきれいな歯があらわれた。この歯とこの顔色とは三四郎にとって忘るべからざる対照であった。
きょうは白いものを薄く塗っている。けれども本来の地を隠すほどに無趣味ではなかった。こまやかな肉が、ほどよく色づいて、強い日光にめげないように見える上を、きわめて薄く粉が吹いている。てらてら照る顔ではない。
肉は頬といわず顎といわずきちりと締まっている。骨の上に余ったものはたんとないくらいである。それでいて、顔全体が柔かい。肉が柔かいのではない骨そのものが柔かいように思われる。奥行きの長い感じを起こさせる顔である。
石原千秋博士はここを引いておいてこういう。
三四郎視点からの記述である。
果たしてそういいきれるだろうか?
この「この歯とこの顔色とは三四郎にとって忘るべからざる対照であった。」だけが話者の語りで、残りは三四郎の心の声、三四郎の岡目なのだろうか。三四郎の観察はそこまで言語化されただろうか。
ここを別の書き方をしてみると、
「あ、池の女だ……」と三四郎は女の姿を嘗め回すように見た。
許されるのはせいぜいここまでで、ここに書かれているのがすべて三四郎の観察なら、三四郎は小説家になれる。
しかし石原君は三四郎視点ゆえ「記述が類型的でない」と言い張る。類型的でない記述ができるからなお小説家なのではなかろうか。
もう一つは、三四郎視点から記述されたために、美禰子の「肉体」に読者の関心が集中するように書かれていることである。
いや、ここでも色が解らないように書かれているのだと思う。『三四郎』は徹底して色を隠す小説である。美禰子の着物の色は最後まで明かされない。それなのに「色の出し方がなかなか洒落ていますね」と小さく落ちる作品だ。
肉体を描いているのは、
うしろを振り向いた時、右の肩が、あとへ引けて、左の手が腰に添ったまま前へ出た。ハンケチを持っている。そのハンケチの指に余ったところが、さらりと開いている。絹のためだろう。――腰から下は正しい姿勢にある。
この部分だが、なんと『近代という教養』では、この部分はまるごと(中略)として省かれてしまっているのだ。狐につままれたとまでは言わないが、なんだかとても妙な書き方がされていると感じる。
それに省かれた部分もさして「肉体」という感じがするわけではない。腰が太いとも細いとも書かれていないせいだ。「尻」が出てくれば「肉体」という感じがするだろうが、ここにはそれがない。
その時敬太郎の頭に、この女は処女だろうか細君だろうかという疑が起った。女は現代多数の日本婦人にあまねく行われる廂髪に結っているので、その辺の区別は始めから不分明だったのである。が、いよいよ物陰に来て、半ば後になったその姿を眺めた時は、第一番にどっちの階級に属する人だろうという問題が、新たに彼を襲って来た。
見かけからいうとあるいは人に嫁いだ経験がありそうにも思われる。しかし身体の発育が尋常より遥かに好いからことによれば年は存外取っていないのかも知れない。
この時代女性の正面に「肉体」はない。おっぱいが大きいことが魅力ではなく、着物姿ではそこはかえって不格好に映るからである。『門』の小六も御米の尻を見る。田川敬太郎も田口千代子の尻を見ている。ここは「肉体」が描かれている。『三四郎』の方はそうでもない。
三四郎の視線は美禰子のセクシュアリティーをこれだけ収奪しながら、実際には肉体的な接触はほとんどないまま終わる。
これはさすがに言い過ぎだろう。
そして、三四郎は淡い「失恋」を経験する。つまり、三四郎が触れるのは類型としての女性ではなく、個としての美禰子なのである。それが、『三四郎』を「ポスト=女学生小説」たらしめている要因だ。
ここはかなり強引に論を進めている。「類型としての女性」などというものは見たことがないが、石原君の言いたいのは「女学生」などというくくりが類型で、「女学生」ではない美禰子という個性的なヒロインを出してきたから、ポスト・女学生小説だ、ということなのか。
「個としての美禰子」などと月並みな言葉を並べたが、三四郎がそれを感じたのは、おそらく美禰子の表情によってだったろう。
それで石原君が引くのは、
「ええ、運動会の柵の所で」と言ったが、三四郎はこの問を急に撤回したくなった。女は「ええ」と言ったまま男の顔をじっと見ている。少し下唇をそらして笑いかけている。三四郎はたまらなくなった。何か言ってまぎらそうとした時に、女は口を開いた。
「あなたはまだこのあいだの絵はがきの返事をくださらないのね」
三四郎はまごつきながら「あげます」と答えた。女はくれともなんとも言わない。
この場面である。それにしても御光さんと名古屋の女とよし子と美禰子と下宿の下女くらいしか知らない三四郎にしてみれば、それぞれみんな「個」なのではないかと思うが、石原君はこんなのが好きなのね。
「どうかしましたか」と思わず言った。美禰子はまだなんとも答えない。黒い目をさもものうそうに三四郎の額の上にすえた。その時三四郎は美禰子の二重瞼に不可思議なある意味を認めた。その意味のうちには、霊の疲れがある。肉のゆるみがある。苦痛に近き訴えがある。三四郎は、美禰子の答を予期しつつある今の場合を忘れて、この眸とこの瞼の間にすべてを遺却した。すると、美禰子は言った。
「もう出ましょう」
眸と瞼の距離が次第に近づくようにみえた。近づくに従って三四郎の心には女のために出なければすまない気がきざしてきた。それが頂点に達したころ、女は首を投げるように向こうをむいた。手を青竹の手欄から離して、出口の方へ歩いて行く。三四郎はすぐあとからついて出た。
二人が表で並んだ時、美禰子はうつむいて右の手を額に当てた。周囲は人が渦を巻いている。三四郎は女の耳へ口を寄せた。
「どうかしましたか」
三四郎にとっては全てが初めての体験であったはずだ。こんな表情をする生き物には出会ったことがなく、石原君が言う「個」というものを感じもしただろう。
しかし第七章「表情を読む感性」なのに「少し下唇をそらして笑いかけている」という表情を読めていないのか、石原君は
こういう表情をする素人女性(品のない言い方だが)はそれまでいなかったはずだ。
これだけで片づけてしまう。
美禰子の「少し下唇をそらして笑いかけている」という表情の意味は? 玄人女性が見せる挑発?
三四郎が美禰子と野々宮が話しているのを気にしていることに少し驚きつつ、嫉妬される感覚を楽しむようなそういう表情なのだろうか。
実はそこはもっと曖昧なもので、野々宮からは、
「なに、その原口さんが、きょう見に来ていらしってね、みんなを写生しているから、私たちも用心しないと、ポンチにかかれるからって、野々宮さんがわざわざ注意してくだすったんです」
このように気にかけられてはいて、三四郎からもやはり気にかけられていて、モテている感じというのはやはり素人である女性をこそ少しく得意にさせてしまうものなのではないか。
これは「美禰子が三四郎にどのくらい気持ちがあったか」という問題にかかわってくることだが、実はそこは表情だけからは読みとれないところではあるまいか。
ただ兎に角絵はがきの返事を待っている感覚は無関心ではありえないということだ。「あなたは私を見てたのね、絵はがきの返事も送ってこないのに」という「じゃれ」の瞬間のうちにどれだけ愛や恋の要素があったのかというのはなかなかこうだと決めがたいところなのではないか。
須永市蔵と田口千代子の電話機のいちゃいちゃ場面は岡目で見れば「もう、キスでもしちゃえよ」と言いたくなるようなものだが、それこそ「観察者効果」というかなんというか、観察者が現れた瞬間に二人は何事もなかったように場を取り繕うに違いない。
美禰子の気持ちもそれに似ていて、誰にも見られていない状態に於いて厳密な曖昧さを前提にして、二人の男を同時に愛しているかのようなふるまいを見せることが可能なのであって、三四郎を完全に愛しているわけでもないし、無関心でもない、その間で瞬間瞬間に微妙な針のふれ方をしているということなのではなかろうか。
しかし「少し下唇をそらして笑いかけている」のが色黒で反っ歯の女なので、変な顔である。
[余談]
そういえば田川敬太郎の千代子の肉体への関心は立ち消えたんだろうか?
彼もまたセックスをしない男の一人だ。
